すばらしいワタル紀行 2000年3月30日(木)
鶴見済の海外アピール STOP JAP!誰か原発を止めてくれ!
☆.考える価値のある問題を考えるために
ワタル いよいよこの計画の最終、最終段階に突入しようかな。いきなり。今回のテーマ、メーテルリンクの『花の知恵』※1。えー、いきなり話が変わります。ここまでね……要するに具体的な、今回の“STOP JAP”計画みたいな感じの話は終わりです。こっから先はみなさんも疑問に思っているでしょうが、なんで私はこんなことをしているのかとかですね、そういったことねえ、本当はねえ、そのことだけ考えていたいんですよ。この花のことだけ考えてりゃオレは気が済むというのに、こんなこと考えなくちゃいけないのは、「本当に残念なことだとなあ」と思っていますが。
なぜ、じゃあ、そういうことをしているか? とかね。そういうですね、もっと包括的な、我々はどういうふうにするべきか? 幸せになるために、という最新の考えをお伝えしようというコーナーでーす。それって当然関係あることなんだよね、“STOP JAP”と。
だからネットとかでもね、見たんですけどオレが今までの問題、社会に対する、社会の問題なんて考えること、考えるヒマがあったら「部屋の掃除しろ」とか言ってたのに変じゃないか、とかって。やっぱ誰もが疑問に思うと思うんです。オレ自身だって、オレも「変だよなー」とか思っちゃうんでね。
だけど、まあ、一つ言えるのは、今までのいわゆる「社会問題」っていうのは今回の原発事故とは真逆のものだ、みたいなね。今回のはほんとに社会問題であって。つーか、今オレが羅列したような社会問題は社会問題として扱われてないでしょ。だったらそれは矛盾したものではないと思うんですよ。「金日成主席が出席」とかさあ(笑)。それ、そんなこと考えなくていいんだから。実際に、考えないといけないものを考えていると思うんだけどね。今までと同じように。だから矛盾とかしてるつもりはないのは……
まずですね、今までに散々チラチラと触れましたが、「考える」っていうことをする場合に気をつけなければいけないこととして、何を考えるのか考えるっていうことを、「メタ考え」という。議論をする時に、何を議論するのかまず議論するべきだという「メタ議論」つーのを、こういうの、こういうのが必要だってことをあえて言わなきゃいけねえんだなってオレ思っちゃったんだけど。
だから内ゲバなんてね、エネルギー問題のこと考えてんだったら内ゲバなんてエネルギーの浪費にしか過ぎないんだから(笑)。だけどそれってさあ、結局さあ……そんなことで、なんかもう全然メタ議論をさあ、忘れちゃってんじゃん。結局、全廃しなくちゃみんな納得しないはずなのに。
最近ですね、そういう、そういう話……言う、ものを言うことの根本原理っていうものに しとこうかなっていう気持ちがあって。
論理学とかね、そういう、たまたま数学の本とか読んで思い出したんですけど。非ユークリッド幾何学ってみなさん聞き覚えがあるでしょ。でもその実態たるやみなさんご存知か? 非ユークリッド幾何学ってのはどういうね、どんだけ悲惨なものかっていうね。
ユークリッド幾何学っていうのは要するにギリシャ、古代ギリシャ・ローマ時代にピタゴラスとかね、そういった連中が今の中学校で「図形」とかいうのかな? で教えてるような、図面を参考にした「三角形の内角の和は180度である」とかそういうこと。あれはギリシャ時代の最後にユークリッドっていう人がまとめて、それ以来ほんとに付け加えることがないようなジャンルなんだって。すべて考え尽くされてるみたいなんですよ。
で、それの、唯一の証明できないことっつーのがあって。平行線、nっていう平行線が一本あったときに、点aを通るnと平行……あ、直線nだ、と平行なaを通る直線つーのは1本しか引けない……これだけはなぜかずーっと証明できないのね。他のことっていうのはこれから引き出せる、引き出して証明できるのに、これ自体を証明することはできない。で、結局ユークリッド幾何学ってのはなんだったのか? って言ったら、一つここに公理を置いたんですよ。なんにも証明できないことを置いて、他はすべてそこから引き出された結論だってわけ。定理ってやつね。
で、非ユークリッド幾何学つーのは何か? って言ったら(笑)、nと平行、直線nに平行でaを通る直線は無数に引けるということを、じゃあ仮定したらどうなるか? っていうね、ことから始めちゃったわけ。そしたらどうなったかっていうと、ユークリッド幾何学と同じほどの完璧な理論体系が形成されたらしいんだよ(笑)。それはあまり公表されてなかったりするんだけどさあ。そういう何世紀もかけて、そういう非ユークリッド幾何学っていうもんを綿密に体系化してきたりしたのね。恐ろしいほどの架、架空化なんだけど。
それが、なんで……えーっとね、こういう話をしてるかっていうとね、結局ね、まあ、考え、考えてったらキリないんですよ。当たり前でさ。ゲーデルの話ってあれも数学の話だよね。ゲーデル論争なんて知ってますか? みなさん。ゲーデルっていう人がですね、結局、数学なんかでね、なんかの証明とかしてんじゃん、みんな。それを「正しい」という証明をするためにはn+1個のさらに上位の公理系が必要なんだから、で、その公理系が必要だってことは、さらにまた上位の、その公理系を「正しい」と認めるためにはまたn+1+1の公理系ってやってキリがない。だから数学的に証明されたっていったところで、なんらそこが……キリがないことで。ある段階で手を打っただけなんだ、っていうことを知ったっつーのが、最初の、第1段階のゲーデル問題で。
第2段階のゲーデル問題っていうのは、たしかだよ、たしかだよ……えーっとね、もうゲーデルって昔の人なのに、復活したんだよね。オレが大学生の頃に。で、何がおかしかったかというと、ゲーデル自身がそういうことに気づいてなかったんだよね。自分の主張、理論が 立証したって言っちゃったんだよ。でもそれを、本当は自分だって「同じ穴のムジナ」だってことに気づくべきだったんだけど。それを知った柄谷行人が、彼は、これも根拠がない、あれも根拠がないってことを宣伝していただけに、それを知って愕然としてなんかちょっと気がふれたみたいになっちゃったという。逸話、逸話ね。どうでもいいんですけど、そんなこと。そんなことで気がふれたみたいになるような精神的に脆弱な人っていうのは、大したもんだと思うよ。
だからキリがないんだよ。そういうこと分かりきってるんで。要するに って確認しなくちゃいけないんだよね。さっきの放射能の話にも出てきましたが、我々っていうのは、あらゆる段階において常に当面の真実……一番、「今のところはこれが一番まあ妥当だ」とか、これを、この説を支持しておけば、まあ 思えるっていうのを常に選択してきてるにすぎないわけであって。考え、考えて、最初にね。論理学、非ユークリッド幾何学。 としちゃってるんだ。そういう問題に はまらないで済むようにね。
いま我々が信じている科学の枠組み。例えば物理学にしてもね、量子力学と原子力。原子力……そういうね、量子力学ができたのは20世紀入ってからだけどさあ、つい最近の枠組みに準拠して、我々は原子力の問題を論じあっているわけですけれども。それにしたところでだ、所詮この1世紀間に支持されてきたことにすぎない。
このカール・ポパーっていう人、文系の中で珍しく極めて正しいことを言った思う。言ったんだけど。「反証可能性」ってみんな聞いたことあるでしょ。ねえか?(笑) オレらの頃けっこう有名だったんだけど。えーっとね、彼は科学的と非科学的つーのは、どうやって区別するかっていう問題、その言ってることの「いい/悪い」「妥当である/妥当でない」っていうの「どういうふうに区別するか?」っていうの決めた人でもあると思うんだけど。
えーっとね、どういう、どう……分類、みなさん何だと思う? 何て言えばいいと思う? 科学的か非科学的……いい、いいこと言うんだよ。あのね、例えば「神がいる」っていうのは我々非科学的だと思うよね。神、神の存在を信じてる人。でも、ニュートン力学の存在が正しいっていう人は科学的だと思う。この違いは何か?
えーっとね、「反証可能性」っていうことを言い出すわけだ。例えば「神がいる」って言ってる人に向かって「神がいないこと」を立証できない……確かにそうなんですよ。「いる」っていう、「バイブルは正しい」っていうことから考えを始めちゃってる人に、バイブルが正しくない理由を説明できないよね。
そういうことを「反証」できない代わりに、「立証」も彼はできないはずです。神の存在。そういうような類のことは、「反証」もできないけれども「立証」もできないような類のことは非科学的と言っていると。だけどニュートン、ニュートンの「万有引力の法則」に関しては、反証例っつーものがデーター的に存在する。反証できる。こういうとこが間違ってるって覆せるんだ。
そういうことを、そう言ってるからどんどん、いい モデルチェンジしていける。それ「パラダイム変換」とかって昔の言葉で言ってたんですけど。それの方が優れた価値体系だと思うと。そういうことで、そういうもんを科学的かどうかどうなのかということで、いま「科学的/非科学的」っつーのはそういうことで、はっきり分かれ、分かれられると思うんだけども。重要ですね。
じゃ、量子力学から始まって、例えばアインシュタインとかからの相対性理論とかから始まった宇宙論というのが存在するけども、これ、例えばホーキングとかね、そこまで言った、言ってる人たちの言い分っつーのは「科学的/非科学的」なのか? これもう非科学的なんだよ。あれは反証もできない代わりに立証もできないんだから……考えたってしょうがねえんだよ(笑)。
で、カミュっつーのは、これまた極めて頭のいい人だと思うんですけど、そういうものに関してどう言ってるかというと、ポエム、「詩」だっていうのね。だから今度からそういうのは……だけど詩って悪いもんじゃないでしょ。だから詩、詩と思うと。
そういうね、ドーキンス、リチャード・ドーキンスっていうのもそういうのにこだわる人で。「この世でまず言っておきたいのは」ってなふうに言って注釈をつけるんだけど、ここね、この人も大変な、大変な仕打ちを受けてるなと思うのはね、この本※2 が何であるかをもう説明しなくちゃいけないようだと(苦笑)。これ増改訂版の増補のまえがき。「物事がどうであるか?」っていうことと、それがどうで、「どうであるか?」と「どうであるべきか?」っていう議論っていうのは、まったく別物なんだということを断っておくと。
で、ここで言ってるのは「どうであるか?」、「何々である」とか「何々でない」とか、そういう「何々だと感じる」とか「何々であったらいいな」と願うとか、そういうことを言ってるんじゃないんだ、というふうなことまで言わなくちゃいけないようなバカな状況に、この人もバカな仕打ちくらったみたいなんだけど。
うーん、大事なことだと思うんですよね。そこら辺の区別っていうもんがなされないまま、ダラーッとした無意味な論争が展開されているのが日本の、っつーか……まあ、日本のだろうな、って言っていいんだろうけど、言論状態っていうようなことだと思うんですよ。
簡単なことですね。死ぬことだって「いい」も「悪い」もないんでね。それをどう思うかは、各自勝手に考えてくれりゃあいいことであって。死ぬっていう、人は死ぬ、自殺……人が死ぬっていうことは、もう否定しがたい当たり前のことなんだからさ。
それとかね、自殺を肯定するかしないか? 「死の自己決定」っつーものに関して、論議する方が間抜けであって。だけど日本が、これを、グローバルスタンダード的に驚異的なのは、「死の自己決定」を否定する立場にあるっていうことがまず一つあげられるんですけど。
臓器提供を本人が願ったところで、なんか家族がね、承認しないとダメだとか。そういう設定を設けてたりするから臓器移植もままならない、とかね。植物人間のまま放置してる岡崎京子さんを一体誰が最終的に決定するのかわかんない、とか。
そんなのね、「死の自己決定」が「いい/悪い」なんて一言で言えるんだよ。「死の自己決定」がいいに決まってるのは、「死の他者決定」が悪いからだよ。分かりますか? それっつーのはどっちかしかないんだから。「死の自己決定」をある程度否定していく分だけ「死の他者決定」をある程度肯定していいことになるんですよ。そうすっと、「死の他者決定」ったら、例えば一億玉砕とかしても他者決定だよな。そう考えたらさあ、「死の自己決定」なんてさあ、正しいに決まってんじゃん。
そういうようなことをズバッと言えない、っていうね。この世の中のポエムの嵐みたく巻き込まれちゃってさあ……。けれどさ、正しいものは正しい、間違ってるのは間違ってるんだよ。っていうことでね、こういう“STOP JAP”っていうふうのだって、 そういうことなんですよ。感情的にどうあれ、間違ってるものは間違ってんだよ、っていうね……ってことを言いたいわけだ。
それが、「じゃあ、それだってお前の感情だろ」っていうようなことを、議論突きつけられたら、それは……それを言っていたらキリがないわけだから、その一つ上の「メタ考え」でオレは決めてくよ、と、いうふうに言うことだ。
例えばね、じゃあ、「なぜ人を殺しちゃいけないか?」っていう問題が空虚かっていうと論理学ってさあ、ちょっと調べてみたらすごいいいのね。論理学……例えばですね、「宇多田ヒカル問題」っていうの、内輪で盛りあがっていて。ある説によると宇多田ヒカルは「私はプロなんだからインタビューで本当のことなんか、本心なんて言うわけないじゃん」って言ったという説があって。
よく考えてみたんだよ。それっつーのは宇多田ヒカルから、根底から否定するほどの可能性を秘めているんですよ。「本心なんか言うわけないじゃん」っていうその言ってることは、じゃあ、どうなんだ? 「私なんかプロなんだから本心なんか言うわけないわ」なんていうことがもし本心じゃないんだったら、「私は本心を言うんだ」ということを言っていることになる。
で、もし本当に「本心なんか言うわけない」「言うわけないじゃん」っていうふうなことを、本当に、そのことだけはウソつかないんだったら、「本心なんか言うわけない」というような本心を言っている、っていうことになる。要するにこれはクレタ島人、全てのクレタ島人は……あ、クレタ島人が「全てのクレタ島人はウソつきだ」と言ったらという、むかーしからのある論理のパラドックスと同じことですね。
論理のパラドックスっていうことは、それ自体に、これ言説に意味がないんですよ。だから聞かなくてもいいんだよ、そんなの。聞かなかったのと同じなんだよ。 の方が効果あるよ。まだね。意味合いがあると思うよ。
論理のパラドックスという……ばっかりって言っても過言じゃない。それいろんな濃度、濃度でしみ込んでくるから。だからそれって、聞いても聞かなくても同じなんでね。だからさあ、実際に聞いても聞かなくても同じだったじゃん。オレらの聞かされてきたことって。全部素通りしちゃうでしょ。心に残らないで。それ無意味だったからです。ただ単に論理的に無意味だったからなんだな。と、俺は思うね。
常に「禁欲的でありたい」っていうことを否定するのは簡単で。それ、その言葉自体が禁欲的であることを欲求するという論理矛盾に陥ってるからって。それだけでいいんだよ。禁欲的っていう禁欲欲っつーもんは、じゃあ肯定すんのか? とかね。
だからさあ、彼らは、禁欲主義者っていうさあ、昔からプロテスタントとかいるけど、だったら「睡眠欲をまず禁じろ」っていうね。食欲とか。なんで性欲ばっかり目の敵にすんだよ。性欲とか煩悩みたいなものとかね。いきなり食欲を(笑)、食欲から禁欲しちゃったら話、シャレになんねえから(笑)。「マ、マジ辛いっすよ」ってことになるから。そこが、その食欲欲を満たすのは禁欲しなくても、まあなんとなくOK。それ、 みないな感じなのね。
睡眠欲をさあ、もしじゃあ禁欲しちゃったら3日でさあ、その禁欲活動終わりだよ(笑)。そこんところ誰も言わないじゃん。そんなこと。そんな簡単に否定できるのにね。それでさあ、結局彼……その禁欲主義者っつーのの目的っていうのどういう、じゃあ、何をしてるかっていったら、ギリギリ死なねえ程度に禁欲するってことだよな(笑)。そしたらギリギリ死なない程度に痛い、苦しいってことだから禁欲してる人は、なんか禁欲活動行なってる人が、幸せなわけないんだよね。……っていうのがものすごい大事なことだと思うんだよね。
何言ってんだかわかんない? るって感じ? スッゲー、スッゲー……一番、なんか子どもになんか教えろって言われたら、これをまず教えたいと思うな。
トンチンカンな議論に陥らないために、まずメタ議論をするってことだ。なんとなくわかるでしょ。「朝まで生テレビ!」で、必ずわけわかんないまんま終わるのは、「『朝まで生テレビ』生テレビ」がないからだね。「『朝まで討論』討論」をまずしないからだよ。「それはなんのためにするんだよ」っていうふうに聞いちゃったらさあ、それ決まった、そこで何か決まったら……Aと決まろうがBと決まろうが、「それは何なんだよ」って誰かが言ったら終わりだから。で、宮台さんが言っちゃったという噂があるんだけど(笑)。
普通の会議ってさ、その決定に従って、会議でさあ、会議で決定に従って何かを実行するために会議するのに、あの会議ってその先がないのね(笑)。架空の会議なのに誰も気がつかない。だからバカバカしいんであってさ。
うーんとね、この「宇多田ヒカル問題」っていうの本質を突いてるでしょ。これで俺は完全に宇多田ヒカルの……宇多田ヒカルを根底から否定することができたと思うんだよね。今後、宇多田ヒカルに関して肯定的に言いたい人は(笑)、「論破してからしろ」って言いたいよね。宇多田ヒカルのこのパラドックスというものを。俺は宇多田ヒカルを完璧に否定しえたと、こう自負しておきますよ。
うーんとね、慌てて出てきちゃったからね、 一番いい話しだと思ってたんだ。早く帰っちゃった人にはすごい悪かったんだけど。
●注
※1 『花の知恵』(モーリス・メーテルリンク著、工作舎)
※2 『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス著、紀伊国屋書店)