旅人 legend ej の世界紀行・心に刻む遥かなる「時」

ホームページ    前ページへ戻る

ギリシア本土ミケーネ文明の主な陶器様式の変遷と特徴 Mycenaean Pottery


ミケーネ文明の始まり/ミノア陶器の模倣

初期ミケーネ文明/ミノア陶器の模倣
  紀元前1600年頃から「ミケーネ文明」、「ミケーネ時代」と呼ばれる後期ヘラディックLH期が始まる。ミケーネ陶器は文明の初期においては、基本的にそれ以前から大きな影響を受けていた先行のエーゲ海クレタ島のミノア陶器のコピーデザインがほとんどであった。
ミノア陶器で最も長い間クレタの人々に好まれたのは、エーゲ海文明の陶器を代表する「カマレス様式陶器 Kamares Style」であろう(下写真)。
カマレス様式陶器は紀元前18世紀〜前16世紀に製作され、花や海洋性生物など自然界のモチーフと幾何学文様の取り合わせがその絵柄の中心であった。長期間生産が行われたカマレス様式陶器はクレタ島ミノア文明の傑作陶器と言える。

ミノア文明の政治・経済・行政・文化のセンターであったクレタ島クノッソス宮殿とミノア文明の陶器情報の詳細:
クレタ島ミノア文明のクノッソス宮殿遺跡と出土品
クレタ島ミノア文明の主な陶器様式の変遷と特徴

ミノア文明・カマレス様式陶器/(C)legend ej         ミノア文明・カマレス様式陶器/(C)legend ej
カマレス様式陶器/イラクリオン考古学博物館            フェストス(ファイストス)宮殿/カマレス様式クラテール型容器
上段右の深ボウル/登録番号10091/高さ=161mm     イラクリオン考古学博物館/登録番号10578/高さ455mm
下段右の水入れ/登録番号10073/高さ=267mm      クレタ島/1982年

ミノア文明の崩壊/ミケーネ陶器の変化〜発展/ミケーネ文明の崩壊

ミケーネ陶器の変遷/ミケーネ文明の終焉
  クレタ島ミノア文明が最も繁栄した文明の中期から最終期にあたるクノッソスの「旧宮殿」と「新宮殿」の存在と統治と文化をして、研究者は「宮殿時代」と呼んでいる。おおよそ500年間続いたこの宮殿時代こそが、紀元前3000年頃から始まり現在に至るクレタ島5,000年の歴史の中で、最も繁栄して輝いた時代であった。

  ミノア文明・宮殿時代

            クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡/(C)legend ej
                  クレタ島・ミノア文明・4か所の宮殿遺跡/作図=Web管理者legend ej

その後、紀元前1450年頃、好戦的なミケーネ人の攻撃でクレタ島の主要なミノア宮殿(上作図)と邸宅などが破壊されることで、クレタ島からの陶器の輸入や技術とデザインのコピーが不可能となり、ギリシア本土では徐々にミケーネ文明独自の新しい陶器の開発と生産が行われるようになる。

ミケーネ宮殿など大型の宮殿(下作図)が造営され、ミケーネ文明が全盛となる紀元前1500年頃〜前1300年頃には、大量生産された色々な器形と装飾デザインのミケーネ陶器が文明センターであったアルゴス地方やアッテカ地方だけでなく、ギリシア中部地方やエーゲ海全域、遠く中東パレスチナ方面にまで拡散して行った。
紀元前1200年頃に起こるミケーネ文明の宮殿崩壊の後、文明の最終期には、バルカン半島の特徴を色濃く示す手作りで研磨・焼成された陶器の出現で、北方からの「異民族ドーリア人」のギリシア侵入を臭わせる陶器文化の大きな変化が起こる。これをもってミノア陶器の伝統を継承しつつ、独自な陶器様式を確立した繁栄のミケーネ文明は消滅して行く。

            ペロポネソス地方・ミケーネ文明・宮殿遺跡/(C)legend ej
                 ペロポネソス地方・ミケーネ文明・宮殿遺跡/作図=Web管理者legend ej

            アルゴス地方・ミケーネ文明遺跡 地図/(C)legend ej
                 ペロポネソス・アルゴス地方・ミケーネ文明遺跡/作図=Web管理者legend ej

ミケーネ文明以前&ミケーネ文明の初期/紀元前2000年〜紀元前1600年

ミケーネ文明の陶器の変遷を詳細に見て行くなら、先ずミケーネ文明以前の陶器から確認する必要があるだろう。

ミケーネ文明以前の陶器=つや消し彩色ピトス容器/ミニュアス陶器/ヴァフィオ型カップ
  この時代の陶器様式に関して言えば、それ以前から焼かれていたグレーや土色で無光沢のつや消し彩色陶器 Matt-Painted Design が引き続き生産された。
タイルの邸宅」のレルナ遺跡出土のつや消し彩色の大型ピトス容器(左下写真)では、口縁部が薄く「漏斗(じょうご)」と同じ機能を果たす「V字」の羽根のように広く、重心の低い腹部に「突起」を備えているのが特徴的である。
この容器の装飾では鈍いマンガン・ブラック色のシンプルな幾何学的な線紋様が主に採用された。穀物の貯蔵に重宝な陶器として中期ヘラディックMH期、紀元前2000年〜前1600年頃、レルナ遺跡などアルゴス地方〜ギリシア中部地方へ至る広い範囲で流行した陶器の一つである。
なお、レルナ居住地では「タイルの邸宅」の壁を強固にするためのコア材として、さらに屋根用としても、近郊で産出した良質粘土を利用して、数万枚単位のタイル板(右下写真)が焼成されている。

世界遺産/ミケーネ文明のティリンス宮殿遺跡/新石器文化のレルナ居住地遺跡

アルゴス考古学博物館/ミケーネ文明・つや消し彩色陶器/(C)legend ej         レルナ遺跡・焼成タイル/(C)legend ej
              レルナ遺跡出土・「タイルの邸宅」用の焼成タイル
               ペロポネソス・アルゴス考古学博物館/1982年

 レルナ遺跡出土・つや消し彩色ピトス容器
 アルゴス考古学博物館/高さ630mm

この時代の陶器の器形では、小さなハンドルが付いたゴブレット杯から大型クラテール型容器 Krater などが多く作られた。
そのほかでは、赤色や白系色で模様を描いた光沢のあるずんぐり型水入れ、あるいは光沢があるモノクローム系のいわゆる「ミニュアス陶器(ミニィヤン Minyan Style)」なども好まれた。
その後時間の経過の中で、さらに広い口縁のアンフォラ型に似たネック部が短く「西洋ナシ」を逆さにしたような器形の容器、それを上から押し縮めたような「鏡餅」に似た扁平のアラバストロン型容器、横から見た時腹部が丸い球形カップ、注ぎ口付き球形水入れ、有名な同名の美しい金製カップ(下写真)から連想されたヴァフィオ型カップなども生産された。何れもクレタ島ミノア文明からの影響を強く受けた陶器の器形がほとんどである。

金製ヴァフィオ型カップ Gold Cup of Vaphio/(C)legend ej
               スパルタ近郊ヴァフィオ遺跡出土/金製・「ヴァフィオ型カップ」 Gold Cup of Vaphio
                アテネ国立考古学博物館/登録番号1758/ペロポネソス・ラコニア地方/1982年
               ラコニア地方スパルタ近郊/ヴァフィオ村のトロス式墳墓遺跡

【Amazonデバイス】 Kindle・Fire・FireTV Amazon通常配送・コンビニ受取⇒全国・送料無料
辞書機能・メモリー容量千冊分・目に優しい読書専用端末 Kindle\8,980〜Kindle Oasis\35,980
低価格&美的ディスプレイ・高速プロセッサ搭載・高コスパ・タブレット Fire\8,980〜FireHD-10\29,980
映画・音楽・ゲーム・写真/YourTube・dTV・Hulu・Amazonビデオ対応 FireTV-Stick\4,980〜FireTV\11,980

中期ヘラディック期〜後期ヘラディック期・ミケーネ文明T期/紀元前1600年頃〜

ミケーネ宮殿・円形墳墓/金属容器の発達
  ギリシア本土で繁栄が始まる後期ヘラディック期/ミケーネ文明T期にあたる紀元前16世紀、その前半期にはミケーネ宮殿の外側に周囲を石板サークルで取り囲んだ「円形墳墓B」という集合墓地の埋葬が行われた。
さらにミケーネ宮殿の内部(埋葬時はまだ城外)で岩盤を深く掘り下げ、やはり周囲を石板サークルで取り囲んだ「円形墳墓A」が造られる(左下作図)。いずれの円形墳墓も王族クラスの高貴な人々を埋葬した独特な墳墓形式であった。
発見と発掘の順番で「円形墳墓A」・「円形墳墓B」の名称となったが、墳墓が造られた時期は、「円形墳墓B」の方が「円形墳墓A」よりおおよそ100年〜50年程度早い埋葬墳墓である。埋葬時期が若干前後するこの二つの特徴的な円形墳墓からは、金製のマスクや見事な装飾品(右下描画/左下描画)、装飾短剣や水晶製品(左下写真)、そして時代判定に欠かせない多くのミケーネ様式陶器がもたらされた。

円形墳墓A&Bの特徴と出土品(アテネ国立考古学博物館&世界遺産ミケーネ宮殿遺跡)の情報:
                               ミケーネ・ページ

ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A/(C)legend ej      アテネ国立考古学博物館/ミケーネ宮殿遺跡・銀製ゴブレット/(C)legend ej
    ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A出土・銀製ゴブレット
    アテネ国立考古学博物館/登録番号390/高さ155mm
    アルゴス地方/1982年/描画=Web管理者legend ej
 
 ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A/平面プラン
 「T〜Y」=竪穴墓番号/アルゴス地方/1982年
 作図=Web管理者legend ej

  アテネ国立考古学博物館・ミケーネ宮殿遺跡・金製イヤリング&銀製ヘアピン/(C)legend ej
         ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・第V竪穴墓出土・金製イヤリング         金製ペンダント付き銀製ヘアピン
         アテネ国立考古学博物館/登録番号61/イヤリング内径76mm         登録番号75/1982年
         アルゴス地方/1982年                                   描画=Web管理者legend ej

ミケーネ文明・装飾長剣&水晶製アヒル容器/(C)legend ej


 ミケーネ遺跡・円形墳墓B出土・青銅製の装飾長剣・
 「タイプA剣」/アテネ国立考古学博物館
 登録番号8710/長さ945mm/1987年








 ミケーネ遺跡・円形墳墓B出土・アヒル型の水晶製容
 器/紀元前1550年/アテネ国立考古学博物館
 登録番号8638/長さ132mm/1982年

ミノア文明からの影響/メッセニア地方/トロス式墳墓の始まり
  ペロポネソス・メッセニア地方では、円形墳墓の埋葬習慣より少し以前から、クレタ島ミノア文明で紀元前1800年〜前1550年頃に遡る「地上式」のメッサラ様式の円形墳墓(下カラー写真)から影響を受け、発展したと推測できる「トロス式墳墓」の埋葬も開始されていた。
ミケーネ文明では、このトロス式墳墓での埋葬は紀元前12世紀頃まで、特に王族クラスの埋葬に長く継承されるが、その初期の形式はネストル宮殿遺跡の墳墓(下モノクローム写真)のように「半地下式」であった。

ミケーネ文明・「トロス式墳墓」&「横穴墓」について

            ミノア文明・カミラーリ遺跡・円形墳墓/(C)legend ej
              カミラーリ遺跡・「地上式」のメッサラ様式の円形墳墓/クレタ島/1994年
              クレタ島ミノア文明のメッサラ円形墳墓のコウマサ遺跡/プラタノス遺跡/カミラーリ遺跡

            ミケーネ文明・ネストル宮殿遺跡・トロス式墳墓/(C)legend ej
              ネストル宮殿遺跡/「半地下式」のトロス式墳墓・W号墓/メッセニア地方/1982年
              メッセニア地方ミケーネ文明のネストル宮殿遺跡/ピーロス地区の遺跡群

ミケーネ文明UA期/紀元前1500年頃〜/ミケーネ陶器の発展スタート

横穴墓(横穴式墳墓)/ミケーネ陶器の発展時期
  ミケーネ文明UA期の紀元前1500年代に入ると、特にミケーネ地区などでは宝飾品や多くの陶器を副葬する埋葬習慣は、独特な形容の円形墳墓から、石材を積み上げて堅固に施工するトロス式墳墓へ取って代わり、王族など高貴なレベルで標準化された。
一方で中級と庶民クラスの人々を葬る斜面に横穴を掘った「横穴墓・横穴式墳墓」での埋葬がスタートする。この横穴墓での埋葬習慣は、ミケーネ文明では紀元前12世紀の初め頃まで長く継承されてゆく。

               ミケーネ文明・横穴墓/C)legend ej
                  ミケーネ文明・横穴墓の例/1987年/作図=Web管理者legend ej
                  ペロポネソス地方パトラス近郊クリーニ村/紀元前1200年頃
                  ミケーネ文明・「トロス式墳墓」&「横穴墓」について

この頃、ミケーネ陶器は大きな変革の時期を迎える。基本的にはクレタ島ミノア陶器のコピーデザインであるが、ミケーネ宮殿・円形墳墓Aから出土した銀製のアンフォラ型容器(水差し/左下描画)やキリックス型カップ(右下写真)の例を見るように、金属容器の発展との相乗効果も働き、徐々にだがミケーネ美術を主張するような独自な陶器が製作されるようになって来た。

        ミケーネ宮殿遺跡・銀製アンフォラ型容器/(C)legend ej               ミケーネ宮殿遺跡・金製キリックス型カップ/(C)legend ej
ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓出土・銀製アンフォラ型容器      ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓出土・金製キリックス型カップ
アテネ国立考古学博物館/登録番号855/高さ345mm    アテネ国立考古学博物館/登録番号656/高さ108mm
アルゴス地方/1987年/描画=Web管理者legend ej    アルゴス地方/1987年

ベルバチ・「陶工作業所」/アンフォラ型容器の流行
  この時代、ミケーネ陶器に関しては、文明センターであったアルゴス地方では、ミケーネ宮殿から山を越え東方8kmのプロシムナ・ベルバチ居住地遺跡 Prosymna-Berbati で発見された「陶工作業所」の存在と役目を無視することはできない。この焼き窯はミケーネ文明の全期を通じて、長い間陶器の流行を発信するギリシア本土で最大級の陶器生産拠点の一つであった。

世界遺産/ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」/プロシムナ・ベルバチ居住地遺跡

ベルバチ居住地遺跡では、1930年代にスウェーデン考古学チームが発掘ミッションを行い、丘の麓から紀元前1500年〜前1200年頃まで使われた焼き窯を含む陶工作業所の遺構を発見している。中庭と5室以上の部屋と連結した窯を備えた陶工作業所からは、大暴れ状態のタコを大胆に描いたアンフォラ型の大型容器(アテネ国立考古学博物館・登録番号6725・左下モノクローム写真)が発見された。
この種の器形で同じタコの絵柄モチーフのアンフォラ型容器はプロシムナ・ベルバチ遺跡以外にも、メッセニア地方ネストル宮殿近くのミルシノコリオン遺跡のトロス式墳墓(ホーラ考古学博物館・下中モノクローム写真)、ミケーネ遺跡の横穴墓(ナフプリオン考古学博物館・右下モノクローム写真)などからも見つかっている。これらのアンフォラ型容器は、いずれも「西洋ナシ」を逆さまにしたような、非常にバランスの取れた形容である。

  ミケーネ文明・アンフォラ型容器 Mycenaean Pottery, Amphora Style/(C)legend ej   ミケーネ文明・アンフォラ型容器 Mycenaean Pottery, Amphora Style/(C)legend ej   ミケーネ文明・アンフォラ型容器 Mycenaean Pottery, Amphora Style/(C)legend ej
ベルバチ遺跡出土・アンフォラ型容器     ミルシノコリオン遺跡出土・アンフォラ型容器   ミケーネ遺跡出土・アンフォラ型容器
ミケーネ文明・「タコの絵柄]/高さ約550mm   ミケーネ文明・「タコの絵柄」        ミケーネ文明・「タコの絵柄」
アテネ国立考古学博物館/登録番号6725    ホーラ考古学博物館         ナフプリオン(ナフリオン)考古学博物館
アルゴス地方/1982年                 メッセニア地方/1982年       アルゴス地方/1982年

ギリシア本土で出土したこれらのモノクローム写真3点を比較すると、タコの絵柄表現がほとんど同様なことから、これらのアンフォラ型容器は、ここプロシムナ・ベルバチ居住地の陶工作業所で大量に焼かれていた可能性が濃厚である。
この3点に代表される大型のアンフォラ型容器は、タコやイルカ、海草などを生き生きと描く「海洋性デザイン様式陶器 Marine Design Style」で先行していたミノア文明のクレタ島から、メッセニアとラコニア地方を経由して、ミケーネ宮殿などアルゴス地方へ伝播された宮殿様式陶器から派生したものである。
故にほとんど同じ器形であるが、紀元前1600年前後に属するクレタ島ザクロス宮殿出土のアンフォラ型容器(イラクリオン考古学博物館・登録番号13985/下写真)と比較する時、ベルバチ居住地で焼かれたアンフォラ型容器は、ベルバチの陶工達によるミノア陶器からの「パクリ・デザイン」とも言える。

ミノア文明・海洋性デザイン様式陶器/(C)legend ej 肩部の優美なカーブが特徴のクレタ島ザクロス宮殿から出土した海洋性
 デザイン様式
のアンフォラ型容器では、タコは足を絡ませながら陽気な顔
 付きで大胆に泳ぎ、全面に隙間を置かず、岩や揺らぐ海草の間にはホラガ
 イや巻貝が配置されている。
 この容器には如何にも海洋民族ミノア人が好む自然体の癒しの雰囲気が
 満載されている。
 しかし、若干肩部のカーブの曲線が劣るベルバチ居住地のアンフォラ型容
 器では、タコの足は絡まずに平面的に炎のように長く伸び、海草なども抽
 象的な表現であり、技法的にザクロス容器よりかなり劣る感じを否定でき
 ない。ベルバチ生産の容器はいずれも埋葬用として作られた陶器であるの
 で、幾分寂しい感じに作られたかもしれないが・・・



 ザクロス宮殿遺跡出土/ミノア文明・海洋性デザイン・アンフォラ型容器
 紀元前1600年頃/イラクリオン考古学博物館/登録番号13985
 クレタ島/1994年




長期間ミケーネ陶器を生産したプロシムナ・ベルバチ居住地の近くから、当然良質な陶土の大量産出があったはずだが、1982年このベルバチ遺跡を訪ねた私は時間をかけて探したが、結局、その粘土採掘場と思しきピンポイント位置を突き止められなかった。

クレタ島ミノア文明の陶器様式の変遷と特徴
クレタ島ミノア文明のザクロス宮殿遺跡とアノ・ザクロス邸宅遺跡

ミノア陶器アンフォラ容器/ミケーネ陶器アンフォラ容器
  アンフォラ型容器の一般的な外観から言えば、ハンドルの取付け向きを除き、ミノア容器とミケーネ容器の各々の器形自体は近似しているように見える。しかし、両者には装飾面で大きな二つの違いがあり、先ずベルバチ居住地で生産されたアンフォラ型容器では、(上モノクローム写真群では判別し難いが)ハンドルから真下へ向かってバンド状の色付け縦スペースがあり、腹部全体をハンドルの数と同じ数の区域に分け、その縦バンドで区分された表と裏面のスペースにタコなどの絵柄を表現している。

また、私が見た中の珍しい例では、メッセニア・ホーラ考古学博物館に展示されているネストル宮殿出土のアンフォラ型容器では、ハンドル下方の縦バンドを境界線として、腹部の表面には半円形の大きな波状線紋様が、裏面には細かな魚のうろこ紋様が表現されていた。器形自体は「逆さ西洋ナシ型」の良品なのに、表面担当と裏面担当の絵師二人が、(想像だが)「何でも良いからとにかく好きな紋様を描こうぜ!」という感じで不熱心に仕上げたような、「何か変な絵柄」のアンバランスなデザインであった。

二番目の異なりは、ベルバチ居住地のアンフォラ型容器では、全体の下1/3程度を複数の単純な色彩太線で装飾して、タコなどは腹部の上2/3ほどのスペースに描かれている。反対にミノア文明のアンフォラ型容器では、縦線バンドや底部の太線装飾もなく、容器全体に絵柄がのびのびと描写されている。
なお、用途面から言えば、大型のアンフォラ型容器では、ミノア文明では宮殿や豪華な邸宅の広間や通廊の装飾用であったが、ミケーネ文明では主に埋葬用として使われたことも重要で注目すべき点である。

ミノア文明・宮殿様式陶器 Minoan Pottery, Palace Style/(C)legend ej ちなみに紀元前16世紀に属するミノア文明の典型的な海洋性デザイン様式
 のアンフォラ型容器(イラクリオン考古学博物館・登録番号13985・タコ絵柄
 =上カラー写真)は、その後紀元前1500年頃に流行する宮殿様式のアンフ
 ォラ型容器(イラクリオン考古学博物館・登録番号3882・左写真)と並んで
 宮殿などを美しく飾ったクレタ島ミノア人の自慢とする陶器である。

 また、製作の技術面も含め、ウェストを絞り、美しいヒップラインを強調した女性
 の「マーメイド・ローブ」のようなビューティ・シルエットの宮殿様式陶器(左写真)
 は、当時エーゲ海やエジプト、中東パレスチナを含めた東地中海域で「最も美
 しい陶器
」の一つであった、と私は確信する。




 クノッソス宮殿遺跡出土/宮殿様式アンフォラ型容器
 イラクリオン考古学博物館/登録番号3882
 ミノア文明/紀元前1500年頃/クレタ島/1982年

ミケーネ文明UA期/紀元前1500年頃〜以降

ミケーネ陶器の種類の拡充/海洋性デザイン様式陶器/植物性デザイン様式陶器
  紀元前1500年以降のミケーネ陶器の器形では、今まで作られて来た大型のアンフォラ型容器を初め、クレタ島の影響を受けた円錐形のリトン杯、船橋(ブリッジ)に似た突き出た注ぎ口付きのブリッジ型水入れ(左下モノクローム写真)、広口タイプやくちばし型水差し、上部で注ぎ口とハンドルが馬具の鐙(あぶみ)のように合体した鐙型容器(Stirrup Style イラクリオン考古学博物館・登録番号3383・左下カラー写真)などが主なレパートリーである。
また、陶器の装飾面でも変化が起こり、紀元前16世紀では容器の肩〜腹部が装飾のメインスペースであったが、この頃から肩〜腹部の最下部まで装飾ゾーンが拡大されてきた。

     ミノア文明・鐙型(あぶみ)様式陶器 Minoan Pottery, Stirrup Style/(C)legend ej         ミケーネ文明・アンフォラ型容器 Mycenaean Pottery, Amphora Style/(C)legend ej
     パライカストロ遺跡出土/鐙(あぶみ)型容器         ネストル宮殿遺跡・円形墳墓出土/アンフォラ型容器
     イラクリオン考古学博物館/登録番号3383           ツタの葉・ロゼッタ紋様・草の絵柄/ホーラ考古学博物館
     ミノア文明/高さ280mm/クレタ島/1982年       登録番号1586・高さ70cm/メッセニア地方/1982年

ミケーネ文明・リングハンドルカップ/(C)legend ej 絵柄モチーフでは、先ず草や花々などを自然的に表現するクレ
 タ島ミノア文明の「植物性デザイン様式陶器 Floral Design
 Style」から影響を受けた内容となる。
 風に揺れるパピルスの群生、連鎖するツタの葉(ホーラ考古学
 博物館・登録番号1586・左写真)、ヤシの木、連続するユリ
 の花、またミノア文明のフレスコ画からヒントを得たとされる岩のパ
 ターン紋様、ロゼッタ紋様や渦巻き線紋様などが好まれた。


 コウコウナーラ遺跡出土・リング・ハンドル・カップ
 ユリの花・ツタの葉の紋様・点描・波線紋様
 ピーロス考古学博物館/メッセニア地方/1982年


ネストル宮殿・円形墳墓から出土した埋葬用の高さ70cmのアンフォラ型容器(右上写真)は宮殿様式陶器に分類されている。このアンフォラ型容器の絵柄と装飾ゾーンから判断すると、プロシムナ・ベルバチ居住地のミケーネ陶器とクレタ島ミノア陶器の丁度中間的な要素を見て取れる。
発掘者のシンシナティ大学カール・ブレガン教授 Dr Carl W. Blegen は、黒色に近い赤茶色で描かれたツタ葉とロゼッタ紋様の絵柄と器形から、ドイツ考古学チームが発掘したより北方のカコヴァトス遺跡のトロス式墳墓から出土したアンフォラ型容器(アテネ国立考古学博物館・登録番号13721〜13732)、さらにネストル宮殿近郊ツラガナ遺跡のトロス式墳墓からのアンフォラ容器に類似すると判断している。

ギリシア本土ミノア文明のペリステリア遺跡/カコヴァトス遺跡・トロス式墳墓

抽象デザイン様式陶器
  さらなる絵柄モチーフでは、初期の「抽象デザイン様式 Absract Design Style」と言える少々堅苦しい感じの半円紋様、中世ヨーロッパの王様が寝るベッドに垂れ下がるような末広がり状天蓋(てんがい)紋様)、ジグザグ紋様などのデザインも出現して、それぞれがより様式化して来る。

ミケーネ文明UB期/紀元前1450年頃/侵攻ミケーネ人のクレタ島攻撃・ミノア文明の混乱

ミケーネ人のクレタ島侵攻⇒クレタ島の大混乱⇒ミノア宮殿と邸宅の破壊/リング・ハンドル・カップ
  紀元前1450年頃、侵攻したミケーネ人によりクレタ島の主なミノア宮殿や邸宅が相次いで破壊されたことにより、もはやミノア文明からの陶器の器形や絵柄モチーフ、装飾パターンの技術コピーは不可能となり、ミケーネ陶器は必然的に自らのギリシア本土的な陶器へと徐々に変化を始めることになる。
ただし、円錐形のリュトン杯(リトン杯)や一部のくちばし型水差しなどが、ミノア陶器のデザインを継承していたように、この時代の陶器の器形に限っては、ほとんどがまだ直前のミケーネ文明UA期のままで極端な変化がなかった。

ミケーネ文明・デンドラ遺跡・金製カップ/(C)legend ej
         デンドラ遺跡・トロス式墳墓出土・金製カップ/アテネ国立考古学博物館/アルゴス地方/1987年
         アルゴス地方ミケーネ文明のデンドラ遺跡・「王家の墳墓」/ミデア塁壁遺跡

そういう環境下、急激に変化を起こして来た金属容器(例=上写真・金製カップ)からヒントを得て、口縁部の斜め上方にリング状ハンドルを付けたワイン・ティスティング・カップに似た「リング・ハンドル・カップ」と呼ばれる浅いカップ(右上モノクローム写真)が出現してくる。この肉薄の繊細なカップは、腹部の外側ではなく、主に内面に幾何学的な紋様などを描いた物が多い。
右上モノクローム写真のカップでは、底を中心に四方へ伸びる4本のユリの花の間に4枚のハート型のツタの葉が配置され、アクセントに点描と波線文様が揺らいでいる。おそらく透明な液体を入れて透けた絵柄を見ようとしたのか、あるいはワインなどを満たして飲む度に徐々に現れる底の紋様を楽しんだのかもしれない。
だとしたら、小さなカップでも相当高いレベルの「ライフ・スタイル」を演出した一品であった、と想ってしまう。今から3,450年前のミケーネ人の誰かが、この素敵なカップ片手に人生をエンジョイしていたとなると・・・

このリング・ハンドル・カップが出土したコウコウナーラは、私は1980年代に二度ほど訪れているが、今でこそ民家40軒の地図にも載らない小さなメッセニア地方の村である。が、かつて紀元前1500年〜前1200年頃には、コウコウナーラはネストル宮殿遺跡から出土した線文字B粘土板の「王国のリスト」に登場する繁栄の街が存在していたのである。今風に言えば、このような絵柄カップを出す「オシャレなカフェ」や「ワイン居酒屋」が存在しても何の不思議もない話なのだが・・・

メッセニア地方ネストル宮殿遺跡/ピーロス地区のミケーネ文明の遺跡群

クレタ島ミノア文明の赤ワイン or ロゼワイン産地と賑わう街の「ワイン居酒屋」に関する情報;
クレタ島ミノア文明のクノッソス宮殿遺跡と出土品

エフィレアン・ゴブレット陶器
  紀元前1450年直後の絵柄モチーフは、師匠であったクレタ島からの器形とデザイン情報が激減したことから、それほど大きな変化がないまま、直前のミケーネ文明UA期のそれを継承する格好になった。ゴブレット的な太い脚を持ち、口縁部が広い「エフィレアン・ゴブレット陶器 Ephyraean Goblet(アテネ国立考古学博物館・下写真)」と呼ばれる特徴的な器形の陶器も生まれてくる。

ミケーネ文明・エフィラェアン容器/(C)legend ej このゴブレット系陶器は腹部に大きく抽象化された一つの大胆な単純モチ
 ーフを描き、それ以外に装飾は少なく、無地の空間に特徴がある。
 ただ、このゴブレット系陶器は、紀元前1450年以降に侵攻ミケーネ人の
 支配が始まったクレタ島で、間違いなく当地へ移り住んだミケーネ人の陶工
 によって流行が生み出され、それがギリシア本土メッセニアやアルゴス地方な
 どへ伝わり、さらにギリシア中部〜エーゲ海全域へ拡散するほどの大流行を
 生むことになる。




 イライオン・ベルバチ遺跡出土・エフィラエアン・ゴブレット陶器
 アテネ国立考古学博物館/登録番号6948/1982年



その後、絵柄モチーフに変化が現れ、尖ったくちばし注ぎ口を付けた球形水差しなどでは、エフィレアン・ゴブレット陶器と同じように、腹部に大きく抽象化された二つか三つの絵柄モチーフが大胆に描かれ、ハンドル周辺はほとんど無地のままで、全体的には粘土の生地色が活かされるデザインとなった。
この時代のミケーネ陶器の絵柄モチーフ全体から言えば、特に以前から出始めていた抽象デザイン様式への傾向が強くなり、タコやイルカ、海草などの海洋性デザイン様式、あるいは草や花々などを生き生きと表現する植物性デザイン様式陶器を作り続けてきた紀元前1450年以前のミノア文明とはかなり異なる、純粋な「ミケーネ風」の陶器デザインへの変化と言える。

四大海洋性モチーフ/抽象デザイン装飾
  海洋的モチーフの魚のうろこ紋様なども好んで描かれ、エーゲ海の陶器の「四大海洋性モチーフ」と呼ばれたタコ、巻貝、ヒトデ、タコブネなどはより抽象化され、カマレス陶器などミノア文明でも親しく好まれた両刃斧や陰影を付けた連鎖する輪なども抽象デザインとなって来た。
ただ、クレタ島でフレスコ画の盾(たて)の紋様などに応用された二枚貝が開いた「8の字」のパターンは、ミケーネ陶器でもある程度採用されていたが、この時代になると流行の檜舞台から降ろされ、メイン絵柄とサブ絵柄の間にできる小スペースを埋める程度の脇役的なモチーフになってしまう。
同様に、今までミケーネ人にも結構愛好されていたクレタ島ミノア人好みのロゼッタ紋様などは、選択肢の中から完全に外されるようになる。これらの変化は、侵攻ミケーネ人によるクレタ島の主要宮殿と邸宅の破壊、そして民族粛清も含めたミノア社会の混乱の結果と影響が、ここへ来てミケーネ陶器のデザイン変化にも強く現れれて来たと言えるだろう。

ミケーネ文明UB期/ 紀元前1450年〜前1375年頃/クレタ島ミノア文明の崩壊

混乱と激変の時代/宮殿建築・「メガロン形式」
  政治的にも、文化や芸術、産業・交易分野でも、エーゲ海で最大・最高の発信基地であったミノア文明のクレタ島は、紀元前1450年頃、侵攻ミケーネ人の攻撃を受け、主なマーリア宮殿を初め宮殿、ティリッソスなど邸宅は全滅してしまう。その後、紀元前1375年頃には最後まで残った雄牛を崇めるミノアの象徴クノッソス宮殿さえもが崩壊して、事実上、ミノア人による「純粋なミノア文明」は、ここで歴史から消滅して行く。

ミノア人は最悪なら、「勝てば官軍」の侵攻ミケーネ人による民族粛清を受け、クレタの社会も、穏やかな海洋文化も伝統も、発達した産業も何もかもが破壊され崩壊して島は大混乱に陥る。以降、クレタ島は言わばミケーネ人支配による「ミノア・ミケーネ混合文化」の世界をつくり出して行く。
しかし、そこには平和を愛したミノア人は「主人公」として存在しなかったはずである。最大で5階建て、合計1,000室を数えた壮麗なクレタ島クノッソス宮殿が崩壊した影響は、若干優雅さには欠けるが、同じく文明が最盛期であった侵攻ミケーネ人の「本国」のギリシア本土へも及ぶ。しかし、すでに政治的も軍事面でも、経済的にも揺るぎのないレベルにあったミケーネ文明は、軽度の影響を受けたに過ぎなかったはずで、アルゴス地方やアテネ地区を中心に大繁栄を維持することができた。

平和主義のミノア人とクノッソス宮殿崩壊の原因について

この頃、ギリシア本土ミケーネ宮殿やティリンス宮殿などでは、崩壊したクノッソス宮殿の「三部屋続きの配置」からヒントを得たと推測できる独特な宮殿建築システム、王の居室とその周辺に、三部屋を連結する「メガロン形式(Megaron Complex 下作図)」と呼ばれる宮殿建築様式が開発される。

「メガロン形式」とは/ミケーネ宮殿の特徴ある建築様式
ミケーネ文明・「メガロン形式」/(C)legend ej   ネストル宮殿遺跡/(C)legend ej
  「メガロン形式」の三部屋続き配置 例: ティリンス宮殿遺跡       ネストル宮殿遺跡・王の居室/「聖なる炉」
  「控えの間」・「前の間」・「王の居室」のプラン図                 ペロポネソス・メッセニア地方/1982年
  アルゴス地方/1982年/作図=Web管理者legend ej         ミケーネ文明のネストル宮殿遺跡/周辺遺跡群

ミケーネ宮殿では「傾斜路の邸宅」や城外の「西の邸宅」など、フレスコ画で装飾された豪華な邸宅の建築ラッシュとなり、ミケーネ文明はさらなる大繁栄の時代を謳歌する。また、埋葬習慣では遺体と一緒に武器や多くの陶器を副葬する横穴墓が広くポピュラーになって来た。
しかし、工芸や美術のミクロな分野では、もはやクレタ島からの先端デザインなどの情報が途絶え、流行していたリング・ハンドル・カップや長く人気のあったヴァフィオ型カップも稀にしか生産されなくなって来た。
反面、ミノアの宮殿様式などを模倣しながらも、ミケーネ文明の改良オリジナル版である「逆さ西洋ナシ型」の容器(左下写真)やゴブレット杯、ドカーンとした「鏡餅」のような扁平のアラバストロン型容器(右下写真)などがメイン陶器になって来る。

コウコウナーラ遺跡・植物性デザイン・アンフォラ型容器/(C)legend ej             ミケーネ文明・アラバストロン型容器/(C)legend ej
            イライオン・ベルバチ遺跡出土・アラバストロン型容器
            アテネ国立考古学博物館/登録番号6771/1982年

コウコウナーラ遺跡出土/アンフォラ容器
ホーラ考古学博物館/1982年

キリックス杯/ゴブレット杯
  器形では紀元前1550年頃から好まれて来た大型のクラテール型容器 Krater、日本茶を入れる時使う「急須」のような容器、ハンドルの無い小型の容器などが継続的に作られた。
また、長く細い脚ステムと浅いカップ部の上品なシャンペン・グラスを連想するキリックス杯、ミノア文明のカマレス様式のエッグシェル・カップ、今日のスープカップに似た円錐型の肉薄カップ、廃れ始めたヴァフィオ型カップから派生した腹部にハンドルを付けたキーボード円筒型のマグカップ、細く高いハンドルのゴブレット杯(アテネ国立考古学博物館・登録番号1908)など、民間の需要に応えるバラエティに富んだ用途の陶器も生産された。

大量生産されたこの時代の陶器の装飾では、消滅したクレタ島ミノア陶器の伝統を受け継ぎながらも、ミケーネ文明らしい陶器の絵柄モチーフやパターンの統一化と標準化が図られたことに特徴が出た。
特に自主開発して来た抽象デザイン様式の装飾は完全にミケーネ陶器の主流となり、海洋のタコやイルカなど、あるいは草や花々などを生き生きと表現した自然主義のミノア陶器に代わって、堅苦しくもその芸術性はかなりモダンで高いレベルに到達して来た。

四大抽象デザインモチーフ/抽象デザイン陶器の発達/無装飾陶器
  網目紋様や魚のうろこ紋様、渦巻き線や点描が、この時期の陶器の「四大抽象デザイン・モチーフ」となり、中でも抽象化された渦巻き線紋様は、ミケーネ陶器で最も流行した装飾モチーフの座を得ることになる。また、色々な植物や花の抽象デザイン様式(左上写真)の陶器も数多く生産された。
この時期に主にアテネ周辺とラコニア地方、ネストル宮殿周辺のメッセニア地方では、生地の色彩を優先させ、絵柄を描かない無装飾の陶器が生まれ、色々な器形の容器やカップ類もたくさん生産された。
アテネ地区の限定的な陶器では、浅いボウルや摘み部の無い日本の「お椀」に似たカップ、非常にエレガントな器形のゴブレット杯なども無装飾の陶器であった。この時代の陶工達の心意気が、モチーフによる装飾の美観より、器形から受ける機能美を優先させ、さらに焼成技術にポイントが置かれたと言える。

あるいはネストル宮殿遺跡の食器保管室からは、見ているだけでも壊れそうなウサギの耳に似た細く高いハンドル付き祝宴用キリックス杯やコーヒーカップ風の上品なカップ類など2,850器を含め、合計では20種・約6,000器分の膨大な数の陶器が出土した。その多くがやはりセンスのある成形と高い焼成技術で生産された無装飾の陶器であった。
ネストル宮殿遺跡からの陶器の大量出土は、宮殿ではそれを必要とした目的と需要である儀式や祝儀や遠来の客をもてなす盛大なパーティなどが行われていたに他ならない。
出土したどの陶器も先ずは良質な粘土の確保があり、薄さやバランスの取れた美しい器形を追求する陶工達の洗練された成形と高温度での焼成技術などに裏打ちされたもので、当時のミケーネ陶器のデザインと製作レベルが非常に高まったことを代弁している。

埋葬用の大型容器/ハイドリア型容器/ピトス容器
  この時代に作られた無装飾で低温焼成の比較的大型の素焼きアンフォラ型容器、表面研磨された背の高い「逆さ西洋ナシ型」の大型容器、「ハイドリア Hydria」と呼ばれるずんぐりの大型容器などは、タコやツタの葉デザインのアンフォラ型容器、小さなハンドル付きのラグビーボール形の「ピトス Pithos」と呼ばれる容器と同様に、ほとんど埋葬用の陶棺として使われた。

ミケーネ文明VA期/紀元前1375年頃〜/ミケーネ陶器の発展

ミケーネ陶器の安定と発展
  紀元前1375年頃〜前1300年頃、ミケーネ文明が繁栄の安定期に入った時期、腹部が球形でネック部が異常に細い水入れ容器などに典型を見るエレガントな器形の陶器や変化溢れる形容の小型ゴブレット杯などにユニークな特徴が現れる。これらの器形はおそらくクレタ島へ侵攻した後に定住したミケーネ人の陶工が製作して、ギリシア本土へもたらしたと想像する。

また、ダブル・ハンドル・カップや注ぎ口付きカップなどの飲用カップ類も変化と改良があり、あるいは大型クラテール型容器では底部に太い脚を付けたオシャレで安定感あるタイプも生産された。間違いなく宮殿主催のパーティ(開催されたと想像する)などでは、このクラテール型容器には溢れんばかりのワインが満たされ、さぞかし大人気となったはずである。
ワインの輸送やオリーブ油の貯蔵にも使える重宝さが受け、以前から作られているおなじみの鐙(あぶみ)型ハンドル付きの「逆さ西洋ナシ型」の容器もさらに多種の派生を生み、ミケーネ社会で非常にポピュラーな陶器になって行く。

フラスコ型水入れ
  さらに、この時代に深いボウル型容器や脚ステム付きのボウル型容器、「フラスコ Flask」と呼ばれる一昔前の小学生用の「水筒」に似た注ぎ口付き鐙(あぶみ)型水入れなども新規に生まれて来る(左下写真)。
水筒形のフラスコ型水入れの表と裏面は、何か精密装置を使って現代の設計エンジニアが描いたような斬新デザインとも言える同心円の線紋様、水平状の帯線や細線紋様などで丁寧に装飾された。
フラスコ型水入れは器形のバランスの取れた美しさと精巧さ、丁度良い高さの注ぎ口を支える鐙(あぶみ)型ハンドルの美的カーブもこの陶器の含有する洗練さを主張している。小型だが美しいミケーネ陶器の系統を受け継いで完成された一品と言える。

    アルゴス考古学博物館/ミケーネ文明・フラスコ型容器 Mycenaean Pottery, Flask Style/(C)legend ej           ミケーネ文明・テラコッタ製の小型塑像/(C)legend ej
    ミケーネ遺跡出土・フラスコ型水入れ                 ティリンス遺跡出土・テラコッタ製の塑像
    アルゴス考古学博物館/1982年           左像:「Ψタイプ像」黒灰色線紋様/登録番号1554 高さ12cm
                                    右像:「Φタイプ像」赤茶色線紋様/登録番号1553 高さ11cm
                                    アテネ国立考古学博物館/1982年

テラコッタ製の小型塑像/大型クラテール型容器/抽象化デザインの絵柄
  この時期に両手を上方へ挙げた「Ψタイプ」、胴体が丸い「Φタイプ」、両手をクロスさせる「Τタイプ」などのテラコッタ製の小型塑像(アテネ国立考古学博物館・右上写真)が流行する。
塑像のサイズは、例えば右上写真(左:登録番号1554 黒灰色線紋様・高さ=12cm/右:登録番号1153 赤茶色線紋様・高さ=11cm)では、すべて女性を形容して、一般の庶民が部屋などに飾ってお祈りとか、お守りやアクセサリーなどに使用したものである。

 装飾面では、ツタの葉など植物性デザイン様式(イラ
 クリオン考古学博物館/左写真・左側)の絵柄は大
 きく描かれ、相変わらず抽象化された海洋性デザイン
 様式のタコの絵柄(左写真・右側)も好まれた。
 一方、大型クラテール型容器には魚のうろこ紋様が、
 単純化された巻貝や草や花などは主にキリックス杯に
 描かれた。


 クレタ島出土・極端に抽象化絵柄のアンフォラ型容器
 イラクリオン考古学博物館/1994年

ミケーネ文明VA期/紀元前1350年頃〜/写実様式陶器の出現

リアルな絵柄の表現/写実様式陶器(ピクトリアル容器)
  紀元前14世紀の半ば、紀元前1350年頃になり、ギリシア本土では今までなかった特徴的なミケーネ陶器・「写実様式(ピクトリアル Pictorial Style)」と呼ばれる陶器タイプが出現してくる。この陶器の主な器形は、比較的大型のクラテール型容器と脚ステムが付いたアンフォラ・クラテール型容器で、表面にミケーネ人の乗る二輪戦車や二輪走行車(アテネ国立考古学博物館・登録番号7387・下写真)、鳥や魚などの描画をリアルに描いたものである。

ミケーネ文明・ピクトリアル様式陶器/(C)legend ej ピクトリアル描画は容器の肩〜腹部に、誰が見ても過去に見たこともない
 ほど、人物や物体がはっきりとリアリティに描かれた。写実様式陶器の絵
 柄モチーフの多くは、疑うことなくミケーネ宮殿などを飾った美しいフレスコ画
 と共通している内容が含まれている。
 また、戦闘兵士の出陣式(多分行われたと想像する)、ちょっとリッチな
 家庭の遊び好きな息子達が親に買ってもらった新型の二輪走行車を乗
 り回して、(これも想像だが)ウェーブのかかる髪をなびかせる若い女性
 達を求めて、街へガールハントでも行く時のシーンなどからヒントを得たと考
 えられる。

 ミケーネ遺跡出土・写実様式(ピクトリアル)陶器
 アテネ国立考古学博物館/登録番号7387/1982年



なお、この写実様式の陶器では、特に地中海キプロス島からの出土(大英博物館)が顕著であることから、幾らかの研究者は、このピクトリアル容器は地元用よりむしろ輸出用に生産されたと判断している。
その理由は、おびただしい数の横穴墓が発掘されているミケーネ遺跡区域でさえ、この二輪戦車などを描いた写実様式のピクトリアル容器はわずかな数の出土実例しかなく、一方、マローニ遺跡などキプロス島では、墳墓の発掘で相当数の美しい描画の写実様式陶器が見つかっているから、とされている。

世界遺産/キプロス島キロキティア遺跡・テンタ遺跡・マローニ遺跡          

ミケーネ文明の公用文字/線文字Bスクリプト
  「逆さ西洋ナシ型」の大型の鐙(あぶみ)型容器は、間違いなくワインやオリーブ油の保管や輸送にも使われたはずである。この容器の表面にはタコなどの絵柄モチーフだけでなく、単純な線紋様、あるいは時としてミケーネ文明の文字である「線文字Bのスクリプト」が刻まれている場合がある。刻まれた線文字Bのスクリプトの多くは、それが陶器の「製作者」なのか、「生産地」なのか分からないが、一人か二人分の人の氏名や場所名であるとされる。
宮殿の支配と行政管理を記録した線文字Bスクリプトの粘土板(下写真)では、ミケーネ文明センターであるアルゴス地方のミケーネ宮殿と周辺の邸宅遺跡、ティリンス宮殿遺跡、ペロポネソス地方西部のネストル宮殿遺跡、そして中部ギリシアのテーベ宮殿遺跡から、さらに侵攻ミケーネ人が統治して紀元前1375年に崩壊したクレタ島クノッソス宮殿遺跡からも約3.000個が出土している。

古代文明の記録である「線文字A」と「線文字B」の粘土板について

           ミケーネ文明・線文字B粘土板 Myceanaean Linear B/(C)legend ej

                      ミケーネ遺跡出土・線文字Bスクリプト粘土板
                      アテネ国立考古学博物館/登録番号12587/1982年

ミケーネ文明VB期/紀元前1300年〜前1200年頃/洗練されたミケーネ陶器

宮殿・「聖なる炉」の設置/洗練のミケーネ陶器
  紀元前1300年〜前1200年頃は、ミケーネ宮殿やティリンス宮殿などの主要宮殿の改修と拡張が行われ、上述したミケーネ文明の宮殿建築の特徴である「メガロン形式」の王の居室に、「聖なる炉」とそれを取り囲む4本の支柱が設備された時期でもある。ミケーネ文明はまだ繁栄を享受していた。

キリックス杯/(C)legend ej この時代の陶器の器形は、オリンピア近郊のサミコン遺跡 Samikon からの出土例の
 ような細長い円錐形のリュトン杯(リトン杯/左写真)、幾分狭い口縁部の「ナシ
 形 Piriform」と呼ばれたずんぐりタイプ、広い口縁部のずんぐりタイプ、そして球形型の
 4種がメインの形容と言って良い。
 そのほかでは、構造的にもデザインでも見劣りしない鐙(あぶみ)型容器も相変わら
 ず好まれ、その一部には粘土の固まりで注ぎ口を封印する「栓」も見つかっている。ワ
 インやオリーブ油の漏れや品質の劣化や虫の侵入を防ぐためと考えられる。

 イライオン遺跡出土・キリックス杯
 アテネ国立考古学博物館/登録番号6943
 アルゴス地方/1982年


キリックス杯やボウル型容器はより口縁部が広がり、飲料用の現代にも通用するようなマグカップ型も生産された。
また、大きめの鐙(あぶみ)型の注ぎ口を付けた球形の水差しには鳥の絵柄が、背の高いバランスの取れたキリックス杯にはポピュラーな絵柄となった巻貝(左下モノクローム写真)や植物モチーフが好まれて描かれた。絵柄はシンプルだが、無地の生地(肌地)の明るい色彩とのコントラストで美しさと優しい印象感を増した。
オリンピア近郊のクラデオス遺跡 Kladeos の横穴墓から出土した、三か所に縦ハンドルが付いた「ナシ形 Piriform」の水入れ容器(右下モノクローム写真)では、水平線と同心円の密集連鎖の紋様で装飾され器形の美しさだけでなく、手の込んだ絵柄の繊細さも強調しいている。

                ミケーネ文明・円錐形リュトン容器/(C)legend ej             ミケーネ陶器/(C)legend ej
           サミコン遺跡出土・円錐型リュトン容器          クラデオス遺跡出土・「ナシ形」の水入れ
           オリンピア考古学博物館/1982年           オリンピア考古学博物館/1982年

ミケーネ文明VB期/紀元前1300年〜前1200年頃/写実様式陶器とフレスコ画の発展

写実様式陶器の発展(ピクトリアル容器)
  この時代の写実様式陶器(ピクトリアル容器)では、前時代と同様に、情景を分かりやすく大きく描写するのに相応しい器形とサイズからして、アンフォラ型や脚ステム付きのクラテール型容器などがメイン陶器として選ばれた。ただ、ピクトリアル容器は特にキプロス島や中東諸国で比較的好まれる反面、何故か生産しているギリシア本土ではあまり一般的でなかったようだ。
また、ピクトリアルの写実様式は、一部では襟(えり)を立てたような形容の口縁部の競り上がった水入れや側面が垂直のアラバストロン型容器などの装飾に描かれる場合もあった。ただ、リアルな描画のサイズから受けるインパクトでは、やはり大型で広い表面積を誇るクラテール型容器が断トツであった。

写実様式陶器の生産では、アルゴス地方プロシムナ・ベルバチ居住区の陶工作業所が最大の生産量を誇っていた。さらに、ピクトリアル容器は絵師の技巧の発揮のチャンスと「利益」が見込みそうな陶器であり、この時期になるとティリンス居住地の陶器窯、アテネ地区北部のヴォロス、テーベやエボイア島のレフカンディ居住地、エーゲ海のナクソス島とコス島などの焼き窯も相次いで名乗りを挙げ、写実様式陶器の生産をスタートしたと考えられている。

ティリンス遺跡・ピクトリアル陶器/(C)legend ej ギリシア本土で相撲を取れば、輸出用はやはり歴史と伝統があり
 優秀な陶工を抱えていたベルバチ居住地の製品がベストであり、
 ほかの焼き窯のピクトリアル容器はローカル向けであったようだ。
 しかし雄牛と雄シカのピクトリアル絵柄に関しては、ティリンスの陶
 工達の得意分野であったらしく、ギリシア本土の他の焼き窯産が
 追随できないほどの「最高の美しさ(左写真)」を誇っていた。
 
 ティリンス産の描画の標準スタイル例では、雄シカは陸上競技トラ
 ックに似た長円形の胴体ボディで、極めて細い下肢、頭は後ろ向
 きという感じ、シカの胴体の下のスペースには水鳥が首を下へ
 ターンして採餌(さいじ)している姿で、雄シカも水鳥も胴体は
 縦縞模様で塗りつぶし加工されていた。



ティリンス遺跡・「戦車と兵士」の写実様式(ピクトリアル)陶器
アテネ国立考古学博物館/登録番号1511/高さ27cm/1982年

世界遺産/ミケーネ文明のティリンス宮殿遺跡/新石器文化のレルナ遺跡

写実様式のモチーフ/フレスコ画技法の発展
  この時代のピクトリアル容器に描かれたモチーフの代表格は、先ず二輪戦車や狩りの光景で、次に兵士による戦闘や行進シーン、若者がドライブする二輪走行車、大切にした馬を初めとするヤギ、ライオン、雄シカ、水鳥、イルカなどの動物、神話の世界のグリフィンなども選ばれた。
また、ミケーネ地区からの写実様式陶器では、スリムな子馬を挟んで丸と点で強調した目を持つ二頭の大きなサイズの馬を描き、その周囲に6羽の鳥が飛ぶシーンを描いている。この馬の脚も異様なくらい細い描写である。クレタ島ミノア文明でも人々から長い間崇められたが、雄牛も写実様式陶器の重要なモチーフであり、そのほとんどは短い脚でだらーんと垂れ下がった腹部、長過ぎる角に比べ小さな無塗装の歪み頭、丸い巨大な目玉、胴体には筋肉を表現する三区分(頭・前脚/胴体/後脚)の線が引かれていた。

西部のネストル宮殿遺跡に近いコリィファシオン村の直ぐ北側、紀元前1000年頃のプロト幾何学模様時代のトロス式墳墓から20mも離れていない所の横穴墓からも写実様式陶器が見つかっている。これは1958年の発掘ミッションで出土したもので、後述のミケーネ宮殿の「兵士の絵柄」のクラテール型容器と同じタイプの容器である。
容器の側面の半分には、ハンドルを挟んで尖ったヘルメットか帽子を被った一人のミケーネ人男性が、長い棒で牙をむき出しする5頭の犬へ指示を出し、大きな雄シカを追い詰める緊迫の狩りのピクトリアル・シーンが描かれている。クラテール型容器はホーラ考古学博物館(登録番号1999 高さ約24cm)で展示されているが、ミケーネ宮殿の「兵士の絵柄」より少し小型である。

また、この時代にはクレタ島ミノア文明はすでに完全に崩壊していたが、かつての美術様式の「恩師」であったミノア文明の技法を継承したミケーネ文明のフレスコ画技法が確立された。
技法のみならず、陶器絵柄との相乗効果があり、フレスコ画の絵柄例では、ミケーネ宮殿遺跡から紀元前13世紀に属する洗練されたフレスコ画・「宮廷婦人の絵(下写真)」も見つかっている。華やかできれいなミノア文明のフレスコ画より、ミケーネ宮殿の「宮廷婦人の絵」の方が、高いフレスコ画技法とセンスを裏付ける知的でクールビューティとも言えるモダンな雰囲気が漂っている。

ただ、描画の技法は、グラデーション技法ではなく、古代エジプト絵画やチベット仏教の曼荼羅絵画に共通する、幾らかの色を単色で塗り、それぞれ単色のもつ特徴を強調する「繧繝彩色(うんげんさいしき)」の技法で描かれている。
この時代では、私は絵画の専門家ではないが、絵の具の原料はすべて自然界から採取した岩石や準宝石類などを粉末にした顔料を使っているたはず、原料の特性から「色の混合」が難しく、近代絵画のようなグラデーション技法が生まれていなかったと推測できる。

            アテネ国立考古学博物館/ミケーネ宮殿遺跡・フレスコ画・「宮廷婦人の絵」/(C)legend ej
                   ミケーネ宮殿遺跡・南翼部出土・フレスコ画・「宮廷婦人の絵」
                   アテネ国立考古学博物館/登録番号11670/アルゴス地方/1987年
                   ミケーネ文明のミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓・「アトレウスの宝庫」

ミケーネ文明VB期/紀元前1300年〜前1200年頃/代表的な「兵士」の写実様式陶器

ミケーネ宮殿遺跡出土/ピクトリアル容器の傑作品/「兵士の絵柄」の容器
  後期ミケーネ文明の写実様式陶器(ピクトリアル容器)のうち、特に「ミケーネ兵士」を描いた作品で最も有名なのは、ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓Aの近く、南翼部の邸宅遺構から出土した「兵士の絵柄(左上写真=全体/上写真=拡大)」の大型クラテール型容器であろう。容器の地肌は黄土色〜ベージュ色、腹部側面に2か所の大きなハンドルがあり両ハンドルの下方には鳥が描かれている。

ミケーネ文明・「ミケーネ兵士の絵柄」/(C)legend ej     アテネ国立考古学博物館/ミケーネ宮殿遺跡・「ミケーネ兵士の絵柄容器」/(C)legend ej
    ミケーネ宮殿遺跡出土・「兵士の絵柄」のクラテール型容器
    アテネ国立考古学博物館/高さ430mm/1987年

  ミケーネ宮殿遺跡出土・「兵士の絵柄」・クラテール型容器
 (拡大)アテネ国立考古学博物館/1987年


このクラテール型容器を良く観察すると、最も明確に分かる正面部では、一人の女性と6人のミケーネ兵士が赤茶色で描かれている。女性の頭部と右腕は欠損しているので不明確だが、女性は頭に何か物を乗せて、左手は頭に乗せた何かを支えるか、出発の兵士達の「勝利」を祈っているのかもしれない。
兵士達はほとんど同じスタイルで、パッチリの眼、高く尖った鼻と顎髭(あごひげ)を生やし、一斉に左足を前へ向け、行進しているシーンである。兵士の被る角付きヘルメットは白い点描で表現され、羽飾りが後ろ側へなびき、兵士達がそれなりのスピードで前進していることを感じさせる。
兵士達の身体はコルセット風の武具でがっちりと固められ、腰は白点の短めのスカート姿、足には編み上げのブーツと膝までのハイソックスという完璧な出で立ちである。左手には下方がカットされたほぼ円形の盾を携行、右手で食料か、休憩時間に食べるイチジクとか乾燥したデザートでも入っているのか、風船のように膨れた皮袋を取り付けた長い槍を支えている。
このクラテール型容器の用途だが、もしかしたら、装飾絵柄の通り、戦いに出発するミケーネ人兵士達の壮行会で、なみなみとワインが満たされ、兵士達は代わる代わるハンドル付きのカップで飲み干したのではないだろうか? 明日の勝利を祝って・・・
彼らミケーネ兵士達に悲愴感がないので、どう見ても壮行会のクラテール型容器のワインで「一杯やって」これから演習か、本物の「勝てる戦い」へ向かおうとしてるシーンを鮮明に描き表現しているようである。何とも見事なピクトリアル絵画の描写技法であろうか。
3,200年の時を経て偶然に残されて来たミケーネ美術の傑作の一つと言えるであろう。この容器は、現在アテネ国立考古学博物館が誇る至宝級のミケーネ陶器となっている。


世界遺産/ミケーネ文明遺跡からの重要な出土品の詳細:
ミケーネ文明遺跡からの重要な出土品/アテネ国立考古学博物館

ネストル宮殿遺跡出土/「ミケーネ兵士のフレスコ画」
  陶器の絵柄ではないが、ギリシア本土メッセニア地方のネストル宮殿遺跡からは、「ミケーネ兵士のフレスコ画」の断片が出土している。このフレスコ画もミケーネ宮殿出土の「兵士の絵柄」のクラテール型容器と同じ時代に遡ると考えられている。
絵柄では、上半身が欠損しているが、ミケーネ兵士は裾に房飾りのないスカート風の軽装武具を着ている。先の尖った編み上げのブーツ、脚には踝(くるぶし)〜膝上まで防御用の「脛(すね)当て」が装着され、後足は紐結びで固定されているが、前足では脛(すね)当ての紐が消えてしまったか、または描かれていない。また保持している槍は幾分短いタイプと判断できる。

デンドラ遺跡出土/青銅製の鎧(よろい)
  写実様式陶器の絵柄やフレスコ画だけでなく、好戦的なミケーネ人を現実的に特徴付ける出土品としては、時代を少し遡るが、アルゴス近郊デンドラ遺跡の横穴墓から出土した青銅製の鎧(よろい/下写真)がある。この青銅製の鎧と比べると、上述のクラテール型容器の「兵士の絵柄」やネストル宮殿の「兵士のフレスコ画」で描かれたミケーネ兵士の武装は少々軽装のように見えてしまう。

ミケーネ文明・青銅製の鎧(よろい)/(C)legend ej 金属であり、見るからに重そうなデンドラ遺跡出土の青銅製の鎧は紀
 元前1450年〜前1350年頃に属し陶器やフレスコ画の「兵士の絵
 柄」の製作時期よりおおよそ100年前の物である。
 想像だが、好戦的なミケーネ人なので100年の間に日々試行錯誤を
 行い、武器や武具の近代化を図り麻と羊毛の混紡地などのより軽量
 化した新素材を使った強靭な武具を開発したのかもしれない。
 それがクラテール型容器に描かれたミケーネ兵士の着用するコンパクト
 で格好の良いコルセット風の軽量武具であろう。

 今から3,200年前とは言え、戦場へ向かうミケーネの男達は、常に勝
 利する絶対的な使命にあったはずだから、武器や武具の研究開発は
 当然行われたはずである、今日の近代国家の軍隊と同じように・・・



 デンドラ遺跡・出土したミケーネ人の青銅製の鎧(よろい)
 ナフプリオン考古学博物館/アルゴス地方/1982年
 ミケーネ文明の「王家の墳墓」のデンドラ遺跡と塁壁遺構のミデア遺跡

ネストル宮殿遺跡出土/「ミケーネ兵士」の装飾品
  アルゴス地方ミケーネ宮殿遺跡から遠く離れた南西部・メッセニア地方ネストル宮殿遺跡から、ヒゲをたくわえたミケーネ兵士の頭部を形取った金とニエロ金属(下述コラム)で象嵌された装飾品(下カラー写真)が見つかっている。この頭部象嵌では全部でミケーネ兵士11人分が見つかり、兵士の大きさは縦20mm〜24mmほど、右下描画のように肌部分が金、頭髪とヒゲはニエロ金属で作られている。
さらにミケーネ遺跡からは、ネストル宮殿遺跡からのミケーネ兵士装飾品とまったくおなじ象嵌作品が出土している。ミケーネ文明独特のリング・ハンドル付きの銀製ボールの側面にミケーネ兵士が象嵌(下モノクローム写真)され、兵士の形容や大きさ、さらに技法までもがネストル宮殿遺跡からの装飾品とほとんど同じである。

       ミケーネ文明・兵士の頭部象嵌の装飾品/(C)legend ej
         ネストル宮殿遺跡・入口プロピュライア出土・ミケーネ兵士の頭部象嵌の装飾品
         アテネ国立考古学博物館/登録番号7842/ミケーネ兵士高さ20mm〜24mm
         ペロポネソス・メッセニア地方/1987年/メッセニア地方ミケーネ文明のネストル宮殿遺跡/周辺遺跡群

                ミケーネ遺跡出土・銀製ボウル/(C)legend ej
                 ミケーネ遺跡出土・ミケーネ兵士の頭部象嵌の銀製ボール/口縁径160mm
                 アテネ国立考古学博物館/登録番号2489/アルゴス地方/1982年
                 ミケーネ文明遺跡からの出土品の展示公開/アテネ国立考古学博物館

Ref.
ニエロ金属
「ニエロ」とはミケーネ文明の時代に装飾材料として頻繁に使われた金属の一種で、その成分は銀と銅、鉛を主成分として、さらに硫黄(いおう)やほう酸ナトリウム塩などの助剤を加えて溶融した合金である。腐食に強く、黒色を呈して高級感もあり、特にミケーネ文明では青銅製の短剣や装飾カップ、中世ヨーロッパではキリスト教の聖器などの表面装飾に使われた。

商品1億点以上・世界最大規模の品揃え【Amazon.co.jp 通販サイト】 通常配送・コンビニ受取・全商品⇒全国・送料無料タブレット・PC・プリンタ・ネット関連用品・ソフト・ゲーム、和洋書・コミック、映画DVD・音楽CD、家電・カメラ・時計、キッチン用品、ファッション・バッグ、食品・ワイン、健康・スポーツ・アウトドアー・・・

イノシシ牙ヘルメット/牙製のミケーネ兵士
  好戦的なミケーネ人を特徴付ける出土品では、兵士の頭部保護のヘルメットがある。ミケーネ兵士が戦闘時に装着したイノシシ牙をつないで作ったヘルメットは、オリンピア近郊のクラデオス遺跡(左下写真)やメッセニア地方コウコウナーラ遺跡(中下写真)など、幾らかの墳墓から出土している。また、アテネ近郊からはミケーネ兵士を形取った象牙像(右下写真)の出土例もある。

ペリステリア遺跡&エリス地方〜メッセニア地方北部・南東部の古代遺跡群
メッセニア地方のネストル宮殿遺跡/ピーロス地区のミケーネ文明遺跡群

ミケーネ文明・クラデオス遺跡・イノシシ牙ヘルメット/(C)legend ej      コウコウナーラ遺跡・イノシシ牙ヘルメット/(C)legend ej      ミケーネ兵士の象牙像/(C)legend ej
クラデオス遺跡・イノシシ牙ヘルメット        コウコウナーラ遺跡・イノシシ牙ヘルメット       スパタ遺跡/兵士の象牙像
オリンピア考古学博物館              ピーロス考古学博物館                 アテネ国立考古学博物館
ペロポネソス・イリア地方/1982年        ペロポネソス・メッセニア地方/1987年       描画=Web管理者legend ej

エーゲ海域の大地震
  紀元前13世紀も後半になり、安定化、あるいは慢性化されたミケーネ文明であったが、紀元前1250年頃、ギリシア本土に大きな影響と被害を与える規模の大地震が発生した。この地震によりミケーネ宮殿は被害を被り、ティリンス宮殿に至っては致命的なダメージを受け、さらにギリシア中部のグーラの「宮殿」も崩壊してしまう。

ミケーネ文明VB期/紀元前1200年頃〜/ミケーネ人の主要宮殿の崩壊

ミケーネ主要宮殿の崩壊/密集様式陶器
  大地震の後、「理由と原因」は分からないが、紀元前1200年頃、ミケーネ文明センターであったミケーネ宮殿を初め、西部のネストル宮殿や中部のテーベ宮殿、そして先の地震で破壊が進んだティリンス宮殿も完全に崩壊してしまう。この時点で、宮殿を中心としたミケーネ文明はほぼ終焉を迎え、時代は庶民が中心となるミケーネ文明の最終期に入る。
紀元前1200年頃のミケーネ主要宮殿の崩壊により、以降、陶器文化は当然ながら、一応に単調でインパクトに欠けるものとなって行く。ただ、ティリンスやミケーネなどのアルゴス地方を初め、本土のエーゲ海沿岸に沿って南北に細長く伸びるエヴィア島、、あるいは無数の墳墓が見つかったアッティカ地方の東海岸などは全滅せずに居住され続け横穴墓やピット墓の副葬品を中心にミケーネ文明終末期の陶器が数多く出土している。

装飾デザインの変化では、新たにネック部の周りに滴(しずく)紋様を細かく並べて、丁度ネックレースのように描いたネックレース風パターン、左右対称に描く緩やかなロープ紋様と吹流し紋様などが現れた。広範囲の大流行ではないが、アルゴス地方で生産された容器の装飾では、「密集様式 Closed Style」と呼ばれる陶器に顕著な特徴が現れる。

ミケーネ文明・密集様式陶器 Mycenaean Pottery, Closed Style/(C)legend ej 密集様式陶器では、特にエーゲ海文明を代表する器形の座を
 得た鐙(あぶみ)型容器、続いて深めのボウル型の容器、稀に
 だが上から見ると普通は円形だが「ベローン」と舌を出したような
 独特な形容の注ぎ口付き水差し、背高のキリックス杯にも採用
 された。

 密集様式陶器では、特に鳥(ナフプリオン考古学博物館・左写
 真)や魚がメイン・モチーフに用いられ、それらは抽象的な紋様、
 例えば菱形(ひしがた)、三角形のパッチ紋様や精密な三角
 形、半円やジグザグ紋様で囲まれた無地のスペースに、何羽
 も同じ姿で密集させて並ぶ姿が強調して描かれた。



ミケーネ遺跡出土・密集様式深カップ/高さ約70mm
ナフプリオン考古学博物館/1982年

ミケーネ文明VC期/紀元前1200年〜前1100年頃/ミケーネ陶器の終末期

デフォルメ様式陶器/グレイナリィ様式陶器/レキュトス型陶器/アンフォリスコス陶器/単純な幾何学文様陶器
  紀元前1200年〜前1100年頃のエーゲ海域、特にナクソス島やロードス島やコス島などでは、タコを極端に誇張した「デフォルメ様式陶器 Deformer Style」が流行する。
例えば、鐙(あぶみ)型容器の球形の腹部全面に描かれたタコ(アテネ国立考古学博物館・登録番号9195)は大きなグリグリ目玉である。そして、ほぼ左右に対称的に広げた長い足は、もはやタコの足とは思えない鳥の羽のように複雑にデザイン化され、風になびく魔女の髪か、「春一番」にあおられ慌てて手で押さえる若い女性のフレアスカートように乱れている。

グレイナリィ様式陶器 Granary Style」と呼ばれる新型タイプも現れた。これは最初にこの陶器出土した場所がミケーネ宮殿遺跡の「穀物倉庫 Granary」であったことから、単純にその名称が付けられた陶器である。
グレイナリィ様式陶器は、言わば隙間なく絵柄を描く上述の密集様式の「対抗バージョン」と言え、装飾面では極めたシンプルなスタイルで、少ないモチーフで単純に表現された。モチーフでは渦巻き紋様、緩やかにカーブする左右対称する線紋様、波状の線紋様などがメインである。

ただ、かつて大流行を生んだ「四大ミケーネ器形」であった鐙(あぶみ)型容器、円錐型、「逆さ西洋ナシ型」の容器、広い口縁部のすんぐり型容器などのほか、脚ステム付きの大型クラテール型容器、やはりステム付きのボウル型やマグカップなど、ミケーネ文明の歴史を刻んだほとんどの陶器は、一部を除きこの時代に多くの地方で姿を消して行く。
この時点では、伝統のミケーネ陶器の流行はほぼ終わってしまったのだ。それらに代わって、球形の腹部で細いネックのいわゆる「レキュトス型 Lekythos」と呼ばれる水差し、二つのハンドルを持ち広い口縁部とちょっと太目のネック、すんぐり形状で「アンフォリスコス陶器 Amphoriskos」と呼ばれる縮小サイズのアンフォラ型容器、今日と同じ形状の深いスープカップ、背高ハンドルを付けた円錐型の肉薄カップなどがポピュラーな陶器となって来た。

ミケーネ文明の終末期の陶器装飾は、センスの香りを感じない単純なデザインとなり、狭い装飾ゾーンや縦と横線で方形に区切った広いスペース(ゲラキオン遺跡出土・スパルタ考古学博物館・登録番号16)を表現するか、簡単な線紋様などが描かれた。
最後まで生き残り、幾らかの改良を重ねたミケーネ陶器では、「ベローン」と舌を出したような独特な形の注ぎ口を付けた水差し、単ハンドル付きの円錐形ボウルなども作られ、ラーメン店の「醤油・ラー油・ソース・塩入れ」の調味料セットのような感じで、複数の小さな壷を一つにまとめてアーチ型ハンドルで下げるタイプの容器などの珍しい陶器も焼かれた。あるいはギリシア国内の考古学博物館では必ず見ることができるが、内側に時折泳ぐ魚などが「お遊び的」に描かれた浅いカップ類も、この時代に生産されたものである。
さらに上開口部に急須の「茶こし」の役目を果たす小穴の「ろ過」を付けたハンドル付き水差し(アルゴス考古学博物館)まで生産され始めた。ミケーネ文明終焉期の人々は、オリーブの収穫高を自慢しながら、現代と同じように腰痛を訴え、このような形容の水差しを使って、健康に留意した「ハーブティー」などを楽しんだのかもしれない。

ミケーネ文明VC期末/紀元前1100年頃/ミケーネ文明の終焉

ハンドメード研磨仕上陶器⇒北方民族の来襲か?/「トラキア人?」/「ドーリア人?」/「海の民?」
  デザインの鈍化傾向が進む中、紀元前1200年頃にミケーネ人の宮殿が崩壊、以降、紀元前1000年頃までにはギリシア本土〜エーゲ海域に、いわゆる「ハンドメード研磨仕上陶器 Handmade-Burnished Ware(左下写真)」と呼ばれる特徴的な陶器が現れる。
このハンドメード研磨仕上陶器の起源はバルカン半島の南部地方とも言われ、これまでのミケーネ人系譜の人達とは異なる北方民族・「ドーリア人?」のギリシアへの侵入を感じさせる陶器文化の極めて大きな変化と言える。
これは回転ろくろを使わずに、文字通りの手作り成形で、簡単な工具を使って装飾として溝や傷マークなどを付け、砥石のような研磨石などで表面仕上げの後、(予備焼成の場合もあり)比較的高い温度で焼成した陶器である。斜めスラッシュ的な切れ込みを付けた日本の縄文式土器に似た飾り紐(ひも)状の盛り上がりが特徴の一つである。
器形には色々なカップ類、水入れや水盤、ずんぐり容器などがあり、回転ろくろを使ったミケーネ陶器の系譜の洗練された形容や抽象化モチーフの面影は一切なく、誰が見ても器形もデザインも地味で粗雑で、かつて研究者に「野蛮な陶器 Barbarian Ware」の別名が付けられていた。

 何しろハンドメードなので、器形だけなら中学生の夏休みの課題でも製作でき
 そうで、ズバリ言ってかなり土着的な匂いがする陶器である。
 しかし、紀元前1200年以降、ほかのミケーネ陶器の系統を抑えて急激に増
 産され始め、居住が続けられていたアルゴス・ティリンス地区を初め、メッセニアや
 スパルタ・メネライオン居住地のラコニア地方、トルコ西海岸のトロイの街、イタリ
 ア北部、エーゲ海諸島〜エンコミ遺跡などキプロス島、遠く中東テル・カゼル遺
 跡などシリア方面にまでも波及して行く。
 果たして、この陶器をギリシアへ運んで来たのは「誰」なのであろうか? ミケーネ
 兵士に勝るとも劣らないほど好戦的であったとされるブルガリアを治めていたトラ
 キア人だったのか?
 あるいは「ドーリア人?」とも「海の民?」とも言われるよりパワーフルな「異民族」
 の来襲と実態、「紀元前12世紀のカタストロフ(崩壊・破局)」と呼ばれる出
 来事と内容は、研究者の間でも未だに誰もが納得できる結論が出ていない。

 コウコウナーラ遺跡・「ハンドメード研磨仕上陶器」
 ピーロス考古学博物館/メッセニア地方/1982年


ミケーネ文明の終焉/消え行くミケーネ陶器
  当初、クレタ島ミノア文明の影響を強く受け、その器形も絵柄モチーフもミノア陶器を模倣しながら、徐々に高いレベルの独自の陶器を完成させたミケーネ文明であったが、このずんぐりしたセンスに欠ける「バルカン系」のハンドメード研磨仕上陶器の出現を以って、ミケーネ陶器とそれを育んだミケーネ文明も歴史の中から消滅して行く。おおよそ500年の繁栄の記憶を残して・・・

ホームページ ⇒ このページ・トップへ