| 播但線 |
動力の近代化で輸送力の増強に取り組んできた国鉄時代には、毎年10月に全国のダイヤの大幅な改正が行われてきました。電化工事の完成やディーゼル機関車の投入、華やかな特急や急行の増発と引き替えに、ダイヤ改正ごとに蒸気機関車の活躍場所が狭められていきました。山陽本線の姫路と山陰本線の和田山を結ぶ播但線では、急行“但馬”のほか普通列車も多くはディーゼルカーで運転されていましたが、姫路−和田山間の旅客列車の一部と貨物列車はC57が、姫路の通勤圏である寺前までの区間列車の多くはC11が牽引していました。
ここでも、鉄道100年を迎えた1972年10月のダイヤ改正の前日、9月30日限りで長年活躍した蒸気機関車が引退することになりました。これを記念して、定期の普通旅客列車1往復が、C57型蒸気機関車が前に3両ついて牽引する三重連として運転されました。
播但線は、生野の峠を越えるため1000分の25の急勾配があります。そのため補機のつく列車もありましたが、通常は三重連になることはありません。
C57のお別れ三重連は、午前11時過ぎに和田山駅を発車する上り普通636列車を牽引して姫路に向かい、夕刻の17時半頃に姫路駅を発車する下り普通633列車で和田山に戻るダイヤが組まれました。まずは、和田山駅の隣にあった機関区の見学を申し出て、構内で待機する3両のC57、C5795+C57113+C57156に面会です。煉瓦造りの機関庫の前には、翌日からC57の仕事を引き継ぐ赤いディーゼル機関車DD54が待機していました。
播但線の撮影地としては生野の峠越えが有名ですが、寺前以北の列車本数が少なく、車を持たない当時としては生野までたどり着けません。和田山付近での撮影となりました。
田圃の中で撮影場所を探している間に列車の時間となり、C5795を先頭にした3両のC57が旅客列車を牽いてきました。あわてて何枚かシャッターを切ったのですが、まだ勾配にかかる前の平坦線では、3両のC57は 力をもてあまし気味で軽く流しており、薄い煙を残して走り去っていきました。
客車の編成は、ぶどう色と近代化改造済みの青色の混成で、機関車の次位には半室荷物車が付く当時としては普通列車の平均的なスタイルです。荷物車との合造車の次にアルミサッシの狭窓がならぶ客車が連結されていますが、1等車格下げのオハ41で、車内は超ロングシートに吊り皮付きの通勤型、 こんなやつもいたんですね。乗りたくない客車です。
集煙装置付きのC57128が牽引する、下りの貨物列車を撮影してから姫路に移動しました。下りのC57三重連の姫路駅発車は夕刻です。列車の時間まで国宝姫路城で時間をつぶしました。
姫路機関区から3両のC57がバック運転の回送で姫路駅に向かいます。復路は往路と逆の順に、C57156+C57113+C5795の順に連結されていました。
夕闇が迫る中、やがて発車時刻となり汽笛が3声。播但線最後の蒸気機関車の牽く363列車の発車です。隣の山陽本線を、マンモス電機EH10の牽引する上りの貨物列車が追い越していきます。目の前を勢いよくドレンをきって3両のC57が通り過ぎます。
播但線で活躍したC57の一部は、その後も山陰本線の西部や日豊本線南部に転属して、あと2年間ほど活躍を続けたそうです。あれから30年、JR西だけになったキハ181の特急はまかぜを除けば、かつてC11が区間列車を牽いた姫路側は電化して103系電車となり、和田山側はキハ40のワンマンカーが1両で走る寂しいローカル線となったようですが、その後残念ながら播但線を訪れる機会がありません。