◆◆ 海外エンタテイメント作品 (翻訳物) を巡って (後編) ◆◆

〜 異文化間での対話 〜

 
** INDEX **
5.翻訳は異文化間の対話
6.日本では馴染みのないもの
7.原作に忠実な翻訳のために
8.参考文献

---- (以下 前編) ----
1.はじめに
2.海外ベストセラー作品の「翻訳物」をとりまく状況
3.法律は……
4.粗悪な翻案の恐るべき実態


 

5.翻訳は異文化間の対話

 翻訳という作業は、言語 (ことば) の置き換えであると同時に異文化間での対話なのだと思います。 海外 (文芸) 作品には、背景として、それぞれの国におけるこれまでの歴史の中で培われてきた文化があります。 また、今現在一般大衆に浸透している考え方や流行といったものも、国によって異なります。
 「異文化」 というもの、往々にしてお互いの目に奇異に映り、場合によっては不快感を伴い、更にひどくなると否定的な印象から蔑視さえ生みかねません。 それはエンタテイメント作品の翻訳物のファンにとっては一番身近だと言えるであろう英米の作品を、我々日本人が読むという場合においてすら、決して無いとは言えないと思います。


 今、直前の文章で 「二重否定」 の構文を使ってみましたが、英語 (以下、基本的にアメリカ英語を指す) では、二重、三重、あるいはそれ以上の多重否定の構文が頻繁に登場します。 これをそのまま直訳的に日本語に訳すと、くどくなり過ぎたり、悪くすれば、いったい何を言いたいのか分からなくなってしまいかねません。

 こういった英語独特の構文や言い回しを単純にそのまま日本語に置き換えると、日本語の文章というには違和感のあるものになりがちですね。 それはまた、翻訳物を敬遠される方がその理由としてよく挙げられるものの一つである 「いかにも翻訳調」 という感じが前面に出てしまうところでもあるでしょう。

 前編で触れた 「新方式の翻訳」 ではありませんが、「英語の構文にとらわれず、作者の意図する所を汲みながら、自由な日本語で表現すること」 も、日本語の美しさを損なわずに翻訳するためには、場合によっては必要になるでしょう。 そう言うと逆説的に聞こえるかもしれませんが、もちろん 「(原文を無視した) 翻案の方が良い」 という意味ではありませんよ。

 翻訳の上手な方の作品は、このあたりのコントロールが絶妙で、決して原文 (の単語) を勝手に省略するということがありません。 原文の素晴らしさ、翻訳された香り高い日本語のいずれにも読書の喜びを感じますが、その翻訳の手際の良さにも思わず唸らされたり、時には溜め息が漏れるほどうっとりさせられることさえあります。 (ベストセラーを、そんな読み方している私が変態なのでしょうか……笑)


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6.日本では馴染みのないもの

 外国製の映画の翻訳 (字幕) は、その言葉を喋る登場人物が画面に映っている時間の制約が大きいことから、これは 「意訳」 の究極的な形と呼べるのではないでしょうか。
 時代と共に変化を続ける隠語やアメリカ口語体によく通じておられる映画翻訳の達人・戸田 奈津子氏による字幕を、この 「意訳」 という点から見ていると、アメリカに (一般的に) あって日本に無いものは、日本人にとって十分に共通の理解が得られそうなものに 「すり替え」 てあるのに気が付くことがあります。

 映画の場面展開はとても早いので、本のように 「訳注」 を付けるという風にはできませんから、こういったテクニックも要求されるのでしょうね。 それに、テンポの良いノリノリのジョークやギャグに、敢えて注釈を付けたところで興ざめになってしまうだけでしょう。
 話 (作品) の展開上、その言葉に重要な意味が無く、登場人物同士がしている会話上の 「合いの手」 程度のものだとしたら、分かりやすい例に 「すり替え」 てあった方が、(映画の字幕の場合は) 意味よりも感覚という点で原文に近い効果が得られるように思います。


 また、ハリウッド映画では、(会話の中に) 商品名 (固有名詞) がポンポン飛び出します。 映画館で上映される時には、これらがそのまま字幕に表示されるのですが、後に売り出されるビデオの字幕では、おかしなことに、ほとんどの場合これらが一般名称に 「すり替え」 られています。 TV放映での 「吹き替え」 であれば、その番組のスポンサーとの絡みもあるでしょうから納得もできるのですけどね。

 アメリカのベストセラー小説でも、同様に実際に存在する商品名やブランド名がしばしば登場します。 これが顕著なことで有名なものに スティーブン・キング氏の作品があります。 S.キング作品では、作品世界の現実感を高めるため、登場人物の目に見えている情景の (読者の想像の中での) 再現 (=等身大の視点) という効果を狙って、商品名やラジオなどから流れるヒット曲名が多用されています。

 商品名ということでは、前編の4章でのパターン <その6> に登場した 「Slim Jim」 もこれに当たります。
 日本では、最近でこそアメリカのベストセラーの影響を受けた 瀬名 秀明氏らが同じ技法を使い始めています。 しかし 「翻訳物」 の場合は、この点でも 「作品の舞台となる国では一般的でも、日本には無いもの」 という問題に行き当たることがあります。
 それだけでなく、国民性の違いからか、日本人にはこういった総天然色的な表現方法が、あまり好まれていないのではないかと思えることが私にはあります。


 商品名の他にも、(主としてアメリカの) ベストセラー作品を読んでいて、何人もの作家が何度となく用いていることに気が付いた、説明もなくいきなり使われている表現のパターンを幾つか掲げてみましょう。

シェイクスピアの作品や人気TVシリーズ 『STAR TREK』 (宇宙大作戦)、G.ルーカスの映画 『STAR WARS』 などの大ヒット作品に登場する人物や映画俳優が比喩に使われたり、作品の中のエピソードになぞらえた描写が使われる。
(『STAR TREK』 自体にも、シェイクスピア作品からの引用が多く見られる)
同様に、英米人なら子どもの時に必ず一度は触れている (と考えられる) お伽噺など (の登場人物) が比喩として使われる。 ( “Rumplestiltskin” など)
キリスト教をベースにした考え方や聖書からの引用や、それをもじった表現が使われることも少なくない。 時にはそれが、作品全体の底流をなしていると感じられることさえある。

 こういった表現では、その言葉の直接の意味以外のことも含めて用いられることもあり、短文による訳注を付けるのは困難なだけでなく、エンタテイメント小説の場合はハリウッド映画の例と同様、冗長な説明は、その場面の小気味よい展開を阻害しかねないものとなってしまいます。


 先の商品名の例も含めて、これらの言葉に対する説明を、その章の終わりや巻末の解説に記すことはできますが、その場面で作者が表現しようとしている感覚的なもの――特に生活に密着した日常的な感覚――まで伝えることは、なかなか難しいのではないでしょうか。
 これらのことは、読者の側でも相手国のこと (文化について) をある程度学習する以外に内容を (深く、正しく) 理解する方法は無いようにも思えます。


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7.原作に忠実な翻訳のために

 前章でお話したような、読者にもある程度の理解や知識が求められる原作側の国の文化といっても、日常的なものに関しては敢えて「予習」するまでもなく、色々な 「翻訳物」 を読み続けることで幾らかは自然に身に付いていくものだと思います。

 一方、翻訳者の側には、はるかに広範な知識と文化に対する深い造詣が要求されることは言うまでもありませんね。 例え一つの文章の置き換え作業を正確に出来たとしても、その言葉に込められた本当の意味の解釈を間違えると、それ以降の話の流れを誤って把握してしまうことになり、連鎖的に誤訳を生む大きな要因となりかねません。
 よしんばそれに続く文章の置き換え作業自体を間違えなかったとしても、翻訳された日本語から読者が受ける印象が、原作者の意図から外れたものになるおそれがあります。


 W.A.グロータース氏による 『誤訳――ほんやく文化論』 には、人が意味を込めてする身振りや仕草を言語以前の 「記号」 と捉え、同じ 「記号」 であっても国によってその解釈が異なることに注意せよ、とあります。
 同書に掲載されていた端的な例として、アメリカの大統領が 「片方の手のひらをうなじに当てながら」 記者会見している写真に対して、日本の新聞ではその時の答弁の内容に関わることが 「うまくいかないことを心配しているらしい」 というニュアンスの説明が付けられていた、というものがありました。 日本人にとっては、この解釈でも特に間違いが無いように思われますが、アメリカ人がこの仕草をするときは、実は 「万事順調と自信のほどを表す」 というのです。 これではほとんど逆の意味になってしまいますね。

 また、こういった言語以前の 「記号」 に対しては、少々日本語を捻った程度では翻訳し切れませんから、その意味を正確に読者に伝えるためには訳注が必要になると思います。

◆ ◆ ◆

 この 『誤訳――ほんやく文化論』 という本は、内容もさることながら、その成り立ち自体、とてもユニークです。 翻訳書なのに、原書が存在しないのです。
 作者はベルギー人の (カトリックの) 神父さんで、オランダ語とフランス語を母語とされています。 そして中国を経て来日され、この本は日本で十数年暮らした後に書かれています。 読む、聞く、話すことに関しては何の不自由もないほど日本語に通じておられる作者でしたが、正確さを求められるような文章を書くことまでは至らなかった、ということでした。

 そこで作者は原稿 (草稿) を英語で書き、書き上がった分から翻訳者によって逐次翻訳され、その内容に関しては翻訳者ととことん確認し合ったということです。 作者にとっては母語 → 英語 → 日本語という多重翻訳の形となる上、本のテーマがずばり 「誤訳」 ですから、内容の正確さには万全を期する必要からの対策だったそうです。

 グロータース氏は同書の中で、より良い翻訳のためには十分に時間をかけよ、と述べておられます。 また、出版社に対しては、日本語が十分に使える (そして英語とフランス語が達者な) 外国人を雇って校正に参加させることが理想的な翻訳体勢だとも述べておられました。
 つまり、グロータース氏はこの本を書くにあたり、自ら翻訳の理想的な形になるべく近づけようとされたのでしょうね。 (翻訳者の 柴田 武氏によると、訳稿を 「寝かせよ」 と著者は勧めるが、そんな時間までは取れなかった、との不満を述べておられますが……)

◆ ◆ ◆

 「原作に忠実な翻訳」 を目指すのなら、逐語で訳するよりも、原文の文意を漏らさずに伝えることが重要なのでしょう。 それには日本語を 「創作」 することが求められるはずです。 ならば、「翻訳」 と 「翻案」 を分かつ境界は、どこにあるのでしょうか――。

 それはさておき、翻訳の究極の形は、言語の壁を乗り越えて文体さえも再現することなのかもしれません。 グロータース氏が提案する理想の翻訳体勢は、現実問題として実現は困難でしょうけれど、翻訳物ファンとしては、せめて一人の原作者に対して、その文体を十分に把握しておられる特定の翻訳者による翻訳を読みたいものですね。


 現実に、同一の作家のシリーズ物や、それに近い内容の一連の作品に対しては、担当する翻訳者が固定している感はあります。 それは単に 「(良い) 組み合わせ」 というだけでなく、翻訳者と出版社の契約や実質的な関係、という要素も大きいのではないでしょうか。

 例えばP.コーンウェル氏の 『検屍官 <シリーズ> 』 に較べれば、T・クランシー氏のベストセラー 「ジャック・ライアンもの」 は、一つ一つの作品が独立してはいるものの、やはりシリーズ物と見なせます。 ところが、この 「ジャック・ライアンもの」 の日本の翻訳版は複数の出版社から出されており、担当された翻訳者は何人もおられます。

 また、同一出版社の中の同一作家の作品群の中でも、その作品の舞台や分野、原作が出版された時期 (時代) によって何人もの翻訳者が担当している場合もあります。 (例えば、ハヤカワ文庫SFに収録された A.C.クラーク氏の作品群など)

 こういった条件だけでなく、一人の原作者であっても、時間と共に作品の 「品質」 (あるいは 「格」) がどんどん上がってきて、より高い翻訳 (表現) 能力を持つ翻訳者が必要とされるようになる、といった場合もあります。


 「本流文学」 の分野では、「高名な翻訳者」 と呼ばれるような方が何人かいらっしゃいますが、そういった方でさえ、誤訳を完全に排除するのはなかなか難しいようで、翻訳論評の本では誤訳の指摘を受けていたりします。
 確かに、誤訳によって原作の魅力を減じられる場合もありますが、全体に漂う 「風格」 といったようなものは、文体の隅々にまで行き届いた、達人ならではの 「仕事」 でしょう。

 エンタテイメント作品の方でも、手練れの翻訳者によるものには、やはり 「風格」 というようなものが感じられます。 いや、この場合は 「風格」 というよりも、「原作者が乗り移っている」 という印象を受ける、といった方が正しいのかもしれません(笑)。

◆ ◆ ◆

 少し難しい話をし過ぎましたので、最後に余談を一つ。
 以下はTVでも有名な 篠沢 秀夫学習院大学教授が、とある冊子に寄せておられた コデルロス・ド・ラクロの書簡体小説 『危険な関係』 (仏・1782年) に関するコラムの中で述べられていたことです。

 フランスでは現在でも使われているという 「書簡体」 は、日本の 「候文 (そうろうぶん)」 に相当するような独特の決まった形があり、それが確立された十七世紀の昔には抽象性の高いものが良しとされていたそうです。
 このコラムで篠沢教授が 「緻密な分析と、露骨な内容の抽象的な表現が冷酷な効果を生む」 と評する 『危険な関係』 から引用されていた中に、主人公の一人である極悪プレイボーイ・ヴァルモン子爵が自らの (許されざる) 行いを手紙に記した次の文が紹介されていました。

 「館の中ですべてが静かなのを確かめてから、覆いをした手燭で武装し、時刻が伴い状況が要求する装いで、私はあなたの女生徒に最初の訪問をしたのでした」

 教授はこれをわざと直訳したとありましたが、読者の想像をかきたてて止まないこの抽象性を如実に伝えるのであれば、(この場合は) 「直訳」 されることこそ、より 「原作に忠実な翻訳」 だと言えるのではないでしょうか。


 最後まで読んで下さったみなさま、本当にありがとうございました。 m(_ _)m


〜 お わ り 〜


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 8.参考文献

事典■(知らないと危ない) インターネットと著作権 / 荒竹 純一 / 中央経済社
誤訳・悪訳・欠陥翻訳 / 別宮 貞徳 / バベル・プレス ((株)バベル)
誤訳・悪訳・珍訳・大研究 / 菊池 義明 / 日本実業出版社
誤訳――ほんやく文化論 / W.A.グロータース / 柴田 武・訳 / 五月書房
 (三省堂新書の同書の復刊版)
 
ベストセラー小説の書き方 / ディーン・R・クーンツ / 大出 健・訳 / 朝日文庫
コンプリート・ディーン・クーンツ / 風間 賢二・編 / 芳賀書店
ドラゴン・ティアーズ (上)(下) / ディーン・クーンツ / 白石 朗・訳 / 新潮文庫
 (解説・茶木 則雄)
ミスター・マーダー (上)(下) / ディーン・クーンツ / 松本 剛史・訳 / 文春文庫
 (解説・瀬名 秀明)
アイスバウンド / ディーン・クーンツ / 内田 昌之・訳 / 文春文庫
ストレンジ・ハイウェイズ <シリーズ> 奇妙な道闇へ降りゆく嵐の夜
 / ディーン・クーンツ / 田中 一江、 大久保 寛、 白石 朗 ほか・訳 / 扶桑社ミステリー
インテンシティ――緊迫 (上)(下) / ディーン・クーンツ / 天馬 龍行・訳 / アカデミー出版
…… その他、ディーン・(R)・クーンツ作品の邦訳版 (翻案物を含む) ……
 
Icebound / Dean Koontz / Ballantine (N.Y.)
Intensity / Dean Koontz / Knopf (N.Y.)
…… その他、Dean (R) Koontz作品の英語版原書 (ペーパーバック) ……



【 付記 】
Ra_Looが今回の調査のために友人の協力を得て全訳したのは 『 Intensity 』 と 『 Icebound 』 だけですが、その他の作品についても気になった箇所は個別に原書 (ペーパーバック) と翻訳・翻案図書を比較しました。
『 Icebound 』 は、ディーン・クーンツ作品の中では特異な冒険小説のジャンルにあたるもので、構文がシンプルで一文も短いこともあってか、「逐語訳」 ではないのですが限りなく一対一に近い対訳となっているようでした。 それにも関わらず、味わい豊かな素晴らしい翻訳であったことをここに記しておきます。
尚、今回の調査に協力してくれた友人は、これで味を占めたのか、その後もせめてストーリーだけでもと、難儀を覚悟で新しいディーン・クーンツ作品 (ペーパーバック) の解読を続けているようです。 その友人にとっては、気に入らない翻案を読むよりは、そこまでしてでも新作を読みたいという欲求があるのだと言うのです。
 読みたいという欲求にかけては私も負けてはいないつもりですが、口惜しいことに私にはそれだけの英語力がありません。 歯がみし、地団駄を踏みながら、その友人から粗筋だけを教えてもらっている始末です。 (T_T)

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