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クレタ島 ミノア文明のクノッソス宮殿遺跡と出土品 Minoan Palace of Knossos

3,500年前にミノア王妃が入浴した“世界最古のお風呂”のバスタブと水洗トイレ

フレスコ画「パリジェンヌ」とは? クノッソス宮殿政府公認の古代ミノア・ワインとは?

MIN

クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace/(C)legend ej
                  クノッソス宮殿遺跡の全景/南北180m 東西180mの遺跡区域
                  小宮殿遺跡の右方(北方)=イラクリオン方面/クレタ島/1982年

プロローグ

紀元前1375年・クノッソス宮殿の大火災
  出土した3,000点の線文字B粘土板によれば、今から3,375年ほど前、紀元前1375年頃、冬小麦の収穫が終わり、羊の毛の刈り込み作業を行う「春」の季節、1,000室を数えるクノッソスの大宮殿で火災が発生した。
遺跡から「遺体」が発見されていないことから、大火災は大地震など突発的で瞬間的な事象が原因したのではなく、しかも最初の出火は夜間ではなく、数千人規模の宮殿関係者が安全に避難することができた昼間であり、その後の延焼〜宮殿の崩壊はある程度幅のある時間の経過の中で起こった、と想定できる。

夏の到来を予告するサハラ砂漠からの暖かい「南の風」に煽られ、宮殿管理の貯蔵庫に保管された大量のオリーブ油に火が回り、火炎は勢いを増し宮殿全体に広がった。伝統的に戦いを好まず、王の住む宮殿でありながら城壁を設けず、優美なフレスコ画で装飾され、平和と栄華を誇ったクノッソス大宮殿は真っ赤な炎を上げ、1週間あるいは10日間以上も炎上し続けた。
ここに紀元前3000年頃から始まり、1,500年以上も繁栄を続けた、象徴である「蛇の女神(下描画) 」を崇めたエーゲ海ミノア文明は呆気なく終焉を迎える。
そうして、長い年月が経過した後、1900年にイギリスの考古学者サー・アーサー・エヴァンズにより発掘ミッションが開始されるまで、崩壊し息絶えたクノッソス宮殿は、約3,300年の間、神話と歴史の中で眠り続けるのである。

                         ミノア文明の象徴 ミノア人が崇めた「蛇の女神」

                 ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「蛇の女神像」 Minoan Snake Goddess, Knossos Palace/(C)legend ej
                 クノッソス宮殿遺跡・神殿宝庫出土・ファイアンス陶器・≪蛇の女神像≫ 上半身
                 原画情報: 発掘者サー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur Evans
                          「The PALACE of MINOS at KNOSSOS V1(1921)」
                 模写: 2018年/描画=Web管理者legend ej

クノッソス宮殿遺跡の位置
  「ヨーロッパ最初の文明」であるミノア文明を象徴するクノッソス宮殿遺跡 Minoan Palace of Knossos は、エーゲ海クレタ島の中央北部、島都イラクリオン Iraklion /Heraklion の市街地から南南東へ6kmほど内陸のクノッソス地区にある。

G クノッソス宮殿遺跡・「中央中庭」: 35°17′53″N 25°09′47″E/標高95m

クレタ島ミノア文明/4か所の宮殿遺跡/無数の邸宅・町/居住地・墳墓遺跡

ミノア時代の宮殿遺跡/邸宅遺跡・町遺跡/居住地・墳墓遺跡
  クレタ島ではクノッソス宮殿を筆頭に、南西部のメッサラ平野の丘からフェストス(ファイストス)宮殿、イラクリオンの東方35kmの海岸近くからはマーリア宮殿、そして、クレタ島最東端の海岸からザクロス宮殿、合計4か所でミノア文明の大規模な宮殿遺跡が確認されている。

Web 4か所のクレタ島ミノア文明の宮殿遺跡(下地図マーク)
           クレタ島ミノア文明センターのクノッソス宮殿遺跡 Knossos(このファイル・ページ)
           クレタ島メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿遺跡 Phaestos(下描画)
           クレタ島北海岸のマーリア宮殿遺跡 Malia
           クレタ島最東端のザクロス宮殿遺跡 Zakros

            クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡/(C)legend ej
                  クレタ島・ミノア文明・4か所の宮殿遺跡/作図=Web管理者legend ej

フェストス(ファイストス)宮殿・大階段 Phaestos Palace, Crete/(C)legend ej
             フェストス宮殿遺跡・大階段と周辺区画/クレタ島
             右下端=西中庭&旧宮殿時代の遺構/右奥=中央中庭/大階段の上部=大広間
             1982年/描画=Web管理者legend ej

ミノア文明/産業と海外交易の発達
  今までに発掘されたミノア文明遺跡のデータからは、東西250kmのクレタ島のほぼ中央部から東方側に遺跡が集中しているという顕著な特徴が見て取れる。クレタ島の東半分に点在している4か所のミノア宮殿遺跡、無数の邸宅遺跡、あるいは墳墓や居住地遺跡などは、ほぼ間違いなく平地か低い丘陵地の平原で見つかっている。
これらの遺跡の周囲には比較的肥沃な耕作地が展開していることから、金属鉱山が皆無であったクレタ島ミノア文明では、陶器や装飾品、フレスコ画などの工芸生産のほかに、オリーブやブドウとワイン、果実や小麦や野菜などの農産生産、そして、早い時期から舟を使った海洋漁業とエジプトやキプロス島など東方との交易が発達して来た。

            クレタ島・中央北部・ミノア文明遺跡 地図/(C)legend ej
                   クレタ島・中央北部・ミノア文明遺跡/作図=Web管理者legend ej

            クレタ島・東部・ミノア文明遺跡 地図Minoan Archaeological Sites, Crete/(C)legend ej
                    クレタ島・東部・ミノア文明遺跡/作図=Web管理者legend ej

            クレタ島・メッサラ平野周辺・ミノア文明遺跡 地図Minoan Archaeological Sites, Crete/(C)legend ej
                 クレタ島・メッサラ平野周辺・ミノア文明遺跡/作図=Web管理者legend ej

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クノッソス宮殿の旧宮殿と新宮殿/繁栄した「宮殿時代」

「旧宮殿」と「新宮殿」/500年間続いた「宮殿時代」
  クノッソス宮殿の歴史は非常に古く、「旧宮殿」と呼ばれた初期宮殿の建物は、考古学的な編年から言えば、中期ミノア時代の初期にあたる紀元前1900年頃に造営された。しかし300年の経過を待たずに旧宮殿は地震と火災で焼け落ち、中期ミノア時代の終期にあたる紀元前1625年頃、旧宮殿のあった場所にさらに大規模な「新宮殿」が造営された、と考えられている。そしてその新宮殿も紀元前1375年頃に再び起こった火災により完全に崩壊してしまう。
現在、ツーリストが見ることのできるクノッソス宮殿の遺構の大部分は、この火災で崩壊した新宮殿の基礎部である。そのため訪れたツーリストは、多くの場所で3,400年ほど前の大火災で黒焦げに焼け、ただれたクノッソスの新宮殿の遺構を目にすることになる。

ミノア文明が最も繁栄した文明の中期から最終期にあたるクノッソスの旧宮殿と新宮殿の存在と統治と文化をして、研究者は「宮殿時代」と呼んでいる。おおよそ500年間続いたこの宮殿時代こそが、紀元前3000年頃から始まり現在に至るクレタ島5,000年の歴史の中で、最も繁栄して輝いた時代であった。

宮殿時代 区分
●旧宮殿時代: 中期ミノア文明T期〜中期ミノア文明U期    紀元前1900年〜前1625年頃
●新宮殿時代: 中期ミノア文明V期〜後期ミノア文明VA1期  紀元前1625年〜前1375年頃  現存クノッソス宮殿遺跡


繁栄のミノア文明/クノッソスの街 ko-no-so
  ある研究者の説によれば、紀元前1500年前後の最盛期の宮殿時代のクノッソス宮殿周辺には、最大で4万人前後の住民が居住して宮殿と王の家族を支え、当時人々から「ko-no-so(コノソ)」と呼ばれた「クノッソスの街」を形成していたとされる。

 名称の変化
 文明・「ko-no-so コノソ」⇒「ko-no-sos コノソス」⇒現代・「Knossos クノッソス」

「ギリシア神話」と文明遺跡の異なり
  ミノア文明の最盛期には、大小合計で推定1,000室を数えたとされるクノッソスの大宮殿は、その建物の迷路のように入り組んだ複雑な配置と構造から、≪ギリシア神話≫の中で「迷宮」と呼ばれてきた。史実としての先史時代を紐解くならば、このクノッソス宮殿こそが、今から5,000年前に初期ミノア文化を生み出し、クレタ島のみならずギリシア本土の一部を含む、エーゲ海全域を支配した歴代ミノア王の居城であった。
権力を持った王の住む単純な宮殿ではなく、クノッソス宮殿は紀元前1900年頃に始まる旧宮殿の時代から、その後に再建された新宮殿が崩壊するまで約500年以上も続く宮殿時代に、広範囲をカバーする行政官制度も含め、「線文字A」と呼ばれる文字(現在未解読 下描画)を使った精度の高い官僚機構を確立したミノア文明の政治・行政・文化の最大センターであった。

            ミノア文明・線文字A粘土板/(C)legend ej
            マーリア遺跡出土・線文字Aスクリプト粘土板/紀元前1700年頃のミノア文明の文字
            イラクリオン考古学博物館/1994年/描画=Web管理者legend ej

Ref.            クノッソス宮殿遺跡の発掘者サー・アーサー・エヴァンズ

遺跡の発掘ミッション/考古学者エヴァンズ
クノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションは、今から100年以上前、1900年、サーの称号を持つイギリスの考古学者アーサー・エヴァンズ Sir Arthur John Evans により開始された。
ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡の最初の発掘者となるアーサー・エヴァンズは、1851年、11世紀から製粉工場があったイギリス・ロンドンの北西35kmのナッシュ・ミルズ Nash Mills の高貴な家庭に生まれた。
アーサー・エヴァンズは、イギリスの有力な国会議員であり、建築学・歴史学者でもあったエドワード・フリーマン教授 Edward Augustus Freeman が教鞭を執る、オックスフォード大学で近世の歴史学を専攻、最優秀の成績を治め、さらにドイツ・ゲッティンゲン大学にも在籍した後、特に北欧とバルカン半島への広範囲な旅行に出たとされる。その後、1878年、恩師フリーマン教授の娘マーガレットと結婚したエヴァンズは妻と共に、現在のアドリア海の美しい城塞都市ドゥブロヴニクに落ち着いた。

Sir Arthur J. Evans/写真情報: Wikipediaページ 1880年代にイギリスへ戻ったエヴァンズは、34歳の若さでオックスフォード大学の付
 属博物館 Ashmolean Museum の館長の職に就いた。
 しかし、1893年、不幸にも愛する妻マーガレットの結核が悪化、エヴァンズに見守
 られながら、イタリア・ジェノバの西方のフランス国境に近い地中海の風光明媚な海
 岸・アラッシオAlassio の町で息を引き取り、マーガレットは当地に埋葬された。
 エヴァンズとマーガレットの間には子供はなかった。


 サー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur John Evans
 写真情報: Wikipediaページ



翌年、1894年、クレタ島を訪れた42歳のエヴァンズは事前の表面調査を実施、クレタ考古学協会に対してクノッソス地区の発掘ミッションを申請する。
時は1900年3月23日、発掘作業が開始された。そして1年も経過しない内に、エヴァンズは次々とクノッソス宮殿の遺構とおびただしい宝飾品やフレスコ画の断片、3,000点を数えた線文字B粘土版などを発掘して、世界に名を残す偉大なる考古学者の一人となる。
1905年、5年間のクノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションは終了する。
第二次大戦の最中の1941年、サー・アーサー・エヴァンズは、オックスフォード〜南西4km、今でも野生シカが生息する広大な雑木の森と池が点在する、ユールバリィの丘 Youlbury に建てた邸宅で90歳の生涯を終える。

クノッソス宮殿/建物構成

建物配置・無数の装飾部屋
  クノッソス宮殿の中央中庭の周囲には、想像上の動物の「グリフィン」を描いたフレスコ画で飾られた王座の間を初め、バスルーム&バスタブや水洗トイレを含む、王や王妃とその家族のプライベート生活区画、祭司・神官や高位の役人を初め公務スタッフや女官達の部屋、あるいは遠来の客を迎える大広間や列柱の広間などが、言葉どおり整然と配置されていた。
発掘者のエヴァンズは、クノッソス宮殿の西翼部二階をイタリア・ルネッサンス様式の大邸宅からヒントを得て「Piano Nobile/高貴な造りのフロアー Noble Floor」と呼び、この階に配置された無数の大広間の壁面や天井などは、崇美な宮廷の女性達の姿を初め、自然界の動物など穏やかなモチーフを描いた色鮮やかなフレスコ画で美しく装飾されていた。

最大五階建て/部屋数1,000室
  ミノア文明の特徴ある建物の施工技術や壁面の厚さ、柱の太さなどを建築面から想定した場合、クノッソス宮殿の建物全体は少なくとも標準で二階建ての構造、王家のプライベート生活区画などがある東翼部では、露出した岩盤斜面と段差を利用しているので三階〜四階部分も、あるいは地下を含めると宮殿の一部区画では最大五階という高層構造であった可能性もある。
これら新宮殿の建物がすでに3,600年前に造られ、建造物というハード面だけでなく、文字を使った行政や官僚組織のシステムや財務管理などソフト面を含む、王国の中央政府として立派に機能していたのは驚きである。しかも、宮殿全体では部屋数1,000室とも推計されている。

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クノッソス宮殿遺跡/中央中庭と宮殿入場門

ミノア宮殿に共通した特徴/石板舗装の中央中庭
  クレタ島の4か所のミノア文明の宮殿には、建物の構造と配置に幾らかの共通点があり、その典型例が中央中庭 Central Court と呼ばれる平石板舗装の長方形の広い庭である。クノッソス宮殿遺構の全体規模は、最大180m四方の広大な敷地である(トップ写真/下作図)。
宮殿の中央部にはミノア時代の伝統と基本に従って、50mx25mの長方形、石板舗装された中央中庭が南北に長く配置されていた。かつて、この広い中央中庭では、公的行事や集会、王国レベルの盛大な儀式・祭典、あるいは後述する「牛跳び/牛飛び」などの民衆参加の大規模なイベントも開催されたと考えられる。

       クノッソス宮殿遺跡&周辺 地図 Knosos Palace & Other Archaelogical Sites/(C)legend ej
                 クノッソス宮殿遺跡&周辺 地図/作図=Web管理者legend ej

宮殿への入場/ローヤルロード&西入口/東入口/北入口/南入口
  遠いミノア時代、クノッソス宮殿への来訪者は、今日の見学者入口ゲート近く、宮殿の北西方向から始まる切り通し的な石垣と盛り上がり石板歩道のローヤルロードと呼ばれる正規の入口参道を歩み、宮殿の西翼部二階へ至る西入口へ進んだ。
クノッソスの大宮殿には正規の宮殿入口であったローヤルロード&西入口のほかにも、部分復元された北入口(下写真)、大型石材で完全復元された東入口、そして部分復元された南の邸宅(下写真)の近くの南入口など、主要4か所の宮殿入口が存在した(上作図)。

            クノッソス宮殿遺跡・北入口/(C)legend ej
                クノッソス宮殿遺跡・北入口付近/クレタ島/1982年
                高い建物と壁面に描かれた赤い雄牛の大型フレスコ画はエヴァンズの復元・複製

            クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅 Knossos Palace/(C)legend ej
            クノッソス宮殿遺跡・南入口近くの部分復元された「南の邸宅 South House」
            発掘時に残っていたのは、床面や数段の階段、円柱の下1/4程度(白い部分)だけ、円柱の朱
            色部分から上部は復元・複製した箇所/クレタ島/1982年

なだらかな階段・「劇場区域」/歓迎の舞は行われたか?
  クノッソス宮殿の正規の入口道路・ローヤルロードの突き当たり(東端)は、なだらかな斜面と言える段差のない階段で構成された劇場区域と呼ばれる空間で終わっている。
「劇場区域」という言葉から連想されることで、多くのツーリストはここでイベント的な演劇が行われたと想像している。またそうであると説明する観光ガイドさえも居る。しかし、この想定は間違っている、と私は主張したい。もしミノア時代に演劇が演じられたのであれば、その場は間違いなく沢山の民衆が鑑賞参加できる宮殿中心部の広い中央中庭であったはずである。
故に正規の宮殿入口であるローヤルロードの延長部を成す劇場区域では、明らかに高貴な公式訪問者を迎えるための、10人〜20人程度の美しき衣装のミノア女性達、あるいは巫女達による優美な「歓迎の舞」が披露された、と想定して良いだろう。

宮殿区域の西側/ローヤルロードの南側にあった「フレスコ画の邸宅」
  今日の入口ゲートの北側〜宮殿区域へ延びるローヤルロードの南側、かつて存在したフレスコ画の邸宅 House of Fresco からは、ミノア文明の芸術レベルの高さを証明する多くのフレスコ画が見つかっている。
中でも、クレタ島の自然を表現した典型的なフレスコ画に≪青い鳥 Blue Bird≫がある。不ぞろいの岩の上に佇む青い鳥とクレタ島の春に咲く草花を点在させた美しいフレスコ画である(下描画)。
青い鳥の周囲には、クレタ島の標高1,000mの高地で咲く Cistus Creticus など野生バラを初めアイリス、ヒガンバナ科のパンクラチューム・リリーなどである。草花と岩と青い鳥の鮮やかな配色は、クレタ島の花咲く短い穏やかな春の季節を切り取り、見事なまでに表現している。

       クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画・「青い鳥 Blue Bird」/(C)legend ej
       クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅・フレスコ画・≪青い鳥≫/新宮殿時代・紀元前1550年〜前1500年
       イラクリオン考古学博物館/1996年/描画=Web管理者legend ej

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西中庭と大型ピット穴/盛り上がり石板歩道/城壁・城門のない宮殿
  来訪者は目的によっては宮殿西翼部・西入口へ向かわずに、ローヤルロードから右折(南進)して全面が石板舗装された「西中庭 West Court」の盛り上がり石板歩道を南方へ歩み、貢物を携えた壮麗な行列光景が描かれていた「フレスコ画の通廊」を経て、最後に広い中央中庭へと導かれたはずである。

クノッソス宮殿のみならず、マーリア宮殿などほかのミノア宮殿や幾らかの邸宅、居住地の共通した特徴とも言えるが、参道や中庭など人々が歩む場所には、石板舗装面から10cmほど盛り上がった石板歩道が施工されていた。
日本庭園や格式高い和風邸宅の飛び石にも似た歩む人の足元への配慮と言うか、主要施設への案内を兼ねるほぼ直線的なこの盛り上がり石板歩道は、ミノア人の高い建築技術と細やかな感性に裏打ちされた遺産でもある。

クノッソス宮殿遺跡・青銅製アンフォラ容器 Silver Amphora, Knossos/(C)legend ej 西中庭の北東端、劇場区域〜3か所の深井戸的な円形ピット穴(後述・コウ
 コウラス)との中間付近、研究者から「北西宝物庫 North-West Treasure
 House」と呼ばれる、東西25m 南北30mほどの建物が存在した。
 部屋数で20室のこの建物跡から、エヴァンズは紀元前1600年〜前1500年頃
 の青銅製のアンフォラ型水入れ容器を発見している(左描画)。

 このクノッソス宮殿遺跡からの青銅製容器の器形は、エーゲ海サントリーニ島(フィ
 ラ島)アクロティーリ遺跡で見つかった青銅製のアンフォラ型水入れ容器、さ
 らにギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・第X竪穴墓から出土した銀製
 アンフォラ型水入れ容器と極めて似ている。


 クノッソス宮殿遺跡・北西宝物庫出土・青銅製アンフォラ型容器
 イラクリオン考古学博物館/1987年/描画=Web管理者legend ej







宮殿建物本体の西側の広い空間を占める西中庭は、クノッソスで旧宮殿が造営された紀元前1900年頃に整備された古い区域の一つである。西中庭には旧宮殿時代に遡る古い遺構だが、ギリシア語で「丸みを帯びた凹み」を意味する深井戸に似た「コウロウラス Koulouras」と呼ばれる3か所の大型の石組みピット穴がある。また、ピット穴の東側には祭祀・儀式に関連する方形の祭壇基盤も残されている。

クレタ島ミノア文明の宮殿では、クノッソス宮殿を初めほかの3か所のどの宮殿でも、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡・ライオン門(下写真)やティリンス宮殿遺跡のように、分厚い城壁で囲まれ、堅固な構えの「城門」が存在したことを証明する遺構も、防御用の基礎石のわずかな痕跡さえも見つかっていない。
戦いが極当たり前の東地中海域にあって長期の繁栄を享受した王の住む宮殿でありながら、クノッソス宮殿の「城壁と城門のない王宮」という、信じられないこの事実はミノア文明の最大の不思議でもあると言える。

ミケーネ宮殿遺跡・ライオン門 Lion Gate/(C)legend ej
         ミケーネ宮殿遺跡・分厚い城壁と城門(ライオン門)/アルゴス地方/1982年
         Web 世界遺産/ギリシア本土ミケーネ文明のミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓・「アトレウスの宝庫」

ミケーネ宮殿遺跡&ティリンス宮殿遺跡/ミケーネ文明遺跡&出土品/アテネ国立考古学博物館の詳細:
A-KDP アテネ国立考古学博物館/ミケーネ宮殿遺跡&ティリンス宮殿遺跡&出土品

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宮殿・南翼部/プロピュライア(入口間)/フレスコ画≪祭祀≫/大型U形オブジェ
  ツーリストは石板舗装の西中庭に立った瞬間から、早くも目の前に広がる宮殿の大規模な遺構に圧倒され、より南側の大柄な絵柄の「行列フレスコ画の通廊」へ向かう。この長い通廊は宮殿遺跡の南端で左(東方)へ折れ、宮殿の南翼部である真っ白に塗られた太い円柱と角柱が復元された「プロピュライア」と呼ばれる入口間へ導かれる。
多くの人がこの区画で立ち止まり、複製フレスコ画の壁面遺構に「ワアー!」と歓声を上げ、ツアー・グループなどでは、ガイドの説明は耳に届かず、ツーリストは一斉にデジカメ・シャッターをONすることになる。その後、コースは階上へと昇る復元の大規模な階段や中央中庭へと進む。
あるいは地表レベルが幾分低い南入口・南の邸宅からのコースでは、今日、「グリフィン」を牽いたいわゆる≪プリースト・キング(祭祀王/ユリの王子)≫と呼ばれる、複製の大型フレスコ画の壁面遺構を眺めながら、緩やかな坂を登り自然に中央中庭の南端へ導かれる。

一方、北入口の西側・階上の復元ロジア建物の西壁には、頭から突進する≪赤い雄牛≫の色彩レリーフ彫刻(浮彫り色付けフレスコ画)があり、ツーリストのカメラ被写体として人気が高い場所である(左下描画)。ミノア文明の時代に「パワー」の象徴として崇められていた赤い雄牛を眺めながら、ゆるやかな坂路を上がれば、中央中庭の北端に出ることができる。

クノッソス宮殿遺跡・「赤い雄牛」のレリーフ彫刻/(C)legend ej          ミノア文明・U型オブジェ(雄牛の角型)/(C)legend ej
          クノッソス宮殿遺跡・「U形オブジェ」/クレタ島
          1982年/描画=Web管理者legend ej


クノッソス宮殿遺跡・北入口階上部・レリーフ彫刻≪突進する赤い雄牛≫
クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej

なお、南翼部、太い白色円柱と角柱の復元プロピュライア(入口間)とフレスコ画≪プリースト・キング≫の壁面遺構との中間付近には、コンクリート復元の大型の「U形オブジェ」が置かれている(右上描画)。これはミノア時代にクノッソス宮殿の建物の屋上や軒先、玄関上部などを飾っていた聖なる「雄牛の角」を模した装飾物で、沖縄の民家の屋根に鎮座する「獅子像シーサー」と同じように、魔除けやパワーの象徴を表現している。

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クノッソス宮殿遺跡/王家のプライベート生活区画/王の居室
上述・「クノッソス宮殿遺跡・平面アウトライン図」

両刃斧の間/王の居室/「三部屋続き」の配置
   クノッソス宮殿の東翼部一階に配置された王と王妃、その家族が生活した「王家のプライベート生活区画」は、中央中庭の東側、東西40m 南北30mの面積を占有した広いセクションであった。
古代遺跡における重要な部分は、発掘時の状態を保つ建造物の遺構であるのは当然だが、100年前のエヴァンズの発掘直後から始まった「こうであろう復元・複製」、さらに今日のギリシア政府の復元プロジェクトを経ている間、特に東翼部では二階〜三階部分まで、過激に言えば、その大部分がコンクリートで復元されてしまった状態と言える。
故に東翼部では純粋な発掘遺構である宮殿一階の建物基礎部が、復元・複製された建造物で覆われ、造り上げた「キレイな遺跡」へ変貌してしまった結果、破壊石材がゴロゴロしている古い遺跡より見た目の抵抗感はないが、クノッソス宮殿の重要な本物の遺構を見ることが難しくなっている。

中央中庭の東側は東入口やカイラトス川の河畔へ向かってガクーンと一段と低くなることから、東翼部・王家のプライベート区画の一階床面レベルは、中央中庭レベルより二階分に相当する低い位置となる。言い換えるならば、中央中庭の地表面は王家のプライベート区画建物の三階にあった「東大広間」の床面レベルにほぼ同等している(下作図)。

            クノッソス宮殿・西&東翼部(透視概略図)/(C)legend ej
            クノッソス宮殿・主要区画の位置関係(透視概略図)/中央中庭南端⇒北入口方向
            クレタ島/1982年/作図=Web管理者legend ej

東翼部は、石板の舗装床面の大小の部屋が連なり、階段と通路や連絡ドアー、採光吹き抜けの空間、さらに排水路システムなど、非常に複雑な構造でありながら効果的で利便性の良い配置を成している(下作図)。

              クノッソス宮殿遺跡・王家の生活区画 プラン図/(C)legend ej
              クノッソス宮殿・東翼部1階/王家プライベート生活区画・平面プラン図(1階レベル)
              クレタ島/1982年/作図=Web管理者legend ej

「両刃斧の間」の用途=王の居室
  上作図は王家プライベート生活区画の一階部分の平面図である。作図の右上部分が「両刃斧の間 Double Axe Room」と呼ばれ、比較的落ち着いたフレスコ画で装飾され、床面が石板舗装された「三部屋続き」の王の居室となる(下写真)。

なお、ミノア文明では歴代の王による政治と宗教が強く結び付き、崇拝される王自身も含め、多神教の思想が根本に流れていた。ミノアの王も人々も力のある雄牛や角、蛇などを強く崇拝し畏れた。特に強調できるのは、後述の「聖域」の項と重複するが、あらゆる宗教的な崇拝シンボルの中で「両刃斧/ラブリュス」が、最も畏敬で最も神聖な意味をなしていた点である。
この王の居室が研究者の間で「両刃斧の間」と呼ばれる理由は、この部屋に、おそらく高さ2m以上の支持棒の先端にミノアの最高の崇拝シンボルであった巨大な両刃斧(青銅製?装飾斧)が、石製の保持台に立ててあったと想像したからである(右下描画)。当然のこと、ミノア王だけが神が宿る神聖なこの居室に置かれた木製王座に座ることができた(下写真・複製品)。

クノッソス宮殿遺跡・王の居室 King's Room, Knossos Palace/(C)legend ej   ミノア文明・装飾用両刃斧/(C)legend ej
   装飾両刃斧&支持棒・保持台
クノッソス宮殿遺跡・両刃斧の間(王の居室)/クレタ島/1982年
渦巻き線の連鎖紋様のフレスコ画と壁面は3,400年前の遺構(立入禁止区域)

「両刃斧の間」の外部
  上作図の通り、王の居室は「L字形」の広い中庭と天空に開口した採光用の吹抜け構造の部屋とに挟まれた「三部屋続き」の配置で、光と空気の流通を最大限に考慮し、地中海クレタ島の気候に適した快適な造りであった。
非常に太い円柱と角柱で囲まれた「三部屋続き」の王の居室の外側に配置された「L字形」の中庭(下描画・右下〜右側の明るい部分)では、間違いなく適度の給水が行われ、春の頃にはフレスコ画に描かれたのと同様に、ミツバチやチョウが舞う地中海の美しい草花やソテツや糸杉など緑の植込みがあったと想像できる。
今日、遺跡見学の一般ツーリストは復元された朱色柱頭・黒色円柱とコンクリート角柱の外側でロープ規制された「見学コース」を回ることから、「三部屋続き」の内、最も西側奥の木製王座が置かれた王の居室を直に覗くことは難しい。

       クノッソス宮殿遺跡・両刃斧の間(外)Doule Axe Room, Knossos/(C)legend ej
       クノッソス宮殿遺跡・王家のプライベート生活区画/左側の暗い部屋が両刃斧の間
       床面と円柱&角柱の柱礎を除き この区画の90%がコンクリート復元・複製/クレタ島
       円柱&角柱の内側&両刃斧の間は「立入禁止」の区域/1982年/描画=Web管理者legend ej

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「三部屋続き」の配置/建築様式・「メガロン形式」

特徴的な宮殿建築様式
  王の居室と隣合わせのニつの部屋の構成・「三部屋続き」の配置は、ギリシア本土ミケーネ文明の宮殿に見られる建築様式・「メガロン形式 Megaron Complex」に類似する配置である。この「三部屋続き」の配置法は、クレタ島メッサラ平野に建つファイストス(フェストス)宮殿の王の居室(下写真)やマーリア宮殿など、ほかのミノア文明の宮殿でも採用されている。
しかし、クノッソス宮殿やファイストス(フェストス)宮殿などでは、下写真のミケーネ宮殿とは異なり、王の居室の中心部に絶えることなく火を焚いた「聖なる炉」を設けていない。

ギリシア本土のミケーネ文明の「メガロン形式」の建築様式は、紀元前1400年頃、ミケーネ人がミノア宮殿の建築様式からヒントを得て開発したとされる。また、ミケーネ文明の「聖なる炉」の設置(例=ネストル宮殿遺跡・下描画&写真)は、さらに後の紀元前1300年〜前1250年頃と推定されている。

            フェストス宮殿遺跡・王の居室/(C)legend ej
                     ファイストス(フェストス)宮殿遺跡・王の居室/クレタ島/1982年
                    Web クレタ島メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿遺跡

※「メガロン形式」&「三部屋続き」の宮殿建築などの詳細:
A-KDP クレタ島ミノア文明 クノッソス宮殿遺跡

クノッソス宮殿遺跡/「イルカ」や「踊る女性」のフレスコ画装飾の王妃の間

クノッソス宮殿遺跡・イルカのフレスコ画/(C)legend ejクノッソス宮殿遺跡・王妃の間/(C)legend ej














「イルカ」のフレスコ画/イラクリオン考古学博物館
クレタ島/1994年

クノッソス宮殿遺跡・王妃の間・フレスコ画・「踊るミノア女性」/写真情報: Oxford University Digital Library





      クノッソス宮殿遺跡・東翼部一階・王妃の間
      クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)
      「イルカ描画」 =Piet de Jong によるイラスト


 フレスコ画・「踊るミノア女性」/エヴァンズ発掘レポート
 スケッチ原画=サイズ 横440mm 縦410mm ・水彩画
 写真情報: Oxford University Digital Library

王妃の間/愛らしいフレスコ画装飾
  ツーリストに人気の高い王妃の間 Queen's Room は、上述作図に示すように、「くの字」の狭い通路と階段部分を挟んで両刃斧の間(王の居室)の南側に連結された配置である(右上写真)。
王妃の間はスペース的には少し狭い感じだが、東側には2本円柱のベランダ形式の部屋があり、さらに東と南側には採光用の天空に開口した小さな中庭が付属されていることから、部屋の奥までクレタの明るい光が入っていたと想像できる。

王妃の間の壁面と角柱は、ミノア文明の最大の特徴である海洋性デザインの愛らしいイルカや魚達の泳ぐ様、渦巻きや抽象的な紋様あるいは踊るミノア女性(Dancing Girl 左上写真/エヴァンズ発掘レポート・スケッチ原画 Oxford Uni Digital Library)などの美しいフレスコ画で装飾されている(右上写真)。

なお、残念ながら鮮やかに描かれたイルカや紋様などの絵柄は本物ではない。実は発掘時に王妃の間周辺で残っていたのは、床面から高さ0.5m〜1.5mの支柱下部、床面とわずかな壁面だけ、イルカの個体数や向きと位置、壁面の高さやスペース、天井、小魚の群れなどは、発掘後のエヴァンズとオランダ系イギリス人の考古学・建築美術家 Piet de Jong(1887年〜1967年)による復元・複製である。
博物館展示のフレスコ画を観ると残留断片が非常に少ないことが分かる。イルカのフレスコ画の本物の破断片に複製のイルカ個体画が描き加えられ、イラクリオン考古学博物館で展示公開されている(左上写真)。

「世界最古のお風呂」・ミノア王妃のバスルーム/テラコッタ製のバスタブ(浴槽)

王妃のバスルーム&王妃のバスタブ/癒されるバスタイム
  王妃の間の西側には直結されたバスルーム(浴場)がある。残念ながら、現在王妃のバスルームの立入見学は許されていない。王妃のバスルームはそれほど広くなく、内部には小さな鉢植えなどを飾ったであろう高さ1mの仕切り壁と円柱1本があることから、バスタブが置かれた実用のお風呂スペースは、正確には南北2.4m、東西2.3m(和風サイズ換算=約3畳半)である。

発掘者エヴァンズは壁面の高い位置に直線と渦巻き線紋様を復元・複製しているが、ちまたで「世界最古のお風呂」と話題になっている割には、王妃のバスルームは極端な豪華さは一切なく、実際にその場に立ってみると、単にバスタブを使って湯水で「身体を洗う」という実用本位であったように感じる。
王妃のバスルームの壁や床面は、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が火災で崩壊した「最後の状態」を今に伝えているが、発掘後の時候経過と乾燥した外気に触れていることから、1982年の見学時でもバスタブにクラック割れが確認でき、壁面の石膏石の剥離と劣化もかなり進行していた。

            クノッソス宮殿遺跡・ミノア王妃のバスルーム・「世界最古のお風呂」 Minoan Queen's Bath-tub, Knossos Palace/(C)legend ej
             3,600年〜3,400年前・「世界最古のお風呂」/クノッソス宮殿遺跡・王妃のバスルーム
             ミノア王妃が入浴したバスタブ(浴槽)/クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)

多くの人が関心を持っている「世界最古のお風呂」であるミノア王妃のバスタブ(浴槽/上写真)は、高温度で焼成された素焼き粘土のテラコッタ製、頭を置く場が少し縁高のデザインである。バスタブの長さは約155cm、外周側面に円形とツタの葉か、パピルスの花かあるいは揺らぐアシのような植物の葉を連鎖モチーフにしたクール・デザインで装飾されていた。

バスタブの底には排水栓がなく、王妃は湯水を満たしたタブで、あるいは女官により次々に運ばれるアンフォラ型容器から湯水を少しずつ身体に掛け流され入浴していた。王妃の入浴の後、女官はタブの水を容器でかき出して床面に流していた。その排水は王家のプライベート生活区画の床下に設けた高度な排水路システムを経由して宮殿外部へ流された。

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ミノア王妃の入浴/フラワーバスを使ったか?/ハーブバスだったのか?
  上写真は私が1982年に撮影したもので、発掘時のままの王妃のバスタブがバスルームの北西隅に置かれていた。王妃のバスタブは隣の王妃の間の壁面を飾る「こうであろう復元・複製」のイルカのフレスコ画と異なり、ミノア時代の正真正銘のバスタブである。
ミノアの時代には、おそらくバスタブはお風呂スペースの真ん中に置かれ、タブの周りで複数の女官が王妃の入浴を世話していたのであろう。幾らかの研究者は、女官達はエーゲ海特産の天然海綿スポンジを使って王妃の脚を洗う役、身体を洗う役、髪を流す役など数人構成でそれぞれ担当が専任されていたと想像している。

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ギリシア本土ミケーネ文明の宮殿の「バスルーム/バスタブ」

ほかの文明宮殿のバスタブ/石製バスルーム
  王妃のバスタブに関しては、ギリシア本土メッセニア地方ネストル宮殿遺跡では、3,250年ほど前に設置したと考えられる石膏塗り施工、表面にきれいな幾何学紋様の装飾が確認できる粘土製のバスタブ(下写真)が発見されている。このバスタブは重量もある備付タイプ、移動できずに発掘後もそのままの状態を保っている

            ミケーネ文明・ネストル宮殿遺跡・王妃のバスタブ/(C)legend ej
          ネストル宮殿遺跡・王妃の間・バスタブ/紀元前12世紀/ペロポネソス・メッセニア地方/1982年
          Web ギリシア本土ミケーネ文明のネストル宮殿遺跡と周辺遺跡

さらに、ペロポネソス・アルゴス地方の世界遺産ティリンス宮殿遺跡では、推定重量20トンとされる石灰岩製の「2.7mx3m」の大きな一枚岩のバスルーム床面(下写真)が見つかっている。

            ミケーネ文明・ティリンス宮殿遺跡・バスルーム/(C)legend ej
        ティリンス宮殿遺跡・広い一枚岩のバスルーム/紀元前12世紀/ペロポネソス・アルゴス地方/1982年
        Web 世界遺産/ギリシア本土ミケーネ文明のティリンス宮殿遺跡とトロス式墳墓

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クノッソス宮殿遺跡/王妃の化粧室/女性達の息抜きの場所

王妃の化粧室/石製ベンチ
  クノッソス宮殿の王妃の間から、バスルーム脇を通る通路(現在=立入禁止)を西方へ進むと「王妃の化粧室」、または「トイレと石膏石ベンチの部屋」と呼ばれる正方形の部屋となる。この部屋はおそらく王妃がメイキャップや衣装の着替え、そしてトイレとして使ったと考えられる。部屋の南西隅には石膏石のベンチが備えてある。

クノッソス宮殿遺跡/ミノア王妃の「水洗トイレ」/排水路システム

大地震の後の新宮殿設計/水洗トイレの構想/トンネル排水路システム
  ミノア王妃の化粧室には、紀元前15世紀以前に早くも「水洗トイレ Flushing Toilet」が完備されていた。

クノッソス宮殿遺跡・ミノア王妃の水洗トイレ Minoan Queen's Flushing Toilet, Knossos Palace/(C)legend ej 王妃のトイレ区画(左写真)は、王妃の化粧室の中に設けた狭い空間
 で、幅1.1mのトイレ区画の両脇を石膏石の幅板ボードで囲い、おそらくプ
 ライバシーを確保するために木製のドアー(下描画)が設けてはずで、空
 間の奥部に深溝を備えたシンプルな構造である。

 クノッソスでは新宮殿の造営時、今から3,625年前、紀元前1625年頃、
 地中に埋め込まれた3系統の排水路システムと一緒に、王妃の化粧室に
 ある水洗トイレも設備された、と想定できる。

 その後、紀元前1375年頃に新宮殿が崩壊するまでの間、漆喰塗装やド
 アーの交換などの部分的なメインテナンスは間違いなく行われたにせよ、王
 妃の化粧室の水洗トイレは、約250年の間、代々のミノア王家(晩期
 75年間=占領ミケーネ人統治者)により使われ続けて来たのである。



 クノッソス宮殿遺跡・王妃の化粧室・ミノア王妃の「水洗トイレ
 正面=白色石膏表装の痕跡/右壁面=イス固定の縦溝の痕跡
 クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)






            クノッソス宮殿遺跡・ミノア王妃の水洗トイレ Flushing Toilet for Minoan Queen, Knossos Palace/(C)legend ej
                  クノッソス宮殿遺跡・王妃の化粧室・「水洗トイレ」の仕組み
                  推定木製座りイス=横幅約110cm 奥行き約55cm 高さ約53cm
                  1982年/描画=Web管理者legend ej

列記とした「水洗トイレ」
  「王妃の水洗トイレ」のイメージ描画は、発掘者エヴァンズの母校オックスフォード大学に保管されているエヴァンズの残した発掘レポートを参考にして、壁面や地中の深さなど、私がほぼ忠実な位置関係でトイレ区画をイメージ化したものである。
エヴァンズの発掘レポートでは、王妃のトイレ区画は横幅約1.1m 奥行き約1.3mのスペース、上写真でも確認できるが、左右の石膏石ボードの下部に刻んだ縦溝の凹みがあり、これを利用して奥部の深溝を覆うように、横幅1.1m 奥行き約55cm 高さ約53cmのベンチ風の木製座りイスが固定されていた(上描画)と想定されている。当然、座り部分の横板には施設に相応しい穴が加工され、取付位置は不明だが、間違いなくそれ程高くない木製ドアーが装備され王妃のプライバシーを確保していたと考えられる。

水は女官の「手流し方式」
  通常では、トイレが済んだ後、「終わったわ、お水を流して頂ける、ナディア」、「はい、王妃様」と、ドアーの外で待機する女官ナディアがアンフォラ型容器から床面隙間へ適量の水を注ぎ込み(上描画)、汚水は壁面の下を通過して、地中に埋め込まれたトンネル状排水路から宮殿外部へ流された。
この方法では、水を流すのはオートマティックでなく女官ナディアのマニュアル操作・「手流し方式」だが、処理方法の区分から言えば、列記とした「水洗トイレ Flushing Toilet」であった、と私は確信する。

※ミノア王妃のバスルーム&「世界最古のお風呂」・水洗トイレなどの詳細:
A-KDP クレタ島ミノア文明 クノッソス宮殿遺跡

クノッソス宮殿遺跡/美しい建築の列柱の間

朱色円柱の吹き抜け構造の広間
  王家の家族が生活した宮殿の東翼部の王家プライベート区画に隣接した壮麗な区画、上述の作図で言えば左上部分であるが、「列柱の間/柱廊の間 Pillar Hall」と呼ばれる朱色の円柱と階段で構成された吹抜け構造の非常に美しい区画がある。
ただし、残念ながら列柱の間/柱廊の間は一階部分を除き、階上の建物部分、大型円柱とその朱色と黒色の塗装、開いた二枚貝をモチーフにした「8の字形」の大きな盾(たて)の絵柄のフレスコ画などは、すべて復元・複製されたものである。

            ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・列柱の間 /(C)legend ej
             クノッソス宮殿遺跡・東翼部・列柱の間/クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)

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クノッソス宮殿遺跡/ミノア王の執務室の周辺
上述・「クノッソス宮殿遺跡・平面アウトライン図」

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間/(C)legend ej
               クノッソス宮殿遺跡・王座の間 Throne Room/クレタ島/1982年
               焼け焦げた石製王座とそれを取り囲む長い石製ベンチや床面はミノア時代の遺構
               鮮やかに描かれた「グリフィン」のフレスコ画壁面は、エヴァンズが複製したものである

西翼部・王座の間
   クノッソス宮殿の中央中庭に面する西翼部の真ん中付近に階上へ昇る幅のある「大階段(復元)」があり、その北側には「控えの間」と呼ばれる格式のある部屋が配置されている。また西翼部の上階へ上がる正規の大階段の配置位置は、イラクリオンの東方35kmのマーリア宮殿とほとんど同じ配置である。

控えの間の奥に配置された王座の間(Throne Room 上写真)は、予想に反して決して大きな部屋ではないが、向かい合う想像上の動物である「グリフィン」のフレスコ画が描かれた非常に神秘的で威厳を感じる部屋である。石膏石の敷かれた王座の間の壁面に沿って、部屋を3/4周するように(控の間側には無い)石製ベンチが設けられ、3,400年以上前にミノアの王が実際に座っていた石製の王座が南向きに据えられている。

石製の王座のある王の執務室
  歴史に出てくる多くの国の王座がそうであったように、っクノッソス宮殿の王座の背もたれも権威と格式を示すように垂直に立っている。この王座の間は明らかにクノッソス宮殿の統治者であったミノア王の公的な執務室であり、また神聖な儀式が執り行われた部屋でもあった。
かつて3,500年以上前の状態の石製ベンチは、現在で言うならば政府の内閣官房や閣僚達が座るためにあり、王座に座った王からの指令を受け、重要会議や祭祀・儀式など、王座の間では国家レベルの決め事、高位な神官による定期的な神への祈祷などが行われたのであろう。
王座の間の周辺の建物構造は、宮殿・東翼部の王家の生活区画と同様にかなり複雑で、エヴァンズの発掘ミッションでは、王座の間からの出土品は「何一つ無かった」とされる。この王座の間はその性格上、余計な飾り物などを置く必要のない、この部屋の神聖な空気にこそ重要な意義があったのであろう。

石製ベンチ/「聖なる浴場」
  王座の間の南側正面には王座の両脇と同様に石製ベンチがあり、ベンチの背面の高さのない壁の上面には円柱が立ち、円柱の向こう側(南側)には、王座の間区画のもつ神聖さを象徴する回り階段で下がった半地下式の「聖なる浴場」が配置されている。
ミノア文明の時代、宗教的な儀式などが執り行われた「聖なる浴場」と呼ばれる部屋は、今日の「身体を洗う風呂」の設備ではなく、無論半地下式の単なる水汲み場や湧水でもない。 「聖なる浴場」は両刃斧の装飾や記号と並び、ミノア文明にとり極めて重要な聖なる意味と威厳をもつ場所であった。

また、王座の間の隣(西側)には、神聖な儀式に関係したとされる複数の狭い部屋が連結され、その内の一つの部屋から石製ランプが発見された。重要なことは、現在ツーリストの立ち入りが禁止されているこれらの複雑構造の付属部屋への出入りが、王座の間以外に連絡できないような「特異な構造」となっている点である。

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                      グリフィン「グリフィン」のフレスコ画グリフィン

王座の間の二つの壁面(北壁と西壁)を飾っている頭が鳥、身体がライオンのような四足動物である「グリフィン Griffin)」は、ミノア文明のフレスコ画に頻繁に登場する聖なるモチーフである(右下写真)。
同様なグリフィン描写のフレスコ画の断片(左下写真)が、ペロポネソス・メッセニア地方ネストル宮殿の王妃の間からも発見されている。さらにフェストス(ファイストス)宮殿から近いアギア・トリアダ準宮殿遺跡で発見された装飾ラルナックス棺(紀元前1400年/イラクリオン考古学博物館)の側面には、「グリフィン」の牽く女神の乗る走行馬車が描かれていた。
また、ミノア文明だけでなくギリシア本土のミケーネ文明でも、さらに中東地域でも、「グリフィン」の絵柄は象牙彫刻や石製印章や金製リングなどにも表現されている。
クノッソス宮殿の王座の間を飾る「グリフィン」のフレスコ画に関して、発掘時に王座の間の壁面がほとんど崩壊状態であったことから、残念ながら壁面と「グリフィン」は、発掘者エヴァンズとオランダ系イギリス人の考古学・建築美術家 Piet Christiaan de Jong により複製されたものである。

ミノア文明・フレスコ画・「グリフィン」/(C)legend ej
ネストル宮殿遺跡・フレスコ画・「グリフィン」の断片               クノッソス宮殿遺跡・王座の間
ホーラ考古学博物館                                 壁面に描かれたフレスコ画・「グリフィン」
ペロポネソス・メッセニア地方/1982年                     クレタ島/1982年
Web ギリシア本土メッセニア地方のミケーネ文明のネストル宮殿遺跡と周辺遺跡

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控えの間
  中央中庭と王座の間に挟まれた控えの間は、床面に石灰岩と石膏石を敷き詰めた仕様で、中央中庭よりわずかに低いレベルである。部屋の左右(南北)の壁面には、隣の王座の間と同様な形式の3,500年以上前の石膏石製のベンチが残されている。
おそらくこの石製ベンチには、(この部屋が言葉通りの控えの間であったなら)ミノア王に面会する人が、その順番が来るまでここで待機して座っていたと想像できる。あるいは謁見や儀式の際に、王座の間に着席できない準トップクラスの、今で言えば省庁の事務次官や局長クラスの人や見習い神官などが、この部屋で謁見や儀式の進行を見守ったのかもしれない。

            ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・控えの間/(C)legend ej
            クノッソス宮殿遺跡・控えの間(王座の間の前室)/大型石製水盤が無造作に置かれている
            クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej

1982年、私が最初にクノッソス宮殿遺跡を訪れた時、控えの間の床面には大型の石製水盤が無造作に置かれ、その向こう側(描画の上方)には壁面に沿って石膏石製のベンチが見える。クレタ島の暑い夏の午後、こちら側のちょっと冷たい石製ベンチに座り、私が小休止をしていた際の情景を描画にした。

石製大型水盤
  現在、王座の間の床面に置かれている硬い石製の大型円形水盤は、私が最初にクノッソス宮殿遺跡を訪ねた1982年には、上描画のように、ツーリストが見学できる控えの間の床面に無造作に置かれていた。
そして、何時の間にか、おそらく1990年代の後半以降か、当の水盤は王座の間・王座の前へ移動させられてしまった。しかし、残念ながら厳密には、この石製水盤は王座の間からの出土品ではない。実は水盤は王座の間の北側、王座の背面の復元壁の向こう側に配置され、階上の複雑な部屋へ連絡していた階段通路で発見されたのである。故に研究者の間では、王座の間から壁を隔てて北側にあるこの階段通路は「石製水盤の通路」と呼ばれている。
結構大型サイズで重量もある水盤が、もともと石製水盤の通路に置いてあったとは考え難く、紀元前14世紀にクノッソス宮殿が大火災で崩壊する時、現在、美しいフレスコ画が復元・複製されている階上の吹抜構造の壮麗な広間から落下した可能性が最も正しい推測であろう。

クノッソス宮殿遺跡/宗教関連の施設/聖なる祭祀・儀式の区画
上述・「クノッソス宮殿遺跡・平面アウトライン図」

西翼部一階・クノッソス宮殿の「聖域」
  クノッソス宮殿の最も重要な区画、宮殿の「聖域」は中央中庭の西側を占める宮殿・西翼部一階の中央付近である。西翼部の北区画にある王座の間の南側には復元された大階段があり、下作図のとおり、その南側が「聖域」にあたる。

             クノッソス宮殿遺跡・「聖域」 Sanctuary of Knossos Palace/(C)legend ej
                    クノッソス宮殿・西翼部1F・「聖域」周辺(現在=立入禁止区域)
                    クレタ島/1982年/作図=Web管理者legend ej

「聖域」・三分割聖所
  現在、クノッソス宮殿遺跡では一部写真撮影が許されている西翼部・王座の間や東翼部・王妃の間などを除き、多くの区画で外観を見せて内部を見せないロープ規制が敷かれ、遺跡のほとんどがツーリスト立入禁止の対象になってしまった。ミノア王の執務室であった王座の間と並び、クノッソス宮殿遺跡の最も重要な意味を成す区画は、西翼部一階を占有する宮殿の「聖域」であったと確信する。
しかし、1980年代には許されていた「聖域」の内部への立ち入りは、大挙して訪れる一般ツーリストの増加に伴い、遺跡保護を優先するギリシア政府により、この区画も完全に立入禁止にされてしまった。

現在、崩壊壁面がゴロゴロと並べてあるが、「聖域」の正面入口へ向かって右側(北側)は「三分割聖所 Tripartite Shrine」と呼ばれる、言わば「聖域」の正面部ファサードであった(下描画)。
中央中庭の西側、最も目立つ場所であった「聖域」の三分割聖所は、宗教思想の重要性からしても、細部まで整然と色鮮やかな色彩の表装が施されていた。

       クノッソス宮殿遺跡・三分割聖所 Tripartite Shrine, Knossos Palace/(C)legend ej
                  クノッソス宮殿遺跡・西翼部1F・「聖域」・「三分割聖所」 再現予想図
                  2本円柱間隔=約1m 全横幅=約5.2m
                  原画情報: 発掘者サー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur Evans
                           「The PALACE of MINOS at KNOSSOS V2(1928)」
                  模写: 2018年/描画&色彩=Web管理者legend ej

現在、「聖域ではロープ規制が行われ、ツーリストの立入禁止区域となっているが、かつて私が初めてクノッソス宮殿遺跡を訪ねた1982年には、三分割聖所の南側の正面入口から数段のステップで「聖域」の内部へ脚を踏み入れることが出来た。
先ず、石膏石舗装された東西8m、南北6mほどの空間は「石製ベンチの控え室」と呼ばれ、北側の壁面には石膏石製ベンチが有り、この「聖域」で執り行なわれたであろう重要な祭祀・儀式の関係者の待機に使われたと推測できる。
西翼部のこの周辺は崩壊が激しく、明確に判断できないが、この「聖域」の区画には少なくとも18〜20を数える部屋が連なり、この控え室の正面入口はそれらのすべての部屋へ通じていた。さらに控え室の内部には北〜西〜南側に配置されたそれぞれの聖なる部屋へのドアー口があった。

石製ベンチの控え室の南側は崩壊の激しい区画だが、控え室の南7m付近に正方形の小部屋があり、発掘作業では二輪走行車(馬車)や馬などが刻まれた「線文字B粘土板」が発見されている(下描画)。

            クノッソス宮殿遺跡出土・線文字Bスクリプト粘土版 Linear B, Knossos/(C)legend ej
                     クノッソス宮殿出土・線文字Bスクリプト粘土板
                     紀元前1450年頃以降のクレタ島占領ミケーネ人の文字
                     イラクリオン考古学博物館/登録番号1609/長さ100mm
                     1982年/描画=Web管理者legend ej

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「聖域」・神殿宝庫
  石製ベンチの控え室の北側の位置、石製ベンチの左側(控え室の北西端)から入ると石膏石舗装された二つの部屋がある。
この場所こそが、、ミノア文明を象徴するに値するファイアンス製(Faience 色彩装飾陶器)の「蛇の女神像」や「ライオン頭型リュトン杯(リトン杯・後述)」などが発見された宮殿の「宝庫」の区画である。現在、「宝庫」は立入禁止区域となっている。

北側の奥の部屋が、研究者に「神殿宝庫 Temple Repositories(左下写真)」と呼ばれる宝飾品の保管庫で、東西に少し離れて2か所、方形の収納ピット穴があり、ピットの内壁面は厚さ15cm以上の石膏石の平板で堅固な箱状に形容されている。
写真では見難いが、ピット穴壁面には同じ高さ位置に複数の小穴が施工されてい。おそらくは細棒が水平に差し込まれ、薄板がセットされ、その上に数々の宝飾品が置かれていたと推測できる。また二つの深い収納ピット穴の間にやや遅い時代に属する小型長方形の浅い収納ピット穴があり、この中からも幾らかの宝飾品類が見つかっている。

三体のファイアンス製の「蛇の女神像」を初め、色塗装された貝殻と模造貝殻、複数のファイアンス製のトビウオやフルーツ類や花の装飾品、細かなビーズ類、動物骨と象牙製の装飾品、金製の小品、そして150点の粘土板など、正におびただしい数のミノア文明の宝飾品類と記録物が出土したこの神殿宝庫こそが、クノッソス宮殿遺跡とミノア文明を解明する意味で最も重要な場所である、と言っても間違ってはいない。

       ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「神殿宝庫」Temple Repositories, Knossos Palace/(C)legend ej
       神殿宝庫/宝飾品類の収納ピット穴          大型ピトスの部屋/宝飾品類の収納ピット穴
       クノッソス宮殿遺跡・西翼部1F・「聖域」/クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)
       収納ピット深さ1.5m/大型ピトス高さ165cm

※クノッソス宮殿遺跡・「聖域」と出土品の詳細は:
A-KDP クレタ島ミノア文明 クノッソス宮殿遺跡

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現代的に思考すると、たとえ古代文明の時代とは言え、宝飾品の「地中保管」とはあまりの無謀な話に聞こえる。しかし、特に乾燥が激しい風土であるエーゲ海クレタ島の自然環境を考慮した時、単純に部屋の棚上や壁面のニッチ(凹部)に乾燥でダメージを受け易い象牙や陶器、テラコッタ製の宝飾品を保管するより、年中湿度が安定した地中の方がより有利である、とミノアの人々は発想したのであろう。

また、宝飾品の地中保管に関しては、クレタ島東端のザクロス宮殿遺跡の宝庫(下写真)では、土間にセットされた泥を積み上げた枠の中に宝飾品が保管されていたことでも、地中の湿度の活用価値はミノア人の先見の共通認識であったと考えられる。

            ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・宝庫/(C)legend ej
                      ザクロス宮殿遺跡・西翼部・宝庫区画/クレタ島/1982年

            ザクロス宮殿遺跡・ちょうの宝飾品/オオム貝宝飾品/(C)legend ej
               ザクロス宮殿遺跡・西翼部・宝庫出土・宝飾品/イラクリオン考古学博物館
               左: 象牙製・「ちょう」の宝飾品/登録番号323
               右; ファイアンス陶器・「オオム貝」の宝飾品/登録番号311/横幅約220mm
               クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej
               Web 未盗掘で発見されたクレタ島・ミノア文明のザクロス宮殿遺跡

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「聖域」・大型ピトスの部屋
  クノッソス宮殿遺跡の「聖域」の石製ベンチの控え室と神殿宝庫に挟まれた部屋は「大型ピトスの部屋 Tall Pithos Room」と呼ばれ、100年前のエヴァンズの発掘作業では大型ピトス1基と中型ピトス4基が出土した。私が初めて訪れた1982年には大型ピトスがそのまま放置されていた(上述 神殿宝庫・右写真)。この部屋の床面にも長方形の浅い収納ピット穴があり、幾らかの宝飾品類が出土した。

私が写真を撮った大型ピトス容器は、今日、博物館に収納されたはずだが、宮殿・西翼部の貯蔵庫群の長い通廊(後述写真)に残されている、紀元前1450年頃に属するミノア文明の典型的な大型ピトス容器と同じ様式で、円形の「メダリオン紋様」と呼ばれる幾何学デザインが施されていた。
立ち入りが許されていた1982年、広角レンズ(一眼レフ f=28mm)で撮影したピトス容器は、一見では中型タイプに見えるが、実測高さ=165cm、大人の肩ほどの高さの大型容器であった。

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「聖域」から出土した宝飾品・「蛇の女神像」・「野生ヤギの授乳像」
  クノッソス宮殿・西翼部一階の「聖域」の内部、神殿宝庫から出土した優れたファイアンス製(色彩装飾陶器)の「蛇の女神像 The Snake Goddess」は、上半身の欠けた一体を含め、同じ製作様式の合計三体が、厳密には宝庫の東側の収納ピット穴の中から見つかった(ページトップ・描画)。
「蛇の女神像」はミノア文明を象徴するに相応しい宝飾品であり、クノッソス宮殿遺跡の直ぐ北東側にある小宮殿から出土した「雄牛頭型リュトン杯」と並び(後述)、ギリシア関連の文明・歴史書やガイドブックなどの表紙を飾っている。また、1903年のエヴァンズの発掘ミッションで、この神殿宝庫の収納ピット穴からファイアンス製の「蛇の女神像」が発見されたことから、一部の研究者はこの「聖域」を「蛇の女神の聖域」と名称することもある。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「蛇の女神像」/(C)legend ej 高さ295mmの像では、両手に蛇を持った細身の「蛇の女神」
 の豊かな胸は、コルセットのような引き締まった衣装から完全には
 み出している(左写真・右像/ページトップ描画=拡大)。
 この女神の頭上には、レパード(ヒョウ)か、メスライオンか、ネコ
 科の動物が佇んでいる。
 上述の通りミノア文明ではグリフィンと並んで、ネコ科のメスライオン
 も女神の守護の役目を果たしている。

 また、高さ342mmの大きい女神像は、両腕に蛇を巻きつけて
 いる(左写真・左像)。


 クノッソス宮殿遺跡出土・ファイアンス陶器・「蛇の女神像」
 紀元前1600年/イラクリオン考古学博物館/1982年
    左像: 登録番号63/高さ342mm
    右像: 登録番号65/高さ295mm




これらのファイアンス像は、その製作技術と表現のもつ意味からして、紀元前17世紀の終わり頃、旧宮殿時代が終わり、新宮殿時代がスタートした時期、紀元前1625年前後の最高傑作の美術品と言える。

クノッソス宮殿遺跡・神殿宝庫の収納ピット穴で見つかった宝飾品では、同じような製作で2個の見事なファイアンス陶器がある。一つは「親牛が子牛に授乳する姿」、もう一つは野生の「親ヤギが小ヤギに授乳」するシーンが表現されている(下描画・2点)。
野生ヤギや牛など動物の授乳シーンでは、ミノア文明のファイアンス陶器のみならず、自然主義のミノア人のメンタル面を反映していることから、多くの石製や金製の印章にも刻まれている。

            ミノア文明・ファイアンス陶器・「牛の授乳」 Minoan Faience Plaque, Knossos/(C)legend ej
            クノッソス宮殿遺跡・神殿宝庫出土・「牛の授乳」のファイアンス陶器/紀元前1600年
            イラクリオン考古学博物館/登録番号68/長さ190mm/クレタ島
            1982年/描画=Web管理者legend ej

            ミノア文明・ファイアンス陶器・「ヤギの授乳」 Minoan Faience Plaque, Knossos/(C)legend ej
            クノッソス宮殿遺跡・神殿宝庫出土・「野生ヤギの授乳」のファイアンス陶器/紀元前1600年
            イラクリオン考古学博物館/登録番号69/長さ190mm/クレタ島
            1982年/描画=Web管理者legend ej

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「聖域」・支柱礼拝室
  クノッソス宮殿の支柱礼拝室 Pillar Crypt は、復元された大階段の南側、中央中庭の西側・西翼部の非常に重要な宮殿の「聖域」の内部、詳細に言えば、無数の宝飾品類が見つかった神殿宝庫と大型ピトスの部屋などの南西側の奥部に位置している( 左下写真)。
また、支柱礼拝室は「聖域」の中心である石製ベンチの控え室〜西方の貯蔵庫群の長い通廊へ連絡できる、狭い通路のような形容の「二部屋の連なり」で構成されている。双方の礼拝室には外部からの明り取り用の窓がなく、内部は非常に暗く、あくまでも石製ランプの灯りだけが頼りの「特異な場所」である。

二つの支柱礼拝室の壁面は、紀元前1375年頃、宮殿崩壊時の大火災で真っ黒に焼けただれている。この部屋では、ミノア時代、極めて重要な聖なる祭祀・儀式が執り行われていた、と研究者は考えている。

   ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・支柱礼拝室 Pillar Crypt, Knossos Palace/(C)legend ej     クノッソス宮殿遺跡・支柱礼拝室・両刃斧記号/(C)legend ej
  クノッソス宮殿遺跡・西翼部・東支柱礼拝室            クノッソス宮殿遺跡・西翼部・支柱礼拝室/発掘時の状況
  クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域) 発掘者エヴァンズ・「Mycenaean Tree and Pillar Cult and Its Medi-
                                terranean Relations/1901写真」より描画=Web管理者legend ej

最も神聖なシンボル/両刃斧の記号
  支柱礼拝室に立っている石積角柱の下から第2段・3段・4段目、柱の中心より左寄り表面には各々若干斜めに刻まれたミノア時代の「聖なる両刃斧(ラブリュス)」の記号、丁度日本の「竹トンボ」か、蝶(ちょう)のような感じの刻み(左下描画)がわずかに確認できる。両刃斧の記号は、二つの支柱礼拝室の2本の支柱を合わせると合計20か所に刻みが残されていた。

聖なる両刃斧  ミノア文明では政治と宗教は強く結び付き、多神教の思想からして、例えば聖なる動物とされた力のある雄牛やその
  角を初め、複数の崇拝対象があった。その中で両刃斧の記号のある場所は、限られた人だけが近づくことができる非
  常に「特別な場所」を意味していた。

ミノア文明・装飾用両刃斧/(C)legend ej 斜めに刻まれ、配置も決して規則正しいと言えないが、ミノアの人々にとりあらゆる宗教的な崇拝シ
 ンボルの中で「最も神聖」とされた両刃斧の記号、あるいは高さ2mを越す長い支持棒に取り付け
 られた超大型の青銅製の装飾用の両刃斧は、極めて重要な「神聖な標識」であり、神と王からの
 最も高次な宗教的な「警告」でもあった(左描画)。

 支柱礼拝室は非常に暗く何か怖いくらいの畏敬と言うか、神聖なる空気が漂う場所でもあるが、ク
 ノッソス宮殿で最重要の場所の一つであったことを知っていればこそ、ぜひとも立ち入って詳細に見
 学したい区画と言える。
 現在、残念ながらクノッソス宮殿の最重要な「聖域」は、一般ツーリストの立ち入りが「全面禁止」
 となってしまった。



 ミノア文明・青銅製の装飾用の両刃斧&支持棒・石製の保持台
 石製保持台はエヴァンズが「貯蔵庫の長い通廊」の発掘作業で発見した「ピラミッド型」
 描画=Web管理者legend ej

焼け焦げた部屋と大型角柱
  支柱礼拝室の焼けただれた角柱の黒焦げ状態は、紀元前14世紀、クノッソス宮殿が最終的に崩壊した時に焼けた跡である。なお東支柱礼拝室の大型角柱を挟んで手前と奥に見える床面の浅いピット穴は、私が最初に訪ねた1982年では、灰に半分ほど埋まっていたが、発掘レポートでは儀式に使った品物を収納した場所とされる。

支柱礼拝室は二つ連結するように東西に横並びの配置、東礼拝室の直ぐの西側にも同様な西支柱礼拝室があり、さらに北隣にも連結する小部屋が配置されている。礼拝室と同様に、これらの周辺付属部屋の室内も火災の跡が生々しく残る真っ黒焦げである。立ち入りが許されていた1980年代には、3,400年前の焼けた灰のような乾いた土がそのまま残され、全てが窓もなく狭く暗い空間であった。
これらの奥まった部屋から幾らかの祭祀・儀式的な用品が出土していることから、支柱礼拝室で執り行われた何か特別な儀式のための準備室、またはそれらの用品の保管室であったかもしれない。

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他のミノア宮殿との共通点
  参考だが、メッサラ平野のファイストス(フェストス)宮殿遺跡の南西翼部の複雑な区画では、壁面に両刃斧の聖なる記号が刻まれた4室の小部屋がまとまって配置されている(下写真)。さらにイラクリオンの東方約35km、エーゲ海岸の平野でフランス考古学チームにより確認されたマーリア宮殿遺跡・西翼部の支柱礼拝室内には、聖なる三叉記号や星型、両刃斧の記号を刻んだ大型サイズの角柱2本が残されている(下描画)。
これらの重要なミノア宮殿にもクノッソス宮殿の支柱礼拝室と同様な機能を有した支柱礼拝室があり、いずれも神聖な儀式を行なう宗教的に極めて重要な「聖域」であったと考えられる。

            フェストス宮殿遺跡・「聖域」/(C)legend ej
        フェストス(ファイストス)宮殿遺跡・南西翼部の聖域(現在=立入禁止区域)/クレタ島/1982年

       ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Pillar Crypt, Malia Palace/(C)legend ej
       マーリア宮殿遺跡/西翼部・支柱礼拝室周辺/クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej
       構造的にクノッソス宮殿遺跡・支柱礼拝室に類似/中央の角柱・最下段&二段目=「両刃斧」の記号あり

Web クレタ島ミノア文明のフェストス宮殿遺跡/アギア・トリアダ遺跡
Web クレタ島ミノア文明のマーリア宮殿遺跡/アムニッソス遺跡/ニロウ・カーニ遺跡

クノッソス宮殿遺跡/南東翼部・宮殿聖所

南東翼部・王家の「両刃斧の聖所」
  西翼部の支柱礼拝室と並びクノッソス宮殿の重要な祭祀・儀式の役目を果たしていた場所は、中央中庭の南東側で、王妃の間の南側を占める「両刃斧の聖所」と呼ばれる区画である。
クノッソス宮殿の南東翼部は、新宮殿が紀元前1375年頃の大火災で崩壊した後、それ以降完全に放棄されたままの状態で発見された場所である。両刃斧の聖所は正確な構造で、北区画と南区画、二分割された配置である。

北区画には舗装された狭い通路があり、間違いなく「聖所」の構造である。発掘時の北区画にはピトス容器を収める小さな部屋、さらに幅50cm 奥行き2.5mほどの狭い空間には丁度大型コップか花瓶のような高さ20cm〜30cm、寸胴形で広い口縁部の水入れ容器10個ほどが積み重ねるように集められていた。地味な形容だが、これらの容器の絵柄に白いユリが描かれていたことから、発掘者エヴァンズはこの狭い空間を「ユリ容器の置き場 Magazine of Lily Vases」と呼んだ。

その南側に隣接して狭い入り口、床面と壁面が石膏板で丁寧に表装された、2mほどの正方形の部屋があり、中には中期ミノアV期〜後期ミノアIA期、紀元前1625年〜前1500年頃の「浴槽」が置かれていた(下描画)。

クノッソス宮殿遺跡・両刃斧の聖所・聖なる浴槽/(C)legend ej 浴槽の長さは約1.5m、縁は傾斜して最大高さ約50cm、横
 幅が狭いことから王妃の間に隣接する王妃のバスルームに残され
 ていた「世界最古のお風呂」の実用的なバスタブ(上述)と
 は異なり、明らかに何か特別な祭祀・儀式に使われた「聖なる
 浴槽
」と考えられる。


 クノッソス宮殿遺跡・宮殿聖所出土/祭祀・儀式用浴槽
 イラクリオン考古学博物館/クレタ島/1987年
 描画=Web管理者legend ej

聖所に深く関わる狭く特殊な配置の「浴場」に関しては、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡の南翼部・「宮殿聖所」の区画の「フレスコ画の部屋」でも、この浴槽と同様に長さ1.5mのテラコッタ製の「聖なる浴槽」が発見されている。このことから、ここクノッソス宮殿・南東翼部の宮殿聖所の狭い部屋と浴槽も、祭祀・儀式用であったのは間違いないだろう。
Web ギリシア本土ミケーネ文明/ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・「アトレウスの宝庫」

発見された場所からして、宮殿聖所の狭い部屋と浴槽の存在で連想できることは、この場所が非常に「特別な聖なる用途」のためにだけ使われたはずである。
発見された特殊な浴槽は日常生活の「お風呂・バスタブ」としてではなく、例えば、祭祀・祈祷などの儀式が執り行われる時、王族や神官などが事前に手足の洗い清めをする、キリスト教徒の洗礼式のように子供達の誕生時に入水させる、比較的大きな像やオブジェなどを洗う儀式、あるいは王族が亡くなった時に遺体を清めるなどのために使われた、と想定できる。

聖所の南区画では、南入口から中央中庭へ登る外の通路に並行して、建物内部には南〜北に1本、北区画との境壁面沿いの東〜西に1本の狭い通路がある。通路を除く長方形の区画に狭いスペース的な空間を含めると合計9部屋が配置されている。
その内最も北西端には、紀元前1375年〜前1300年頃、クノッソスの宮殿時代より後期の崇拝室がある。この部屋の漆喰祭壇の上には、祈祷・崇拝に使ったのか2個の焼成石膏製の雄牛角型オブジェ、「ハトの女神像 Dove Goddess」を含む五体の小型テラコッタ塑像が置かれていた。

さらに、南区画の南東端には「聖なる浴場」が配置されている。南区画の「聖なる浴場」は、発掘時のままの状態が保たれ、通路と階段の側壁面は、マーリア宮殿遺跡のそれと同じく美しく研磨加工された石膏石で表装施工されている(下写真)。
クノッソスの宮殿時代の宮殿聖所は、研究者に「両刃斧の聖所」と呼ばれるように、王家だけが専用に使うことができた、言わば「内輪の聖所」だったかもしれない。

            クノッソス宮殿遺跡・「両刃斧の聖所」/(C)legend ej
                   クノッソス宮殿遺跡・宮殿聖所・「聖なる浴場」/クレタ島/1982年

            ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・「聖なる浴場」/(C)legend ej
                 ザクロス宮殿遺跡・「聖なる浴場」/クレタ島/1982年
                 Web 未盗掘で発見されたクレタ島・ミノア文明のザクロス宮殿遺跡

             マーリア宮殿遺跡・「聖なる浴場」/(C)legend ej
            マーリア宮殿遺跡・「聖なる浴場」/クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej
            Web クレタ島・ミノア文明のマーリア宮殿遺跡

ミノア時代の半地下構造の重要な施設、「聖なる浴場」はクノッソス宮殿の西翼部・王座の間の付属の部屋、あるいは復元された北入口の西側の宮殿・北翼部でも見ることができる。また、クレタ島東端のザクロス宮殿遺跡やマーリア宮殿遺跡など、ミノア文明の複数の宮殿や邸宅遺跡でも「聖なる浴場」が確認されている(上写真&上描画)。
ミノア文明の「聖なる浴場」には窓がなく、明らかに半地下の最下部に満たされた水と石製ランプの灯りだけで、身体の清めを含め、湧き出る水を使った何らかの「聖なる儀式」が執り行われた空間である。

平和主義のミノア人とその精神文化

城壁・城門のない宮殿
  歴代のミノア王が住んだクノッソス宮殿の周囲には「城壁的な防御施設が存在しない」、という驚くべき事実も判明している。ギリシア本土ミケーネ宮殿やティリンス宮殿、あるいは東方パレスチナなどでは強固過ぎるくらいの城壁が存在するように、この時代では外敵からの攻撃を防ぐ堅固な城壁は、宮殿建築の常識であったはずである。
城壁を築かない無防備な宮殿と戦いを好まない穏やかなミノア人を裏付けているのは、クノッソス宮殿だけでなく、クレタ島メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿や東部のマーリア宮殿、最東端のザクロス宮殿などにも共通して城壁的な遺構や痕跡がまったく確認できていない点が挙げられる。

ミノア文明・海洋性デザイン様式陶器/(C)legend ej     ミケーネ文明・「ミケーネ兵士の絵柄」/(C)legend ej
ザクロス宮殿遺跡・海洋性デザイン・アンフォラ型容器       ミケーネ宮殿遺跡・「兵士の絵柄」・クラテール型容器(拡大)
タコのモチーフ/ミノア陶器の自然主義的な絵柄          戦闘用衣装と武器を携えた兵士/好戦的なミケーネ人
イラクリオン考古学博物館/登録番号13985/1994年   アテネ国立考古学博物館/1987年
Web クレタ島東端のミノア文明のザクロス宮殿遺跡   ミケーネ文明の展示品/アテネ国立考古学博物館

自然主義のミノア人/好戦的なミケーネ人
  クレタ島の多くの場所で発掘されたミノア時代の墳墓からは、ギリシア本土ミケーネ文明とは異なり、武器や武装具などの戦いに関する副葬品がほとんど出土していないことにも特徴がある。
さらに時代と社会思想が色濃く反映される陶器の絵柄モチーフを例に取っても、ミノア陶器では一貫して自然主義を尊び、タコや貝類などの海洋性デザイン(左上写真)、ユリやサフランやパピルスなどの植物性デザインが優先採用されてきた。
一方、ミケーネ陶器では戦闘シーンや精強な兵士(右上写真)や多種の武器、近代兵器の二輪戦車など好戦的な絵柄、堅苦しい抽象的デザインが採用されてきた。
この一目瞭然と言える両者の芸術表現を見る時、ほとんど同時代にエーゲ海域の隣同士で繁栄したのに関わらず、二つの文明の精神文化の特徴には大きな隔たりを感じる。あくまでも自然と平和を愛し、戦いを好まないミノア人の社会と文化は、先史の時代の東地中海域では、偶然で稀な安定した文明であったと言える。
Web ギリシア本土のミケーネ文明の主な陶器様式の変遷と特徴

ミケーネ宮殿遺跡&ティリンス宮殿遺跡/ミケーネ文明遺跡&出土品/アテネ国立考古学博物館の詳細:
A-KDP アテネ国立考古学博物館/ミケーネ宮殿遺跡&ティリンス宮殿遺跡&出土品

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穏やかな民族性/ミノア人の精神文化/美しいフレスコ画の世界
  同じく精神文化のバロメーターと言える部屋や廊下、天井を飾るフレスコ画でも、ミノア文明ではあまりに美しく穏やかなモチーフに特徴される。
美しいメイキャップの女神を初め、衣装からはみ出た豊かな胸やブラッシングされウェーブのかかる髪、引き締まった腰のミノアの魅力的な女性達(下写真)、宮殿の王妃の間を装飾しているイルカなど海洋生物、鳥類や小形の動物、草原の花や草など平和で自然的な優しい対象物、あるいは後述するスペインの闘牛のような「牛跳び/牛飛び」など、庶民の全員参加のイベント行事の絵柄などがフレスコ画に採用されている。

            イラクリオン考古学博物館/クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画・「青の婦人達」 Fresco, Women in Blue/(C)legend ej
          宮廷の女性達を描いたミノア文明のフレスコ画・「青の婦人達 Minoan Fresco, Ladies in Blue」
          クノッソス宮殿遺跡出土/イラクリオン考古学博物館/クレタ島/1994年

クノッソス宮殿と周辺遺跡からの代表的な出土品/イラクリオン考古学博物館

膨大な量の出土品
  ミノア文明を代表する出土品は、ファイアンス像(色彩装飾陶器)や石製リュトン杯、精巧な象牙作品や美しいフレスコ画、美的な器形と洗練の絵柄の陶器類などで、文字記録物としての3,000点を数える線文字B粘土板を含め、これらのほとんど全ての出土品は、現在、イラクリオン考古学博物館で展示公開されている。

クノッソス遺跡・小宮殿/石製・雄牛頭リュトン杯
  クノッソス宮殿遺跡の外部、今日のチケット売場の北西150mに、「小宮殿 Little Palace」と呼ばれる大規模な遺構がある。小宮殿はクノッソス遺跡地区において、壮大な宮殿区域以外で最も大きく最も整然とした優美な建物であったことを連想させる遺構である。
ミノア人の崇拝した力の象徴である雄牛の頭部を形取った儀式用リュトン杯(リトン杯/左下写真)は、厳密にはクノッソス宮殿遺跡からの出土ではなく、小宮殿の遺構から発見された。

イラクリオン考古学博物館に展示公開された蛇紋岩、またはセラミック絶縁材ステアタイトに加工できる滑石(タルク)製の雄牛頭型のリュトン杯は、現物の光沢を観ると分かるが、雄牛の真ん中から左半分がミノア時代の本物の部分で、ピカピカと光沢している右半分は複製である。このリュトン杯の製作時期は紀元前1600年〜前1500年とされる。
なお雄牛頭型の儀式用リュトン杯では、ミノア文明の影響を受けたと考えられる、金製の角と額ロゼッタが装飾された銀製リュトン杯が、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡の円形墳墓Aから出土している(右下描画・アテネ国立考古学博物館・登録番号384)。

    イラクリオン考古学博物館/ミノア文明・クノッソス遺跡・雄牛頭リュトン杯/(C)legend ej      ミケーネ宮殿遺跡・雄牛頭型・銀製リュトン杯 Silver Rhyton, Bull Head, Mycenae/(C)legend ej
    クノッソス地区・小宮殿出土・石製 雄牛頭形リュトン杯      ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・第W竪穴墓出土
     イラクリオン考古学博物館/登録番号1368           銀製 雄牛頭形リュトン杯/角部&額ロゼッタ紋様=金製
    雄牛頭部高さ206mm(角を除き)/クレタ島/1982年  アテネ国立考古学博物館 登録番号384
                                          アルゴス地方/1982年描画=Web管理者legend ej
                                          Web アテネ国立考古学博物館・ミケーネ文明

フレスコ画・「女神パリジェンヌ」

ロングドレス姿・X脚の簡易スツールに座るグラマラスな艶髪の女神
  紀元前1500年頃の製作とされる「パリジェンヌ la Parisienne」と名称された魅力的なフレスコ画(左下写真)は、発掘者エヴァンズがこのフレスコ画をクノッソス宮殿の西翼部で発見した時、思わず「オー、パリジェンヌ!」と叫び、その美しさに歓喜した、という伝説的な話が伝わっている。
フレスコ画・「パリジェンヌ」の断片を発見した後、エヴァンズは母校オックスフォード大学にスケッチ画(右下写真/写真情報=Oxford University Digital Library ページ)を残している。エヴァンズの描画からは、「パリジェンヌ」は京都・西陣織より豪華なロングドレスの衣装を羽織って、戦国の世で野戦の武将が腰掛けたX脚の床机(しょうぎ)タイプの簡易スツールに座った、福与かな腰周りの美しい女神と判断できる。

     イラクリオン考古学博物館/クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画・パリジェンヌ Fresco La Parisienne/(C)legend ej       エヴァンズ作成スケッチ画・「パリジェンヌ」/写真情報: Oxford University Digital Libraryページ
    クノッソス宮殿遺跡出土・フレスコ画・「パリジェンヌ Parisienne」     エヴァンズ作成・「パリジェンヌ」のスケッチ画
    イラクリオン考古学博物館/登録番号11・高さ250mm         「キャンプスツールのフレスコ画」の部分
    クレタ島/1994年                              写真情報:Oxford University Digital Library

彼女の正面には、出土したフレスコ画が少ないために顔部分だけしか描かれていないが、ロングドレス or スカート衣装のミノアの若い女性(女神 or 巫女/右上写真=トリミング加工で見えない)が、「パリジェンヌ」の方へ向かって何か話しかけている、あるいは「パリジェンヌ」へ何か容器、おそらくワイン入り儀式杯を差し出そうとしている立ち姿が描写されている。

聖なる結び目の女神
  目にも鮮やかなルージュをひいた「パリジェンヌ」の首筋(うなじ)部分に、ループカーブしている深紅色のロープ、または紐(ひも)が描かれている。エヴァンズは、これを「聖なる結び目 Sacral Knot」と呼び、本人が街に住む普通のミノア女性ではなく、宮殿の聖所や儀式などに関わる特別な存在の女神、あるいは位の高い巫女(みこ)を意味していると考えた。

聖なる両刃斧 「聖なる両刃斧」
「聖なる結び目」は、幾らかの女神のフレスコ画、上述の「蛇の女神像」のコルセットの綴じ部分や腰バンド、石製や象牙製の彫刻品などにも残されている。この結び目は両刃斧(上描画)や雄牛リュトン杯と同様に、ミノア文明やミケーネ文明の人々の精神文化と祭祀に深く関係する神聖なるシンボルでもあった。

ミケーネ文明・ファイアンス陶器・「聖なる結び目」/(C)legend ej 左描画は、ギリシア本土・ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・第W竪穴墓
 から出土したファイアンス陶器の「聖なる結び目」。
 現代でも身に付けられるようなセンスのある本物の柔らかいマフラーに近似
 する形容である。


 ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・第W竪穴墓出土・ファイアンス陶器
 「聖なる結び目」/アテネ国立考古学博物館
   左: 登録番号553 高さ95mm
   右: 登録番号554 高さ102mm
 1987年/描画=Web管理者legend ej
 アテネ国立考古学博物館・ミケーネ文明の出土品



※フレスコ画・「女神パリジェンヌ」の詳細は:
A-KDP クレタ島ミノア文明 クノッソス宮殿遺跡

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キャンプスツール・フレスコ画/「フレスコ画の宮殿」
  「聖域」の周辺では発掘作業の過程で、「パリジェンヌ」と一緒に色々なフレスコ画の微細断片が出土している。しかし、ほとんどは土と化しその数と量もそれほど多くなく、ジグソーパズルのように出土断片をつなぎ合せ、フレスコ画の全体を簡単に復元することは不可能である。
ただエヴァンズの想像では、二階の50m以上、最大で75mの長い通廊の全壁面にわたって、横線で区切られた高さ75cmほどの横帯状の「青い描画スペース」が上下二段、合計高さ1.5m前後で設けられていた。
簡易スツールに座った「パリジェンヌ」と立ち姿の若い女性(女神 or 巫女)が互いに向かい合って「二人一組」を成すように、同じように向かい合う座りポーズの色々なロングドレスの女神と立ち姿の若い女性(女神 or 巫女)がやはり「二人一組」となり、その横帯状の描画スペースに延々と連続的に描写されていたとされる。

これを以って「パリジェンヌ」を含む二階の50m以上、最大75mの長い通廊を飾ったこの一連のフレスコ画は、女神達の座るX脚のアウトドアー用折りたたみ式腰掛け Camp Stool から由来した、「キャンプスツールのフレスコ画 Fresco of Campstool」とヨーロッパの研究者の間では呼ばれている。なお、下写真のフレスコ画の復元イメージでは、「パリジェンヌ」は上段・左から三番目である。

                            「パリジェンヌ」
                              ↓
            キャンプスツールのフレスコ画/写真情報: Demosthenis/Interkriti/Iraklion,Creteライブラリー
                クノッソス宮殿遺跡・「キャンプスツールのフレスコ画」/フレスコ画断片とイメージ画
                写真情報: Demosthenis/Interkriti-Iraklion,Crete ライブラリー

一連のフレスコ画は、手の動作と位置は微妙に異なるが、「二人一組」の全ての立ち姿の女性(女神 or 巫女)は、ゴブレット杯やミノア様式の水差し容器を捧げ、相手となる自分の前の簡易スツールに腰掛けたそれぞれの女神が差し出す聖なる受け容器へワインを注ぐか、あるいは水差し容器や儀式杯そのものを座り姿勢の女神へ渡そうとしている神聖なシーンであった。

エヴァンズの推測が正しければ、「キャンプスツールのフレスコ画」はクレタ島ミノア文明の特徴的な色、エーゲ海と同じ高彩度の青い壁面を背景に、赤や黒や黄色などを使い美しい色彩で精密に仕上げられていた。
そしてその絵柄は、向かい合う腰掛けたロングドレスの女神と立ち姿の巫女など、おそらく上段に25組、下段にも25組、上下二段で50組前後、合計100人前後の聖なる女性達が、まるで平安朝の絵巻物のように描写されていた訳である。それは正に長い通廊の壁面に「花が咲いた」ような、先史の時代に類を見ない圧倒的に華やかな装飾壁画であったに違いない。

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パリジェンヌと同じミノア文明の女性達の衣装/斬新なデザイン
  フレスコ画・「女神パリジェンヌ」が着用しているやや厚ぼったいスカートに関して、このタイプの衣装は女神や巫女のみならず、一般庶民〜王族を含めた貴族階級の女性達までが着用したことは間違いない。その特徴ある上着やスカート、説によれば、歴史上、「縫製された衣装」を身に付けたのはミノア女性が初めてであり、そのファッション性は高く評価されている。

例えば、紀元前1500年頃、火山噴火で住民が他の島へ避難して放棄されたサントリーニ島(フィラ島)のアクロティーリ遺跡では、出土品は少ないが、最大の遺産は邸宅や住宅の壁面に描かれていた数多くのフレスコ画である。
その中の一つ、紀元前1650年頃の作品、「ミノア女性のフレスコ画」の部屋では、ミノア文明の美しい女性が戸外でサフランを摘むシーン、そして、何か? 説ではネックレースを手渡し、あるいは奉納する姿を捉えた、現代でも注目されそうな濃艶なフレスコ画がある(下描画)。

                  アクロティーリ遺跡・フレスコ画・「ミノア女性」 Fresco-Minoan Lady, Acroteri/(C)legend ej
                サントリーニ島・アクロティーリ遺跡・フレスコ画・「ミノア女性」/紀元前1650年頃
                2018年/描画=Web管理者legend ej
                Web ミノア文明・エーゲ海サントリーニ島・アクロティーリ遺跡

ミノア文明の陶器

優美な宮殿様式陶器
  美術と文化レベルを顕著に表す陶器では、既にクレタ・ミノア人が確立していた植物性と海洋性デザイン様式陶器の影響を受け、紀元前1500年代、主にギリシア本土ミケーネ地方で発達した陶器技法がクレタへ逆輸入され発達、特にクノッソス宮殿で愛用されたのが宮殿様式陶器と呼ばれるアンフォラ型容器である。

イラクリオン考古学博物館/ミノア文明・宮殿様式陶器/(C)legend ej イラクリオン考古学博物館で展示公開されている宮殿様式の典型的
 なアンフォラ型容器(登録番号8832)は、3か所にハンドルが付けら
 れ、形式化されたユリとパピルスをモチーフにして、黄土色の無地を生か
 した優美な絵柄が流れるような線と円形のコンビネーションで描かれて
 いる(左写真)。

 これは形容から実用としての貯蔵用に見えるが、高級なアクセントとし
 て宮殿の大広間などに置いた装飾用の大型の容器である。
 この時代のクレタ・ミノア人の陶芸技術が、いかに高いレベルに到達して
 いたかを物語る代表的な作品例と言える。
 
 製作の技術面も含め、ウェストを絞り、美しいヒップラインを強調した女 
 性の「マーメイド・ローブ」のようなビューティ・シルエットの宮殿様式陶器
 は当時、エーゲ海やエジプト、中東パレスチナを含めた東地中海域で
 最も美しい陶器の一つであった、と私は確信する。



 クノッソス宮殿遺跡出土・宮殿様式・アンフォラ型容器
 イラクリオン考古学博物館/登録番号8832・高さ700mm
 クレタ島/1994年



クレタ島で長い間製作され続けてきたミノアの伝統的なカマレス様式陶器(左下写真)とは異なる宮殿様式陶器は、大型のろくろを使って作られ、容器デザインは簡素化され、原料に肌理の細かな陶土を使い、高温度で焼成することで硬度が高く、洗練された美しい形式と自然主義を活かした抽象的な絵柄モチーフなどに特徴がある。
Web ミノア文明&ミケーネ文明の陶器に関する詳細ページ:
クレタ島ミノア文明の主な陶器様式の変遷と特徴
ギリシア本土のミケーネ文明の主な陶器様式の変遷と特徴

ミノア文明・カマレス陶器・「逆さ梨型」容器 Minoan Kamares-Piriform Jar/(C)legend ej      イラクリオン考古学博物館/「ヤシの絵柄陶器」/(C)legend ej
  クノッソス宮殿遺跡出土・中東から輸入のヤシの木絵柄容器
  イラクリオン考古学博物館/登録番号7691・高さ545mm
  クレタ島/1994年/描画=Web管理者legend ej
フェストス宮殿(旧宮殿第64室)出土・カマレス様式・「逆さ梨型」の保存容器(GR=Pithoraki)
イラクリオン考古学博物館/登録番号10679/高さ495mm
クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej

ヤシ木絵柄の輸入容器
  独特な黒地にカーブする葉を力強く描いた「ヤシの木」の絵柄と注ぎ口が付いた大型容器(登録番号7691)は、紀元前1600年頃、頻繁に行われていた交易の相手先の一つであったシリアなど中東地域から輸入されたものである(右上描画)。容器の形容と絵柄デザインはミノア様式より遥かに劣るが、クレタ島ミノア文明と東方諸国との海外交易を裏付ける貴重な出土品である。

儀式用・石製リュトン(リトン)杯

石製・ライオン頭リュトン杯
  睨み(みらみ)を利かした少々怖い表情のライオンの頭部を形容した儀式用の石製リュトン杯(リトン杯・登録番号44)が、宮殿・西翼部の「聖域」の神殿宝庫から出土した(左下描画)。全体がツルツルに精巧に磨かれ、黄色〜白色系を放すこの美しいアラバスター(石膏)製リュトン杯は、紀元前1500年頃の作品とされ、高さ(外径)約170mm、長さ295mmである。

       ミノア文明&ミケーネ文明 ライオン頭型リュトン杯 Lion-Rhyton, Knossos & Mycenae/(C)legend ej
    クノッソス宮殿遺跡出土・ライオン頭型の石製リュトン杯       ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・第W竪穴墓出土
    イラクリオン考古学博物館/登録番号44 長さ295mm     ライオン頭型の金製リュトン杯/アルゴス地方
    クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej       アテネ国立考古学博物館/登録番号273/1982年

参考だが、「財宝目当ての考古学者」と悪評されたドイツ人シュリーマンが発掘した、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡の円形墳墓・第W竪穴墓からは、紀元前16世紀〜前15世紀に遡るライオンの頭部を形取った金製の儀式用リュトン杯(アテネ国立考古学博物館・登録番号273)が見つかっている(右上描画)。

奉納用・石製山頂リュトン(リトン)杯

石製・山頂聖所リュトン杯
  クノッソス宮殿遺跡〜南方約600mになだらかなジプサデス Gipsadhes の丘があり、クノッソス宮殿の「王家の墳墓」や「高位祭司の館」など幾らかの建物遺構が残されている。
ジプサデスの丘は大部分未発掘の区画だが、この区域の邸宅遺構から見つかった蛇紋岩製の山頂聖所リュトン杯(リトン杯)の破断片には、山頂聖所に置かれたバスケット容器にパンを奉納するミノア男性がレリーフされている(右下描画)。
リュトン杯の大部分が失われているが、この装飾用の石製リュトン杯(容器型)の失われた部分の彫刻モチーフは、推測だが、残留部分と同様な神聖な絵柄が刻まれていたことであろう。リュトン杯の製作時期は、新宮殿時代の最も繁栄した後期ミノア時代の初めとなる紀元前1500年頃である。

ザクロス宮殿遺跡・石製リュトン杯 Stone Rhyton, Zakros Palace/(C)legend ej              ミノア文明・石製「山頂聖所リュトン杯」 /(C)legend ej
              クノッソス地区・邸宅出土・蛇紋岩製 「山頂聖所リュトン杯」
              イラクリオン考古学博物館/登録番号2397 高さ59mm
              クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej



 ザクロス宮殿遺跡出土・緑泥岩製 「山頂聖所リュトン杯」
 イラクリオン考古学博物館/登録番号2764/直径140mm
 クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej
 Web ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡とアノザクロス邸宅遺跡

同様な神聖なモチーフをレリーフした緑泥石(クロライト)製の「山頂聖所リュトン杯」が、クレタ島東端のザクロス宮殿遺跡から発見されている。このリュトン杯には、何頭かのヤギが山頂聖所の地面に大人しく並んで座り、空中をジャンプする姿や岩場を登るシーンが表現されている(左上描画)。
リュトン杯はザクロス宮殿遺跡からの最も重要な出土品の一つ、頚部が上下に分離でき、頚部の飾り部は元々 金表層されていたとも推測されている。

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ザクロス宮殿遺跡からのリュトン杯
  「山頂聖所リュトン杯」に分類できないが、同じくザクロス宮殿遺跡の「聖なる浴場」で発見された肌理が非常に美しい色大理石製の儀式用リュトン容器がある(左下描画)。偶然に自然がつくった大理石の材質は無論のこと、ろくろを使った陶器に近似する流線形のこのバランスの取れた美しい形容とデザイン、繊細・精緻な石工職人の加工技術、しかも3,500年前に製作されたとは信じがたい見事な作品である。

参考だが、ギリシア本土・ミケーネ宮殿遺跡の円形墳墓Aからも美しい石製リュトン杯が出土している。ただミケーネ宮殿遺跡のリュトン杯は、材質がアラバスター製の儀式用リュトン杯である(右下描画)。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・大理石リュトン容器/(C)legend ej ミケーネ宮殿遺跡・アラバスター杯 Alabaster Rhyton, Mycenae/(C)legend ej
ザクロス宮殿遺跡出土・大理石製リュトン容器/高さ405mm       ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・第W竪穴墓出土
イラクリオン考古学博物館/登録番号2720/クレタ島/1982年     アラバスター製リュトン杯/高さ247mm
                     描画=Web管理者legend ej     アテネ国立考古学博物館/登録番号389
Web クレタ島・ミノア文明のザクロス宮殿遺跡とアノ・ザクロス邸宅遺跡
Web アテネ国立考古学博物館/ミケーネ文明遺跡からの出土品

崩壊し地中に埋もれた後、3,400年間も未盗掘であったザクロス宮殿遺跡からは、驚異と言って良いほどの精巧な加工技術で仕上げられた各種の石製リュトン杯装飾用カップ類が出土している。いずれも紀元前1550年〜前1500年頃のミノア文明の工芸部門の傑作品である。

ザクロス宮殿遺跡・水晶製リュトン杯 Cristal Rhyton, Zakros Palace/(C)legend ej   ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・石製リュトン杯/(C)legend ej   ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・石製リュトン杯/(C)legend ej
ザクロス宮殿遺跡出土・水晶リュトン杯         ザクロス宮殿遺跡出土・石製リュトン杯/イラクリオン考古学博物館
イラクリオン考古学博物館/登録番号2721         中杯: 登録番号2726/多色石灰岩/高さ435mm
水晶杯部分高さ160mm/クレタ島              右杯: 登録番号2734/縦縞石灰岩/高さ325mm
                      クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej
                      Web ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡とアノ・ザクロス邸宅遺跡

「牛跳び(牛飛び)」/象牙製とフレスコ画

象牙製・牛跳びをする人
  クノッソス宮殿・東翼部の王妃の間に隣接する区域からの出土品の中に、象牙製の「牛跳び(牛飛び)をする人 Bull-leaping Man」と呼ばれる彫刻(下描画)がある。これはクノッソス宮殿遺跡からもたらされたほかの多くの出土品より幾分古い時代に製作されたもので、紀元前17世紀、3,650年前の旧宮殿時代の後期と推測されている。

このデリケートに彫刻された象牙像は、ミノア人が好んだ「牛跳び/牛飛び(雄牛跳びとも言う)」の競技、またはある種のイベント演技を精巧に表現した見事な作品である。残念ながら「牛跳び(牛飛び)をする人」の男性の右腕の肘(ひじ)〜手にかけての部分は失われている。バランスのとれたスリムな体格のミノアの若者の左手先〜足先まで=245mmである。

                   クノッソス宮殿遺跡・象牙製・「牛跳び」/(C)legend ej
                      クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・象牙製「牛跳びをする人」
                      イラクリオン考古学博物館/登録番号3/長さ245mm
                       クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej

フレスコ画・牛跳び/東大広間=宮殿最重要施設=大女神の聖所か?
  「牛跳び/牛飛び(雄牛跳びとも言う)」とは、現代で言えば、全員集合のお祭り的な大きなイベント開催の時に行われた、おそらくスペインの闘牛に似た見世物やスポーツ、あるいは幾分神聖な儀式の一つであったと考えられる。
勇気あるミノアの若者達が暴れる雄牛の角に捕まったり、背にまたがったり、動き回る牛の背の上で逆立ちしたりするなど、非常にアクティブな行為であった、と推測できる。ミノア文明の特徴的とも言える「牛跳び/牛飛び」では、象牙製のほかにクノッソス宮殿遺跡の東翼部から紀元前15世紀の美しいフレスコ画が出土している(下写真)。

            イラクリオン考古学博物館/クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画・「牛跳び/牛飛び」/(C)legend ej
             闘牛に似たイベント行事の「牛跳び/牛飛び」を描いたフレスコ画/クレタ島/1994年
            クノッソス宮殿遺跡出土/イラクリオン考古学博物館/登録番号T-15 高さ約78cm

宮殿の南翼部に複製された高さ2m強のいわゆる「グリフィンを牽くプリースト・キング(祭祀王/ユリの王子)」と呼ばれるフレスコ画に比べると、決して大型のフレスコ画ではないが、高さ約78cmのこの「牛跳び/牛飛び」のフレスコ画の断片が見つかった場所は、中央中庭の東側で両刃斧の間(王の居室)や柱廊の間などが配置された王家のプライベート生活区画の直ぐ北側であった。

発掘者エヴァンズはフレスコ画・「牛跳び/牛飛び」が見つかった区画の階上には、中央中庭の地面レベルよりほんの少し高い東翼部三階に相当する、東西18.5m 南北15mの「東大広間 Great East Hall」が配置されていた、と想定している。この大広間の機能は宮殿の最も重要な施設の一つであった「大女神の聖所 The Great Goddess Sanctuary」との連動であったとされる(下作図)。

            クノッソス宮殿・西&東翼部(透視概略図)/(C)legend ej
            クノッソス宮殿・主要区画の位置関係(透視概略図)/中央中庭南端⇒北入口方向
            西中庭〜西翼部(貯蔵庫群・王座の間)〜中央中庭〜東翼部(王家のプライベート区画)
            クレタ島/1982年/作図=Web管理者legend ej

多くの研究者は、宮殿・東翼部の三階に配置されたエヴァンズの言う東大広間(大女神の聖所)の壁面には、「牛跳び/牛飛び」を初め、激しい動作を伴ったアクション系のフレスコ画が、まるで1990年代まで全盛であった旧アニメ用の「セル画(セルロイド画像)」と同様に、一連のスローモーション画像を一枚ずつ表現するかの如く連続的に描かれていた、と推測している。
「牛跳び/牛飛び」はエジプトや中東地域でも美術モチーフとして選ばれているように、先史の時代に人々が好んだ非常に重要な日常的・伝統的なイベント、または日本の神楽に似た神への奉納儀式であったのかもしれない。

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牛跳びをしたのは誰か?
  フレスコ画・「牛跳び/牛飛び」に描かれている三人の人物に関して、ロングヘアなどが判断材料と思うがミノアの「男性一人と女性二人」という研究者の説が有力である。
しかし私は発掘されている複数のフレスコ画から判断するならば、女神を含めてミノア時代の女性は極めて静的で優雅、優しさを強調しているように考えられることから、ミノアの女性が大怪我もあり得るかなり危険な「牛跳び/牛飛び」に主役で参加していたとは、どうしても想像できないのである。
また、左右の白人らしき人物は確かに胸に女性的な特徴があるように見えるが、腰が強調的に絞られて描写されているために反作用で胸が大きく見えるのであり、詳細にチェックすると間違いなく男性の顔の表情が見て取れ、鍛えられた若い二人の男性の筋肉描写と思える。
私は、フレスコ画・「牛跳び/牛飛び」の人物は、ミノアの「男性二人」、そして交流が深かったエジプト方面からアフリカの猛獣などを引き連れてやって来た「黒人男性」と判断したい。

※「牛跳び/牛飛び」の詳細は:
A-KDP クレタ島ミノア文明 クノッソス宮殿遺跡

Ref.
「牛跳び(牛飛び)」と石製印章

イラクリオンから南西方向の丘陵地帯のスクラヴォカンボス邸宅遺跡を初め、クノッソス宮殿遺跡やザクロス宮殿遺跡、アギア・トリアダ遺跡やグルーニア遺跡などクレタ島内6か所から、同じ金製印章で押されたと断定できる粘土に残る印影が見つかっている(下描画)。

ミノア文明・「牛跳び」の陰影/(C)legend ej おそらく、ミノア中央政府であったクノッソス宮殿から派遣された、権限のあ
 る「監査官」のような立場の特定人物が、常に「牛跳び/牛飛び」の金製
 印章を携え、各地の宮殿や重要な邸宅を巡回して回り、農産物の収穫
 量や納税処理など、国家財政や生産経済に関わる何らかの重要な「監
 査業務」を行っていた、と容易に推量できる。

 そうだとしたら、農産物などの生産と管理を担当していた各地の宮殿と邸宅
 が崩壊する紀元前1450年頃より遥かに以前から、 クレタ・ミノア文明では
 すでに「特定印章」で監査を行う、王国レベルの行政や財務の管理システ
 ムが確立されていた、と判断できる。



クレタ島各地遺跡・ミノア文明の共通印影・「牛跳び」
描画=Web管理者legend ej
Web ミノア文明/ヴァシィペトロン遺跡/アルカネス遺跡/ティリッソス遺跡/スクラヴォカンボス遺跡

ミノア文明の装飾剣

墳墓遺跡出土・装飾剣
  クノッソス宮殿・東入口の東方を南から北方へ流れるカイラトス川の岸辺一帯は、研究者から「死者の谷」と呼ばれ、宮殿関係者であった高位な官僚クラスの人々を含む、最盛期には約4万人が居住したクノッソスの街・「ko-no-so コノソ」の人々の墓地であったと考えられている。
クノッソス宮殿遺跡から真北へ丁度1km、カイラトス川の左岸(西側)、ザフェール・パポウラ地区 Zafer Papoura からもミノア文明の共同墓地が発見された。この墳墓遺跡からは無数の副葬陶器や宝飾品が出土しているが、中でも青銅製の剣類が大量に出土しているのが特徴的である。

ミノア文明・装飾剣 Minoan Sword/(C)legend ej イラクリオン考古学博物館で展示されている武器以外の美しい
 装飾剣の例を挙げれば;
 柄頭にメノウ玉を付けた長さ610mmの剣(左描画・左剣)は
 柄全体が5個の目釘リベットを含め金製、変形の鍔(つば)部
 分には野生ヤギを追うライオンの打出加工が施されている。
 
 さらに5個の目釘リベットで固定された柄全体が金製の剣(左
 描画・右剣)では、変形の鍔(つば)部分は連鎖する渦巻き
 紋様の打出加工で装飾されている。長さは650mm。
 この2例の剣はいずれも紀元前1450年以降に製作されたもの
 で研究者から「タイプD剣」と区分されている。


 クノッソス近郊ザフェール・パポウラ遺跡・竪穴墓出土・装飾剣
    左剣: イラクリオン考古学博物館・登録番号1098
    右剣: イラクリオン考古学博物館・登録番号710
 クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej

クノッソス宮殿遺跡/宮殿付属の貯蔵庫

宮殿の貯蔵庫群&貯蔵庫群の長い通廊
  規則正しく並んだ宮殿直属の貯蔵庫群(下写真)は、宮殿二階の部屋の床面に相当するコンクリートで復元された西翼部の階上見学用ステージから眺めることができる。しかし、現在、ツーリストが階下へ降りて、貯蔵庫群へ直接立ち入ることはできない。
貯蔵庫群は位置的には、厚い壁を隔てて王座の間の西側に配置され、宮殿の西翼部の階上にあった壮麗な大広間などの真下の位置である。22室を数える貯蔵庫群の各々の入口は、南北に走る貯蔵庫群の長い通廊に面して規則正しく配置されている。

貯蔵庫群の壁面は上階の部屋の重量を支えるため、壁面部を木板で囲い、中に割り石を積め、隙間を粘土で塞ぐという強化仕様の非常に分厚い構造である。巨大な重量となる階上の大広間の崩落を防ぐ意味でも、一つ一つの貯蔵庫スペースは幅が狭く、奥行きがある細長い造りである。

            クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群/(C)legend ej
      クノッソス宮殿遺跡・規則正しく配置された宮殿直属の貯蔵庫群/クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)

クノッソス宮殿の室内の効果的な空間利用として、貯蔵庫群の床面に石板囲いの深い収納ピット穴を設け、隙間と表面に石膏の表装施工を行い、大切な宝飾品だけでなく、長期保存の効く乾燥した穀物などを貯蔵していたことが分かっている(右下写真)。

1980年代〜90年代、クノッソス宮殿の貯蔵庫群の内部へ直接立ち入って、構造を確認した経験があるが、収納ピット穴はより南側の第4庫(4か所)〜第13庫(8か所)まで、それぞれの貯蔵庫のピット穴の数は異なるが、10の貯蔵庫=合計59か所のピット穴を数えた。
ただし、この半地下式のピット収納システムは、文明の最大センターであったクノッソス宮殿だけで採用され、メッサラ平野を管理したフェストス(ファイストス)宮殿やマーリア宮殿の貯蔵庫などの床面では、収納ピット穴は設けず、床面を石膏石で舗装する単純な仕様となっている。
現在、クノッソス宮殿遺跡の貯蔵庫群の一部には、多くのピトス容器が残されているが、ほとんどがオリーブ油の保存に使われていた。

     クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫郡の通廊&貯蔵庫/(C)legend ej
     貯蔵庫群の長い通廊(現在=立入禁止区域)           貯蔵庫&収納ピット穴(現在=立入禁止区域)
     クノッソス宮殿遺跡/クレタ島/1982年

※宮殿直属の貯蔵庫群と長い通廊/ピトス容器生産などの詳細:
A-KDP クレタ島ミノア文明 クノッソス宮殿遺跡

Ref.   クノッソス宮殿周辺のミノア・ワインの産地は?

クノッソス宮殿公認のワイン産地/ヴァシィペトロン邸宅/3,450年前のワイン用ブドウ搾りプレス装置
ミノア文明の時代、ワイワイ・ガヤガヤの「飲み会」で飲まれたクノッソス宮殿周辺のワインの最大産地は、私が自身の脚で歩き回り探した範疇では、ギリシアの考古学者マリナトス教授が、1949年、クノッソス地区から南方へ約10kmの起伏に富んだ丘陵地帯で発掘したヴァシィペトロン邸宅 Vathypetron House と確信する。

この邸宅遺跡からは、配置に段差を設けた3器の大型容器と床面すれすれに切られた溝付きの溜り部分で構成された、ワイン用ブドウとオリーブ油の「搾りプレス装置(Wine & Olive-oil Presses 下写真)」が発見されている。ヴァシィペトロン邸宅は紀元前1450年頃に破壊、または放棄されているので、この搾りプレス装置は少なくとも3,450年以上前まで実際に使われていたものである。

           クレタ島ミノア文明・ワイン搾りプレス装置Wine & Olive-oil Presses, Vathypetron House/(C)legend ej
           ヴァシィペトロン邸宅遺跡/ミノア文明のワイン用搾りプレス装置/大型容器と床の流れ溝
            紀元前15世紀/クレタ島/1982年
           Web ミノア文明/ワイン搾りプレス装置のヴァシィペトロン邸宅遺跡

ミノア文明・ワイン用ブドウ搾りプレス装置/(C)legend ej ヴァシィペトロン邸宅遺跡から出土した搾りプレス装置は、クレタ島東端の
 アノ・ザクロス邸宅遺跡、グルーニア街遺跡、あるいはティリッソス邸宅遺
 跡などから出土した滴り口付き搾りプレス容器と同種で(左描画)、ミノ
 ア時代にはワイン醸造やオリーブ油の製造には欠かせない極めて重要な
 産業設備であった。

 大型容器と溜まりや大型の桶(おけ)の組み合わせというシンプルな装
 置だが、間違いなくこれらの主要用途は、ワイン造りの最初の重要な工
 程であるブドウの果粒を潰すための、「足踏み搾りプレス容器」であった。
 出土した多くの搾りプレス装置は、紀元前1500年前後に属する。


 グルーニア遺跡出土・ワイン用ブドウ搾りプレス装置/高さ36cm
 イラクリオン考古学博物館/描画=Web管理者legend ej




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クノッソスの街にあった「ワイン居酒屋」/宮殿の「公式晩餐会」の夕べ
「宮殿政府公認」のアンフォラ型ブランド容器に詰められたヴァシィペトロン産の甘口赤ワイン or ロゼワインは、ミノア文明の最盛期の紀元前1500年頃、10kmの道のりをロバの背に載せられ、ミノア住民4万人で賑わう繁栄のクノッソスの街(ko-no-so)へと運ばれた。
美味な赤ワイン or ロゼワインは庶民に愛された「ワイン居酒屋」で、あるいは遠来の客人達を招き大規模に開催されたクノッソス宮殿の華やかな「公式晩餐会」で大量に消費されたのである。

美しいフレスコ画で装飾されたクノッソス宮殿の大広間での宴では、すでに流行っていた小型リラ(たて琴)やフルートなど、ミノアの若い男性、または細い指先のキレイな女性達が奏でる管弦楽器による優雅な音楽に合わせ、宮殿・王妃の間に描かれたフレスコ画のようにロングドレスの美しい女性達が踊り(上述・王妃の間・写真)壮麗優雅な宴の時が過ぎて行った。

管弦楽器の演奏は、クレタ島やギリシア本土の遺跡からの出土品からも推測できる。クノッソス宮殿遺跡やペロポネソス地方ネストル宮殿遺跡からのフレスコ画、あるいはアギア・トリアダ遺跡から出土した彩色陶棺の絵柄でも、水鳥デザインの同じタイプのリラ(たて琴)を演奏するシーンが確認できる(下描画)。
また、水鳥の頭部を彫刻したアラバスター製(石膏石/イラクリオン考古学博物館・登録番号107&179)のリラの断片が、クレタ島内から見つかっている。

             クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画・「リラ&フルート演奏者」 Fresco Lyre & Flute Players, Knossos/(C)legend ej
    クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画・「音楽を奏でる人達」/水鳥デザインのリラ(たて琴)と二管のフルート(笛)の演奏者
    2018年/描画=Web管理者legend ej

ミノア文明・カマレス様式の円筒型大皿/(C)legend ej 参列者は多数、華やぎの宴は最高に盛り上がり、程なくしてカマ
 レス様式の円筒型大皿
(左写真)に載せられた、表皮をパリ
 パリに焼いた美味なローズマリー風味・子羊の丸焼きの料理が
 振舞われる。
 花弁装飾が特徴的な豪華な大型クラテール型容器(右下写
 真)には、ミノア王国が誇る「雄牛のロゴ」の宮殿ブランド赤ワイ
 ン or ロゼワインの「水割り」が並々と満たされた。


 ファイストス宮殿出土・カマレス様式の円筒型大皿
 イラクリオン考古学博物館/登録番号18442
 クレタ島/1982年



何時の世にも居る知ったかぶりしてワインのウンチクを熱弁して語る、格好付けの若いイケメン参列客は、流行りの色絵柄が美しいリングハンドル付きカップでワインの香りを楽しむ(左下描画)。一方、酔いの失態も何のその、慣わしを重んじともかくも量を優先させる古老や年配者達は、現代のコーヒーカップに近似する伝統的なカマレス様式の大型エッグシェルカップでヴァシィペトロン産のワインを味わったのである(左下描画)。

ミノア文明・カマレス様式陶器/(C)legend ejミケーネ文明・リングハンドル・カップ Mycenean Ring-handle Cup/(C)legend ej
コウコウナーラ遺跡出土・リングハンドル・カップ
ピーロス考古学博物館/メッセニア地方/1982年
描画=Web管理者legend ej

ミノア文明・カマレス様式カップ Minoan Kamares Cup/(C)legend ej

          フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式クラテール型容器
     イラクリオン考古学博物館/登録番号10578
     高さ455mm/クレタ島/1982年


 クノッソス宮殿遺跡出土・カマレス様式エッグシェルカップ
 イラクリオン考古学博物館/登録番号2690/高さ75mm
 クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej



Web クレタ島ミノア文明の主な陶器様式の変遷と特徴

中東・エジプトとの交易

エジプト文明との関わり
  規模こそ小さいが、クレタ・ミノアの文明はエジプトの大文明とほとんど同じ時期に興隆して、エジプトや中東パレスチナからの影響を受けつつ、ミノア独自の文明を確立して行ったのである。特に地中海域で最大の力を誇ったエジプトとの関わりと影響は、ミノア人にとっても大きな比重を占めていたと考えられる。

・クレタ島ミノア文明・初期 エジプト・古王国時代・三大ピラミッド造営期
・クノッソス旧宮殿の造営時 エジプト・中王国時代
・クノッソス新宮殿の造営時 エジプト・中王国時代〜新王国時代への過渡期
・クノッソス新宮殿の崩壊時 エジプト・新王国時代
・クレタ島ミノア文明の衰退時 エジプト・新王国時代・ツタンカーメン王支配

キプロス島から銅の輸入
  自然をこよなく愛し、城壁のない宮殿を建て、クレタ島とエーゲ海域の効果的な統治と平和を維持したミノア人が代々継承してきた輝かしいミノア時代は、初期の旧宮殿を含め、新宮殿が崩壊するまでのいわゆる宮殿時代に限っても約500年間も続いた。この間ミノア王国は自国の発展と同時に、遠い中東パレスチナやエジプト方面、あるいはキプロス島やキクラデス諸島との交易を通じて、さらなる文化の発展と洗練を繰り返してきた。

            キプロス島・新石器文化〜青銅器文明遺跡/(C)legend ej
                キプロス島・新石器文化〜青銅器文明遺跡/作図=Web管理者legend ej

クレタ島のミノア文明では、エジプト王国への献上シーンが墳墓壁画に描かれているが、自らもキプロス島(上作図)から、研究者の間で「ケフテウ Kefteu インゴット(下描画)」と呼ばれる「座布団」に似た形状の銅インゴットを大量に輸入していた。クレタ島東端のザクロス宮殿がその銅インゴットの輸入業務を担当していた。
Web クレタ島ミノア文明のザクロス宮殿遺跡/キプロス島からの銅インゴットの輸入陸揚げ港

キプロス島から輸入された銅インゴット/(C)legend ej また、メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡からは輸入された19枚、ザクロス宮殿遺跡からは複数
 枚の「ケフテウ銅インゴット」が発見されている。サイズと形状は若干異なるにしても、重量は20kg
 前後〜最大では32kg(イラクリオン考古学博物館登録番号721など)であった。

クノッソス宮殿遺跡/生活関連の施設/上下水道システム

導水路/排水路システム/総延長150mの規模
  現在、クノッソス宮殿では、特に東翼部の周辺で集中的に見ることができるが、色々な箇所で雨水を集める石材ブロックに溝を付けた導水路や半地下の給水用パイプ、あるいは王妃のバスルームやトイレの床面などに敷設されたトンネル形式の排水路が残されている(下写真)。
クノッソス宮殿では、このような導水・給水・排水用のネットワークの総延長がおおよそ150mと計測されている。テラコッタ製の給水用パイプは、3,500年以上前の時代、すでにほぼ標準化され、端面外径が細くなる「異径」のストレート・タイプをメインに、外周ハンドル付きも製造された。
パイプ・サイズは、長さ約700mm〜800mm、パイプの太外径約170mm 突起がある細外径約85mm、パイプとパイプのつなぎ目には差込式の継手ジョイント部を作り、接続部にはセメント材で水漏れ防止の対策が施されていた。継ぎ手ジョイント部の内径に余裕があることから、直線的な延長にも、ややカーブする配管施工も対応できた(下描画)。

            クノッソス宮殿遺跡・雨水導水路&給水パイプライン/(C)legend ej
            クノッソス宮殿遺跡・東翼部/雨水導水路&給水パイプライン・システム/クレタ島/1982年

            クノッソス宮殿遺跡・給水パイプレイン/(C)legend ej
            クノッソス宮殿遺跡・給水パイプライン接続/描画=Web管理者legend ej

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新鮮な飲料水の確保/カイラトス川の水の利用/ヴリチアスの小川
  クノッソス宮殿から南方7kmには、ミノア時代の共同墓地遺跡が見つかったアルカーネス Archanes がある。
アルカーネスの「ケファラの丘」を源流とするカイラトス川が、クノッソス宮殿の東側へ流れ出ている。クノッソス宮殿と4万人規模のクノッソスの街・「ko-no-so(コノソ)」で使う飲料水は、この新鮮なカイラトス川の水を活用していたと考えられる。

また、南の邸宅の南側を流れるヴリチアスの小川(カイラトス川の支流)の近くからは2か所の水溜め遺構も確認されている。そのほか上述の通り、乾燥したクレタ島では貴重な水資源となる屋根から集めた雨水さえも、導水路システムで確実に集めて飲料水として使っていたに違いない。

東入口の排水路システム
  宮殿で使い終わった汚水と汚れた雨水は、排水路システムを経由して宮殿の東方へ導かれた。現在、カイラトス川へ至る宮殿の東入口には、目立たないのでツーリストも興味を持たないが、大型の切石を使った美しい階段とゲートが復元されている。この東入口では水路と正方形の水の「溜まり」を設けた復元・複製の「排水路システム」を見ることができる。これはミノア人の高度な建築知識と賢さの典型例である。

クノッソス地区の遺跡/「キャラバンサライ」

給水設備/「フレスコ画のパビリオン」
  かつてミノア時代には、クノッソス宮殿から「王家の墳墓」や「高位祭司の館」などが残る南方約600mのジプサデスの丘へ向かうためには、宮殿の南入口と南の邸宅の直ぐ南側のヴリチアスの小川に架かる「ミノアの橋」を渡っていた。ミノアの橋は現在のクノッソス地区の南方に架かるコンクリート橋の150m下流付近にあった。
ミノアの橋(遺構)の南東60m、今日の地方道路とヴリチアス小川に挟まれた狭い畑のある斜面に、1924年、クノッソス宮殿遺跡の発掘者エヴァンズが確認した「キャラバンサライ Karvansara or Kervansaray」と呼ばれる廃墟的な建物遺構が残されている。ほとんど目立たないので立ち寄るツーリストも少ない遺構だが、近年、復元が完了となった。
クレタ島の南部方面からクノッソス宮殿へやって来る人達が、南入口から宮殿へ入場する前に、このキャラバンサライで足を洗い、身を清めたとされる建物である。砂漠のオアシスにある旅人やラクダを連れた隊商の宿泊設備と同様な意味から、エヴァンズが「キャラバンサライ」と名称した。ここには休憩の部屋とエヴァンズの言う ”Foot Bath” と呼ばれるテラコッタ製の給水用パイプが設備され、常時、誰でも新鮮な水を自由に使えるように配慮されていた。

なおクノッソス宮殿の西側にあった「青い鳥」や「青いサル」などが見つかった「フレスコ画の邸宅」と同様に、キャラバンサライは「フレスコ画のパビリオン」とも呼ばれている。キャラバンサライ内部の梁フリーズ部分を飾っていた茂みに佇む大人しそうなキジの仲間のヤマウズラの群れ、金色の冠鳥などを描いた紀元前1550年頃の美しいフレスコ画の断片(イラクリオン考古学博物館)が見つかっている。

クノッソス宮殿の崩壊とミノア文明の終焉

クノッソス宮殿崩壊
  王の住む宮殿に防衛城壁を設けず、戦うことを嫌ったミノア人は、音楽と舞踊、馬車競技やスペインの闘牛に似たお祭り的なスポーツイベントであった「牛跳び/牛飛び」などをこよなく愛し、草原の植物や動物、さらにはイルカや貝やタコなど自然主義に憧憬して、平和主義を貫いていた。しかし、長期にわたる未曾有の繁栄を極めたミノア文明と中央政府クノッソス宮殿は、紀元前1375年頃に起こった大火災で完全に崩壊して、エーゲ海クレタ島に華やかに花咲いたミノア人の文明は急速に形を失ってしまう。

線文字B粘土板/宮殿崩壊とミケーネ人
  クノッソス宮殿の崩壊時の大火災で焼けただれ、偶然に残された約3,000点とされる線文字Bスクリプトで刻まれた粘土板から判断する時、宮殿の崩壊は小麦の採り入れが終わり、羊の毛を刈り取る季節がやってきた春の頃とされ、その崩壊の原因はおそらく異民族の「攻撃」によるものであった、と想像する。
最も可能性が高いのは、この時代にミノア文明の影響を受けながら発展を続け、ギリシア本土からエーゲ海へ進出するほどの強い勢力を誇った好戦的なミケーネ人が、クレタ島の主要宮殿と邸宅の破壊、さらに最終的にクノッソス宮殿の崩壊、そしてミノア文明の終焉に「何らかの関わり」をもっていたと考えて良いだろう。

            ペロポネソス地方・ミケーネ文明・宮殿遺跡/(C)legend ej
                 ペロポネソス地方・ミケーネ文明・宮殿遺跡/作図=Web管理者legend ej

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クノッソス宮殿の大火災
  戦いでエーゲ海域の支配権を広げたギリシア本土ミケーネ人の攻撃か、穏やかであったミノア政府内の反乱か、あるいは現代の我々にも想像もできない何かの理由により、無防備に等しく、戦いの経験の少ないミノア政府クノッソス宮殿に火が放された。それは紀元前1375年頃である。
Web 世界遺産/好戦的なミケーネ人のミケーネ宮殿遺跡
Web クレタ島クノッソス宮殿崩壊の「原因」について

火は宮殿・東翼部の豪華な造りの王家のプライベート生活区画を初め、中央中庭の西翼部の神殿宝庫や聖なる記号の刻まれた支柱礼拝室、大規模な部屋が連なる儀式的な西翼部の階上区画や貯蔵庫周辺、北入口と北翼部に配置された工房や大型ピトス容器の倉庫群などを瞬く間にのみ込み、1,000室を数える宮殿のほとんど全ての区画が完全に焼け落ちてしまう。

宮殿の多くの区画では、厚い壁面や石柱の南側がより焼け焦げの度合いが強く、これは南方のアフリカ・サハラ砂漠方面から吹き付けた「春」の乾いた強風に煽られた結果と考えられる。消火の手を尽くせぬまま、クノッソスの大宮殿はおそらくは1週間、あるいは10日間以上も炎上し続け、その火柱はエヴァンズが復元・複製した宮殿石柱の朱色の塗装色よりも明るく、フレスコ画・「女神パリジェンヌ」の情熱的なルージュと同じくらいクレタの夜空を真っ赤に染め上げたはずである。

クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫付近・焼け跡/(C)legend ej クノッソス宮殿・西翼部一階に配置された貯蔵庫群のオリーブ油の大量
 貯蔵が裏目に出て、宮殿が最終崩壊する時、油が火力を増幅させたと
 考えられる。
 特に22室を数える宮殿付属の貯蔵庫の区画やその近くの西正面部
 (西中庭に面する外壁面)などには、大火災の後3,400年の経過が
 あっても、今でも激しいオリーブ油の火力で真っ黒で極端に焼け焦げた
 痕跡
を確認できる(左写真・左側壁面)。

 1982年に初めてクノッソス宮殿遺跡を訪ねた際、私はこの写真を撮っ
 た後、貯蔵庫群の床面に施設された深いピット穴へ降りたことがある。
 大火災当時、おそらく保管していたオリーブ油のピトス容器が割れ、大量
 のオリーブ油がピット穴へ溜まりそれが完全に燃焼するまで火力は衰えな
 かったはずで、壁面だけでなく、ピット穴の底部分まで真っ黒に焼け焦げ
 ていた。
 また特に壁面は表装の石膏やモルタル質が強い火力により溶けて、陶
 磁器と同じように硬いガラス質へ高温変質したことが確認できる。



 クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫・火災焼け跡(左側壁面・床面)
 クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)

クノッソス宮殿崩壊/ミノア文明の変化

大火災と聖なる儀式?
  クノッソス宮殿が焼け落ちる最中に、宮殿所属の祭司・神官による聖なる儀式が執り行われていたのか、西翼部の王座の間に付属する奥の部屋では、石製ランプが転倒したままの状態で発見された。祭司・神官が石製ランプを使って、宮殿崩壊と大火災を鎮めようと、燃え盛る炎の中で「神への最後の祈り」の儀式を続けていた、というある研究者の説も否定できない。

武具・武器の副葬/陶器様式の変化
  紀元前1375年頃に起こったクノッソス宮殿の最終崩壊の直後、そしてそれ以降には、時代と文化を素早く反映する多くの発掘陶器の絵柄モチーフに大きな変化を見ることができる。

ミノア文明・鐙型(あぶみ)様式陶器 Minoan Pottery, Stirrup Style/(C)legend ej かつて自然主義の典型、植物性デザインと並んでミノア文明を
 代表する海洋性デザインの中で最も長く、200年間以上、親し
 まれたモチーフ・「タコの絵柄」がある。
 容器の表面に隙間なく大胆に描かれたタコは悠々と泳ぎ、これ
 は正にミノア人の自然主義の精神文化をそのまま表現している
 (左描画)。


 パライカストロ遺跡出土・鐙(あぶみ)型容器
 イラクリオン考古学博物館/登録番号3383
 ミノア文明/高さ280mm/クレタ島/1982年
 描画=Web管理者legend ej










しかし、クノッソス宮殿の崩壊後、陶器の器形と絵柄モチーフは一気に変化した。その代表例は極端に長い柄(ワイングラス・ステム)のキリックス杯(左下描画)、あるいはツタの葉など植物や海洋性のタコのモチーフを極端にデフォルメしたアンフォラ系クラテール型の容器(右下描画)など日常的に使われる陶器である。
いずれの陶器もギリシア本土ミケーネ文明で流行した代表的な形容と絵柄モチーフで装飾されている。

さらに墳墓からは、今までクレタ島では無かった武器や武具、あるいは戦いを描いた陶器など、兵士関連の副葬品の出土例が異様に増えたように、クノッソス宮殿崩壊後のミノア文明は、急速にしかも極端にギリシア本土ミケーネ文明の影響が強くなってきた。

    ミケーネ文明・キリックス杯 Mycenaean Kilyx/(C)legend ej     ミノア文明・アンフォラ系クラテール型容器 Minoan Krater/(C)legend ej
    ミケーネ文明・マルコポウロ遺跡出土・キリックス杯          クレタ島出土・抽象化された絵柄のアンフォラ系容器
    アテネ国立考古学博物館/登録番号3740           クレタ島イラクリオン考古学博物館/ミノア文明末期
    1982年/描画=Web管理者legend ej            1994年/描画=Web管理者legend ej

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ガジ遺跡の崇拝用塑像
  宗教的な変化では、ガジ遺跡 Gazi の聖所と推測される場所から見つかったテラコッタ製の大型塑像が特徴的と言える。この種の塑像は紀元前12世紀に家庭用や奉納用の崇拝像として盛んに作られた。
女神は銃を突きつけられた時の「ホールドアップ」のように両手を広げ、頭部には聖なる雄牛角や鳥、ケシの種などがシンボル装飾された(下描画)。

ミノア文明・「ケシの女神像」 Poppy Goddess/(C)legend ej 女神の下半身は「ろくろ」を使って作られたことから安定感のある円筒形、さらに後期にはロング
 スカートの裾部分が少し上げられ脚の見えるタイプも出現した。これは自然崇拝の本来のミノア
 文明では有り得ない像であり、この時代にクレタ島の宗教観が大きく変化した証とも言える。
 
 なお、ガジ遺跡はクレタ島北海岸から内陸へ1km、イラクリオンの市街地から西方6km、高
 貴な邸宅遺構が残るティリッソス遺跡へのルートの途中の地区である。
 当初、1936年、農作業中の住民がやや小型の「ホールドアップ」の崇拝像二体を見付け、直
 後の発掘調査でさらに三体の像が出土した。「ケシの女神像(登録番号9305)」はその内
 の最も大型サイズ。高さ755mmである(左描画)。
 
 ガジ地区の発掘ミッションでは、1950年代にガジ村より北側となるエーゲ海岸のスカフィダラス
 Skafidharas 地区ではミノア文明後期の居住地遺構と隣接する墳墓が発掘され、石製容
 器や陶器製作の2基のろくろが見つかっている。さらに1960年代には紀元前13世紀の複数の
 ラルナックス陶棺が出土、内1基には三角の帆を張った舟が描かれていた。


 イラクリオン近郊ガジ遺跡出土・大型テラコッタ製の塑像・「ケシの女神像」
 紀元前12世紀/イラクリオン考古学博物館 登録番号9305 高さ775mm
 クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej

クレタ島へ侵攻して来たミケーネ人/ミノア文明の終焉

ミノア文明の終焉/侵攻ミケーネ人/エピローグ
  こうしてエーゲ海クレタ島では、かつて平和な精神と自然主義を特徴とした優美なミノア文明が、芸術性も技術レベルも低く、インパクトに欠ける「ミノア・ミケーネ融合様式」と呼べる少々異質な文化へと変わって行く。
クレタ島のみならず、遺跡からの出土例とエーゲ海域の周辺事情など色々な情報から判断するならば、クノッソス宮殿の崩壊の前後の時期には、エーゲ海ロードス島を含むキクラデス諸島と同様に、クレタ島もギリシア本土からやって来た好戦的なミケーネ人により占領支配されたはずである。
ミケーネ人によるクレタ島統治に関わる証拠として、ギリシア本土ミケーネ文明で使われていた3,000個を数える線文字Bスクリプトの粘土板が、クレタ島では「クノッソス宮殿遺跡だけで発見されている」、という決定的な事実がある。
この意味は紀元前1450年頃、本土から侵攻して来たミケーネ人により3か所の主要ミノア宮殿と各地の邸宅が破壊された。破壊せずに残した唯一のクノッソス宮殿を本拠として、紀元前1375年頃に宮殿が火災で崩壊するまで約75年の間、占領ミケーネ人は何としてもクレタ島を専制的にコントロールしようとしたのではないか?

軍事力で占領統治したこの75年間、そしてそれ以降のわずかな期間、辛うじてクレタ島の限定的統治を続けたミケーネ人は、敗者であるミノア人の線文字Aではなく、当然のことに、「自分達の言語」であるギリシア本土ミケーネ文明の線文字Bを使っていたと推測できる。その一部がクノッソス宮殿の大火災で硬質に変化して、粘土板という証拠品となって、3,400年間も宮殿遺構の中に残されてきたのである。

            ミケーネ文明・線文字B粘土板 Myceanaean Linear B/(C)legend ej
                     ミケーネ遺跡出土・線文字Bスクリプト粘土板
                     アテネ国立考古学博物館/登録番号12587
                     1982年/描画=Web管理者legend ej
             Web 古代文明の記録である「線文字A」と「線文字B」の粘土板について

遺跡のトカゲ達

心に刻む遥かなる「時」/遺跡のトカゲ達
  紀元前12世紀になるとギリシア本土ミケーネ文明の諸宮殿が次々に破壊され、事実上、ミケーネ文明は崩壊を迎え、ミケーネ人のエーゲ海の支配力も衰え始め、それにシンクロナイズするかのように、占領ミケーネ人のクレタ島統治と統制力も急激に弱体化する。
ここにおいて、初期ミノア文化から2,000年間も続いたクレタ島のミノア文明は、復活のためのエネルギーを完全に失ってしまう。こうして繁栄の文明を生んだ故郷である真っ青なエーゲ海へ溶け込むように、クレタ島ミノア人は徐々に歴史から消え去り、伝説の世界へ籍が移されて行く ・・・

3,400年の昔、確かにクノッソスの大宮殿とクノッソスの街・「ko-no-so(コノソ)」は崩壊してしまった。しかし、今この壮大な宮殿遺跡を訪ねる時、誰しもが出会う遺構の上で静かに佇むクールな顔付きの「遺跡のトカゲ達」が、数千年間の遥かなる「時」を生きて来た精悍にして温厚なミノアの王や美しき王妃、あるいは海を愛した穏やかなミノアの人々の化身となって、宮殿遺跡見学のツーリストを迎えている ・・・

               ギリシア・「遺跡のトカゲ」
               ミノア王妃の化身か? 古代遺跡なら何処でも出会う ギリシアの「遺跡のトカゲ
               フォルムは太古の「恐竜」だが、人に害を加えることはなく 愛くるしいクールな眼差し

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