『完全自殺マニュアル』の書評

これは自殺を奨める本なんかじゃない。僕らより下の世代が持つ、死に対する考え方が書かれている、ある種の思想書なのではないかと僕は思いました」/大森一樹「『完全自殺マニュアル』の正しい読み方」『婦人公論』1994年11月号


1.小林恭二「小林恭二の猫鮫積ん読日記(27) 『完全自殺マニュアル』の巻」/『サンデー毎日』1993年12月5日号

一部抜粋

 この本を再び手にしたのは、今朝のことだ。積ん読日記用に何かいい本はないかいなと、机のわきに積み上げてある本をひっかき回していたところ、ひょっこりこの本が目に入った。正直言って取り上げるつもりはなかった。取り上げるには話題になりすぎている。だが何気なく手にとり、パラパラとめくってみたのだ。そうしたら面白そうなのだ。文章がシェアだし、何よりも事例に多くあたっている。短いコメントも気が利いている。最初は飛ばし読みをしながら斜めに読んでいったのだが、すぐ最後まで読んでしまった。ありゃりゃもう終わり? なんだか読みたりなくて飛ばした部分を拾い読みした。それもまたすぐになくなった。今度は最初からちゃんと順を追って読んだ。
 その結果すっかり感心してしまった。たとえばある悲惨きわまりない自殺の後にこんな文章が続くのだ。
 「彼女の人生は、自殺を肯定するか否かの踏み絵のようなものだ。無論生きようと思えばそれも可能だったはずだが、彼女は助けを拒んで死を選んだ。この人生を前にしてもまだ『生きていればいいことがある』『死ぬ気になればなんでもできる』『自殺は弱い者のすることだ』といったたわ言を吐ける者がいるのか? 彼女の『死んでやる』の一言に対して切り返す言葉は、たぶんない。」
 自殺に対する視線が新しいのだ。いたずらに奇をてらっているというのではなく、ある種の実感でもって書かれているから、いわゆる常識に反する言説がなされても、うさんくさい感じがしない。それどころか世間から隠匿されていた真の知恵に触れたような気分になる。
 小説家としての本音を言わせてもらうなら、この本は文学的ですらある。こう言うとおそらく著者の鶴見氏は「とんでもない」と言うだろう。「そんな皮相な見地からこの本を書いたのではない」。

鶴見済『完全自殺マニュアル』
(太田出版、1993年)

 

2.加藤典洋「死後の感触 村上春樹・村上龍の新作をめぐって」/『理解することへの抵抗』(海鳥社、1998年)

 最近だいぶ評判になった本で、鶴見済という人の書いた『完全自殺マニュアル』というものがあります。さまざまな自殺の仕方の簡単なマニュアルになっていて、中でも一番確実に死ねるのは首をつる方法だとか、富士山の樹海の中に入る時はどこがいいとか、そういうことがごたごたと書いてあるのですが、彼はなぜ、こういうマニュアルを作ったのか。その「おわりに」で、著者鶴見はこう書いています。

 まえがきでは「現代社会と自殺について」みたいな大仰な文章を書いてしまったが、じつはあれは文字どおり取ってつけた話だった。
 こういう本を書こうと思ったもともとの理由は「自殺はいけない」っていうよく考えたら何の根拠もないことが、非常に純朴に信じられていて、小学校で先生が生徒に「命の大切さ」なんていうテーマで作文を書かせちゃうような状況が普通にあって、自殺する人は心の弱い人なんてことが平然と言われてることにイヤ気がさしたからってだけの話だ。「強く生きろ」なんてことが平然と言われてる世の中は、閉塞してて息苦しい。息苦しくて生き苦しい。だからこういう本を流通させて、「イザとなったら死んじゃえばいい」っていう選択肢を作って、閉塞してどん詰まりの世の中に風穴を開けて風通しを良くして、ちょっとは生きやすくしよう、ってのが本当の狙いだ。

 つまり、ここでは何が言われているかというと、自分はいまの若い人達が生きやすくなるようにこれを書いた、と言うのです。死のうと思えば、そんなに苦しまなくたって死ねる、「イザとなったら死んじゃえばいい」というオプションのあることが、いまの若い人達にとっては、「生きやすくなる」ための大事な条件だというのです。一見すると、何か逆のようです。死はすぐ近くにあるし、自分の手で触れるんだよ、などと言ったら、死んでしまうのではないか、と思うのですが、そうではなくて、そのことが生きる力を与え、生きやすくする、と言うのですね。ですから、われわれは、なぜここで言い方が逆転しているのかを考えなくてはならないのです。何が、事態を逆転させているのか、と。
 そう考えてはじめてわかるのですが、いまは、死が完全に、何重にも、生から隔てられ、見えないものにさせられている。しかし、その結果、何が起こったかというと、死が見えなくなり、感じられなくなることで、もう一方の秤の上にある生が、見えなくなり、感じられなくなった。だいぶ誤解にさらされているようですが、鶴見はここで、いまは生と死の違いがはっきりと感じられない、そのことが閉塞状況を作っている、いま、若い人達は生に閉じ込められている、この閉塞状況を壊さなければ、生きていることのリアルさは回復できない、そう言っているのです。
 どんなことがあっても死んじゃいけない、ということが意味を持つには、生が生き生きと感じられていることが必要です。そうでないと、それは単に死の禁止にしかならない。しかし人は、死があるから、生について考えるのではないでしょうか。死を見えない場所に押し込めることで、実は生が見えないところに押し込められているのです。死を禁止し、抑圧することは、そのまま、生を抑圧することになる。鶴見は、生をありありと感じるために、いまは、生と死の異質さを回復することが不可欠だと言い、そのため、死を抑圧するな、それは生の感覚の死につながる、と言っているのです。
 すると、この鶴見という書き手の届けるメッセージの方向が、ちょうど村上春樹、村上龍という小説家のメッセージと逆になっていることがわかるでしょう。一方は、異界のいわば属領化をその描写で享受しているのですが、他方は異界の属領化の結果としてのその異質さの消滅、死の消滅に苦しみ、何とかそれを回復しようと、異界の脱属領化をめざしているのです。
 いざとなったら死ぬこともできる、死んでもいいのだということを、オプションの中に一回繰り込む。そうすることで、もう一度、生きるということを新鮮な形で取り戻すことができる。逆から言えば、そのくらい、この異質な世界の異質さの消滅がいまの若い人を死のような生に押し込めている、そういうことをこのことは語っています。

※1994年5月25日に神奈川県高等学校教科研究会国語部会で行われた講演の一部です。

 

3.大森一樹「『完全自殺マニュアル』の正しい読み方」/『婦人公論』1994年11月号

 『完全自殺マニュアル』! なんて人騒がせな本の題なんだろうと思って手に取りました。映画の材料を探しに書店へ行ったときに見つけたのですが、映画もこれぐらい人騒がせなタイトルでないと、客が集まらんのかなと思って、手にしました。ところが、読んでみたら中身はまったく物騒ではない。真面目な本だったので、もう一回驚きました。
 タイトルだけが独り歩きしてしまい、読みもしないうちから「死をマニュアル化してしまった」などと批判する大人がいますが、違います。これは自殺を奨める本なんかじゃない。僕らより下の世代が持つ、死に対する考え方が書かれている、ある種の思想書なのではないかと僕は思いました。大きな問題を投げかけている本なんです。
(中略)この本は、そういうふうに先が見えてしまったときに「僕らはどうやって生きればいいのか」という問いかけをしているんです。「いざとなれば死んでしまえばいい」と自分の死を自分で決めることで、生きることも自分で決めていこう。そういう自立宣言なんですね。《自殺》をキーワードに、だれとも違う自分たちがここにいるということを、はっきり打ち出した、メッセージ色の強い本だと思う。
 ところが、著者が提示したことについて、大人たちはどう反応したか。「こんな本子供に読ませたくない」「これを読んで自殺する人が増えたらどうするのか」とか、いろいろありました。(中略)だからこういう本は駄目なんだと、本質からはずれたところで話題になったんですね。
 あれだけ体を張って書いたものに対して、あまりの世間の反応のバカバカしさに憤慨したと、著者は続編の『ぼくたちの「完全自殺マニュアル」』に書いています。そうでしょう。自立宣言に対して、「お前の言っていることは正しい」、あるいは「間違っている」という答えをだれも出さないのですから。なぜ間違っているのかと説明するのが、面倒くさい。あるいは正しいと言えるだけの根拠もない。ただ本質から目を背けているだけ。
(中略)『完全自殺マニュアル』の著者は、こういう本を書きながら、みんなどうやって生きるんだ、ということを本当は言いたいのです。ただ、それを言うのはすごく恥ずかしい。シャイなんですよね。だから徹底的にマニュアル化したスタイルで書いている。ちょっとしたユーモアも混じっていたりして、言葉のうえでは自殺を奨めているようで、じつは大変なことなんだと言っているんです。
(中略)だから『完全自殺マニュアル』を支持した世代のように、いつでも死と隣りあわせにいるというか、死を待つのではなく死がそばにあるという点に僕はすごく共感しますね。「いつでも死ねる」ということを、生きるテコにする人たちがいてもいいのではと。(後略)

 

4.立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』(文藝春秋、1995年)

一部抜粋(241頁)

 最近評判の鶴見済『完全自殺マニュアル』(太田出版 一二〇〇円)を読んでみた。どうせ水準の低いハウツー本だろうと思っていたのだが、なかなかどうして、これが面白いのである。実によく調べて、各種の自殺法を懇切丁寧に図解入りで書いている。内容は科学的で、信頼性が高い。(中略)
 実用性ももちろんあるが、自殺するつもりが全くない人にも実に興味深く読め、人の生と死について考えさせられるところが多い。説教じみたところが皆無で、淡々と無感情に書いているところがいい。

 


 

『ぼくたちの「完全自殺マニュアル」』の書評

「だから死、とりわけ自分で選べる死を、常日ごろから考えられれば、対局にある「生きる」ボルテージをずいぶん楽にできるんじゃないか。アクセル踏みっぱなしの人生から開放されるんじゃないか。そんな現代の「葉隠」として鶴見氏は筆をとったのだ……と思う」/うらやまあきとし「読みたきゃ読め『ぼくたちの「完全自殺マニュアル」』是非論争後の鶴見済氏の第2弾!!」/『PC-PAGE GURU』Vol.3


1.うらやまあきとし「読みたきゃ読め『ぼくたちの「完全自殺マニュアル」』是非論争後の鶴見済氏の第2弾!!」/『PC-PAGE GURU』Vol.3

一部抜粋

 鶴見氏の真意を僕なりに解釈してみる。かつて日本では、いや世界的にも「死ぬ」ことは「生きる」こととさほど離れた概念ではなかった。日本にオキツスタエの思想があったようにだ。しかし、現代は生きることにあまりにもウェイトが置かれ過ぎる。死ぬのは怖いこと、いけないことと考えられる時代だ。
 そーなると、一生懸命に必死に生きなきゃならない。受験でも、仕事でも完璧に、ハードに生きることを迫られる。こりゃ辛い。
 だから死、とりわけ自分で選べる死を、常日ごろから考えられれば、対局にある「生きる」ボルテージをずいぶん楽にできるんじゃないか。アクセル踏みっぱなしの人生から開放されるんじゃないか。そんな現代の「葉隠」として鶴見氏は筆をとったのだ……と思う。違うかなぁ、鶴見さん。

鶴見済編『ぼくたちの「完全自殺マニュアル」』
(太田出版、1994年)

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