■「有害」規制について考える

検証・宮台真司が広めたメディア悪影響否定論

 質の低い悪影響論があるように質の低い悪影響“否定”論も存在する。「メディア上の性・暴力表現が、受け手である青少年を暴力や性的逸脱に向かわせるという『強力効果説』は、社会学者のジョセフ・クラッパーらをはじめとする数多くの実証的な調査研究の結果、現在までに、ほぼ否定されている」(斎藤環「条例強化というお節介には断固抵抗する」『中央公論』2004年1月号)というのがそれだ。今回は宮台真司・首都大学東京教授が広めたこの考え方について検証したい。

【「新しい」強力効果モデル】

 宮台教授はあるインタビューで「暴力的なメディアを見ると暴力的になる、性的なメディアを見ると性的になる、といった考え方を「強力効果論」といいます。一九三〇〜四〇年代にアメリカのクラッパーが数十回の調査研究を行ったのですが、その結果「強力効果論」は実証されませんでした。今に至るまでそうです」「そのクラッパーが、代わりに証明したのが「限定効果論」です」(『新・調査情報』2001年3-4月号)と話している※1。この説明は極めて不十分と言わざるをえない。

 『新版社会学小辞典』(有斐閣、1997年)で「限定効果モデル」を引くと「マス・コミュニケーションの効果が直接的で強力なものであるとする強力効果モデル(powerful effects model)に代わり、マス・コミュニケーションの効果を限定的に捉える考え方で、1960年代に支配的になったモデル。(中略)1970年代以降は、説得以外のさまざまな効果に注目する「新しい」強力効果モデルが多数提出されている」とある。宮台教授は「新しい」強力効果モデルを無視しているのである。

 さらに「新しい」強力効果モデルが実証されていることは研究者にはよく知られている。坂元章・お茶の水女子大学教授は、佐々木輝美・国際基督大学教授との対談で「実は佐々木先生は、『メディアと暴力』という著書を1996年に出されておられるのですが、それが日本においては非常に画期的だったんです。それで、メディア暴力の影響がかなり実証されていることを1996年の段階で、日本の研究者がかなり知るようになったのです」(『視聴覚教育』2001年5月号)と述べている。

<マスコミ効果研究の流れ>

時期

理論

マスコミ効果の認識
第1期(20世紀初め〜1930年代末) 弾丸理論、皮下注射理論

非常に強力

第2期(1940年代〜1960年代初頭) 限定効果モデル

微力

第3期(1960年代後半〜1970年代) 適度効果モデル

中程度

第4期(1980年代〜) 強力効果モデル

強力

(参考資料)
佐々木輝美『メディアと暴力』(勁草書房、1996年)
田崎篤郎、児島和人編著『マス・コミュニケーション効果研究の展開[改訂新版]』(北樹出版、2003年)

【限定効果論の限界】

 一方、宮台教授は『有害図書の世界』(メディアワークス、1998年)のインタビューで限定効果論について、「暴力的なメディアを例にとると、メディアに接触した当初は模倣行動が起こる。カンフー映画を見たあとに駅のロッカーを「アチョー」と蹴ってしまうような現象ですね。(中略)ところが、せいぜい一過性のものなんですよね」「つまりクリッパーのいってることは、短期的影響があることは間違いないが、長期的影響は認められないということなんです」と説明している。

 だが、『マス・コミュニケーション効果研究の展開[改訂新版]』(北樹出版、2003年)によると、クラッパーの「限定効果論」は、論拠となった実証的研究が「短期的な態度変化への影響の問題に限定されていた。「説得的コミュニケーション」研究では刺激提示直後とか数週間後の反応を測定するものであったし、「コミュニケーションの流れ」研究もせいぜい半年程度のパネル調査でしかない」ので、短期的態度変化への影響に限定された仮説として、理解されなければならないという。

 そして「確かに、テレビ番組をみて非行に走る少年はきわめて限られた数だろうし、「暴力番組」をみたからといって、それがただちに犯罪を犯す動機になるとはいえない」ものの、「もしかして、長期的、累積的影響が関係しているかもしれないこうした問題には適用してはならないはずである」という(45〜46頁)。つまり「限定効果論」には適用限界があるのである。それにもかかわらず、宮台教授は長期的影響にまで「限定効果論」を適用。独自の解釈を披露しているのである。

【悪影響の条件】

 次に宮台教授が「受容文脈論」と名付けた説を見てみよう。これは『民間放送』2001年2月23日付のインタビューによると、「どういう状況でテレビを見るのか、ゲームをするのかによって、影響の大きさや方向性が変わる。一人で見ると飲み込まれやすいメディアでも、友達や家族で見ると影響が間接化される」という主張だ。確かに佐々木教授の『メディアと暴力』(勁草書房、1996年)には、親が暴力シーンに否定的コメントをすることで悪影響を弱められるという研究知見がある。

 ただ、影響力が変化する条件は視聴環境だけではない。前出の坂元教授によると「暴力シーンが暴力性を促す影響力は、いくつかの条件を満たすほど強まる。例えば、視聴者については、男性である、もともと暴力性が強い、視聴前に怒りを感じているなどの条件、暴力シーンについては、そこでの暴力が賞賛されている、正当化されている、現実的である、また、暴力をふるう人物が魅力的である、視聴者に似ているなどの条件が示されている」(『学術の動向』2001年9月号)という。

 ところが、宮台教授はこれらの条件に言及していない。彼は「いわゆる影響論の枠組みからは有害コミック規制やゾーニングにかかわるいかなる行動も、科学的には正当化できません」(『有害図書の世界』)というように、悪影響論に基づく規制に反対してきた※2。この政治的メッセージを正当化するには、悪影響の条件をメディアの外部に求める必要がある。そのため、メディアの表現方法によって悪影響が生じるという“都合の悪い”条件は無視すべきだと考えたのかもしれない。

メディアの影響について考えるための参考文献>
(1)岩男壽美子「゛テレビ暴力"批判に物申す」『Voice』1978年10月号、87-100頁
(2)H.J.アイゼンク、D.K.B.ナイアス『性・暴力・メディア』岩脇三良訳(新曜社、1982年)
(3)岩男寿美子「テレビ暴力画面とその影響」堀江湛編『情報社会とマスコミ』(有斐閣、1988)、209-255頁
(4)小平さち子「欧米にみる“子どもに及ぼす映像描写の影響”研究」『放送研究と調査』1996年9月号、2-21頁
(5)佐々木輝美『メディアと暴力』(勁草書房、1996年)
(6)大渕憲一「マス・メディアの影響」『児童心理』2001年3月号、109-115頁
(7)佐々木輝美、坂元 章「対談 メディアの暴力について考える 〜映画「バトル・ロワイアル」を手がかりに〜」『視聴覚教育』2001年5月号、30-39頁
(8)坂元 章「10代の青少年と電子メディア ―心と体への影響―」『学術の動向』2001年9月号、22-25頁
(9)田崎篤郎、児島和人編著『マス・コミュニケーション効果研究の展開[改訂新版]』(北樹出版、2003年)

【悪影響否定論の悪影響】

 以上のように、宮台教授が広めた悪影響否定論は科学というより、政治的なメッセージである。そもそも政治的なメッセージであるが故に広まった、と言う方が適切かもしれない。条例や法律による「有害」メディア規制に反対したい一部のメディアには、“待望の”悪影響否定論だったのだろう※3。それらのメディアは何の検証もせずに宮台説に飛びつき、専門家でもない人物の主張を無批判に取り上げた。その結果、根拠なき悪影響否定論が広まったのだからメディアの責任は重い。

 『メディアと暴力』にはメディア暴力に免疫力をつける方法として教育的介入が紹介されているが、「この教育的介入に役立つのが、過去におけるメディア暴力研究の成果である。メディア暴力は悪影響があるのかないのかという視点で始まったが、徐々にではあるがどのような場合に悪影響があるかという視点に変わり、その要因がいくつか明らかになっている。それらの要因をうまく利用すれば効果の高い教育的介入用のビデオ教材を作ることが可能となる」(180〜181頁)という。

 なぜなら「いかに教育的介入を目的とした教材でも、暴力シーンを視聴させることによって脱感作効果や観察学習効果が生じる可能性も考えられる」(169頁)ので、悪影響を助長しない暴力の描き方が必要になるという。研究成果を無視した悪影響否定運動は、効果的な教育的介入を邪魔することになりかねない。政治的理由で悪影響を否定する人々はこの点をどう考えているのだろうか。素朴な悪影響否定運動によって、教育の重要性・有効性が軽視される事態こそ憂慮すべきである。

 

※1 田宮裕「わいせつに関するアメリカ大統領委員会の報告書について(二)」『ジュリスト』第478号によると、クラッパーが委員を務めたアメリカ大統領委員会は1970年に発表した報告書で、悪影響の証拠がないこと等を理由に「同意のある成人に対する性的物件の販売、提示、配布を禁止する法はすべて廃止すべき」と勧告しているという。一方、未成年については、

「成人よりも調査は不十分であり、デイタの信用性も低い。そればかりか、実験のためには性的刺激物を見せる必要があるが、そういう実験じたいが困難だという事情もある。また、世論調査の結果によると、多数は成人の制限の撤廃に賛成しつつ、青少年は別だという意見をもつ。これは無視できない。さらに、未成年者についてはその親が子供の監督上妥当かどうかを自己決定すべきであって、立法はそれを援助するという基本的態度を堅持するのがのぞましい。いくらこのような立法をしても、未成年者から隔離しおおせるかは疑問だし、見せることが利点になる場合もある。こうした事情を総合判断して自らコントロールする権利が親にはある」

といった理由から、「州は、一定の性的物件を未成年に対して商業的に販売しまたは販売のため陳列することを禁止する立法をすべきである」と勧告しているという。ただし、この勧告には、禁止される物について、「委員会としては写真や図画に限るのがよく、文章は除外すべきだと考えている。文章は性教育用に有用なものがあるばかりか、そのうち妥当なものとそうでないものを選別するのは至難のわざで、結局全面的禁止という不当な結果になるおそれもあるからである」というコメントがついているという。なお、委員会の問題点等については、H.J.アイゼンク、D.K.B.ナイアス『性・暴力・メディア』岩脇三良訳(新曜社、1982年)が詳しい。

※2 宮台教授が特定の運動に協力した例としては、「東京都健全育成条例改定に反対する市民有志」が2003年に実施した署名活動の「署名呼びかけ賛同人」になっていたケースがある。前回取り上げたように、この運動の「呼びかけ」には重大な誤りが含まれていた。このことは宮台教授が規制の仕組みを理解しないまま、規制に反対していたことを示している。

※3 言うまでもなく、悪影響を認めることと規制に賛成することは別の話である。例えば、条例によるゲームソフト規制について問われた坂元教授は『朝日新聞』(横浜版)2005年3月3日付で、「ゲームのリアルな描写が、子供を暴力に走らせる場合があるのは否定しない」としながらも、「規制することで、ゲームを楽しむ自由を奪ったり、自分で善悪を考えなくなったりする弊害もある。まずは教育で対応するべきで、規制は最後の手段だ」と話している。また、佐々木教授は『メディアと暴力』で「マス・メディアの中の暴力描写をもっと減らすべきだと思っているが、そのような暴力シーンを流しているマス・メディアを非難することが本書の目的ではない」「マス・コミュニケーション研究で得られた知見を教育に生かして行きたいというのが筆者の立場であり、また、現代のようにマス・メディアが発達した社会においては、マス・メディアとうまく付き合っていくことが必要だと思っている」(「はしがき」より)と記している。

(2010.5.17)


 

【追記】

 「検証・宮台真司が広めたメディア悪影響否定論」に関する宮台教授の「つぶやき」が彼のブログに掲載された。指摘した問題点がいくつか修正された点は評価できるが、「すべての事象を特定の信奉するパラダイムのみで一元的に解釈し、そのパラダイムで説明できない現象をすべて捨象する頑なさは、まさに適応しすぎて特殊化した日本軍を見ているようですらある」(戸部良一ほか『失敗の本質』中公文庫、1991年、396頁)というのが感想だ。相変わらず困ったものである。

 かつて宮台教授は「私は実証的なデータが存在しない以上、悪影響論からくるメディア規制には反対です」(「テレビは誰のもの? 子供・テレビ・Vチップ」『月刊民放』1999年2月号)と述べ、メディア悪影響の実証的データはないと断言していた。ところがブログでは、悪影響を前提に「その社会的含意は、悪影響回避の際、表現の自由との関連で副作用の大きいcに飛びつく前に、pとeの制御(reinning in p and e)を政策的に行えという内容になります」と主張している※4。

 発言が矛盾している点は措くとして、本人要因(p)と環境要因(e)は政策的に制御可能なのか。この疑問に対する説明はなく、仮に制御不可能ないし困難だとすれば無意味な主張でしかない。また、発表当時とメディア環境が激変したクラッパー理論の限界※5や、本人要因と環境要因に飛びつけば副作用が小さい理由も説明していない。メディア環境の変化を考慮せず、媒介要因を強調すれば、影響源であるコンテンツ要因(c)を温存できると短絡的に考えたのかもしれない。

 宮台教授は以前、杜撰な包括指定・緊急指定反対運動に協力し、規制強化の先棒を担ぐという失態を演じた(※2参照)。そのことから何も学ばなかったのだろうか。思いつきレベルの規制反対論は“有害”ですらある。そして政策的な見地からは、クラッパー本人が一定の性的物件について、未成年への販売禁止などを勧告した委員会のメンバーだった、という重要な事実がある(※1参照)。彼の理論と社会政策の関係を示すこの件について、宮台教授は説明しただろうか。

 本文および追記で取り上げたインタビュー等のすべてにおいて、宮台教授はクラッパーと限定効果論について述べている。これに対し、委員会のことは一言も触れていない。自説に都合が悪い、あるいはメディアや運動家が期待する内容ではないと考え自主規制したのだろうか。クラッパーを論拠に規制に関する社会政策を論じるなら、委員会について説明するのは当然だ。このことからも宮台説は「科学というより、政治的なメッセージである」と言うことができるだろう。

 

※4 原塑「神経倫理学とは何か:メディア暴力の規制に関する議論を例として」『UTCP研究論集』第8号、3-15頁(2007年)は、神経科学の発展によって「表現の自由」を盾にしたメディア規制反対論は有効でなくなることを論証している。また、海外の文献によれば「メディア暴力聴取の暴力的行動傾向の増大に対する効果量は、鉛への曝露の子供のIQ低下に対する効果や、受動喫煙の肺がんの罹患に対する効果、アスベストへの曝露のがんの罹患に対する効果などと同程度かそれ以上」(10-11頁)と考えられているという。

※5 スタンリー・J・バラン、デニス・K・デイビス『マス・コミュニケーション理論 上』宮崎寿子監訳(新曜社、2007年)は、『マス・コミュニケーションの効果』(1960年)で示されたクラッパーの理論について、(1)媒介要因の影響を誇張、(2)現状を過度に容認、(3)重要なメディア効果である補強効果を軽視、(4)理論が提示された時代やメディア環境が特殊、という限界を指摘している(250頁)。

(2010.7.30)


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