旅人legend ej の世界紀行・心に刻む遥かなる「時」

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クールな顔付きの「遺跡のトカゲ」と出会い 芳しい「ジャスミンの香り」に癒されて
心に刻む遥かなる「時」を想う

ジャスミンの香り/ギリシア・クレタ島
可憐なジャスミンの花から芳しい香りが漂う
ギリシア・クレタ島

1972年・横浜港の船出 横浜港から津軽海峡を通過するロシア船・「バイカル号/5,200トン」でニ泊三日、氷点下の気温、粉雪が舞う極東シベリア・ナホトカの港へ着いたのは1972年3月下旬であった。
出航した横浜大桟橋では、父親と出産したばかりの妹を除き、和装の母親や兄弟、叔父や叔母、従兄弟達や友人などが見送りに来てくれ、別れの紙テープを船上の私へ向けて投げた。家族から少し離れた場所では、将来を意識し合っていた女性が涙を拭きながら何時までも手を振っていた。ドラが鳴り、マーチが流れる中、ロシアの船が桟橋から離れるに従って、桟橋と船の甲板との間には別れや激励の言葉が飛び交い、大量の紙テープが途切れ海風に舞った・・・
現在と違って、1970年代の初めに「外国へ行く」ということは、まるで映画のシーンに似て、演出された大げさな人生の「別れのドラマ」のような雰囲気があった。そしてその言葉通り、遠く埼玉の北部から横浜港まで見送りに来てくれた叔母は、この1年後、私が帰国する前に亡くなり、その笑顔に再会することはなかった。私にとって、この横浜港からのロシア船での出発は、正に「人生の旅立」でもあった。

  ※ロシア航路バイカル号は1983年に横浜⇔ナホトカ航路から姿を消した。また横浜⇔ナホトカ間の
   定期船航路は1992年に廃止となる。
極東シベリアの港ナホトカ そうして上陸した極東シベリアの港ナホトカ、華やかな装飾など何一つないこの極東の港の寒々とした風景が、私にとり初めての「外国の風景」となった。人生最初の「外国」という記念すべき感慨などまったくなく、軽機関銃を持ったソヴィエト連邦軍兵士の厳重な警備の下、下船とその後の行動の全てを監視される緊張感、今までに経験したことのない兵士の持つ銃に何とも言えない違和感を、私は全身で感じていた。ウキウキの「外国」への期待など抱けるような明るさも、雰囲気も、意識さえもあるはずがなかった。

当時の国際関係は経済より政治と安全保障に比重が置かれ、世界は政治的イデオロギーで大きく二分され、西側のアメリア・西ヨーロッパ・日本など、東側の旧ソヴィエト連邦・東欧諸国・中国・キューバなどを主軸とした軍拡と「東西冷戦」の非常に緊迫した時代であった。
1962年、ソヴィエトがフロリダ半島の沖合いキューバに持ち込んだアメリカ本土を狙う核弾頭搭載の大型ミサイルを巡り、世界は震撼した。アメリアのケネディ大統領は「核戦争」の開始を覚悟に準戦争体制を敷き、ソヴィエトへ強硬な挑戦状を突きつけた。最終的にソヴィエトが「大きな勝負」から降りて、キューバからのミサイル撤去が行われ、かろうじて「世界全面核戦争」は回避された。
1968年にはチェコスロヴァキアでは民主革命の「プラハの春」が起り、ソヴィエト軍戦車の侵攻があり、アジア・ベトナムでは泥沼化した戦争が続いていた。さらに東側の中でソヴィエトと中国が対立を深めていた。1960年末から「東西冷戦」が幾分緩和(デタント)されたが、それは政治的な関係のみであり、世界全体から見れば、「東西冷戦」は世界へ影響を与え続けていた。
一方、日本は1960年代に起こった全国的な大学紛争や日米安保条約の更新問題を初めとする困難な課題を抱え、国自体が政治的にも、社会的にも、経済面でも安定を確保できず、国民は出口の見えない迷路に入り込み、日本の社会には統率のつかない混乱が渦巻いていた。企業のみならずあらゆる組織とその基本思考は、第二次大戦以来の古い体質を引きずったままであり、国は極東の小国、経済の三流国から脱皮しようと必死にもがき苦しんでいた。正に日本はまだ国際舞台に立つことの出来ない開発途上にあったと言える。
「外国旅行」
面倒なパスポートの取得
弱い日本円
この時代の海外旅行、と言うより「外国旅行」と呼ばれていた海外への旅行を意味する単語は、有るには有ったが、社会の中の極めて限定された場所にこっそりと存在していたに過ぎず、一般の人々や若者達が気軽に興味を抱く対象ではなく、一握りの恵まれた人だけが手を伸ばして触れることのできる特別な価値と存在の単語であったと言える。当然のことに、UNESCO世界遺産の登録などもまだ始まっていなかった(登録開始1978年)。

1970年代初め頃のパスポート取得には、外務省がツーリストの旅行費用の原資を確認する意味、そして海外でツーリストが万一アクシデントに遭遇した場合の経済的対応の「裏付け」を確保するためか、銀行預金の残高証明書の提示が義務付けられていた。要は「貧乏人は海外へ行くな!」の時代である。更に外貨準備高の少ない我が日本の財政状況からして、旅行時の外貨の持ち出しは一人最大US$1,800に制限されていた。
国の経済を総合的に把握できる統計的指標では、古い言葉で言う日本のGNP(国民総生産)、現在のGDP(国内総生産)は徐々に増加しつつあった。また1971年に起こった金融の歴史を揺り動かす金価格とドル紙幣が連動する「金ドル本位制」の崩壊、いわゆる「ニクソン・ショック」で、長い間維持されてきた「1US$=¥360」の固定為替レート体制が崩れたにしても、国の経済の強弱を端的に示すはずの対ドル為替相場では、依然として「1US$=¥320以上」を示していた。

出発前に必要な基本外貨であるUS$交換にしても、銀行の窓口でパスポートの最終ページに交換した買取US$額がスタンプで裏書される、国の完全許可制が布かれたままであった。例え運良く日本円をポケットに隠して無許可で持ち出したとしても、海外ではどの国でも通貨価値を認めてくれず、結果、日本円から現地通貨への交換はことごとく嫌われた。稀に日本円の交換が可能であっても、¥10,000札を差し出しても¥8,000相当の現地通貨が返ってくるという、悲しいことに我が国の経済力、円の弱さを至る所でまざまざと見せ付けられる苦しい経済環境であったのだ。

現在ではとても信じられないことだが、この時代、経済的に余裕のない殆ど全ての日本の国民の持っている辞書には、「海外」とか、「外国旅行」という単語はまだ印刷されていないのと同意であった。それらは自分達に関係も興味もない別次元の単語であり、一生かけても遠い国への旅行など絶対にできるはずもなく話題にものらず、夢の中でさえも出てくることのない話であったのだ。
外務省の海外渡航者の統計数値の殆どは一流企業のビジネス出張か、議員などの公的な視察で占められ、一般人の観光目的の数値は限りなく少なかった時代である。
ガイドブックの無い時代 当然のことに、海外の地を旅行するのに必要となるガイドブックさえも、海外旅行を行う人が潜在的に少ないことから、世界的に有名な一部の都市であったロンドンとか、ニューヨークとか、パリとかの説明に限定され発行されていたに過ぎない。しかもそれは実用的というより、社会や歴史の教科書のように、有名な建造物や博物館などの表面的で通り一遍の解説書と言って良い内容であった。
現在なら、誰でも知っている実用優先の「地球の歩き方」を筆頭とするあらゆる情報が満載された旅行ガイドブックなど、まだ産声を上げる遥か以前の時代であり、「格安航空券」という言葉そのものも存在していなかった。

響きの良い「ペンション」とか、「グルメレストラン」とかの横文字系の単語など想像すらできなかった時代、人々や家庭や職場での関心事は、今まで主流であった白黒テレビからより数段進歩したカラーテレビの購入(普及率25%)を検討する、あるいは猛暑の夏、うちわと扇風機にサヨナラして、冷却のみのクーラー(普及率6%/エアコンという単語はまだ存在しない)を思い切って買うか否かで迷っていた頃である。
普通の生活を送る殆どの人の周囲には、海外旅行をした経験のある人など皆無であった。第二次大戦で軍人として外地での戦争を経験した私の父のような人を除き、戦後、海外旅行を経験したのは町長と村議会の議員のみ、という田舎の町や村さえたくさんあったのだ。
手書きの200通の手紙 そんな状況の中、何としてでもヨーロッパやアフリカ、中東などの生きた情報が欲しかった私は、出発前に海外も含めた航空会社や船会社、在東京の外国大使館、旅行会社、官庁など、考えられるあらゆる機関と組織へ200通以上の問合せの手紙を書いた。現在のようにPC電源をON、キーボードとマウス操作をするだけで、誰でも世界中のリアルな詳細情報を瞬時にして探し出せるインターネット、電子メール、ファクシミリなどの高度な通信システムなど存在しなかった時代である。
当時の通信手段と言えば、¥15切手を貼って街角の赤いポストへ投函する手書きの手紙、そしてタバコ屋の店先に置いてあった赤い公衆電話と黒い固定電話だけが頼りの初期アナログ機器だけであった。

1970年代
緊張の「シベリア・ルート」
1970年代の初め頃、個人で海外へ行ける稀なチャンスに恵まれた若い人が、例えばヨーロッパへ向かう時には、料金が天文学的に高かった航空機(ヨーロッパ往復航空券/現在=¥200万相当)の利用などまったく不可能であった。
通常横浜港からロシアの船で極東シベリアへ渡って、シベリア鉄道か、アエロフロート国内便かを選び、外貨を落とす強制的な滞在が条件であったモスクワを経由して、1週間〜10日間もかけヨーロッパの目的地へ到着するのである。日本から見たヨーロッパは、距離的に遠いだけでなく、時間も渡航の手段においても本当に「遠い外国」、「外国旅行」で行く場所あった。
その上、「東西冷戦」と軍事的緊張を背景として、当時の旧ソヴィエト連邦が厳しい監視体制を強いていたことから、モスクワからヨーロッパへの移動で許されていたのは、ウィーンかヘルシンキへの二つの鉄道ルートだけであった。しかも二つの都市への国際列車は、雄大なロシアの大平原を見ることのできないモスクワ発の夜行列車であった。
モスクワ市内で一般の市民に道を聞くことさえも避けられ、軍に関係する施設は当然のこと、駅構内や鉄橋を初め、列車の車窓から走り去る普通の風景写真を撮ることさえもできない映画・『007/ロシアより愛をこめて』 に似て、監視尽くめのこの緊張のサスペンス・ルートこそが、当時料金と時間的にも最も効率的なヨーロッパへの近道であった。
若い人がヨーロッパへ行くために唯一選択できたこの緊迫のシベリア・ルートでさえ、給料の3か月分に相当する高額な料金を支払い、それでも片道チケット(現在の¥60〜¥80万相当)しか購入できない有様であった。極東の小国日本は国際社会で確実に立ち遅れていた。残念ながら「陽昇る国」の現実の経済力は、まだまだ涙が流れるくらい悲しい限り低かったのである。
「片道切符」を握り締めて 私がその頃「ヨーロッパへ行く!」と決めた時、その突拍子もなく誰も考えたこともない発想に、中国大陸に陸軍の軍人として7年間も出兵して“外国”を経験した父親は無言で否定、他の家族を初め周囲の友人達も一部を除き唖然とするばかり。
しかも社会へ出て間がなかった私には経済的に余裕などあるはずがなく、当然の事に月給の半年分に相当する高額な往復チケットの購入などできず、勢い船と列車を乗り継ぐシベリア・ルートの「ヨーロッパ行き片道チケット」、母親が黙って渡してくれた餞別、そして少しばかりの貯金をたたき交換した小額US$紙幣だけを握り締めての余裕のない出国となった。
それは帰国用のチケットを持っていないという、現在では考えられない無鉄砲そのもの、正に一世一代の大ギャンブルにも匹敵する覚悟を伴う、大げさに言えば「人生」をかけた旅行、「外国旅行」であった。それでも、どうしても先進のヨーロッパ諸国や4,000年の歴史が流れる古代文明のギリシアを「実際に自分の目で見たい」と熱望した、前方しか見えない若さだけが取り柄、20代前半の私の思い詰めたらやるしかないの強引な行動姿勢が、この普通の人には不可能とされた海外旅行を実現させたのである。
厳しい海外滞在
打ちのめされる毎日
1,300年の昔、奈良時代に制定された「大宝律令」に記述をみる歴史的な地名ながらも、今では片田舎に過ぎない埼玉の「男衾(おぶすま)」で生まれ育った私は、世間からかなり遅れていた。

  「男衾」に関連した個人的な「物語」 世界遺産/ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院

私にとっての最初の海外旅行は、1972年の春先、ロシア船バイカル号で渡った旧ソヴィエト連邦に始まりヨーロッパ全域を回り、サハラ砂漠を含む北アフリカ、陸路で中東イスラム諸国からアジア地域へと至る、世界白地図のかなりの地域を埋めることになる1年以上の長く本当に厳しい旅行となった。

実用的な旅行情報を得られない中で、寝る間も惜しみ読み漁ったヨーロッパと中東諸国についての数百冊の歴史書籍から得た内容を中心に、4年近くかけて作成した750ページから成る膨大な手書きの計画書は、出発直後からことごとく乱れ放しで軌道に乗ることはなかった。
情報もなく、世間知らずの上に「何とかなるさ」の若さで押し切ろうとした私の楽観主義は完璧に覆され現実の旅行は大雨が降りしきる泥沼で途方にくれるほどの試練の連続で、余りに辛く厳しく若かった私はあらゆる局面で徹底的に打ちのめされた。
私は1972年〜73年の旅行を通じ、今まで子供の頃から徐々につくり上げてきた日本的な思考チャンネルも価値観も、何もかも一気に大きく変えざるを得なかった。1年以上の長い旅行を続ける間に私は田舎育ちで世間知らずから、多くの人が誰も見聞したことのない広い世界を一気に知ることになった。
自分の目の前に現れる新しい対象や初めて遭遇する状況に対応するため、次から次へとシナリオを書き直す必要に迫られ、私の身体と脳細胞にはアドレナリンが大量に放出され、意識と神経は高速フル回転をしていた。
長い旅行を終えて 厳しい旅行を別の観点から眺めた時、「毎日が人生ドラマ」と言える長期に渡る海外での旅行が、金銭では買えない大いなる意義と人との関わりの重要性を与えてくれたと思う。ドイツでの病院への強制入院を初め、サハラ砂漠での軍による拘束と尋問、北アフリカで遭遇した生命の危機のシーン、インド奥地での日本人コレラ感染者の救出、カメラと多量の撮影済フィルムを含む何回も受けた盗難など、結果として辛く失ったものも多々あった。
しかし時の経過に比例して、確信が増してきたことは事前の予想を遥かに超え、たくさんの信頼できる人達との出会いを通じて、人として必要なものを学び、想定外の出来事や日本に居たなら金銭を出しても経験できない異文化へのかろうじての対応と経験を重ねることで、得られるものが数限りなく多かったという自信である。

サハラ砂漠からヨーロッパへ戻った私は、1年を越えた長い旅行の最終段階で、更に1か月半かけて陸路で独り中東イスラム世界のイランやまだ平和であったアフガニスタン、パキスタンを経由してアジアへ移動した。手持ちの現金が完全に底を打つ直前に、「幸運の女神」が背後から私へ救いの手を差しのべたのであろうか、40℃の炎天下のインド・オールドデリーを歩き回り、やっとのことで4回乗り継いで東京まで飛ぶ、現代で言う割引フライトを探し出した。
それは「カルカッタ(現在=コルタカ)発⇒東京・羽田行き」の割引の航空券であったが、当時のサラリーマンの月給の2か月半分に相当する高額なチケット、現在なら¥50万〜¥60万にも匹敵する金額の片道航空券である。例えどれほどの貧乏なツーリストのためとは言え、私の知る限り、当時「立ち乗り航空券」はロシア国内の一部の路線を除き世界中に有るはずもなく、この高額な航空券以外にインドから日本へ無事に帰る方法はなかった。

そうしてバングラデシュ・ダッカ、タイ・バンコクに立ち寄り、香港から台北を経由しながら、次々にエアーラインを乗り換えて、東京・羽田空港(当時成田空港はまだ存在しない)にようやく帰ることができたのは、1973年の4月、桜の咲く春爛漫の時期であった。
羽田空港のイミグレーションを出た時、私のポケットにはたったUS$5(¥1,500)しか残っていなかった。その上に月給の5か月分に相当する家族からの多額の借金が残るという、それは出国から帰国するまで1年以上の間、波乱続きのボロボロになっても休む暇もない、正に試練と苦悩の絶えない貧しい旅行であった。
こうして私の初めての「外国旅行」が終わった。帰国後、あまりの疲労困憊で、私は1か月以上何も手に付かなかった。何か、何処か「別な国」に入国したような夢の中で浮遊するような気分が長い間続いた。

ギリシアと地中海への旅行 1970年代初め、厳しい日本の国内経済と国際環境、そして個人的にも経済的に恵まれていたとは言えない状態でありながら、強引にスタートしたのが私の初めての「外国旅行」、海外への旅行である。特に私は今日まで人類史上飛び抜けた高度な文明を創ったとされるギリシア、そしてそれを取り囲むエーゲ海の人々の長い歴史、圧倒されるその規模と内容に強い魅力と憧れを抱き続けてきた。それが海外へ心奪われた理由の一つでもあり、自分の目でそれを確認しようと考え、「外国旅行」を実行したのである。

1972年以来、私の今までのギリシア滞在は累計で1年間以上になり、ギリシア国内に点在するクレタ島ミノア文明と本土ミケーネ文明の遺跡、そして遺構が殆ど確認できない名もない小さなサイトを含めると200か所以上の遺跡を、さらに関係する各地の考古学博物館を訪ね回ってきた。
ギリシア本土ではペロポネソス半島を中心に、エーゲ海ではクレタ島とその周辺の島々を、更に遠く東地中海の要衝キプロス島、トロイ遺跡などトルコ西海岸地方へ足を延ばし、アマチュア・レベルではあるが、3,000年以上前の古代エーゲ海文明の中身を少しでも理解したいと希望してきた。

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  クレタ島ミノア文明遺跡と考古学博物館
  ギリシア本土ミケーネ文明遺跡とアテネ国立考古学博物館
  東地中海キプロス文明遺跡
  トルコ西海岸地方のトロイ遺跡
エーゲ海の誘惑 企業勤務という立場と条件から、多くの場合、私は比較的長い休みが取得できる真夏の時期を選んでギリシアやエーゲ海沿岸の国々を訪ねた。ギリシアを初めとする真夏のエーゲ海、それは植物の生命活動を一時的に停止させる極度の乾燥と容赦なく照り付けるエーゲ海の眩しい陽光など、結構厳しい自然環境と同居する旅行の季節でもある。
そんな中、陽光の眩しさに目を細め、独り交通不便なギリシアの地方の町や村々、或いはエーゲ海の島々にひっそりと存在し、人々の記憶から忘れ去られた3,000年以上も以前に造られた輝かしき古代文明の遺構や墳墓、そして遺跡からの夥しい数量の出土品を公開する考古学博物館を訪ねて回るのはそれほど楽しい作業とは言えない。
微かな専門的な発掘情報を頼りに、乾燥とまどろみを誘う強い陽光で夏枯れした草むらの中にぽつんと露出した大理石や石灰岩の遺構を探し当て、安堵と一種の感動を覚えつつ近づく。たとえばギリシアでは、UNESCO登録の世界遺産である首都アテネ・アクロポリスの丘やペロポネソス地方のコリントス遺跡やミケーネ遺跡、デルフィの神域など、観光化され世界的に有名になった幾らかの大型遺跡を除き、残りの忘れ去られた小規模な遺跡では、考古学を専攻する研究者や学生達以外にまったく訪れる人もいないと言っても、答えが大きく外れてはいない。
遺跡のトカゲ そんな時、一般のツーリストの知らない古代エーゲ海文明の小さな遺跡では、最初に出会うのは間違いなく遺構の石柱や墓石の上で静かに佇んでいるクールな顔付きの遺跡のトカゲ達である。彼らはその遺跡を根城とする“主”の如く、大きな眼をキョロキョロさせ外来の私を冷たく一瞥した後、サッと夏枯れの草むらに一斉に身を隠す。人に害を与えることのないこの大人しい遺跡のトカゲとの出会いが、私はたいへんと好きである。

          
                  古代遺跡なら何処でも出会う「遺跡のトカゲ」
                           ギリシア・クレタ島
古代文明遺跡で過ごす 私は遺跡サイトで独り黙々と自身の目的作業をこなし、その後、先ほどまで彼ら遺跡のトカゲ達が佇んでいた遺構の石材の上を借用して座り、夏の眩しい陽光に眼を閉じ思考のタイムトンネルを一気に通過して、思いを遥か3,000年以上前の文明の時代へと浮遊させて行く。
それは古代遺跡に“生”が息づいていた時への研ぎ澄まされた自由発想と言うか、精神の陶酔された境地と言えるか、私の夢想の時間である。遺跡の場所には、かつて間違いなく命があったのであり、そこには文明の人々が会話し、大勢の家族が集まり、生きるための日常があり、食事や狩りを行ない、争いや涙も喜びもあったはずである。

無限に拡大する色々な情景を夢想の中で描き、私は独りささやかな喜びと感動に酔いしれていく。そして遺跡周辺に無数に散在する陶器断片を手に取り、かつて破断される以前、容器として確実な形が存在したはずのその陶器片を、誰かは分からないが、古代エーゲ海文明の人が何かの用途に使っていたことをイメージする。
そんな時、3,000年以上の長い時間が急速に圧縮され、今自分の手の中に存在する陶器断片をまじまじと眺め覚える時空のタイムトンネルを越えた静かな興奮が私には堪らない。そして将来数百年、或いは数千年が過ぎたある日私のような古代エーゲ海の文明にこだわった人間が、この忘れ去られた遺跡に佇み、私と同じような思索と陶酔を行なうのであろうかと・・・
その時、この遺跡にやって来た時、初めに出会ったもの言わぬ遺跡のトカゲの子孫達が、おそらく遺構の同じ石柱や墓石の上で静かに佇んでいるのであろうかと・・・ その彼ら遺跡のトカゲは、たとえ途方もない時間の経過があろうとも、相変わらず自分達が“主”の如く、かたくなに古代の遺跡を見守り続けて行くのであろうと、思ったりして・・・
地中海のジャスミンの香り クレタ島などエーゲ海の島々や西部ギリシア・ペロポネソス地方などでは、民家の垣根や建物の壁面近くに乾燥に強く白い清楚な5弁の花を付けるツル性のジャスミンを植えてあることが多い。気だるいギリシアの夏の午後、微かに吹くまどろみの地中海の風に乗って時折このジャスミンの香りが漂ってくる。
そんな時思わず足を止め、香りを出している元木を探し出し、目を閉じ思い切り深呼吸をしてしまう。販売されている濃縮加工のオーディコロンの香りではなく、芳しいというか自然のジャスミンの香りは本物のリフレッシュメントであり、忘れかけていたメンタルな和みを蘇らせてくれる。
穏やかにして心に活気を与えてくれる自然との語らい、こんな時人は心豊かで優しくなれるのかも知れない。遺跡廻りの途中の他愛のない自然とのハプニングな接触であり、多忙極まりない日本の日常生活の中では殆ど経験できないこんな貴重な時間のみならず、忘れかけていた心の繊細な襞(ひだ)への優しく働きかけができることも、古代文明遺跡の点在するギリシアの辺地や海域の島々への旅行が、私に与えてくれる大きな魅力の一つである。

世界紀行が教えてくるもの 無数にあるギリシアの考古学遺跡以外にも、私はヨーロッパを中心に共産主義時代の旧ソヴィエト連邦(現ロシア)や社会主義体制であった東欧諸国、北アフリカのサハラ砂漠、中東のイスラム諸国、アジア地域など多くの国々を訪ね歩いてきた。それらは決して多額の予算で実現できる優雅な旅行の形ではなく、事実として言えば、楽しい笑いの時間もそれ程多くない旅行であった。
正確に数えたことはないが、恐らくは累計では40か国、1,200か所を優に越える世界の多くの村や町や地域を訪ね、まだ登録されていなかった現代で言うUNESCO世界遺産の場所や地域なども、数多く訪ね、それらを遠くから或いは近くから眺めてきたのである。

私にとって、ジャスミンの香りに癒されてエーゲ海文明遺跡や考古学博物館を回る旅行は、文明の時代への夢想を伴ったある種のアクセスの手段であり、一方世界各地への旅行は印象的な町や村を広角レンズ的に眺め、有機的な街自体を含む、そこに住む人々の生活や思想、さらには遠い歴史の流れを遠方から眺め確認することであろうか。
それは海外へ出かける現代の多くの日本人の旅行が、あたかも日常生活の延長線上にあるかのように、潤沢な手持外貨を湯水の如く使って、ガイドブックに掲載された有名な場所を訪ね、ハイグレードのホテルに宿泊し、グルメレストランで地元料理と説明された豪華なディナーを取り、名の知れたショップでの買物に精を出す単純で忙しいツアー・ツーリストとは一線を画す、誇大に言ってしまえば、自身内部への静かな問いかけを含めた「人生の旅路」と言えるのかも知れない。
「外国旅行」の精神
心に刻む遥かなる「時」
今でこそ日本は世界の先進国となり、経済面では超一流の国となった。それ故にある意味では豊かさの象徴としての海外旅行は、誰でも何時でも何回でも実現できる極普通の楽しみの一つになっている。
私はかつて人生を左右する程の押さえ込めない憧憬を抱き、結果強いカルチャショックを受けた1970年代初め、日本がまだ国際経済で三流国の貧しかった頃に、事後に必ずややって来る人生の犠牲を承知の上に実行した「外国旅行」、海外への長い旅の意味と精神を、今でも決して忘れようとは思わない。
何故ならそれは私にとって海外へ向けられた視点というか世界観の基本であると同時に、私自身の紛れもない人生の軌跡でもあるから。そしてその訪れた世界各地の数知れぬ場所は時空を越えた心に刻む遥かなる「時」であり、美しい色彩とそこでの感動の全てはコツコツと確実に私に働きかけ、私の心を揺さぶってきたのである。
その幾多の経験はいつまでも輝きを失うことのない「心の宝石」として、私の脳裏に蓄積され続けてきた。その意味で「人生の旅路」である私の海外での思考と時間は、同時に、多くのことを学ばせてくれた「人生の師」であるとも言えるだろうか ・・・                    
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