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コウリオン(クリオン)遺跡・円形劇場 キプロス島南海岸地方/1997年 |
| コウリオン(クリオン)遺跡 | イギリス考古学チームを中心に発掘ミッションが行われ、今日のエピスコピ村周辺に「コウリオン/クリオン Kourion」と呼ばれる非常に広範囲な遺跡が確認されている。コウリオン(クリオン)遺跡の最も古い痕跡は、クレタ島ミノア文明のクノッソスに新たな宮殿が造営される「新宮殿時代」と同じ紀元前16世紀まで遡る。※長距離の路線バス情報は「ツーリスト情報」を参照 クレタ島ミノア文明のクノッソス宮殿遺跡 キプロス政府考古庁 http://www.mcw.gov.cy/mcw/da/da.nsf/ キプロス観光局 http://www.visitcyprus.com/ |
| 銅の産出と交易 | 紀元前11世紀頃には、東地中海の交易の中継地として繁栄を始めた。青銅器時代、キプロス島は地中海で最大級の銅の産地であったことを考えると、キプロス島南海岸という地理的な優位性もさることながら、まちがいなくこの銅の輸出供給で益を獲ていたと確信する。 キプロス島内陸部で精錬された銅は、日本の「座布団」ほどのサイズの平型インゴットとして、中東パレスチナやエジプト、さらにミノア文明のクレタ島やギリシア本土ミケーネ文明のセンターなどへも輸出されていたことが分かっている。この頃からキプロス島に複数の小規模な王国が存在したとされる。 都市国家的な存在となったコウリオン(クリオン)は、紀元前7世紀頃からさらに発展を繰り返したが、その後エジプト、さらには大きく勢力を伸ばしてきたペルシアの支配を受けることになる。その結果、破壊と放棄が繰り返され、最終的には居住地が今日のエピスコピ村の周辺へ移された。 |
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| キリスト教の普及 | 4世紀になるとローマだけでなく地中海沿岸に広まったキリスト教が伝わり、エピスコピ地区にキプロス島の最初の教会堂が建立された。また、キプロス島のキリスト教に関わる伝承では、イエスとの関係が深かった「マグダラのマリア」の弟で、イエスの友人であった聖ラザロが、エルサレムから追放された後、キプロス南海岸のラルナカで生涯を送り、当地に葬られたとも信じられている。 9世紀に入り、ラルナカの聖ラザロが埋葬されたとされる地下式墳墓の場所に、美しい鐘楼を付属し、聖画イコンで有名な聖ラザロ教会堂が建てられた。なおフランスの歴史では、埋葬されていたマルセイユから運ばれた聖ラザロの聖遺物が、ブルゴーニュ地方オータン聖ラザール大聖堂の地下納骨室クリプトに葬られたとされている。 フランス・ブルゴーニュ地方オータンの聖ラザール大聖堂 |
| ローマ時代の大型建造物 円形劇場 コウリオン遺跡の発掘 |
キプロス南部の海岸沿いのコウリオン(クリオン)遺跡は、東西に長い非常に広大な規模で展開されている。ローマ時代に属する多くのサイトでも標準的な大型施設となっている円形劇場を初め、ローマ・スタジアム、アポロン神殿、神域などが良好な状態で確認され、現在でも発掘作業が継続されている。 遺跡の最も東端にあるのが円形劇場で、劇場からほぼ直線的に北西方向へ2,5km程、標高100mの尾根状の台地が伸びている。無数と言っても良い大型遺跡は、この間に点在したり、集合的に隣接したりして連なっている。また台地に建つ円形劇場の南西から西方は、地中海の美しいビーチが広がっている。この浜辺の近くにも幾つかの小規模な古代ローマ遺跡が点在してる。 円形劇場は紀元前2世紀に建造されたが、紀元1世紀の77年の大地震で相当なる被害を蒙っている。現在見ることのできる劇場は、その後の1世紀の終わりに再建されたとされる。小高い岩の丘の斜面を削り、直径17m、半円形のオーケストラ・スペースを中心に、同じく直径62mの半円形の観客席が設けられ最大3,500人が着席できる。 観客席が目の前の地中海に向かって開いているので(トップ写真)、演じる者も、観る人々も、さぞかし気分が良かったと想像できる。特に夏の宵の公演では、乾いた清清しい地中海の微風を受けながらの最高のイベントとなったはずだ。同じ野外劇場であっても、トルコ西海岸地方エフェソス都市遺跡に残る24,000席を誇る地中海ローマ時代の最大級の円形劇場に比べることはできないが、キプロス島においては大型の円形劇場である。 トルコ西海岸地方エフェソス都市遺跡 コウリオン(クリオン)遺跡周辺には、新石器時代からローマ時代にかけての多くの遺跡が残され、訪ねた1997年には、主に歴史的にも関係が深いイギリスの考古学チームなどを中心に発掘ミッションが進行していた。 円形劇場などが集合的に残っているローマ時代の遺跡群のほかに、現在の高速道路・エピスコピ・ランプから南東700m付近の新興住宅区には、訪ねた1997年の時点では、凝灰岩の岩盤に掘られた無数の横穴墓と住宅遺構などが発掘されていた。今日では遺跡の直ぐ近くに大型ホテル・Episkopiana Hotel が建っている。 コウリオン(クリオン)地区からの出土品の多くは、円形劇場から直線で北東へ1.5kmのエピスコピ村の考古学博物館で展示公開されている。 |
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ソティーラ遺跡 |
新石器文化・ソティーラ居住地遺跡 コウリオン(クリオン)遺跡から北西の山間部へ約10km進むと民家20軒の小さなソティーラ Sotira の集落に至る。ソティーラ集落の西側には地元で「テーペス Teppes」と呼ばれる尾根が張り出したような形容の急斜面をもつ標高330mの丘がある。岩盤の露出したテーペスの丘では、紀元前3500年〜前3200年頃の新石器時代U期に属する集合的な住居地遺構が発見された。 ![]() ソティーラ遺跡テーペスの岩の丘/麓はピット墳墓が点在している キプロス島中部地方/1997年 テーペスの丘の頂上は広いスペースではないがほとんど平坦で、居住地の遺構規模は40m x 30mほど、家屋のサイズは最大でも6m幅、円形や楕円形(オーバル)、円形に近い方形などが互いに接続したり1m〜2mの距離で離れていたり、丘の頂でお互いに寄り添うように密集的に建てられていたと判断できる。各家屋の位置と間口などはランダムで、現在見ることのできる最上の家屋遺構の下には、さらに古い時代の家屋があったことも判明している。 |
| ソティーラ遺跡の出土品 | キプロス島を代表する大規模な新石器時代の遺構が残るキロキティアの居住地に比べると遥かに小さな考古学サイトだが、このソティーラ・テーペス遺跡からは、太目の直線と曲線が大胆に描かれた陶器類や石像などが出土している。 主な出土品例: いずれもニコシア・キプロス考古学博物館で展示公開 ・水入れ容器: 登録番号284/高さ390mm イチジク型のズングリ器形、細い口部/白地に「8の字」状の赤線連鎖模様 ・水入れ容器: 上記記容器と同型/高さ370mm ・水入れ容器: 登録番号305/高さ165mm/口部・頚部なし/新石器文化・後期 ほぼ円形の器形状/白地に赤色の幅のある縦線模様と「∬」状模様 ・石製像: 登録番号106/高さ165mm/大理石製・「ヴァイオリン型」の女性像 簡易的な頭部/腰と性器付近から脚部にかけて「Yの字」状の長く深い溝あり ・石製像: 石灰岩製・「座り姿勢」の女性像頭部〜脚部まで簡略的に彫刻/姿勢を正した 女性が物に座っている状態を表している/紀元前4500〜前3750年 |
| ソティーラ居住地の環境 | テーペスの岩の丘からは全方向360度の素晴らしい展望が効く。塁壁は確認されていないが、水の確保は幾分容易でなかったかも知れないが、居住が丘の頂上であったということから、外からの敵の来襲を防ぐには好条件が備わっていたはずである。 サイトの丘から東方へ約80m下った平地には、1m〜1.5m幅の10基以上の単純形式のピット墓も発掘されている。また丘の中腹部には比較的耕地に適する土壌部分があることから、新石器時代のソティーラの人々は、キロキティアやカラヴァソス・テンタ渓谷の居住地と同様に、農業を基本にして動物の捕獲、あるいはシンプルな陶器の製作などで生活していたと推測できる。 世界遺産/新石器文化のキロキティア居住地遺跡やカラヴァソス・テンタ遺跡 |
| 青銅器文化 カミノイティキア居住地遺跡 |
新石器時代のテーペス遺跡の丘の麓、北東へ約200mでは紀元前2200年頃以降、青銅器文化の初期〜中期に属する居住地遺構・「ソティーラ・カミノイティキア遺跡
Kaminoythkia」が発見されている。 カミノイティキア遺跡からは厚さ1m〜2mの壁も含む方形の大型の家屋、階段状入口がある部屋や連続部屋、通路なども見つかり、家屋に囲まれた中庭の存在も確認されている。多くの家屋では床面が粘土で表層され、ベッドを兼ねたベンチが部屋壁に備えられていた。家屋の構造面では、円形から方形に代わったが、新石器時代のテーペスの人々の建築技法と伝統を、青銅器時代のカミノイティキアの人々が継承していると考えて良いだろう。 新石器時代には丘の上での生活が行われたが、その後、青銅器文明になると、おそらく水の確保の容易性などからか、麓の平地へ降りて居住を確定したのかもしれない。 カミノイティキア遺跡からの出土品は豪華ではないが、金製のイアリングを初め、銅製の針、水入れなどの容器類、穀物を粉砕するための石材とその受け皿ブロック、そして幾らかの「ゲーム(遊び)」に使ったと推測できる石灰岩製の平板と対応する小石なども見つかっている。 銅製の針の出土は、エーゲ海青銅器時代に銅インゴットの主要産地であったキプロスの地元産の純銅を使って作られたと考えられる。また遊び用の平板には、渦巻き線的な刻みやおそらく長い間で磨り減ったのであろう「凹み」があり、当時の子供達、あるいはカミノイティキアの大人も、現代の「すごろく」や「ジャンケン遊び」のような遊びで、小石を平板に置いたり動かしたりしたのではないだろうか。 |
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エピスコピ村にて |
1997年の真夏の時期、丘に残るソティーラ・テーペス遺跡で数時間滞在した後、乾燥した真夏の昼間、眩し過ぎる地中海の陽光のもと、小村ソティーラからの帰路、移動手段のない私は、10km先の考古学博物館のあるエピスコピ村へ向かって歩いた。 道路の周りは特産のピスタッチオナッツやオリーブの畑が続き、典型的なキプロスの風景が続く。しばらくすると、偶然に通りかかった当時このソティーラ遺跡を担当していたオックスフォード大学考古学チームの教授と笑顔が素敵な大学院生の美人助手の乗るジープに拾われ、エピスコピ村の考古学博物館まで送ってもらった。 いかにもイギリス的で人あたりの良い教授は、私を遠い日本から来た考古学の「偉い研究者」として博物館の担当教授に紹介してしまった。当時、私はエーゲ海文明に興味をもつ企業勤務の普通のサラリーマンで、私のもつ考古学知識はアマチュア・レベルであったにもかかわらず、「日本からソティーラ遺跡へ来る必要があるなら、間違いなく研究者であろう・・・」という教授の飛躍し過ぎた「思い込み理由」で・・・ しかし、その教授の誇大な紹介のお陰で、博物館の関係者や発掘にたずさわる大勢のスタッフ達の歓迎を受け、わずかだが考古学博物館の入場料は不要、しかも一般のツーリストに公開していない貴重な出土品を手に取ることもでき、専門的な解説は当然のこと、この地区での詳細な発掘情報までも得ることになった。 どうも地中海諸国では、古代遺跡の国キプロスのみならず、ギリシアにおいても考古学に興味ある人はすべて「偉い研究者」となってしまうようだ。かつて訪れたギリシアのペロポネソス地方ピーロス地区での長期滞在でも、ホテルや地元のタベルナ食堂やレストランでは、日本から来た考古学の“先生”となってしまった。企業勤務の身分でありながら、エーゲ海考古学に興味があるだけなのに・・・ ギリシア・ペロポネソス半島ピーロス地区のネストル宮殿遺跡とミケーネ文明遺跡 公共バスは大きな町と町を結ぶ路線しかなく、古代遺跡のある多くの村へは時間の予測と計画ができない不規則運行の乗合タクシーしか選択の術のない交通アクセスなど、この当時、キプロス島の考古学遺跡に関しては、個人ツーリストにとり容易に旅して回れる条件が備わっていなかった。 しかし。一方でキプロス島で過ごした夏の時間は、私にとり別な色々な意味、特に人との偶然の出会いや受けた親切など、次々に起こるハプニングに満ちた有意義な時間でもあった。それは5年、10年と長い時間の経過があってもまったく色褪せることはなく、歴史としての心に刻む遥かなる「時」と同様に、私の脳裏に刻むキプロス島での忘れ難い貴重な経験となった。 |
| 夏の宵/快適な時間 地中海の素晴らしさ |
日本を初めアジアで生活している人にとっての夏の宵、さらに夜間はただ限りなく蒸し暑く、ほとんどの人が嫌う季節である。地中海を知らないアジアの人達には理解も想像さえもできないことだが、古代文明を育んだ地中海の夏の季節、特に宵の頃の快適さは何とも表現できない素晴らしい時間である。 ツーリストが滞在するキプロス島のみならず、ギリシア・エーゲ海に点在する無数の島々、さらにイタリアやスペインの地中海の沿岸地方の夏の宵では、汗を知らない乾燥した清清しい微風があり、夜露などまったくない。故に日本のようにコットンの下着など着る人は誰もいない。夏の夕方から夜間の服装は薄手の長袖シャツか、女性ならサマー・カーデガンが丁度良い。 地中海では昼間の暑さは、夕方になれば海からの微風が完璧に消し去ってくれる。昼間の暑さは一体何であったのか思うほど、夕方から夜間の外気は一転してしまうのだ。夏の快適さにおいて、これこそが地中海が何処よりも勝る所以である。 |
| キプロス島の交通アクセス | 鉄道のないキプロス島では路線バス(下記情報)が発達している。ただ、場所によってはレンタカー(日本と同じ右ハンドル 左側通行)、普通のタクシーか、乗合いタクシーを活用することを推奨したい。経験論では、ドライバーは親切丁寧で非常に信頼できる。 また、ラルナカ空港からは主要都市行きのシャトルバスが運行されている。1時間30分〜2時間毎の発車だが、深夜0時〜2時過ぎを含め、ほぼ24時間運行している。 キプロス島の主な都市からの「長距離バス路線」/バス会社/始発〜終発/便数 ※2010年時点 バス便数は平日の平均便数、週末・休日は減便あり/バス会社により発車場所が異なるので注意! また主要都市では市内と郊外の村々を結ぶ「近郊路線バス」があるので、気楽に利用できる。バス料金は日本より遥かに安い。バス発車時間・便数は随時変更されるので現地での確認が必要。 ラルナカ空港発 ・ニコシア行き Kapnos Bus/ほぼ24時間/18便 ・リマソール行き EAL Bus/ほぼ24時間/15便 ・パフォス行き Alepa Bus/朝〜深夜/11便 ・ラルナカ市内行き PEAL Bus/朝〜夕/バス22番 24番/8便 ラルナカ発 ・ニコシア行き Inter City Bus/朝〜夕/7便 ・リマソール行き Inter City Bus/朝〜夕/4便 ・アギア・ナパ Agia Napa 行き(最東部) Eman Bus/朝〜夕/7便 ・パラリムニ Paralimni 行き(最東部) PEAL Bus/朝〜夕/4便 ・レフカラ村Lefkara 行き(レース編み村) PEAL Bus/朝〜夕/3便 ・キティ Kiti 地区行き(聖アンゲロクティステイ教会) PEAL Bus/朝〜夕/7便 ・ラルナカ空港行き PEAL Bus/朝〜夕/バス22番 24番/8便 ニコシア発 ・ラルナカ空港行き Kapnos Bus/ほぼ24時間/15便 ・ラルナカ行き Inter City Bus/朝〜夕/7便 ・リマソール行き LLL Bus/朝〜夕/9便 ・パフォス行き LLL Bus/朝〜夕/1便〜2便 ・トロードス・カコペトリア Kakopetria 行き Clarios Bus/朝〜夕/11便/世界遺産・修道院 リマソール発 ・ラルナカ空港行き EAL Bus/ほぼ24時間/15便 ・ニコシア行き LLL Bus/早朝〜夕/9便 ・ラルナカ行き Inter City Bus/朝〜夕/4便 ・パフォス行き Alepa Bus/朝〜深夜/11便 パフォス発 ・ラルナカ空港・ラルナカ・リマソール行き 上記バス会社運行/時間と便数は同じ内容 ・ニコシア行き LLL Bus/朝〜夕/1便〜2便 ・コーラル海岸 Coral Beach 行き Alepa Bus/朝〜夕/頻繁(15分〜20分毎) ・ポリース Polis 行き(最西部) Amoroza Bus/朝〜夕/9便 ・アギオス・ゲオギオス Agios Geogios 教会行き(最西部) Alepa Bus/朝〜夕/8便 |
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パフォス遺跡・「モザイク画」 キプロス島南海岸地方/1997年 ![]() |
| 世界遺産 ローマ時代のモザイクの館 |
地中海に面する丘にあるパフォス Paphos の遺跡は、コウリオン都市遺跡と同様に、広大な面積に展開され、古代ローマ円形劇場・闘技場・初期ビザンティン城塞・ラテン教会などが残されている。「モザイクの館」の床面には、破壊を免れた色鮮やかなローマ時代の見事なモザイク画が数多く残されている。 日本ユネスコ協会連盟・「世界遺産を守る」/世界遺産リスト http://www.unesco.or.jp/ |
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1997年・夏 |
民族的には「ヨーロッパ」とされているが、地理的には中東シリアまでたった120kmの近距離である東地中海キプロスは、現在、南北を分断する緩衝地帯・「グリーンライン」が設定されている。 キプロスは1974年のクーデターにより、南北に分割され、南側にギリシア系、北側にはトルコ系の人々が別々の政治体制で生活するという状況である。面積的にはギリシア系が全体の2/3、そしてトルコ系が1/3を占有している。 グリーンラインの周辺では、かつて時折双方の銃撃戦があったと言うが、現在では安定している。たまたま乗車した中年タクシー・ドライバーは、内緒で農道を抜けて北側のトルコ側へ「1日観光で行くよ・・・」と誘うほど、住民レベルでは外から見るより南北分断の緊迫感は高くない、と感じた。 市街地から離れると、国連軍の国境監視所のない農道などを使って、南側のギリシア系占有地より物価の安い北側のトルコ系の街へ買物に行く人が結構いると言う。通常(1997年)、南側のギリシア系の住民のみならず、たとえツーリストであっても、グリーンラインを越えて北側のトルコ系占有地へ直接行くことはできない決まりになっていた。 このような場合、正式には先ずキプロス島から遠く離れた首都アテネやドデカネス諸島ロードス島などギリシア本国の領土へ一旦移動して、さらにトルコ本土のイズミールなどへ渡り、トルコの航空機や定期ルートの船舶でキプロスの北側のトルコ系占有地へ入国するという、非常に手間と時間のかかる手段を取らねばならない。 中年ドライバーはこのやっかいな正式ルートではなく、農道を走行してたった1kmの間隔でしかないグリーンラインを越境して、トルコ系の占有地へ「簡単に行ける」するという誘いをかけて来たのである。確かに、キプロス島からギリシア本土とトルコ本国を経由する最低でも2日以上を費やすルートより、たった10分で通過できる「グリーンライン越え」の方が、遥かに即効的である。ただ、これは明らかに入国管理に触れる危険アクションである。 |
| 国連軍の尋問 | 実はキプロス島の東部地区では、南側のギリシア系占有地に幾らかのトルコ系の人々が生活している。1997年、ラルナカから北東15km、東部の村ピーラ
Pyla を訪ねた時、ある家族から「家でコーヒーを・・・」と誘われ、家庭を訪ねて初めてこの穏やかな家族がトルコ系であることを知った。このような状況からしても、早朝とか夕暮れ時とか、かなりの住民が「グリーンライン」を越境して、買物や親戚への訪問などを行っているのは想像に難くない。 首都ニコシアのギリシア側のグリーンラインの軍事監視所では、北の敵対するトルコ側を眺められる「見学用ステージ」もあり、結構、市民やツーリストが入れ替わりステージに立ち、100mほどの緩衝地帯を隔てた北側を眺めていた。監視の若い軍兵士達もなかなかの笑顔という感じで、最前線の緊迫感を覚えることはない。 ※2003年以降、この監視所は自由越境のパスポート・コントロールとなり、住民・ツーリストは徒歩に て越境できるようになった(下述の越境情報 参照)。 東部キプロス地方でも特定の区域では、グリーンラインに国連軍の標識(下写真)が立ち、緩衝地帯への立ち入りを警戒している。 東部地区の小村ピーラ Pyla の外れに非常に精巧に造られたローマ時代の地下墳墓があり、1997年の夏、この墳墓を訪ねようと村人から聞き出したピンポイント位置へ歩いて向かった。目当ての墳墓はなだらかな斜面の農耕地の地下深くにあり、しかもグリーンラインから100mほどの近距離である。 場所が場所だけに、さらに悪いことに「地下に降りる」という状況では、どう見ても映画に良くあるトンネルを使った「密出国」のシーンが現実化しそうな警戒区域で、神経質かも知れないが「もしや・・・」という不安がちらりとよぎった。 結局、予想通り、30分以上滞在した地下墳墓から地上へ出てきた時、丘から24時間監視を続けている国連軍(イギリス軍)の迷彩色ジープが接近して来た。パスポート提示と考古学遺跡のチェックのためとする個人的な事情を説明して、「日の丸・日本」の身分証明を行った。拘留こそなかったが、自動小銃を携えた担当兵士2名からグリーンラインの説明と立入禁止の警告を受ける羽目になった。 軍事境界線からたった100mの場所の地下へ消えて、30分以上も出てこないとなると、高性能の望遠鏡を覗いていたはずの軍の監視所からすれば、警戒兵士の役目としてジープで確認にやって来て当然と言えば当然のことなのだが・・・ ![]() 南北境界線・「グリーンライン」の国連軍の標識 東部キプロス地方ギリシア系占有地/1997年 その後、この場からさらに東方へ抜けようとオフロードを歩いて行くと、耕作地が途切れ、今度は何故か金網のないキプロス軍の射撃訓練場の中を通過しないと幹線道路(ラルナカ=ファマグスタ)へ出ることができず、「スパイ映画」のようにさらに緊張感が増してきた。 厳密に言えば、ピーラ村自体が幅3kmの軍事緩衝区域の中に存在しているので、国連軍(イギリス軍)の駐屯地が複数点在して、キプロス島で最も複雑な境界線が設定され、最も緊張している地区であるので、軍との共存は当たり前のことだが・・・ この尋問を受けた時、かつて1970年代の初め、アルジェリアのサハラ砂漠を歩いている時、自動小銃を構えたアルジェリア軍の警戒MPジープに拘束され、「スパイ容疑」で半日の間、サハラの軍事基地で拘束された苦い経験が鮮明に蘇ってきた。 何れの場所でも、こちらは「誠実」に行動しているにも関らず、軍兵士からすれば、ツーリストとて常に「疑い」の対象でしかないようである。まあ、平然とワイロを求めたイエメンの若い検問兵士より、キプロス駐屯の国連軍・イギリス兵士の方が遥かに紳士的な対応であったが・・・ 1973年/アルジェリア・サハラ砂漠への厳しい旅 1998年/山岳と砂漠のアラビア半島イエメンへの旅 2003年以降の軍事境界線(グリーンライン) |
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