| 長崎電気軌道 |

1982年当時の一日乗車券
私がはじめて長崎を訪れたのは、1971年の早春のことでした。後に“ながさき”という列車名のつく、門司港から乗ったDD51が牽く大村線経由の普通夜行列車の旧型客車の硬いシートで一夜を明かして駅前に降り立つと、市電が出迎えてくれました。そのころ、長崎電気軌道は経営危機に直面していました。電車と並行して走る自社のバスを廃止して経営の建て直しをはかるべく、バス停には路線を長崎バスに譲渡するとの案内板がぶら下がっていました。電車に一本化したのは、バスはまだ買い手があるが電車は売れないためだと聞きました。
このとき、浦上天主堂やグラバー邸など長崎の観光地ではたくさん写真を撮っているのですが、電車の写真は何故か駅前に停車する元東京都電杉並線2000型の後期型、長崎電軌700型1枚だけです。電車と同じような緑系統の塗装だったと思いますが、去りゆく長崎電気軌道バスの記録を残さなかったことが悔やまれます。
次に長崎に来たのは、20系から14系にグレードアップした特急“さくら”に乗って、1974年のことです。五島列島福江島へ遊びに行く途中に立ち寄りました。このときも、電車の写真は松山町の500型1枚だけです。
1975年以降は出張で時々長崎を訪れました。いつも“さくら”か“みずほ”のB寝台です。当時は、部屋の窓から電車の見える、諏訪神社前の中島会館によく宿泊していました。いつしか、電車の走っている範囲の市内地図と系統は、しっかり頭の中に入っていました。電車も仙台などの中古車を導入しながら徐々に元気を取り戻していき、1980年には10数年ぶりの新車としてチョッパ制御、冷房、セミクロスシートの画期的な2000型軽快電車が2両登場しました。
1977年と1982年には、出張の途中の空き時間(当時はまだ土曜日は仕事でしたから日曜日だったかと思います)に浦上車庫を訪ねています。職員の方が親切に案内してくださり、都電3000型の800型や、箱根登山鉄道小田原軌道線から来た(といっても長崎で車体新造ですから、今の1200型以降が西鉄というのと同じですが)150型、九州電気軌道、後の西鉄北九州線から福岡市内線を経て来た木造車の160型、同じく福岡から来た花電車などを見せていただきました。1982年の眼鏡橋まで壊れた長崎大水害(この1週間前にも雨の降り続く長崎にいました)で、水に浸かった800型は大した働きもせずに廃車になったと聞きました。
当時、一番よく乗った電車は長崎電軌オリジナルの200型、210型と300型(私には外観からは区別がつきません)です。冷房化時に張り上げ屋根になり(車体の補強をしたんでしょうね)方向幕も大きく、最近ではすっかり若返っていますが、当時の車内は1950年ごろの登場以来のグローブ付き白熱灯で柔らかい照明でした。大型方向幕の軽快電車以外は、みんな窓下に系統板を掲出していました。
すでに大半の車両がワンマン化されていましたが、1977年頃まで木造車以外にも、300型や軽快電車の次に若い370型にも車掌さんの乗っている車両が残っていました。ワンマン改造前の300型はおとなしいスタイルです。370型も、正面の両側の窓が下降式、方向幕の両側のベンチレータが外に開き、側面の方法幕を使用し、バックミラーもなく広告塗装のないすっきりした車体など、オリジナルのデザインが一番似合うように思います。ツーマンの時には、単線区間で右側に乗降する停留所のある5系統にも非対称扉の370型も使われていたのですね。
1983年には、2000型と類似の車体で、廃車になった西鉄の車両から部品を流用したセミ新車の1200型も走り始めていました。この車両の左に隠れている県営バスの塗色が懐かしいですね。
1984年から運賃の値上げが無く、今では全国一安い100円玉1枚で乗れる長崎の電車ですが、写真のころは両替をお願いすると、運転手さんが半透明の硫酸紙の袋に入った50円玉と10円玉のセットを手渡してくれました。袋を破って小銭を取り出し、料金箱に投入したものです。
最近では、長崎出張も飛行機で行き1泊でとんぼ返り、市内の移動はクルマがほとんどで、JRはもとよりなかなか長崎電軌にも乗る機会がとれません。クルマの中から見かけた範囲では、広島とともにかつては各地の中古車が働き、動く電車の博物館といわれた長崎電軌も、2000型以降の角張った車体が多くなり、動態保存のようなかたちで残った一部の譲渡車両を除くと、更新できれいになった丸い車体の200、300型と360、370型のオリジナル車にほぼ統一されたように思われます。
2001/07記