旅人legend ej の世界紀行・心に刻む遥かなる「時」

ホームページ ⇒ 「ミノア文明」紀行 ⇒ クノッソス宮殿遺跡

クレタ島 ミノア文明のクノッソス宮殿遺跡と出土品 Minoan Palace of Knossos

3,500年前にミノア王妃が入浴した“世界最古のお風呂”のバスタブと水洗トイレの写真

フレスコ画「パリジェンヌ」とは? クノッソス宮殿政府公認の古代ミノア・ワイン産地は?

クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace/(C)legend ej
東方の丘から望むクノッソス宮殿遺跡周辺/○部分=遺跡区域(拡大⇒下写真)/1982年

クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace/(C)legend ej
クノッソス宮殿遺跡の全景/南北180m 東西180mの遺跡区域
小宮殿遺跡の右方(北方)が島都イラクリオン方面/クレタ島/1982年

プロローグ/紀元前1375年・クノッソス宮殿の大火災
  出土した3,000点の線文字B粘土板によれば、今から3,375年ほど前、紀元前1375年頃、冬小麦の収穫が終わり、羊の毛の刈り込み作業を行う「春」の季節、1,000室を数えるクノッソスの大宮殿で火災が発生とした。
遺跡から「遺体」が発見されていないことから、大火災は大地震など突発的で瞬間的な事象が原因したのではなく、しかも最初の出火は夜間ではなく、数千人規模の宮殿関係者が安全に避難することができた昼間であり、その後の延焼〜宮殿の崩壊はある程度幅のある時間の経過の中で起こった、と想定できる。
夏の到来を予告するサハラ砂漠からの暖かい「南の風」に煽られ、宮殿管理の貯蔵庫に保管された大量のオリーブ油に火が回り、火炎は勢いを増し宮殿全体に広がった。伝統的に戦いを好まず、王の住む宮殿でありながら城壁を設けず、優美なフレスコ画で装飾され、平和と栄華を誇ったクノッソス大宮殿は真っ赤な炎を上げ、1週間、あるいは10日間以上も炎上し続けた。ここに紀元前3000年頃から始まり、1,500年以上も繁栄を続けたエーゲ海ミノア文明は呆気なく終焉を迎える。
大火災を煽った南からの風は上写真の左手(南方)の谷から右手(北方)のイラクリオン方面へ吹き抜け、大宮殿のみならず住民4万人が暮らすクノッソスの街・「ko-no-so(コノソ)」も炎に包まれた。多くの人々は1982年に上写真を撮った私が立つ東方の丘や南方のジプサデスの丘へ避難して、もはや手の施しようのないクノッソス宮殿の大火災を涙を流しながら呆然と眺めたことであろう。
そして長い年月が経過した後、1900年にイギリスの考古学者サー・アーサー・エヴァンズにより発掘ミッションが開始されるまで、崩壊し息絶えたクノッソス宮殿は、約3,300年の間、神話と歴史の中で眠り続けるのである。

                  グリフィンページ内容のアウトラインと参考情報グリフィン
              
「クレタ島 ミノア文明のクノッソス宮殿遺跡」は全70ページで構成されています。考古学者サー・アーサー・エヴァンズが発掘した王座の間を初め、今から3,500年以上前にミノア王妃が入浴した「世界最古のお風呂」、王妃の「水洗トイレ」やフレスコ画・「女神パリジェンヌ」や「牛跳び/牛飛び」の秘話、見事な宝飾品、「蛇の女神像」、謎めいた支柱礼拝室や神殿宝庫など、現在ツーリストの立入禁止となった区域も含め、クノッソス宮殿遺跡のほとんど全てを写真と共に詳細に解説しています。

ページは流行の軽いタッチの書き込みブログでもなく、自分の旅行体験を格好つけ自慢げに語る海外旅行記でもありません。記載内容はミノア文明遺跡を探す累計5か月間のクレタ島の放浪滞在を基に、過去に10回以上訪ねたクノッソス宮殿遺跡と膨大な数の出土品や発掘データとの照合を行い、Web管理者がクールな見解を少しだけアカデミック風に記述したものです。
また、構成面では、ネット氾濫している食した美味なシーフード料理やきれいな宿泊ホテルの写真をたくさん配置した、いわゆる世界遺産巡りなどに有り勝ちな楽しい自慢話エピソードだけを語る海外旅行の絵日記ブログとは一線を画しています。

クノッソス宮殿遺跡へ誘う情報満載の全70ページを読み切るには、斜め読みを得意とする速読派でも2時間以上、誠実な丁寧読みでは最短でも5時間を必要とします。なお、1972年以来、海外旅行の累積日数1,200日を勝手気ままに記述したWebサイト・旅人legend ej の世界紀行・心に刻む遥かなる「時」は、クノッソス宮殿遺跡を含め全945ページ(A4サイズ)で構成されています。

                             サイト構成を「サイトマップ」で確認する
                                    サイトマップ

                       クノッソス宮殿遺跡の発掘者サー・アーサー・エヴァンズ

クノッソス宮殿遺跡の位置
  「ヨーロッパ最初の文明」であるミノア文明を象徴するクノッソス宮殿遺跡 Minoan Palace of Knossos は、エーゲ海クレタ島の中央北部、島都イラクリオン Iraklion /Heraklion の市街地から南南東へ6kmほど内陸のクノッソス地区にある。

遺跡の発掘ミッション/考古学者エヴァンズ
  クノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションは、今から100年以上前、1900年、サーの称号を持つイギリスの考古学者アーサー・エヴァンズ Sir Arthur John Evans により開始された。そして数年のうちに世界の考古学研究者の驚きとともに、すでに3,500年以上前に「世界最古のお風呂」とも言われる王妃のバスタブ(浴槽)や水洗トイレ、上下水道システムまでも完備していたミノア文明の大宮殿、色鮮やかなフレスコ画で装飾された部屋数1,000室を数える大規模な遺構の全容が陽の目を見ることとなった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡の最初の発掘者となるアーサー・エヴァンズは、1851年、すでに11世紀から製粉工場があったイギリス・ロンドンの北西35kmのナッシュ・ミルズ Nash Mills の高貴な家庭に生まれた。アーサーの父ジョン・エヴァンズ John Evans もサーの称号を持つイギリスの著名な考古学者で、世界最古のロンドン地質学会から「ライエル賞」を受賞(1880年)した地質学者でもあった。
アーサー・エヴァンスは、イギリスの有力な国会議員であり、建築学・歴史学者でもあったエドワード・フリーマン教授 Edward Augustus Freeman が教鞭を執るオックスフォード大学で近世の歴史学を専攻、最優秀の成績を治め、さらにドイツ・ゲッティンゲン大学にも在籍した後、特に北欧とバルカン半島への広範囲な旅行に出たとされる。

Sir Arthur J. Evans/写真情報: Wikipediaページ その後、1878年、恩師フリーマン教授の娘マーガレットと結婚したエヴァンズは、妻と
 共に現在のアドリア海の美しい城塞都市ドゥブロヴニクに落ち着き、ギリシアへの旅
 行を行った。
 その旅行を通じて、今日、世界遺産となっているギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡やテ
 ィリンス宮殿遺跡の発掘で名を知られたドイツ人実業家、「宝探しの考古学者」とも
 言われたシュリーマン Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann と会い、エーゲ
 海文明に関する多くの情報を得たと伝えられている。

 サー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur John Evans
 写真情報: Wikipediaページ


1880年代にイギリスへ戻ったエヴァンズは、34歳の若さでオックスフォード大学の付属博物館 Ashmolean Museum の館長の職に就いた。しかし、1893年、不幸にも愛する妻マーガレットの結核が悪化、エヴァンズに見守られながら、イタリア・ジェノバの西方のフランス国境に近い地中海の風光明媚な海岸・アラッシオAlassio の町で息を引き取り、マーガレットは当地に埋葬された。二人の間には子供はなかった。
翌年、1894年、クレタ島を訪れた42歳のエヴァンズは事前の表面調査を実施して、クレタ考古学協会に対してクノッソス地区の発掘ミッションを申請する。上写真のエヴァンズの右手の「スカラベ」はこの時発見したもので、小さな古代の遺物だがエヴァンズにとってはたいへん重要な意味があり、「心の記念品」でもあった。
当時、既にクノッソス地区の考古学的な重要性は広く知られており、「宝探しの考古学者」のシュリーマンもクノッソス地区の発掘許可をオスマン帝国のクレタ島統治者から得ていたが、財政面の問題解決に手間取り、発掘作業をスタートできないでいた。
1829年にギリシアはオスマン帝国から完全に独立したにも関わらず、クレタ島での領土問題の政治的な混乱は長く続き、1898年になり、ようやくオスマン帝国がクレタ島から撤退してギリシア新政府の統治が始まり、幸運にもエヴァンズはクノッソス地区での発掘作業をスタートできるようになった。
時は1900年3月23日、発掘作業が開始された。そして1年も経過しない内に、エヴァンズは次々とクノッソス宮殿の遺構とおびただしい宝飾品やフレスコ画の断片、3,000点を数えた線文字B粘土版などを発掘して、世界に名を残す偉大なる考古学者の一人となる。1905年、5年間のクノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションは終了する。
第二次大戦の最中の1941年、サー・アーサー・エヴァンズはオックスフォードの南西へ4km、今でも野生のシカが生息する広大な雑木の森と池が点在するユールバリィの丘 Youlbury に建てた邸宅で90歳の生涯を終える。

  ※ドイツ人実業家シュリーマン情報: ページの最下項・「シュリーマンの発掘と信憑性」を参照

Ref.   エヴァンズの「宝物」
上写真のエヴァンズが右手に持っているのは、クノッソス宮殿遺跡の事前の表面調査で見つけた「スカラベ」と呼ばれる石製印章である。エヴァンズはクノッソス宮殿遺跡からの出土品をすべてギリシアの考古学博物館に残したが、この小さなスカラベ印章だけは本国イギリスへ持ち帰り、生涯大切にしていたとされる。
「スカラベ」とは本来タマオシコガネ虫などの甲虫類を意味する古代単語。「再生・復活」の象徴として広く崇拝され、遠く古(いにしえ)の時代、古代エジプトやエーゲ海ミノア文明ではスカラベを形取った石製印章が作られ、「お守り」として長い間人々に好まれた。

                クレタ島ミノア文明/4か所の宮殿遺跡/無数の邸宅・町/居住地・墳墓遺跡

ミノア時代の宮殿遺跡/邸宅遺跡・町遺跡/居住地・墳墓遺跡
  クレタ島ではクノッソス宮殿を筆頭に、南西部のメッサラ平野の丘からフェストス(ファイストス)宮殿、イラクリオンの東方35kmの海岸近くからはマーリア宮殿、そして、クレタ島最東端の海岸からザクロス宮殿、合計4か所でミノア文明の大規模な宮殿遺跡が確認されている。
           4か所のクレタ島ミノア文明の宮殿遺跡(下地図)
             クレタ島ミノア文明センターのクノッソス宮殿遺跡 Knossos
             クレタ島メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿遺跡 Phaestos
             クレタ島北海岸のマーリア宮殿遺跡 Malia
             クレタ島最東端のザクロス宮殿遺跡 Zakros

            クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡/(C)legend ej

ミノア文明/産業と海外交易の発達
  今までに発掘されたミノア文明遺跡のデータからは、東西250kmのクレタ島のほぼ中央部から東方側に遺跡が集中しているという顕著な特徴が見て取れる。クレタ島の西部地区では、岩肌むき出しの乾いた山地と草木の乏しい険しい山岳地帯(最高峰=聖なるイダ山 2,456m)が連続していることから、ミノアの時代から人々の生活基盤が定まらなかったと考えられる。
クレタ島の東半分に点在している4か所のミノア宮殿遺跡、無数の邸宅遺跡、あるいは墳墓や居住地遺跡などは、ほぼ間違いなく平地か低い丘陵地の平原で見つかっている。下記はクレタ島・中央北部、南西部のメッサラ平野周辺、東部地区で確認されているミノア文明の重要な遺跡位置を示し、私はそのほとんどの遺跡を訪れている。
これらの遺跡の周囲には比較的肥沃な耕作地が展開していることから、金属鉱山が皆無であったクレタ島ミノア文明では、陶器や装飾品、フレスコ画などの工芸生産のほかに、オリーブやブドウとワイン、果実や小麦や野菜などの農産生産、そして、早い時期から舟を使った海洋漁業とエジプトやキプロス島など東方との交易が発達して来た。

            クレタ島・中央北部・ミノア文明遺跡 地図 Minoan Archaeological Sites, Crete/(C)legend ej
                    クレタ島・中央北部・ミノア文明遺跡/作図=Web管理者legend ej

            クレタ島・メッサラ平野周辺・ミノア文明遺跡 地図Minoan Archaeological Sites, Crete/(C)legend ej
                 クレタ島・メッサラ平野周辺・ミノア文明遺跡/作図=Web管理者legend ej

            クレタ島・東部・ミノア文明遺跡 地図Minoan Archaeological Sites, Crete/(C)legend ej
                     クレタ島・東部・ミノア文明遺跡/作図=Web管理者legend ej

                      クノッソス宮殿の「旧宮殿」と「新宮殿」/繁栄した「宮殿時代」

「旧宮殿」と「新宮殿」/500年間続いた「宮殿時代」
  クノッソス宮殿の歴史は非常に古く、「旧宮殿」と呼ばれた初期宮殿の建物は、考古学的な編年から言えば、中期ミノア時代の初期にあたる紀元前1900年頃に造営された。しかし300年の経過を待たずに旧宮殿は地震と火災で焼け落ち、中期ミノア時代の終期にあたる紀元前1625年頃、旧宮殿のあった場所にさらに大規模な「新宮殿」が造営された、と考えられている。そしてその新宮殿も紀元前1375年頃に再び起こった火災により完全に崩壊してしまう。
現在、ツーリストが見ることのできるクノッソス宮殿の遺構の大部分は、この火災で崩壊した新宮殿の基礎部である。そのため訪れたツーリストは、多くの場所で3,400年ほど前の大火災で黒焦げに焼け、ただれたクノッソスの新宮殿の遺構を目にすることになる。

ミノア文明が最も繁栄した文明の中期から最終期にあたるクノッソスの旧宮殿と新宮殿の存在と統治と文化をして、研究者は「宮殿時代」と呼んでいる。おおよそ500年間続いたこの宮殿時代こそが、紀元前3000年頃から始まり現在に至るクレタ島5,000年の歴史の中で、最も繁栄して輝いた時代であった。

  ミノア文明・宮殿時代

繁栄のミノア文明/クノッソスの街 ko-no-so
  ある研究者の説によれば、紀元前1500年前後の最盛期の宮殿時代のクノッソス宮殿周辺には、最大で4万人前後の住民が居住して宮殿と王の家族を支え、当時人々から「ko-no-so(コノソ)」と呼ばれた「クノッソスの街」を形成していたとされる。大宮殿を囲んだクノッソスの街は外国との戦いもなく、少なくとも500年以上の間、最大で1,500年近い期間にわたって繁栄を続けていたのである。
日本の歴史を見る時、比較的安定し繁栄が長く続いた京都を中心とした平安時代でさえも390年間で終わっていることを考えると、戦いと覇権争いで激しく揺れ動く東地中海域にあって、連綿と続いたクレタ島クノッソスの大宮殿と「ko-no-so(コノソ)」の街の「戦いなき繁栄」は、正に「エーゲ海の奇跡」と言っても良いかもしれない。

  ※「ko-no-so コノソ」=ミノア時代の住民4万人が住んだクノッソスの街の名称
    文明の時代・「ko-no-so コノソ」⇒「ko-no-sos コノソス」⇒現代・「Knossos クノッソス」

「ギリシア神話」と文明遺跡の異なり
  ミノア文明の最盛期には、大小合計で推定1,000室を数えたとされるクノッソスの大宮殿は、その建物の迷路のように入り組んだ複雑な配置と構造から、≪ギリシア神話≫の中で「迷宮」と呼ばれてきた。
クノッソス宮殿に関して、今日、日本では胸躍る神話の世界に力点を置いている人が予想以上にたくさん居る。その神話に傾向するほとんどの人は、批判ではないが、現実にクノッソス宮殿遺跡を訪ねていないからこそ、先人達がまとめ上げた神話を優先しているとも言える。
史実としての先史時代を紐解くならば、このクノッソス宮殿こそが、今から5,000年前に初期ミノア文化を生み出し、クレタ島のみならずギリシア本土の一部を含むエーゲ海全域を支配した歴代ミノア王の居城であった。権力を持った王の住む単純な宮殿ではなく、クノッソス宮殿は紀元前1900年頃に始まる旧宮殿の時代から、その後に再建された新宮殿が崩壊するまで約500年以上も続く宮殿時代に、広範囲をカバーする行政官制度も含め、「線文字A」と呼ばれる文字(現在未解読)を使った精度の高い官僚機構を確立したミノア文明の政治・行政・文化の最大センターであった。
実際にクノッソス宮殿を訪れ、この大遺跡を眺める時、もはやミノア王の娘・「アリアドネーの糸」とか、「怪物ミノタウロス」とか、ロマン溢れる≪ギリシア神話≫の話は完全に萎縮、消滅してしまう。あれほど神話に傾倒していた人でも、現場に立った時、大宮殿遺構の放す真実の迫力に圧倒され、翌日からもはや自慢の≪神話≫を一切語れない、ということになる。
クノッソス宮殿は神話や想像力を自由に膨らませるファンタジーの対象や夢物語の世界ではなく、実在の、しかも3,500年以上も前に繁栄したヨーロッパで最初の文明国家の歴然とした中枢の現場であったのである。

【Amazon通販サイト】電子書籍リーダー Kindle&Kindle Unlimited 読み放題 全商品⇒全国・送料無料
Kindle\8,980/Kindle Paper White\14,280/Kindle Voyage\23,980/Wi-Fi接続・最大数千冊〜無制限保存・薄型&軽量
月額\980「Kindle Unlimited 読み放題」登録⇒和書12万冊(小説・ビジネス本・雑誌・実用書・コミック)&120万冊洋書が読み放題・利用端末=Kindle端末&スマホ・タブレット&PC・Macなど

                                クノッソス宮殿の建物構成

建物配置・無数の装飾部屋
  詳細に後述するが、クノッソス宮殿の中央中庭の周囲には、想像上の動物の「グリフィン」を描いたフレスコ画で飾られた王座の間を初め、バスルーム(バスタブ)や水洗トイレを含む王や王妃とその家族のプライベート生活区画、祭司・神官や高位の役人を初め公務スタッフや女官達の部屋、あるいは遠来の客を迎える大広間や列柱の広間などが、言葉どおり整然と配置されていた。
発掘者のエヴァンズは、クノッソス宮殿の西翼部二階をイタリア・ルネッサンス様式の大邸宅からヒントを得て「Piano Nobile/高貴な造りのフロアー Noble Floor」と呼び、この階に配置された無数の大広間の壁面や天井などは、「女神パリジェンヌ」など崇美な宮廷の女性達の姿を初め、自然界の穏やかなモチーフや動物達を描いた色鮮やかなフレスコ画で豪華に、かつ美しく装飾されていた。

「両刃斧/ラブリュス」
  エヴァンズの大規模な発掘を通して、そのほかクノッソスの宮殿直属の貯蔵庫や工房職人の作業場、宝庫や聖なる「両刃斧/ラブリュス」の記号を刻んだ祭祀的な部屋、厳粛な宗教儀式を行う「聖なる浴場」などの宮殿の内輪の施設、半地下室風の秘密めいた部屋、採光用の吹抜け構造の空間、幅のある大階段と狭い無数の石段、複雑な通路で結ばれた数え切れない広間と建物の遺構が確認されている。

最大五階建て/部屋数1,000室
  ミノア文明の特徴ある建物の施工技術や壁面の厚さ、柱の太さなどを建築面から想定した場合、クノッソス宮殿の建物全体は少なくとも標準で二階建ての構造、王家のプライベート生活区画などがある東翼部では、露出した岩盤斜面と段差を利用しているので三階〜四階部分も、あるいは地下を含めると宮殿の一部区画では最大五階という高層構造であった可能性もある。
これら新宮殿の建物がすでに3,600年前に造られ、建造物というハード面だけでなく、文字を使った行政や官僚組織のシステムや財務管理などソフト面を含む、王国の中央政府として立派に機能していたのは驚きである。しかも、宮殿全体では部屋数1,000室とも推計されている。

UNESCO 「世界遺産」から外されている理由は?
  同じ先史時代に繁栄したエーゲ海文明でありながら、ギリシア本土ミケーネ文明を代表するミケーネ宮殿やティリンス宮殿よりミノア文明のクノッソス宮殿の方が、どう転んでも宮殿としての構造面や施工技術などハード面の規模のみならず装飾やインテリアなど、宮殿の「風格」も明らかに数ランク上と判断できる。
しかし、ミケーネ宮殿遺跡とティリンス宮殿遺跡は合同でUNESCO世界遺産の登録を受けているが、残念なことにクノッソス宮殿遺跡は未だに世界遺産から外されている。やはり、エヴァンズとその後のギリシア政府当局による、下記のようなやり過ぎる「こうであろう復元・複製」が、その最もたる理由なのであろうか?

エヴァンズの遺構の復元・複製 /世界遺産に未登録
  100年ほど前、クノッソス宮殿遺跡の発掘者となったアーサー・エヴァンズが、イギリスの高貴な階級に属する優秀な考古学者でありながら、発掘後に重要と考えられたかなりの区画や部屋などを「復元・複製」したことで、UNESCOはミノア文明の極めて重要なクノッソス宮殿遺跡を未だに世界遺産の登録から外している、という話は良く知られている。
遺構の、特に鮮やかな朱色と黒色塗装の太い石柱や高さのある建造物、例えばほとんどのツーリストが近寄って眺める北入口(後述写真)、木立の中に佇む南の邸宅(下写真)、高さのある外壁や部屋の天井部分、階段、比較的きれいになっている広間の内部壁面などが、エヴァンズによりコンクリート復元・複製された区画である。
また、10人中10人のツーリストがカメラシャッターをONする人目をひく色鮮やかな大型のフレスコ画、それを飾る広間や建物なども、残念なことに一部を除きほとんどが復元・複製である。

            クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅 South House, Knossos Palace/(C)legend ej
                 クノッソス宮殿遺跡・南入口近くの部分復元された「南の邸宅 South House」
            発掘時に残っていたのは、床面や数段の階段、円柱の下1/4程度(白い部分)だけ、円柱の赤
            色部分から上部は復元・複製した箇所/クレタ島/1982年

従って、これらは多くの人に遺跡を魅力的に見せるためのエヴァンズの親切心とも思える意図なのか、温厚な人柄と高貴なプライドからの表現なのか、あるいは考古学的な確たる裏づけあっての復元・複製なのかの判断は難しい。しかし、サイエンスであるべき現代の考古学の立場では、コンクリートを初め、自然界からの顔料などではなく、石油化学で製造された塗料を使った過剰な「こうであろう復元・複製」は、かなり「やり過ぎ」と批評され、純粋な意味での考古学研究の精度を狂わせている、という手痛い意見もある。

ただし、同じくエーゲ海文明に属するトルコ西海岸のトロイ遺跡を初め、ギリシア本土ミケーネ宮殿とティリンス宮殿などで、「財宝目当て」の発掘を行ったドイツ人実業家シュリーマンの「盗掘」にも等しいやり方とは大きく異なり、伝統と誇り高きイギリスの考古学者としてクノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションを実行したエヴァンズは、エーゲ海ミノア文明の解明に大きな功績を残した。
掘り出した多くの宝飾品を本国ドイツへ密輸までした「宝探しの考古学者」のシュリーマンとは反対に、エヴァンズは自らが発掘したほとんど全ての出土品をギリシアの考古学博物館に残している。この点でエヴァンズのクノッソス宮殿遺跡の発掘にかけた熱意と人間的な誠実性、高い文化意識、そして考古学の学術的な成果は歴史の中で高く評価される、と私は確信する。

復元・複製された区画を除き、クノッソス宮殿のほかの多くの区画は、100年前に発掘された当時のままの状態を保ち、エーゲ海に繁栄したミノア文明の最大で第一級の遺構と言える。この大規模な遺跡は、今や文明の島クレタの最も重要な経済効果の源泉であり観光が主要産業であるリゾート・クレタの最も人気のあるツーリスト・スポットの役目を果たしている。
従って人々の言う「クレタ島へ旅行に行く」とは「クノッソス宮殿遺跡を訪ねる」ということを意味している。かの地を訪れていないツーリストは「クレタ島=クノッソス宮殿」という太古の昔からの普遍方程式を知っておくべきである。

Ref.   「こうであろう復元・複製」されるクノッソス宮殿遺跡
本来の意味では、「復元」とは「元の形容・位置・状態へ戻す」ことであり、「複製」とは「原品や元の建物と同じ物を新たに製作・制作する」ことである。現状のクノッソス宮殿遺跡の多くの復元・複製箇所は、厳密に言えば本来の意味の復元・複製ではなく、あくまでもエヴァンズとその後のギリシア政府当局が何らかの条件でイメージしたコンクリートと化学塗料を使った「こうであろう復元・複製」、と言っても決して過言ではない。
考古学はサイエンスであるが故に真実を最重要視する学問であり、「観光優先」とも思えるイメージによるやり過ぎた「こうであろう復元・複製」には、真実を誠実に追究する多くの研究者から疑問や厳しい反論が浴びせられるのは当然であろう。あまりに過剰な「こうであろう復元・複製」の区画が増加すると、クノッソス宮殿の一体どの箇所がミノア文明の本物の遺構なのか、フレスコ画が本当にミノア時代と同じであるのか、誰にも判断できなくなる。これでは世界遺産に登録されないし、古代遺跡を利用し託けた「文明アミューズメントパーク」に変貌してしまうだろう。
比較が正しいかどうかだが、紀元前7000年期のキプロス新石器文化のキロキティア居住地遺跡では、遺構は発掘時のままでまったく手を加えずに管理している。その上でツーリストに参考で見てもらう「復元家屋」は遺構から遠く離れた隠れた場所に設けている。こういうスマートなやり方のキロキティア遺跡(下写真)は、1998年、UNESCO世界遺産に登録されている。

           キロキティア遺跡・埋葬家屋/(C)legend ej
                キロキティア居住地遺跡/埋葬用のトロス式墳墓/キプロス中部地方/1997年
           世界遺産/キロキティア遺跡/テンタ遺跡/世界最古の「飼いネコ埋葬」のシロウロカンボス遺跡

                          クノッソス宮殿遺跡/中央中庭と宮殿入場門

ミノア宮殿に共通した特徴/石板舗装の中央中庭
  壮大なスケール感の建物遺構と素晴らしい美術様式を残した上記の4か所のミノア文明の宮殿には、建物の構造と配置に幾らかの共通点があり、その典型例が「中央中庭 Central Court」と呼ばれる平石板舗装の長方形の広い庭である。このような共通建築の発想は、単なる偶然の流行ではなく、おそらくミノア人統治者の優れた指導力、そして、建築エンジニア達が伝統的に大切にしていた宮殿建築への強い理念、あるいは設計技術を伝承する高い民族的な意識があったから、と考えて良いだろう。
クノッソス宮殿遺構の全体規模は、最大180m四方の広大な敷地(トップ写真)である。宮殿の中央部にはミノア時代の伝統と基本に従って、50mx25mの長方形、石板舗装された中央中庭が南北に長く配置されていた。かつて、この広い中央中庭では、公的行事や集会、王国レベルの盛大な儀式・祭典、あるいは後述する「牛跳び/牛飛び」などの民衆参加の大規模なイベントも開催されたと考えられる。

クノッソス宮殿への入場/ローヤルロード&西入口/東入口/北入口/南入口
  遠いミノア時代、クノッソス宮殿への来訪者は、今日の見学者入口ゲート近く、宮殿の北西方向から始まる切り通し的な石垣と盛り上がり石板歩道の「ローヤルロード」と呼ばれる正規の入口参道を歩み、宮殿の西翼部二階へ至る「西入口」へ進んだであろう。
クノッソスの大宮殿には正規の宮殿入口であったローヤルロード&西入口のほかにも、部分復元された北入口(下写真)、大型石材で完全復元された東入口(後述)、そして、部分復元された南の邸宅(上述写真)の近くの南入口など、主要4か所の宮殿入口が存在した。
            クノッソス宮殿・北入口/(C)legend ej
                    クノッソス宮殿遺跡・北入口付近 Noth Gate/クレタ島/1982年
                高い建物と壁面に描かれた赤い雄牛の大型フレスコ画はエヴァンズの復元・複製

なだらかな階段・「劇場区域」/歓迎の舞は行われたか?
  ローヤルロードの突き当たり(東端)は、なだらかな斜面と言える段差のない階段で構成された「劇場区域」と呼ばれる空間で終わっている。「劇場区域」という言葉から連想されることで、多くのツーリストはここでイベント的な演劇が行われたと想像している。またそうであると説明する観光ガイドさえも居る。
しかし、この想定は間違っていると私は主張したい。もしミノア時代に演劇が演じられたのであれば、その場は間違いなく沢山の民衆が鑑賞参加できる宮殿中心部の広い中央中庭であったはずである。正規の宮殿入口であるローヤルロードの延長部を成すこの劇場区域では、明らかに高貴な公式訪問者を迎えるための、おそらくは10人〜20人程度の美しき衣装のミノア女性達、あるいは巫女達による優美な「歓迎の舞」が披露された、と想定して良いであろう。

西中庭と大型ピット穴/盛り上がり石板歩道/城壁・城門のない宮殿
  来訪の目的によっては宮殿西翼部・西入口へ向かわずに、ローヤルロードから右折(南進)して全面が石板舗装された「西中庭」の盛り上がり石板歩道を南方へ歩み、「ガードマン警備室」〜「ポーチ」を通過した後、貢物を携えた壮麗な行列光景が描かれていた「フレスコ画の通廊」を経て、最後に広い中央中庭へと導かれたはずである。
クノッソス宮殿のみならず、マーリア宮殿などほかのミノア宮殿や幾らかの邸宅、居住地の共通した特徴とも言えるが、参道や中庭など人々が歩む場所には石板舗装面から10cmほど盛り上がった石板歩道が施工されていた。日本庭園や格式高い和風邸宅の「飛び石」にも似た歩む人の足元への配慮と言うか、主要施設への案内を兼ねるほぼ直線的なこの盛り上がり石板歩道は、ミノア人の高い建築技術と細やかな感性に裏打ちされた遺産でもある。

宮殿建物本体の西側の広い空間を占める西中庭は、クノッソスで旧宮殿が造営された紀元前1900年頃に整備された古い区域の一つである。西中庭には旧宮殿時代に遡る古い遺構だが、ギリシア語で「丸みを帯びた凹み」を意味する深井戸に似た「コウロウラス Koulouras」と呼ばれる3か所の大型の石組みピット穴がある。
このピット底部からは紀元前2000年頃の家屋遺構が発見された。ピットの用途は明確に分かっていないが、祭祀・儀式に使った奉納物を捨てた施設と推測されている。ただこれらのピット穴は新宮殿の造営で西中庭が再整備された時に陶器片や土砂で埋められ、それ以降は使用されていない。また、ピット穴の東側には祭祀・儀式に関連する円形の祭壇基盤も残されている。
参考だが、イラクリオンの東方35kmのマーリア宮殿遺跡の西中庭脇にも若干小型のピット施設が8か所残されている。こちらは奉納物の捨て場ではなく、小麦などの穀物倉庫として使用されたものである。

ミノア時代の宮殿への来訪者は主要4か所の宮殿入口から入り、歩みを進めるに従って風格ある宮殿の構造と次々と現れるセンスの良い美しい装飾に感動しながら、気付いたら広い中央中庭や豪華壮麗な宮殿の二階へ至るという、凝ったアイデアの舞台仕掛けにも似たクノッソス大宮殿の斬新な建物構成と規模に、間違いなく圧倒されたに違いない。
また、後述の「ミノア人の平和主義と精神文化」と重複するが、クレタ島ミノア文明の宮殿では、クノッソス宮殿を初めほかの3か所のどの宮殿でも、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡・ライオン門(下写真)のように「分厚い城壁」で囲まれ、堅固な構えの「城門」が存在したことを証明する遺構も、基礎石のわずかな痕跡さえも見つかっていない。
戦いが極当たり前の東地中海域にあって長期の繁栄を享受した王の住む宮殿でありながら、クノッソス宮殿の「城壁と城門のない王宮」という信じられないこの事実は、ミノア文明の「最大の不思議」でもあり、ミノア人が継承し続けて来た平和志向と精神文化の大きな特徴と言えるだろう。

ミケーネ宮殿遺跡・城壁と城門(ライオン門) Lion Gate, Mycenae Palace/(C)legend ej
             ミケーネ宮殿遺跡・分厚い城壁と城門(ライオン門 Lion Gate)/アルゴス地方/1982年
             世界遺産/ギリシア本土ミケーネ文明のミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓・「アトレウスの宝庫」

≪ヨーロッパ旅行≫夫婦・友達同士でゆったり巡れるツアーが満載! クラブツーリズムの【ギリシア・エーゲ海の旅
6日間\169,000関西B3595/アテネ〜デルフィ遺跡〜メテオラ修道院〜コリント運河〜ミケーネ遺跡
8日間\209,000中部72336/メテオラ修道院〜デルフィ遺跡〜オリンピア遺跡〜ミケーネ遺跡〜アテネ〜1日クルーズ
6日間\200,000成田19163/女性1人参加限定/デルフィ遺跡〜メテオラ奇岩修道院〜アテネ〜1日クルーズ

宮殿・南翼部/プロキュライア(入口間)/フレスコ画・「祭祀王」/大型「U形」オブジェ
  今日の見学コースも宮殿時代の来訪者の歩んだ順路とほぼ同じように設定されている。ツーリストは石板舗装の西中庭に立った瞬間から、早くも目の前に広がる宮殿の大規模な遺構に圧倒され、より南側の大柄な絵柄の「行列フレスコ画の通廊」へ向かう。
この長い通廊は宮殿遺跡の南端で左(東方)へ折れ、宮殿の南翼部である真っ白に塗られた太い円柱と角柱が復元された「プロピュライア」と呼ばれる入口間へ導かれる。
ツアー・グループなら全員がこの区画で立ち止まり、複製フレスコ画の壁面遺構に「ワアー!」と歓声を上げ、ガイドの説明は耳に届かず、一斉にデジカメ・シャッターをONすることになる。その後、コースは階上へと昇る復元の大規模な階段や中央中庭へと進む。
あるいは地表レベルが幾分低い南入口(上述写真・南の邸宅)からのコースでは、今日、「グリフィン」を牽いたいわゆる「プリースト・キング(祭祀王/ユリの王子)」と呼ばれる複製大型フレスコ画の壁面遺構を眺めながら、緩やかな坂を登り自然に中央中庭の南端へ導かれるという仕組みである。

クノッソス宮殿遺跡・U型オブジェ(雄牛の角型)/(C)legend ej また、北入口(上述写真)からでは、鮮やかな「赤い雄牛のレリーフ・フレスコ画(浮
 彫り色付けフレスコ画)」が描かれた復元建物の脇の傾斜通路を上がり、直接的に
 中央中庭の北端に出るといった具合である。

 なお、南翼部、太い白色円柱と角柱の復元プロピュライア(入口間)とフレスコ画・
 「プリースト・キング」の壁面遺構との中間付近にコンクリート復元された大型の「U形
 オブジェ
(左写真)」が置かれている。
 これはミノア時代にクノッソス宮殿の建物の屋上や軒先、玄関上部などを飾っていた
 聖なる「雄牛の角」を模した装飾物で、沖縄の民家の屋根に鎮座する獅子像シー
 サーと同じように、魔除けやパワーの象徴を表現している。


 クノッソス宮殿遺跡・「U形オブジェ」/クレタ島/1982年

宮殿勤務の公務スタッフ/宮殿への出勤シーン
  ミノア文明の時代、毎日、クレタ島内やエジプトや中東などからの遠来の客人達がミノア王に謁見を求め、列を成してクノッソス宮殿を訪れたはずである。そして、毎朝、宮殿外に住んだ高位レベルの祭司・神官、工房の職人達、女官など、ミノア王と家族を支える色々な役目のクノッソス宮殿勤務の、おそらく1,000人〜2,000人、あるいはそれ以上の大勢の公務スタッフが東西南北の主要な入口を利用して続々と宮殿へ通っていた。何しろ、最盛期のクノッソスの街(ko- no-so)には住民4万人が住んでいたのであり、宮殿勤務の上級エリート官僚や一般公務スタッフもたくさん居たはずである。

線文字A粘土版・シティア考古学博物館/(C)legend ej 3,500年前のクノッソス宮殿への関係者の「出勤シーン」は、現代で言えば、さしずめ数千人規模の
 スタッフが勤務する政府機関の省庁、あるいは都心にある大手民間企業の本社高層ビルへの朝
 の出勤と同じような雰囲気であったに違いない。
 後述するフレスコ画・「青の婦人達 Ladies in Blue」と同様に、風になびく度に良い香りを漂わせる
 香油で整えたウェーブのかかる艶髪、流行のきれいな花飾りを付けた「スーパーモデル風」の凛々し
 くも華やいだ顔付きのミノアの女性達も居たことであろう。
 反対に、前夜の盛り上がったワイワイ・ガヤガヤのワインの「飲み会(下記最終コラム参照)」で勢い
 飲み過ぎ、顔も洗わず二日酔いのままの冴えない表情の遅刻男性スタッフも居たはずである。
 ただ、各入口に立つユニホーム姿の宮殿ガードマンが、公用語の線文字A(左描画)を使った粘土
 板タイプの「IDカード」のチェックを行い、パピルスに書かれた「タイムカード」で厳しく勤務管理を行っ
 ていたかどうかは、当時のミノア時代の人達に問わねば、私も実態を正確に記述することはできな
 いが・・・

 線文字A粘土版/シティア考古学博物館
 クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej

 古代文明の記録である「線文字A」と「線文字B」の粘土板、未解読文字の「フェストスの円盤」

Tadaku(タダク) -外国人の自宅で習える家庭料理教室- 日本語理解する外国人ホスト(先生)宅の「家庭料理教室」
東北〜東京〜関西〜沖縄・全国各地の外国人から学ぶ一回完結型の家庭料理/ヨーロッパ〜アメリカ〜アジア・中華〜中東料理・・・
世界35か国以上/例えば10月では: 日吉本町「スペイン・イカスミ・パエリア\5,300」  中野坂上「きのこリゾット&リンゴのタルト\5,900」
阪急上新庄「カナダ風シンプルポーク\4,700」  代々木「フランス手作りタルティーヌ\5,900」  門前仲町「台湾家庭料理\5,600」・・・

                     クノッソス宮殿遺跡/王家のプライベート生活区画/王の居室

両刃斧の間/王の居室/「三部屋続き」の配置
   クノッソス宮殿の東翼部一階に配置された王と王妃、その家族が生活した「王家のプライベート区画」は中央中庭の東側、東西40m 南北30mの面積を占有した広いセクションであった。なだらかな丘陵地であるが、地盤段差のある場所という地形的な条件から、東翼部がクノッソス宮殿遺跡で最も複雑化している。
古代遺跡における重要な部分は、発掘時の状態を保つ建造物の遺構であるのは当然だが、上述の通り、100年前のエヴァンズの発掘直後から始まった「こうであろう復元・複製」、さらに今日のギリシア政府の復元プロジェクトを経ている間、特に東翼部では二階〜三階部分まで、過激に言えば、その大部分がコンクリートで復元されてしまった状態と言える。
故に東翼部では純粋な発掘遺構である宮殿一階の建物基礎部が、復元・複製された建造物で覆われ、造り上げた「キレイな遺跡」へ変貌してしまった結果、考古学知識の乏しい一般のツーリストにとっては、破壊石材がゴロゴロしている古い遺跡より見た目の抵抗感はないが、クノッソス宮殿の重要な本物の遺構を見ることが難しくなっている。

中央中庭の東側は東入口やカイラトス川の河畔へ向かってガクーンと一段と低くなることから、東翼部・王家のプライベート区画の一階床面レベルは、中央中庭レベルより二階分に相当する低い位置となる。言い換えるならば、下作図に示す通り、中央中庭の地表面は王家のプライベート区画建物の三階にあった「東大広間」の床面レベルにほぼ同等している。

             クノッソス宮殿・主要区画の位置関係(透視概略図)/(C)legend ej
           クノッソス宮殿・主要区画の位置関係(透視概略図)/中央中庭南端⇒北入口方向を望む
                   西中庭〜西翼部〜中央中庭〜東翼部(王家のプライベート区画)
                        クレタ島/1982年/作図=Web管理者legend ej

東翼部は、王家のプライベート生活区画の一階を限定してピックアップしても、下記に示すプラン図のように、石板の舗装床面の大小の部屋が連なり、階段と通路、連絡ドアー、採光吹き抜けの空間、さらに排水路システムなど、非常に複雑な構造でありながら効果的で利便性の良い配置を成している。
これがすでに3,600年前に設計され、現実に王の住む大宮殿として建てられていたのである。驚くべきは、東翼部だけでなく、このような正確に施工された部屋や大広間などが、クノッソス宮殿全体で1,000室以上も存在したことであり、繁栄した古代文明のレベルとパワーに圧倒される。

               クノッソス宮殿遺跡・王家の生活区画/(C)legend ej
                クノッソス宮殿・東翼部1階/王家プライベート生活区画・平面プラン図(1階レベル)
                          クレタ島/1982年/作図=Web管理者legend ej

「両刃斧の間」の用途=王の居室
  上作図は王家プライベート生活区画の一階部分の平面図である。作図の右上部分が「両刃斧の間 Double Axe Room」と呼ばれ、比較的落ち着いたフレスコ画で装飾され、床面が石板舗装された「三部屋続き」の王の居室(下写真)となる。ほとんど間違いなくこの「三部屋続き」の区画では、公的な政務を離れたミノア王が食事を取り、寛ぎながら家族と雑談をしたり、時には昼寝をした後、美しき王妃と二人だけの熱〜い愛の時を過ごしたのであろう。

なお、ミノア文明では歴代の王による政治と宗教が強く結び付き、崇拝される王自身も含め、多神教の思想が根本に流れていた。ミノアの王も人々も力のある雄牛や角、蛇などを強く崇拝し畏れた。特に強調できるのは、後述の「聖域」の項と重複するが、あらゆる宗教的な崇拝シンボルの中で「両刃斧/ラブリュス」が、最も畏敬で最も神聖な意味をなしていた点である。
この王の居室が研究者の間で「両刃斧の間」と呼ばれる理由は、この部屋に、おそらく高さ2m以上の支持棒の先端にミノアの最高の崇拝シンボルであった巨大な両刃斧(青銅製?装飾斧)が立ててあったと想像したからである。当然のこと、ミノア王だけが神が宿る神聖なこの居室に置かれた木製王座(下写真・複製品)に座ることができた。

            クノッソス宮殿遺跡・王の居室 King's Room, Knossos Palace/(C)legend ej
                   クノッソス宮殿遺跡・両刃斧の間(王の居室)/クレタ島/1982年
         渦巻き線の連鎖紋様のフレスコ画と壁面は3,400年前の遺構/木製王座は複製品(立入禁止区域)

「両刃斧の間」の外部
  上作図の通り、王の居室は「L字形」の広い中庭と天空に開口した採光用の吹抜け構造の部屋とに挟まれた「三部屋続き」の配置で、光と空気の流通を最大限に考慮し、地中海クレタ島の気候に適した快適な造りであった。
太い円柱と角柱で囲まれた「三部屋続き」の王の居室の外側に配置された「L字形」の中庭(下写真・右下〜右側の明るい部分)では、間違いなく適度の給水が行われ、春の頃にはフレスコ画に描かれたのと同様に、ミツバチやチョウが舞う地中海の美しい草花やソテツなど緑の植込みがあったと想像できる。

なお、王の居室の木製王座は当然のことに複製品(上写真)だが、王座の背後の壁面とそこに描かれた渦巻き線の連鎖紋様の一部は、若干地味な壁面装飾に見えるが、エヴァンズが発掘した当時のまま、クノッソス宮殿が大火災で崩壊した3,400年前の状態を保っている。「こうであろう復元・複製」が多過ぎるクノッソス宮殿遺跡において、古代のままの遺構を残す数少ない貴重な箇所である。
ただし、今日、遺跡見学の一般ツーリストは復元された朱色柱頭・黒色円柱とコンクリート角柱の外側でロープ規制された「見学コース」を回ることから、「三部屋続き」の内、最も西側奥の木製王座が置かれた王の居室を直に覗くことは難しい。「外を見せて内部を見せない」を基本とする遺跡保護を優先して設定された「見学コース」なので、止むを得ないが・・・

            クノッソス宮殿遺跡/(C)legend ej
               クノッソス宮殿遺跡・王家のプライベート生活区画/左側の暗い部屋が「両刃斧の間」
                床面と柱礎を除き、残念ながらこの区画の90%が復元・複製/クレタ島/1982年

Ref.  王の居室周辺への「こうであろう復元・複製
「両刃斧の間/王の居室」周辺は、特にクノッソス宮殿の重要な区画であったが、実は発掘時に残っていた外観部分は、上写真で言えば右端の大型角柱の下1/4程度、円柱の柱礎、床面だけで、それ以外の大型角柱の上3/4、黒色塗装の円柱の下部から赤色柱頭部分、堅固な上階の梁とその上部の床面や部屋はすべてコンクリートによる復元・複製である。要するに外観の90%はミノア文明の遺構ではない。
今日の10階建てマンションでも使われそうな大型角柱と太い円柱が建ち並ぶ「やり過ぎた」近代建築の「こうであろう復元・複製」を見てしまうと、胸ワクワクでクノッソス宮殿遺跡にやって来た時間のないグループ・ツーリストでさえも、ふと急ぎ足を止め、「エッ、これって本当に遺跡なの?」と疑いの心境で眺めることになる。
この復元・複製の区画を見た瞬間、多くの日本人ツーリストが昭和初期に建てられた立派な図書館や博物館の入口とか、一昔前のホテルの玄関、あるいは中世フランスの城館シャトーのような感じを連想して興醒めというか、期待はずれの落胆をしてしまう。まあ他の国のツーリストも同様にがっかりするのだが・・・
中央中庭の南側、いわゆる「プリースト・キング(祭祀王/ユリの王子)」と呼ばれる複製のフレスコ画が壁面に飾ってある程度なら何とか我慢できるが、誰しもがこの現代コンクリート建物と3,500年以上も前の古代宮殿のイメージを合致させることには「無理がある」と感じるだろう。だからUNESCO事務局は世界遺産の登録リスト帳を閉じたまま、一向にポーンと「登録印」を押そうとしないと私は感じてしまう。
またまた辛口で批判をしてしまったが、古代遺跡は子供も大人も楽しい「アミューズメントパーク」ではなく、例え破壊されていても、発掘状態のままが基本と強調したいのだが・・・

※本物のフレスコ画・「プリースト・キング(祭祀王/ユリの王子)」は、イラクリオン考古学博物館で展示公開され、紀元前1600年〜前1500年頃の作、高さは約2,1mである。

                        「三部屋続き」の配置/建築様式・「メガロン形式」

特徴的な宮殿建築様式
  王の居室と隣合わせのニつの部屋の構成・「三部屋続き」の配置は、ギリシア本土ミケーネ文明の宮殿に見られる建築様式・「メガロン形式 Megaron Complex」に類似する配置である。この「三部屋続き」の配置法は、クレタ島メッサラ平野に建つファイストス(フェストス)宮殿の王の居室(下写真)やマーリア宮殿など、ほかのミノア文明の宮殿でも採用されている。
しかし、クノッソス宮殿やファイストス(フェストス)宮殿などでは、下写真のミケーネ宮殿とは異なり、王の居室の中心部に絶えることなく火を焚いた「聖なる炉」を設けていない。ミノア文明のクレタ島はギリシア本土より遥かに南に位置するエーゲ海の暖かい気候の島であり例え権威と神聖さを示すとは言え、室内の炉で熱い火を焚くという発想と習慣がなかったのかもしれない。
ギリシア本土のミケーネ文明の「メガロン形式」の建築様式は、紀元前1400年頃、ミケーネ人がミノア宮殿の建築様式からヒントを得て開発したとされる。また、ミケーネ文明の「聖なる炉」の設置はさらに後の紀元前1300年〜前1250年頃と推定されている。

  ギリシア本土ミケーネ文明/特徴ある宮殿建築様式の「メガロン形式」とは?

            フェストス(ファイストス)宮殿/(C)legend ej
                     ファイストス(フェストス)宮殿遺跡・王の居室/クレタ島/1982年
                        クレタ島メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿遺跡

                     ミケーネ文明・「メガロン形式」/(C)legend ej
       「メガロン形式」の三部屋続き配置 例/ティリンス宮殿遺跡・「控えの間」・「前の間」・「王の居室」のプラン図
                       アルゴス地方/1982年/作図=Web管理者legend ej

            ミケーネ宮殿遺跡・メガロン形式/(C)legend ej
            ミケーネ宮殿遺跡・メガロン形式・三部屋続きの配置/手前から王の居室・前の間・控えの間
                 王の居室の中心には「聖なる炉」の遺構(色円形・直径約4m)が残る
                       アルゴス地方/1982年(現在=立入禁止区域)

              世界遺産ティリンス遺跡(上作図)&世界遺産ミケーネ宮殿遺跡(上写真)などの情報は;
                               ミケーネ・ページ

商品5,000万点以上・世界最大規模の品揃え【Amazon.co.jp通販サイト】 通常配送・コンビニ受取・全商品⇒全国・送料無料
タブレット・PC・プリンタ・ネット関連用品・ソフト・ゲーム、和洋書・コミック、映画DVD・音楽CD、家電・カメラ・時計、キッチン用品、ファッション・バッグ、食品・ワイン、健康・スポーツ・アウトドアー・・・

クノッソス宮殿遺跡・イルカのフレスコ画/(C)legend ejクノッソス宮殿遺跡・王妃の間/(C)legend ej













      「イルカ」のフレスコ画/イラクリオン考古学博物館
                クレタ島/1994年

クノッソス宮殿遺跡・王妃の間・フレスコ画・「踊るミノア女性」/写真情報: Oxford University Digital Library





      クノッソス宮殿遺跡・東翼部一階・王妃の間
      クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)

 フレスコ画・「踊るミノア女性」/エヴァンズ発掘レポート
 スケッチ原画=サイズ 横440mm 縦410mm /水彩画
 写真情報: Oxford University Digital Library

                  クノッソス宮殿遺跡/「イルカ」や「踊る女性」のフレスコ画装飾の王妃の間

王妃の間/愛らしいフレスコ画装飾
  ツーリストに人気の高い王妃の間(Queen's Room 右上写真)は、上述の作図に示すように、「くの字」の狭い通路と階段部分を挟んで両刃斧の間(王の居室)の南側に連結された配置である。王妃の間はスペース的には少し狭い感じだが、東側には2本円柱のベランダ形式の部屋があり、さらに東と南側には採光用の天空に開口した小さな中庭が付属されていることから、部屋の奥までクレタの明るい光が入っていたと想像できる。
王妃の間の壁面と角柱は、ミノア文明の最大の特徴である海洋性デザインの愛らしいイルカや魚達の泳ぐ様、渦巻きや抽象的な紋様あるいは踊るミノア女性(Dancing Girl 左上写真/エヴァンズ発掘レポート・スケッチ原画 Oxford Uni Digital Library)などの美しいフレスコ画で装飾されている。
何れの描画もグラデーション技法ではなく、古代エジプト絵画やチベット仏教の曼荼羅絵画に共通する、輪郭線を描き、幾らかの色を単色で塗り、それぞれ単色のもつ特徴を強調する「繧繝彩色(うんげんさいしき)」の技法で描かれている。この時代、私は絵画の専門家ではないので正しいかどうかだが、絵の具の原料はすべて自然界から採取した岩石や準宝石類などを粉末にした顔料を使っているため、原料の異種性から色の混合が難しく、近代絵画のようなグラデーション技法が生まれていなかったと考えられる。

なお、残念ながら鮮やかに描かれたイルカや紋様などの絵柄は本物ではなく、発掘後のエヴァンズによる復元・複製である。実は発掘時に王妃の間周辺で残っていたのは、床面から高さ0.5m〜1.5mの支柱下部、床面とわずかな壁面だけ、イルカの数や向きと位置、壁面の高さやスペース、天井、小魚の群れなどはツーリストへ見せるために、エヴァンズにより「こうであろう復元・複製」のフレスコ画として描かれたものである。
また、イルカのフレスコ画の本物の破断片(左上写真)は、複製のイルカ個体画が描き加えられ、イラクリオン考古学博物館で展示公開されている。ただ博物館のフレスコ画さえも残留断片が非常に少ないことから、ほとんどの部分は「こうであろう復元・複製」である。
しかし、わずかに残っていたフレスコ画の断片であろうとも、3,500年以上前の王妃の間の壁面には、間違いなく愛らしいイルカなどの美しい絵柄が描かれていた事実を博物館のフレスコ画は私達へ語っている。

Ref.  ツ-リストの自由立ち入りが許されていた1980年代の王妃の間
1980年代には、ツーリストはニつ有る王妃の間のドアーの一つ(右上写真/暗い左ドアー)から狭い通路を通り、三部屋続きの両刃斧の間(王の居室)へ至ることができた。当然のことに王妃の間への立ち入りも許されていて、その東側のベランダ形式の部屋や中庭も勝手に見学することができた。現在では、ツーリストは王妃の間の南側の窓外に設置された「見学コース」から、このイルカの複製フレスコ画の部屋を見ることができるが、王妃の間への立ち入りはできない。

海洋性デザインを好んだクレタ島ミノア文明の人々/影響を受けたギリシア本土ミケーネ文明の工芸作品
海洋民族であったミノア文明の人々は、特にイルカやタコ、巻貝や海藻など海洋性生物をモチーフにして陶器装飾やフレスコ画を描いた。その後、この海洋性デザインはギリシア本土ミケーネ文明の人々にも受け入れられ、特に顕著なのは陶器や金属容器の装飾であり、あるいは装飾短剣にも象嵌された。
下写真は紀元前14世紀前半にミノア文明がすでに崩壊した後、ミケーネ文明の最盛期であったミケーネ近郊・デンドラ遺跡の紀元前13世紀に属する「王家のトロス式墳墓」から出土した金製カップである。カップの外側面〜底部にかけて、イルカやタコなど海洋性デザインで精巧な打出加工が施されている。ハンドルは典型的なミケーネ様式の「リングハンドル」であるが、装飾デザインは明らかにクレタ島ミノア文明の影響を受けている。

ミケーネ文明・デンドラ遺跡・金製カップ/(C)legend ej
         ギリシア本土デンドラ遺跡・「王家の墳墓」出土・金製カップ/アテネ国立考古学博物館 登録番号7341
         アルゴス地方/1987年 世界遺産・ミケーネ文明遺跡からの出土品展示/アテネ国立考古学博物館

                 「世界最古のお風呂」・ミノア王妃のバスルーム/テラコッタ製のバスタブ(浴槽)

王妃のバスルーム&王妃のバスタブ/癒されるバスタイム
  王妃の間の西側には直結されたバスルーム(浴場)がある。残念ながら、現在、王妃のバスルームの立入見学は許されていない。
王妃のバスルームはそれほど広くなく、内部には小さな鉢植えの花などを置いたであろう高さ1mほどの仕切り壁と円柱1本があることからバスタブが置かれた実用の「お風呂スペース」は、正確には「南北2,4m x 東西2,3m(和風サイズ換算=約3畳半)」である。

発掘者エヴァンズは壁面の高い位置に直線と渦巻き線紋様を復元・複製しているが、ちまたで「世界最古のお風呂」と話題になっている割には、王妃のバスルームは極端な豪華さは一切なく、実際にその場に立ってみると、単にバスタブを使って湯水で「身体を洗う」という実用本位であったように感じる。
王妃のバスルームの壁や床面は、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が火災で崩壊した「最後の状態」を今に伝えているが、発掘後の時候経過と乾燥した外気に触れていることから、1982年の見学時でもバスタブにクラック割れが確認でき、壁面の石膏石の剥離と劣化もかなり進行していた。

            クノッソス宮殿遺跡・ミノア王妃のバスルーム・「世界最古のお風呂」 Minoan Queen's Bath-tub/(C)legend ej
                3,600年〜3,400年前・「世界最古のお風呂」/クノッソス宮殿遺跡・王妃のバスルーム
               ミノア王妃が入浴したバスタブ(浴槽)/クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)

多くの人が関心を持っている「世界最古のお風呂」であるミノア王妃のバスタブ(浴槽/上写真)は、高温度で焼成されたテラコッタ製(素焼き粘土)、頭を置く場が少し縁高のデザインである。バスタブの長さは約155cm、外周側面に円形とツタの葉か、パピルスの花かあるいは揺らぐアシのような植物の葉を連鎖モチーフにしたクール・デザインで装飾されていた。
王妃のバスタブは装飾の絵柄も控えめでシンプルな形容だが、3,500年以上前のミノア時代、誇張ではなく「世界最古の王家の入浴文化」が、この部屋から現実に生まれた意味を考えると非常に立派な施設であったと言える。バスタブの底には排水栓がなく、王妃は湯水を満たしたタブで、あるいは女官により次々に運ばれるアンフォラ型容器から湯水を少しずつ身体に掛け流され入浴していた。
王妃の入浴の後、女官はタブの水を容器でかき出して床面に流していた。その排水は王家のプライベート生活区画の床下に設けた高度な排水路システムを経由して宮殿外部へ流された。

  ※排水路システム: 上述・「王家の生活区画」の図中の「= = =」で示す3系統の排水路ルート

ミノア王妃の入浴/フラワーバスを使ったか?/ハーブバスだったのか?
  上写真は私が1982年に撮影したもので、発掘時のままの王妃のバスタブがバスルームの北西隅に置かれていた。王妃のバスタブは隣の王妃の間の壁面を飾る「こうであろう復元・複製」のイルカのフレスコ画と異なり、ミノア時代の正真正銘のバスタブである。
ミノアの時代には、おそらくバスタブはお風呂スペースの真ん中に置かれ、タブの周りで複数の女官が王妃の入浴を世話していたのであろう。幾らかの研究者は、女官達はエーゲ海特産の天然海綿スポンジを使って王妃の脚を洗う役、身体を洗う役、髪を流す役など数人構成でそれぞれ担当が専任されていたと想像している。

風呂好きの日本人なら誰もが、ミノア王妃が入浴したバスタブなので、ゴテゴテ装飾のヨーロッパ・バロック様式風のさぞかし豪華で大型施設と想像し勝ちだが、現物は予想外にシンプルで小型である。3,500年以上前、当時の陶器製作の技術とクラック割れの弱点がある素焼き粘土製の材質からしても、これ以上の大型バスタブの製作は困難であったはずである。
バスタブのサイズから判断するなら、ミノア王妃がタブの中で手足と身体を大きく伸ばして入浴するには少々無理があり、おそらく若干膝を曲げた姿勢を保ち、縁高側にセットした何らかの柔質保護具に頭を置いていた、と想像する。そうして予め入浴準備でタブに満たされた湯水、事によると芳香のプルメリア(フランジパニ)を浮かべたフラワーバス仕様、または女官の支えるアンフォラ型容器から少しずつ注がれるハーブ入りの湯水を受け、クレタ島のまどろみの午後、ミノア王妃は目を閉じ至福の時間を過ごしたのであろう。

私が想像する美しきミノア王妃に最も信頼されている若い女官ナディアが、入浴の王妃に話しかけるシーンでは;

  「王妃様〜、マジョラム(シソ葉/血行促進)入りのお湯加減は如何でしょうか?」
  「ありがとう、ナディア! 昨日のプルメリアの花の香りと同じように心がとっても癒される気分よ」
  「先週のこと、シリアから来訪された使節団の若いスタッフのお話では、あちらではまだお風呂が流行っていないそうです。なので王
    妃様がバスタブ入浴した世界で最初の “お風呂クィーン” となりま〜す」
  「あら、光栄なお話ですこと。ところで、ナディア、手のひらサイズの線文字Aの “つぶやき粘土板ブログ” を見ると、あちらではアナト
    リア産の天然厳選椿オイル配合の “Tsubaki” とか言う、艶髪シャンプーが大流行とかの噂もあるようね、本当かしら?」
  「はい、王妃様、このウェストをしぼったような容器がアレキサンドリアの交易商人から、スマホ注文ではなく、伝書鳩注文でお取り
    寄せした艶髪シャンプー “Tsubaki” です。とても売れ筋で在庫不足らしく、クロネコではなく、青ラクダ印の宅配舟の到着まで
    3か月もかかったのですよ。また最近エジプトの街では密なキューティクルが得られる珊瑚粉入りリンスとか、1回5分でお風呂で
    使える「お手軽カラーリング」も発売され、オシャレ先取りの若娘達だけでなく、中高年の間で超人気のトイレタリー商品らしい
    です、王妃様〜」
  「女を磨く最先端の商品まで発売されたのね、伝書鳩注文できるのかしら、ナディア?」


代々の美しきミノア王妃は、当時としては最高級の艶髪シャンプーを使い、テラコッタ製バスタブに芳しき花びらを浮かべた「世界で最初の入浴施設」で心身ともに癒されていたのであろう。私が想像した今から3,500年以上も前の古(いにしえ)の宮廷の話だが・・・

【ポーラPOLA公式通販サイト】 1回5分で色づく お風呂で使える1品2役の「カラートリートメント」新登場!
40代からの髪の悩み解決、髪のダメージを補修しながら白髪を染める「お手軽カラーリング」、エイジングケラから生まれたヘアケア・「グローリングショット・カラートリートメント」200g¥3,132/そのほかシャンプー・コンディショナーなど豊富にラインアップ!

Ref.   「ミノア王妃のバスルームでの「男達の夢想」
1980年代の初め頃、クノッソス宮殿・東翼部にある王家のプライベート生活区画でも、ミノア王が寛いだ三部屋続きの「両刃斧の間」の内部への立ち入りを除き、王妃の間や「世界最古のお風呂」とも騒がれている王妃が使っていたバスタブや水洗トイレ(後述写真)も含めほとんどすべての宮殿遺構を勝手に見て回り手で触れることさえもできた。
魅力的なミノア王妃が入浴していたバスタブの現物を見てしまうと若い男性のみならず、年齢を問わず、健康な男性なら誰でもちょっとバスタブに手を触れて、勝手に膨らませた「男の夢気分」を瞬間的だが覚えてみたい、と発想するのが雄(オス)の本能である。
男の人って本当に信じられない!王妃と同じくらい私だって魅力があるはずよ!」と、脇のガールフレンドや付き始めたウェストの脂肪層を忘れた同行の妻が、アヒル口でわずかなジェラシー言葉をつぶやき、頭を左右に振りながら両手を広げクスッと微笑する顔を見ながら、男性諸君は王妃のバスタブに手を触れていた。そうして目を閉じ「ウフフ・・・」と嬉しそうにつぶやく瞬間、男性だけが独占的に感覚できるこの上ない「男達の夢想」を体感していたのである。
王妃のバスタブに直に手を触れた経験のある私を含めて、健康な普通の男性なら誰でも、衣服を身に付けない麗しき女性の姿をそれぞれ自分流に美しく夢想する特殊な能力があるからこそ、世界共通のこんな平和な光景が起こり得るのである。こういう瞬間は、不思議なことに、人種民族や国籍を問わず全ての男性が肩組んで一致団結、国際協調でまったく同じ感覚世界に陶酔するのだ。
高貴な身分のミノア王妃が使っていたバスルームを堂々と「覗く行為」は、3,500年以上前の古(いにしえ)の宮殿時代がそうであったように今日残念ながらバスルームへの立ち入りが禁止となり、庶民たる宮殿見学の「ワイワイ・ガヤガヤ」のツーリストには許されていない。あの自由が許されていた1980年代の「男達の夢想」の感触は、今でも私の右手の指先に消滅することのない「i PS細胞」として残されている。

U-NEXT 月定額制@1,990 圧倒的な配信本数・日本最大級の動画配信サービス
全ジャンル12万本・DVD発売前の最新作〜名作映画見放題(毎月2,000本以上更新・成人向2,000本)/雑誌70種の読み放題
家族最大4アカウント(人)同時別々視聴OK/毎月@1,000相当ポイント付与/登録時31日間⇒無料!

                       ギリシア本土ミケーネ文明の宮殿の「バスルーム/バスタブ」

ほかの文明宮殿のバスタブ/石製バスルーム
  参考だが、王妃のバスタブに関しては、ギリシア本土メッセニア地方ネストル宮殿遺跡では石膏塗り施工、表面にきれいな幾何学紋様の装飾が確認できる粘土製のバスタブ(下写真)が発見されている。このバスタブは重量もある備付タイプ、移動できずに発掘後もそのままの状態を保っているので、現地までの交通アクセスに難があるがネストル宮殿遺跡を訪れた際に誰でも見ることができる。
ネストル宮殿の崩壊が今から3,200年前/紀元前12世紀の初め頃であり、少なくともバスタブは3,250年以上前に設置されているはずである。そうならば、このバスタブはクノッソス宮殿の王妃のバスタブより数世紀ほど「新しい」と言える。ミケーネ文明の宮殿王家の生活を証明する貴重な設備の一つである。

            ミケーネ文明・ネストル宮殿遺跡・王妃のバスタブ/(C)legend ej
           ネストル宮殿遺跡・王妃の間・バスタブ/紀元前12世紀/ペロポネソス・メッセニア地方/1982年

さらに、ペロポネソス・アルゴス地方の世界遺産ティリンス宮殿遺跡では、推定重量20トンとされる石灰岩製の「2,7m x 3m」の大きな一枚岩のバスルーム床面(下写真)が見つかっている。現代ではとても探すことも難しい大型サイズの平岩をセットしていることから、この石製バスルームには、紀元前12世紀以前のミケーネ時代としては、現代の私達が想像する以上に「豪華な雰囲気」が満ちていたであろう。
ただし、ティリンス宮殿では紀元前1200年頃にミケーネ文明の宮殿システムが崩壊した後、数世紀にわたって庶民が宮殿跡に居住を続けたことから、クノッソス宮殿遺跡やネストル宮殿遺跡のように、かつて間違いなく存在したはずの湯水を満たす「王妃のバスタブ」などは発見されていない。

            ミケーネ文明・ティリンス宮殿遺跡・バスルーム/(C)legend ej
         ティリンス宮殿遺跡・広い一枚岩のバスルーム/紀元前12世紀/ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

              ネストル宮殿遺跡(上写真)&世界遺産ティリンス宮殿遺跡(上写真)などの情報は;
                               ミケーネ・ページ

                    クノッソス宮殿遺跡/王妃の化粧室/女性達の息抜きの場所

王妃の化粧室/石製ベンチ
  クノッソス宮殿の王妃の間から、バスルーム脇を通る通路(現在=立入禁止)を西方へ進むと「王妃の化粧室」、または「トイレと石膏石ベンチの部屋」と呼ばれる正方形の部屋となる。この部屋はおそらく王妃がメイキャップや衣装の着替え、そしてトイレとして使ったと考えられる。部屋の南西隅には石膏石のベンチが備えてある。石膏石は比較的軟質系でカット加工なども容易なクレタ島特産の石材で、宮殿や邸宅だけでなく、町の庶民の住宅でもたくさん使われていた。
このような部屋の中のベンチ設備では、私が訪ねたミノア文明の遺跡に限れば、クレタ島のメッサラ平野にあるフェストス(ファイストス)宮殿、さらに宮殿からほど近いアギア・トリアダ準宮殿遺跡の主要区画、そしてイラクリオン東方のニロウ・カーニ邸宅遺跡(下写真)やクレタ島東部の小さなゾウ邸宅遺跡などにも残されている。石製ベンチは概して上級の建築設備・造作であったと言える。

            ニロウ・カーニ遺跡/C)legend ej
                   ニロウ・カーニ邸宅遺跡・「高位祭司の邸宅」/クレタ島北海岸/1982年
                       ※右側の部屋に「L字」の石製ベンチが施工されている
             クレタ島ミノア文明のマーリア宮殿遺跡/アムニッソス邸宅遺跡/ニロウ・カーニ邸宅遺跡

女性達の華やいだ会話/廷内の恋の話か?

ミケーネ文明・象牙製櫛(くし)/(C)legend ej おそらくは、この石製ベンチに座った王妃の艶髪を梳かす担当の
 女官達の話題は、宮殿勤務の若いハンサムな男性スタッフの噂
 話などであったはずで、化粧室は始終笑いと華やいだ雰囲気に
 満たされた「女性達の息抜きスペース」であったと想像する。何時
 の世でも女性達は「恋愛」の話題に事欠かない。


 アッテカ地方・スパタ遺跡・横穴墓出土・象牙製櫛(くし)
 アテネ国立考古学博物館/登録番号2044/横幅約160mm
 紀元前13世紀/ロゼッタ紋様と人間の頭部と翼を付けたライオ
 ンの身体の聖なる「スフィンクス」をデザイン
 描画=Web管理者legend ej/1982年

例えば、アナトリア産の天然厳選椿オイル配合 “Tsubaki” の艶髪シャンプーと密なキューティクルが得られると評判の高い珊瑚粉入りリンスで洗髪後、先進国エジプトから青ラクダ印の宅配舟で輸入された象牙製の櫛(くし/上描画)を使って、ミノア王妃の美しい艶髪を丁寧に整えながら、若い女官ナディアが王妃に話しかける;

  「王妃様〜、お聞き下さ〜い!」
  「何かしら、お話になって、ナディア! いつもようにお口がアヒル口になっているわよ、今日も男のお話?」
  「昨夜の晩餐会のこと、財務省の若手ナンバーワンのプロコピオス様が、2階大広間の柱の影で広報部一番の美人秘書のアナス
    タシア様と抱き合って愛をささやいていたのを、私見てしまったのです。アナスタシア様は2年前の “ミスコンko-no-so大会” で優
    勝した若くてお美しい女性ですけれど、昨年レアンドロス様と出来ちゃった結婚なさった方ですよ、王妃様〜!」
    (ナディア=再びアヒル口になる)
  「あら、よろしいのではないかしら、自由恋愛はミノア王国の伝統よ。“恋多き女”と言われた私も王様と結婚する前には50歳の年
    配のフレスコ画絵師とか、マーリア宮殿の12歳の王子からも誘惑されたことだってあるのよ。若い人達の自由恋愛は国の平和と
    繁栄の証だわ、そう思わない、ナディア?」
  「はい、王妃様〜。でも〜、未婚でハンサムなプロコピオス様は私達女官の憧れなのです、王妃様〜、ウゥ〜ン、王妃様〜」


  ※「ko-no-so コノソ」=ミノア時代の住民4万人が住んだクノッソスの街の名称
    文明の時代・「ko-no-so コノソ」⇒「ko-no-sos コノソス」⇒現代・「Knossos クノッソス」

Ref.  古代エーゲ海文明に「自由恋愛」はあったのか?
「自由恋愛は王国の伝統よ」とミノア王妃が強調するように、この時代、エーゲ海域ではクレタ島ミノア王国以外、特にギリシア本土ミケーネ文明ではさらなら自由恋愛がお盛んであったようだ。例えばギリシア西部スパルタでは、長編叙事詩≪イリアス≫によれば、神話の英雄であり伝説のスパルタ王メネラオスの妻に、少女の頃からギリシア中の若者に求婚されたという絶世の美女ヘレン(GR=ヘレネー)が居た。全能の神ゼウスと美しきレダ(レーダー)の娘であるヘレンは、かつて独身時代の「ミスコン・全ギリシア大会」では間違いなく毎年断トツで優勝していたに違いない。
そのヘレンの美貌は歴史を揺るがす国際紛争を巻き起こす。外交使節としてスパルタへやって来たイリオス王国トロイ(現在=トルコ西海岸トロイ遺跡)のイケメン王子パリス(子供時=アレキサンドロス)は、人妻ヘレンと会い一目惚れして「禁断の恋・自由恋愛」の扉を開けてしまう。美人は何時の世でもトラブルを起こす最大の要因である。
ヘレンの美貌に魅了されメロメロ状態となった王子パリスは、両手に余るほどの若娘達を絶頂させた自慢のフィンガーテクニックを使い、有ろうことか美しき人妻を甘い言葉で誘惑してしまう。そうして、イケメン王子はヘレンと王メネラオスの一人娘ヘルミオーネをスパルタに残し、金銀財宝を積み込んだ舟で美し過ぎる人妻ヘレンを本国イリオスへ連れ去ってしまった。
母アエロペの父クレタ王カトレウスの葬儀でたまたま不在中に起こった「妻を奪われる」という、侮辱的な出来事に夫メネラオス王は激怒。美人妻ヘレンの奪回を大義名分に掲げ、兄であるミケーネ宮殿王アガメムノンを総司令官としたミケーネ・ギリシア連合軍は、10万の軍勢で王国イリオスへの攻撃を仕掛け、10年に及ぶ長い「トロイ戦争」へ突入して行く。時は今から3,200年ほど前であるが・・・

「トロイ戦争」の英雄と勇者の活躍
イケメン王子パリスの兄はイリオス王国トロイの英雄ヘクトールで、「トロイ戦争」では老齢の父プリアモスに代わり総大将として活躍、ギリシアの武将パトロクロスを討つ。が、盟友パトロクロスを失ったギリシアの勇者アキレスは激怒、その復讐としてヘクトールを殺す。しかし、その後、アキレスはヘクトールの弟パリスの放った矢でアキレス腱を射抜かれ命を落とすことになる・・・

  世界遺産/トルコ西海岸・「トロイ戦争」のイリオス王国トロイ遺跡/アッソス遺跡

王妃の化粧室の居眠り
  ミノア時代の自由恋愛論でコースが少し外れてしまったが、かつて1980年代初め以降、春〜夏の時期、私はクノッソス宮殿遺跡を累計で10回ほど訪ねている。特に乾燥した盛夏の時期に複数回、今日では立ち入って覗くことも許されないが、かつてミノア王妃が腰掛けた化粧室の石製ベンチに座り、しばし涼みの休憩を取ったことがある。
セピア色の記憶を辿ると、コンクリート復元・複製の東翼部の建物が上階にできたことから、地下室のような構造となった王妃の化粧室が、おそらくクノッソス宮殿遺跡で最も居眠りに適した涼しい場所であったような気がする。乾燥したエーゲ海の夏の時期、直射の陽光は「暑い」のではなく非常に「熱い」が、枝葉を広げたプラタナスや糸杉の大木がつくる日陰や建物内部はたいへんと涼しく、汗をかくことはなかった。ただし、ミノア王妃が寛いだ石製のベンチに座っていたが、居眠りと涼みが優先で、宮殿遺跡を訪れるツーリストが少ないこともあり、王妃の化粧室で自由恋愛を語る愛らしき「ナディア」との出会いはなかったが・・・

採光吹抜けの空間
  王妃の化粧室の北側の壁には大きい窓の施工が残り、化粧室はその外側に配置された天空に開口した採光吹抜け構造の正方形の空間に面している。この窓から光が入ることから、王妃の化粧室はランプなどの照明の要らない明るい部屋であったと思われる。当然、化粧室は王妃専用のプライベート部屋であったことから、トイレ区画を除き、部屋の壁面や天井などは色鮮やかな花や可愛い小動物、あるいは連鎖の幾何学紋様など、何らかの心癒されるフレスコ画で美しく装飾されていたはずである。

                    クノッソス宮殿遺跡/ミノア王妃の「水洗トイレ」/排水路システム

大地震の後⇒新宮殿設計/水洗トイレの構想/トンネル排水路システム
  興味深いことに、ミノア王妃の化粧室には、紀元前15世紀以前に早くも「水洗トイレ Flushing Toilet」が完備されていた。トイレ区画(左下写真)は王妃の化粧室の中に設けた狭い空間で、幅1.1mのトイレ区画の両脇を石膏石の幅板ボードで囲い、おそらくプライバシーを確保するために木製のドアー(右下描画)があったはずで、空間の奥部に深溝を備えたシンプルな構造である。

紀元前1900年頃から繁栄して来たミノア文明の旧宮殿時代の末期、紀元前1650年〜前1640年頃、クレタ島では大きな地震が起こり、その後に発生した火災の被害を受けたと推測できる。しかし、クノッソス宮殿のみならず、クレタ島北海岸のマーリア宮殿、メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿などではそれまで存在した旧宮殿を取り壊して、紀元前1625年頃、旧宮殿のあった場所に新宮殿の造営が申し合わせたように一斉に行われている。これはさらなる繁栄を上塗りするミノア文明の「新宮殿建設ラッシュ」であり、この各地の新宮殿の完成をもって華やかな「新宮殿時代」がスタートする。
しかも、中央中庭の「類似・共通設計」の例を見るように、新宮殿の設計を担当したのは、同一、または限られた数人の設計者が行ったことを暗示させている。各地の宮殿の建物配置法や機能と構成などは地形的な制約は個々にあるが、ほとんど同様か、極めて類似していることから、水洗トイレに関しても新宮殿の造営時に同じような仕様と設計が各宮殿で行われた確率は非常に高い、と私は思う。

さらには、新宮殿の設計と同時に飲料の上水道、色々な水の利用を考えた導水路、さらに地中に埋め込むトンネル状排水路なども配置や経路からして一括して統合設計されたと考えて良いだろう。宮殿のような大規模な建物では、地中・地下や基礎となる一階区画などは、後からの増築や改造が難しいことから完璧に設計する必要があり、先ず最初に最下部に敷設するトンネル状排水路や水洗トイレなどが、優先的に設計・施工されたはずである。
この私の想定が正しければ、クノッソスでは新宮殿の造営時、今から3,625年前の紀元前1625年頃、地中に埋め込まれた3系統の排水路システムと一緒に、王妃の化粧室にある水洗トイレも設備されたことになる。その後、紀元前1375年頃に新宮殿が崩壊するまでの間、漆喰塗装やドアーの交換などの部分的なメインテナンスは間違いなく行われたにせよ、王妃の化粧室の水洗トイレは、約250年の間、代々のミノア王家(晩期75年間=占領ミケーネ人統治者)により使われ続けて来たのである。

クノッソス宮殿遺跡・ミノア王妃の水洗トイレ Minoan Queen's Flushing Toilet, Knossos Palace/(C)legend ej  クノッソス宮殿遺跡・ミノア王妃の水洗トイレ・仕組み Flushing Toilet, Knossos Palace/(C)legend ej
     クノッソス宮殿遺跡・王妃の化粧室・「水洗トイレ」の仕組み
    推定木製座りイス=横幅約1.1m 奥行き約55cm 高さ約53cm
    1982年/描画=Web管理者legend ej


 クノッソス宮殿遺跡・王妃の化粧室・「水洗トイレ」
 正面=白色石膏表装の痕跡/右壁面=イス固定の縦溝の痕跡
 3,600年〜3,400年前/クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)


Panasonic Store(パナソニック ストア)の次期新製品・【モニター販売】応募サイト
応募時・購入・使用後のアンケート回答で低価格購入! 無料会員登録⇒全商品送料無料(ゲスト購入@5,000以上送料無料)
現在募集中のモニター商品: 1)10月18日まで LUMIXデジタルカメラ DMC-LX9 \88,300〜応募
                   2)10月18日まで デジタルカメラ DMC-FZH1 \160,400〜応募
                   3)10月19日まで ななめドラム洗濯機 NA-VG1100L \202,200〜応募
                   4)10月26日まで パーシャル搭載冷蔵庫 NR-F472PV \189,200〜応募

Ref.  古代文明の「水洗トイレ」
イラクリオンから東方35kmのマーリア宮殿遺跡、メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿遺跡、イラクリオンから南西15kmの山間部のティリッソス邸宅遺跡(C邸宅)など、幾らかのミノア文明遺跡からも、クノッソス宮殿の王妃の化粧室と同じタイプの「水洗トイレ」の遺構が確認されている。
しかも、マーリア宮殿遺跡では、木製ではなく石膏石製のトイレ用の「座りイス」までも出土している。このマーリア宮殿遺跡からの重量もあり分厚い石製の座りイスのサイズは、横幅約67cm 奥行幅約46cm 高さ38cmであった。しかし、クノッソス宮殿遺跡では、今日までにトイレ用の木製、あるいは石製の座りイスなどは見つかっていない。
なお、Wikipedia情報によると、現在、考古学的に認識されている「世界最古の水洗トイレ」は、紀元前2200年頃(4,200年前)のイラク東部シュメール文明の都市エシュヌンナの宮殿遺跡で発見された6か所の水洗トイレとされる。
したがって、色々なWebサイトで記述されているクノッソス宮殿の王妃の化粧室が「世界最古の水洗トイレ」という表現は厳密には正解ではなく、「ミノア文明の宮殿と邸宅では、3,600年〜3,400年前、すでに水洗トイレが標準化とされていた」とするのがより正しい判断と、私は思うが・・・

トイレ設計と王妃の希望/木製座りイス/水洗方法と汚水の流れ
  クノッソス宮殿の王妃の化粧室のトイレに関して、水が流れる深溝の上方に「座りイス」が備えて有ったか否かだが、マーリア宮殿などと同様に、3,500年以上前とは言え、ミノア王妃の使うトイレであり、おそらくは王妃の魅力的なヒップの収まる木製板に「穴」を開けたか、あるいはイスのような何らかの装置がセットしてあった、と考えて間違いないだろう(右上描画)。
何しろ、隣室のバスルームにある王妃専用の焼成テラコッタ製バスタブのデザインや形容など、現在でも優に通用できるハイレベルの設備が残されていることから連想しても、歴代の美しきミノア王妃のトイレ区画だけが粗末な造りであったはずがない。

さらに言えば、紀元前1650年〜前1640年頃の旧宮殿の崩壊を招いた大地震の後、ミノア王は甚大な被害を被った国の復興と新宮殿造営のために裕福な交易商人などへ寄進・寄付を要請、あるいは財政再建を名目に庶民に負担がかかる「消費税を10%」へ増税したはずである。
一方、ミノア王妃は新宮殿の設計担当者から、「王妃様、どの様なタイプのトイレをお望みでしょうか?」と、新設するトイレ形式の希望を問われたと推測できる。この時、エーゲ海域で右に並ぶ者が居ないほど魅力的な宮殿時代のミノア王妃が、王国財務の経費節減を旨とする「ぜいたくは悪」の気高い精神から、あえてクノッソスの街(ko-no-so)に住むミノア庶民と同じ野原で事を済ませる「大自然的トイレ形式」を望んだとしても、実際に設計者が王妃の意の通りの「粗末なトイレ」を施工したとは、私には到底想像できない。

ここで、私がイメージする慢性便秘に悩むミノア王妃とミノア人設計担当者との「新設トイレ」に関する現実的なやり取りは;

  「水洗タイプは設備に費用がかかるでしょう。100年先を見据えた王様も新宮殿の造営予算の一部を大地震からの国の復興と
    高齢者の介護費用や未来を担う子供達の育児手当てに充てたいと申していたわ。私もタブレット端末をなぞる後世の人達に
    ヴェルサイユ宮殿のマリー・アントワネットのように、 “ミノアの浪費王妃” なんて言われたくないし。なので、みんなが野原でするの
    と同じ、しゃがみ形式の簡単トイレで十分よ・・・」
  「王妃様、地震の後、復興のために交易商人達から莫大な寄付が集まりましたので、設備予算は十分あります。今エジプトやシ
    リアで流行の単純マニュアル水洗式トイレなどは如何でしょうか? こちらがアレキサンドリアの業者がパピルスに描いた斬新トイ
    レのサンプル絵です」
  「あら、プライベート・スペースも確保され、アンフォラ型ボトルで水を流す最先端トイレなのね。一つ望みを言えば、知っているでしょ
    う、私、慢性の便秘症なので、出来れば座りイスがあると助かるわ・・・」
  「王妃様の体調は承知しております。パレスチナ産の輸入銘木を使った座りイスを設備いたします」
  「それにしても、慢性便秘を治す良いお薬はないのかしら、繁栄のわがミノア王国には・・・?」
  「年配医官の話では、今、コノソ ko-no-so の街では、ハーブのフェンネルやツル植物のサラシアが便秘の特効薬との噂だそうです。
    次回のキプロス島からの青ラクダ印の宅配舟で配送するように伝書鳩注文しておきますので、配送され次第、“午後のティー”
    に入れてお試しになられては如何でしょうか?王妃様」

列記とした「水洗トイレ」
  右上の「王妃のトイレ」のイメージ描画は、発掘者エヴァンズの母校オックスフォード大学に保管されているエヴァンズの残した発掘レポート(排水系統図 Evans Architectural Plans D-11b/Oxford University Digital Library)を参考にして、壁面や地中の深さなど私がほぼ忠実な位置関係でトイレ区画をイメージ化したものである。
エヴァンズの発掘レポートでは、王妃のトイレ区画は横幅約1.1m 奥行き約1.3mのスペース、私の撮った左上写真でも確認できるが、左右の石膏石ボードの下部に刻んだ縦溝の凹みがあり、これを利用して奥部の深溝を覆うように、横幅1.1m 奥行き約55cm 高さ約53cmの「ベンチ風の木製座りイス」が固定されていた(右上描画)と想定されている。

当然、座り部分の横板には施設に相応しい「穴」が加工され、取付位置は不明だが、間違いなくそれ程高くない木製ドアーが装備され、王妃のプライバシーを確保していたと考えられる。クノッソス宮殿遺跡からはマーリア宮殿タイプの石製の座りイスは見つかっていないが、側面の縦溝の凹みの存在から、発掘者エヴァンズだけでなく、この部分に木製イスがセットされていた、と推測している研究者は少なくない。
だとしたら、木製イスには、例え豆や芋類など食物繊維の多い食材がお嫌いで慢性便秘にお悩みの王妃であっても、リラックスな気分を誘うために花や小鳥など、さり気ない女性好みの優しい彫刻が施されていた可能性もあるだろう。
また、左上写真でも鮮明に分かるが、トイレ空間の正面壁には石膏表装が残っていることから、王妃の間を飾った泳ぐイルカや宮廷美人などを描いた豪華なフレスコ画装飾こそなかったと思うが、おそらくこのトイレ区画はベージュ色など絵柄のない落ち着いた淡色表装であったと考えられる。

水は女官の「手流し方式」
  通常では、トイレが済んだ後、「終わったわ、お水を流して頂ける、ナディア」、「はい、王妃様」と、ドアーの外で待機する女官ナディアがアンフォラ型容器から床面隙間へ適量の水を注ぎ込み(右上描画)、汚水は壁面の下を通過して、地中に埋め込まれたトンネル状排水路から宮殿外部へ流された。この方法では、水を流すのはオートマティックでなく女官ナディアのマニュアル操作・「手流し方式」だが、処理方法の区分から言えば、列記とした「水洗トイレ Flushing Toilet」であった、と私は確信する。
さらに王妃が去った後、毎回、または翌朝に備えて深夜、女官ナディアは定期的に木製座りイスの「穴」や足元の数cmの隙間から、あるいは事によるとレバノン杉材や高級銘木の黒檀(こくたん)などを使った座り横板だけが簡易的に取り外しができ、掃除用の水を流し込んでいたのかもしれない。
何れにしても、王妃のトイレ区画は常に清潔さが確保され、夜景展望ができることで知られた八重洲口・大丸デパート・東京店のガラス張りの最先端トイレと同様に、誰もが感心するほど徹底的に、かつ美しいほどに磨き込まれていたはずである。

ただし、新設トイレの設計は紀元前17世紀末、今から3,600年前の新宮殿時代の幕開けの時期、“恋多き女”とも言われ、センスにも自信のあったミノア王妃も、「紙」のない時代だが、さすがに「ウォッシュレット・タイプ(TOTO)」は発想できなかったと判断できる。結果、3,625年前、宮殿設計者のお勧め通り、新宮殿の造営当時では最も斬新タイプと言われ、中東やエジプトなど東地中海域で流行っていた「単純マニュアル水洗式トイレ」が採用されたと想像できる。
ウムー、夢を誘うミノア王の娘・「アリアドネーの糸」が登場する≪ギリシア神話≫からかなり離れた真剣な実験考古学、いや現代の衛生問題にも通じる環境考古学のアカデミックな話になってしまった。が、少なくとも今を去る3,500年以上の昔、ミノア王妃のトイレ区画の奥部の深溝には常時水が流れていたか、何時でも流せる「水洗式」の仕組みになっていたことは間違いない。

また、王の居室の脇や王妃の化粧室の北側に付属した天空に開口した採光吹抜け部に降った雨水、そして水洗トイレの汚水処理も含め、王家のプライベート区画の床面下には、右上描画のように、平石を組み合せた、少なくとも3本のルートのトンネル状の排水路システムが設備されていたことは、100年前の発掘作業で解明されている。

王族/子供達の部屋
  この王家のプライベート生活区画の一階部分には部屋の余裕がないことから、おそらく王家の子供達は両刃斧の間(王の居室)と王妃の間に挟まれた階段を上がった階上部に配置された小奇麗な部屋で生活していたと考えられる。
ただ、現在、かつてのエヴァンスと同じように、階上のフロアーや長い階段などが多くが復元・複製されているが、ミノア時代の実際の部屋や階段や壁面に近似するかどうか? 観光優先でツーリストに「見せる」ために、大掛かりな「アミューズメントパーク」のような復元・複製を行っていると、何時まで経ってもUNESCO世界遺産には登録されないだろう、と再び心配してしまう・・・

                       クノッソス宮殿遺跡/美しい建築の列柱の間/柱廊の間

朱色円柱の吹き抜け広間
  王家の家族が生活した宮殿の東翼部の王家プライベート区画に隣接した壮麗な区画、上述の作図で言えば左上部分であるが、「列柱の間/柱廊の間 Pillar Hall」と呼ばれる朱色の円柱と階段で構成された吹抜け構造の非常に美しい区画がある。決して広い部屋と空間ではないが、調和の取れた安定感ある建築構造である。
ただし、残念ながら列柱の間/柱廊の間は一階部分を除き、階上の建物部分、大型円柱とその朱色と黒色の塗装、開いた二枚貝をモチーフにした「8の字形」の大きな盾(たて)の絵柄のフレスコ画などは、すべて復元・複製されたものである。

            ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・列柱の間 /(C)legend ej
              クノッソス宮殿遺跡・東翼部・列柱の間/クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)

現在、中央中庭から優雅にターンして階段を下る複雑構造の列柱の間/柱廊の間は、ツーリストの立入禁止区域となり、石板が敷き詰められた正方形の最下の床面から眺めることはできない。天井を支えるリズムカルな配置の円柱群、階上への吹抜け構造の壮麗さ、感動にも値する美しい光のコントラストなどを体感して、「ウワ〜〜、きれい〜〜!」と感嘆の声を上げることはできない。
私は、クノッソス宮殿遺跡の中で、後述する「パリジェンヌ」を含む西翼部二階に存在したであろう「キャンプスツールのフレスコ画」の通廊と並んで、この列柱の間/柱廊の間は宮殿で「最も美しい区画」であったと思うのだが、当局もやはりおびただしいツーリストの数には勝てず、全面的に「立入禁止区域」に指定してしまった。
そもそも、この列柱の間/柱廊の間は、床面と階段以外に本物の遺構にそれほど影響が及ばないコンクリートの復元・複製の区画であり、こういう美的な場所こそ、ある程度自由にツーリストへ「見せる」というサービス精神も必要かもしれない、と私は静かにギリシア考古省当局へ提唱したいのだが・・・

Ref.   1980年代/「列柱の間/柱廊の間」での居眠り
現在、ツーリスト立入禁止となっているが、1980年代には中央中庭脇から朱色の円柱が林立する列柱の間/柱廊の間の優雅にターンする階段を二回り下り、吹抜け構造の最下部1階へ降りることができた。さらに列柱の間/柱廊の間の最下空間から東側ドアーを抜け、通路を右折して両刃斧の間(王の居室)へ進み、王の居室の南側ドアーから狭い石板舗装の通路を通過すると王妃の間へ通じていた。また、柱廊の間の南側入口を抜けると「くの字」の通路を経て王妃の化粧室(トイレ)や王妃のバスルームへ自由に進むこともできた。

クレタ島の真夏の時期、空気は乾燥しているが直射の屋外は非常に暑い。しかし複雑な地下室のような構造の列柱の間/柱廊の間はたいへんと涼しいこともあって、見学に疲れたツーリストがこの空間でしばしの小休止を取り時折、私も含めヨーロッパからの学生や若者達が床面や階段に座って居眠りをする風景があった。
1980年代の居眠りツーリストがそこで見る「夢」は、中央中庭西側の王座の間や階上の大広間で執り行われた午前の儀式や遠来の客の謁見を終えたミノアの王が、昼下がり、お付きと共に中央中庭を横切り、この美しい階段を下り、すでにランチの席に着いた王妃や子供達が王の到着を待つ王家のプライベート区画へ向かうシーンであった・・・

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間/(C)legend ej
クノッソス宮殿遺跡・王座の間 Throne Room/クレタ島/1982年
焼け焦げた石製王座とそれを取り囲む長い石製ベンチや床面はミノア時代の遺構
鮮やかに描かれた「グリフィン」のフレスコ画壁面は、エヴァンズが複製したものである

                         クノッソス宮殿遺跡/ミノア王の執務室の周辺

西翼部・王座の間
    クノッソス宮殿の中央中庭に面する西翼部の真ん中付近に階上へ昇る幅のある「大階段(復元)」が残され、その北側には「控えの間」と呼ばれる格式のある部屋が配置されている。また西翼部の上階へ上がる正規の大階段の配置位置は、イラクリオンの東方35kmのマーリア宮殿とほとんど同じ配置である。

控えの間の奥に配置された王座の間(Throne Room 上写真)は、予想に反して決して大きな部屋ではないが、向かい合う想像上の動物である「グリフィン」のフレスコ画が描かれた非常に神秘的で威厳を感じる部屋である。石膏石の敷かれた王座の間の壁面に沿って、部屋を3/4周するように(控の間側には無い)石製ベンチが設けられ、3,400年以上前にミノアの王が実際に座っていた石製の王座が南向きに据えられている。

写真情報: ODYSSEY-Adventures in Archaeologyページ エヴァンズの発掘ミッションでは、この王座の間付近の地表面
 は、王座の背もたれ上端より約50cm上方であり(地面厚さ
 =50cm)、石製ベンチはミノア時代のまま、壁面は崩壊状
 態であったとされる(左写真)。



 1900年・エヴァンズの発掘ミッション
 クノッソス宮殿・西翼部・王座の間
 王座と石製ベンチが発見された直後/壁面は崩壊状態
 写真情報: ODYSSEY-Adventures in Archaeology




石製の王座のある王の執務室
  歴史に出てくる多くの国の王座がそうであったように、この王座の背もたれも権威と格式を示すように垂直に立っている。高さもある垂直の背もたれ王座は、常に姿勢を正して座ることが要求され、庶民的な感覚では若干人間工学的ではない作りである。しかし王座の座席部分はまっ平らではなく、ヒップの形状に合わせた円形の凹みが施工され、正面視では両ヒップが安定して沈み込むように、わずかな波状加工が施されている。威厳優先だけでなく、ちょっとオシャレと言うか、王のヒップが確実に収まるように加工を施した石工職人のせめてもの配慮が伺える。

この王座の間は明らかにクノッソス宮殿の統治者であったミノア王の公的な執務室であり、また神聖な儀式が執り行われた部屋でもあった。かつて3,500年以上前の状態の石製ベンチは、現在で言うならば政府の内閣官房や閣僚達が座るためにあり、王座に座った王からの指令を受けたり、重要会議や祭祀・儀式など、王座の間では国家レベルの決め事、高位な神官による定期的な神への祈祷などが行われたのであろう、私の想像だが。
王座の間の周辺の建物構造は、宮殿・東翼部の王家の生活区画と同様にかなり複雑で、エヴァンズの発掘ミッションでは、王座の間からの出土品は「何一つ無かった」とされる。この王座の間はその性格上、余計な飾り物などを置く必要のない、この部屋の神聖な空気にこそ重要な意義があったのであろう。

石製ベンチ/「聖なる浴場」
  王座の間の南側正面には王座の両脇と同様に石製ベンチがあり、ベンチの背面の高さのない壁の上面には円柱が立ち、円柱の向こう側(南側)には、王座の間区画のもつ神聖さを象徴する回り階段で下がった半地下式の「聖なる浴場」が配置されている。また王座の間の隣(西側)には、神聖な儀式に関係したとされる複数の狭い部屋が連結され、その内の一つの部屋から石製ランプが発見された。
重要なことは、現在ツーリストの立ち入りが禁止されているこれらの複雑構造の付属部屋への出入りが、王座の間以外に連絡できないような「特異な構造」となっている点である。この意味は、ミノア王が、あるいは王座の間に立ち入ることのできた高位な祭司・神官だけが、この区画で執り行われた何か「聖なる儀式」に参加できたことを暗示している。

  ミノア文明・「聖なる両刃斧」と「聖なる浴場」について

                      グリフィン「グリフィン」のフレスコ画グリフィン

王座の間の二つの壁面(北壁と西壁)を飾っている頭が鳥、身体がライオンのような四足動物である「グリフィン Griffin(右下写真)」はミノア文明のフレスコ画に頻繁に登場する聖なるモチーフである。
同様なグリフィン描写のフレスコ画の断片(左下写真)が、ペロポネソス・メッセニア地方ネストル宮殿の王妃の間からも発見され、さらにフェストス(ファイストス)宮殿から近いアギア・トリアダ準宮殿遺跡で発見された装飾ラルナックス棺(紀元前1400年/イラクリオン考古学博物館)の側面には、「グリフィン」の牽く女神の乗る走行馬車が描かれていた。
また、ミノア文明だけでなくギリシア本土のミケーネ文明でも、さらに中東地域でも、「グリフィン」の絵柄は象牙彫刻や石製印章や金製リングなどにも表現されている。「グリフィン」は中東方面から伝播された空想上の聖なる動物とされている。

クノッソス宮殿の王座の間を飾る「グリフィン」のフレスコ画に関してだが、発掘時に王座の間の壁面がほとんど崩壊状態であったことから残念ながら壁面と「グリフィン」は、エヴァンズにより複製されたものである。ただし、現在までに解明された色々な考古学情報から判断した時、たとえ複製のフレスコ画(右下写真)であっても、ミノア時代に現実に王座の間を鮮やかに飾っていたものと「同じ」である、と私は確信したい。

  ギリシア本土メッセニア地方のミケーネ文明のネストル宮殿遺跡と周辺遺跡

ネストル宮殿遺跡・グリフィンのフレスコ画 Griffin Fresco/(C)legend ej クノッソス宮殿遺跡・グリフィンのフレスコ画/(C)legend ej
ネストル宮殿遺跡・フレスコ画・「グリフィン」の断片               クノッソス宮殿遺跡・王座の間
       ホーラ考古学博物館                       壁面に描かれたフレスコ画・「グリフィン」
   ペロポネソス・メッセニア地方/1982年                        クレタ島/1982年

プレイステーション公式 期間限定のセールやキャンペーン開催中! レンタル店より早くダウンロード! 早期予OK!
ゲーム=The Tomorrow Children 薔薇に隠されしヴェリテ  Inversus マシナリウム  biohazard4 戦国乙女〜LEGEND BATTLE
ビデオ=KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV  死霊館エンフィールド事件  HATEFUL8  あいつだ  リリーのすべて  のぞきめ
TV番組=サンズ・オブ・アナキー  アメリカン・ホラー・ストーリー  ネコネコ日本史  七つの大罪(聖戦の予兆)  ブリーチャー

控えの間
  中央中庭と王座の間に挟まれた控えの間は、床面に石灰岩と石膏石を敷き詰めた仕様で、中央中庭よりわずかに低いレベルである。部屋の左右(南北)の壁面には、隣の王座の間と同様な形式の3,500年以上前の石膏石製のベンチが残されている。
おそらくこの石製ベンチには、(この部屋が言葉通りの控えの間であったなら)ミノア王に面会する人が、その順番が来るまでここで待機して座っていたと想像できる。あるいは謁見や儀式の際に、王座の間に着席できない準トップクラスの、今で言えば省庁の事務次官や局長クラスの人や見習い神官などが、この部屋で謁見や儀式の進行を見守ったのかもしれない。

            クノッソス宮殿遺跡・控えの間/(C)legend ej
            クノッソス宮殿遺跡・控えの間/大型石製水盤が無造作に置かれている/クレタ島/1982年

上写真は私が1982年に撮影したもので、控えの間の床面には大型の石製水盤が無造作に置かれ、その向こう側(写真の上方)には壁面に沿って石膏石製のベンチが見える。クレタ島の暑い夏の午後、こちら側のちょっと冷たい石製ベンチに座り、私が小休止をしていた際に捉えたスナップ写真である。
地元イラクリオンの街で買ったのであろうか、ヨーロッパからの長期バカンス・ツーリストが好んで着用する少々派手なサマーワンピースを着たイギリス系の二人のご婦人が、流れるようなUK English で「グリフィン」について優雅に会話をしながら王座の間を覗いている。1982年の夏、30分以上休んでいたが、私以外に控えの間と王座の間を訪れたツーリストはこの二人のご婦人だけであった。
クレタ島のまどろみの夏の午後、クノッソス宮殿遺跡に音もない静かな時間が流れて行く。王座の間を見学するツーリストが誰も来ない。石製ベンチで資料を見ていた私の瞼(まぶた)はとうとう閉じてしまい、結局、気持ちの良い居眠りが始まってしまった。ミノア王の執務室の隣部屋で、ミノア時代の見習い神官と同じように、3,500年以上も前のミノア時代の石膏石のベンチに座り、無礼とは思いつつもコックリ・コックリである・・・

イギリス系のご婦人二人が控えの間を出る時、ハッと目が覚めた私に気遣い、ご婦人の一人は;
  「Oh, sorry, it is a very hot day !  あら、ごめんなさい、今日はとても暑い日ですこと・・・
若干寝ぼけた状態の私は;
  「Um...m, Oh, yes, very hot... it is..... ウム-ー、あー、暑いですね、本当に・・・

居眠りを起こしてしまったことに対してイギリス人らしい丁寧なお詫びを残して、二人のご婦人はサングラスをかけ直して、控えの間の4段の低い入口ステップを上がり、真夏の陽光が眩しい中央中庭へ出て行った・・・
これはずーと昔の、1982年の夏の事だが、少し寝ぼけ状態でありながらも、何故か強い印象となったこの時の幾分あやふやなやり取りを私は今でもはっきりと覚えている。過去の「小さな物語」なのだが、記憶は鮮明に・・・

石製大型水盤の運命
  現在、王座の間の床面に置かれている硬い石製の大型円形水盤は、私が最初にクノッソス宮殿遺跡を訪ねた1982年には、上写真のように、ツーリストが見学できる控えの間の床面に無造作に置かれていた。当時、どう考えてもこのミノア時代の石製水盤は、控えの間に「相応しくない存在」と感じた人は私以外にも居たはずである。
そして、何時の間にか、おそらく1990年代の後半以降か、当の水盤は王座の間の王座の前へ移動させられてしまった。王座の正面に石製水盤が置かれている情景は、ミノア文明に限らず、ほかの古代文明の時代でも、現代でも何か違和感を覚えてしまう。
クノッソス宮殿遺跡を訪ねた多くのツーリストが発信している写真を載せたクレタ島に関する絵日記ブログでは、この大型水盤は王座の間に「相応しい存在」、あるいは王座の間の「儀式に使った」など、素人考古学の色々憶測的な説明文が記述されているページが多い。しかし、残念ながら厳密にはこの石製水盤は王座の間からの出土品ではない。
実は水盤は王座の間の北側、王座の背面の復元壁の向こう側に配置され、階上の複雑な部屋へ連絡していた階段通路で発見されたのである。故に研究者の間では、王座の間から壁を隔てて北側にあるこの階段通路は「石製水盤の通路」と呼ばれている。
結構大型サイズで重量もある水盤が、もともと石製水盤の通路に置いてあったとは考え難く、あくまでも私の想像だが、紀元前14世紀にクノッソス宮殿が大火災で崩壊する時、現在、美しいフレスコ画が復元・複製されている階上の吹抜構造の壮麗な広間から落下した可能性が最も高いだろう。あるいはさらに高い三階の部屋から落下した可能性もあるだろう。

Ref.   1980年代のクノッソス宮殿遺跡/穏やかなツーリスト規制/「ゴミ箱」であった石製水盤
ツーリストがドッと訪れる現在では、石製王座にミノアの王が座り、3,500年の昔、国家政務を遂行していた王座の間は、格子囲いでツーリストの立ち入りが禁止されている。また、控えの間から格子囲いを通して王座の間を覗き込むツーリストがあまりに多く、有名なパティシエが経営する東京・青山のケーキショップで人気のスウィーツ商品を買い求めるように、日陰のない中央中庭には常に20人〜30人の順番待ちの長蛇の列ができている。
しかも控えの間の石灰岩と石膏石を敷き詰めた床面には、見学者が直接床面を歩かないようにロープ規制と歩行通路が設けられ、何ゆえか理解できないが木製の王座椅子まで置かれ、壁面のミノア時代の焼け焦げの石製ベンチにも手を触れることもできない。

訪れるツーリストが限りなく少なかった1980年代では、夏、日陰が少ないクノッソス宮殿遺跡で小休止をかねて、涼しい控えの間の左右壁面にあるミノア時代の冷たい石膏石製のベンチに座り、私がやったように居眠りも含め、発掘レポートを見たり、ガイドブックに目を通し静かな時間を過ごすこともできた。
その当時、現在王座の間の床面にある石製水盤は、控えの間の床面に無造作に置かれていた(上写真)。ミノア時代の石製のベンチに座ったツーリストが、タバコの吸殻を石製水盤の中へ投げ捨てたり、駄菓子の袋を捨てたり、飲み終わったコカコーラの空瓶(まだペットボトルは普及していない)を置いて行ったりする、言ってしまえば、この石製水盤はツーリストの便利な「ゴミ箱」として活用されていた。
当時、間違いなく普通のツーリストは、この石製水盤がミノア時代のものではなく、宮殿遺跡の雰囲気に合わせて現代の石工職人が作った「偽物」と思ったはず。たとえクノッソス宮殿遺跡からの出土品が有り余っていても、ツーリストの立ち入る場所の足元に、「3,500年前の本物の水盤があるはずがない」、と思ったことであろう。何しろ、石製水盤は丁度良い形状、「ゴミ箱」と同然であったのであるから。
その上、格子囲いの王座の間を覗いたツーリストが振り返った時、足元に石製水盤があり、「ちょっと、この水盤邪魔じゃない! こんな足元に置くなんて!」、と誰でも感じる不似合いな存在でもあった。だからこそ、石製水盤の中に投げ捨てられたゴミが溜まるという悪循環の犠牲になっていたのである。

あの頃のセピア色の記憶では、石製水盤の表面はかなりキズついてしまっていた。そうなると今さらイラクリオンの考古学博物館での展示公開もできず、その取り扱いに悩んだ遺跡管理当局は、痛んだ水盤の表面を布ヤスリで磨き上げ、観光用のアクセントとして「何か」に活用しようと考えたと想像できる。その最もヴィジュアル効果のある場所が、当時ガラーンとして何もない王座の間で展示することであった、というのが私が想像した石製水盤の移動履歴と言うか、扱いの経緯である。
何しろ100年前に行われたエヴァンズの発掘ミッションでは、王座の間からの出土品は「何一つ無かった」はずである。サイエンスであるべき考古学を考えると、現在、この石製水盤が王座の間の王座の正面に置かれているのは、エヴァンズの「復元・複製」より、さらに史実に反する「虚偽行為」と思ってしまう。
こういうツーリストへ見せるための「やり過ぎた配慮」をしているから、何時まで経っても、世界遺産に登録されないのかもしれない、と言ったら、ギリシア政府当局からお叱りの言葉が飛んで来るようだが・・・

のんびりムードの遺跡管理/自由勝手な見学/ガードマンもウトウト居眠り
ギリシアでは第二次大戦後に長く続いた内戦の終結が図られたが、混乱の中の1967年、クーデターで軍が政権を握った。私が初めてギリシアを訪れた1970年代初めは、ギリシアの庶民のみならず、海外からのツーリストにとっても旅行するのがそう簡単ではなく、暗く厳しい軍事独裁政権の時代であった。その後1974年に軍の穏健派やアテネ大学の学生らによる「民主クーデター」が起こり、政権の安定化が図られたが、元々工業力のない国の経済は低迷、財政基盤はまったく余裕のない状態が続いていた。
1980年代になり、クノッソス宮殿遺跡にも管理ガードマンを常駐させるようになったが、国の文化面への予算は後回し、まだまだ大量雇用の余裕は生まれず、訪れるツーリスト自体も少なかったこともあるが、広大な宮殿遺跡にガードマンがポツンポツンと見える程度、その絶対数は完全に不足状態であった。結局、ツーリストもガードマンもわずかな、閑散とした宮殿遺跡には「ロープ規制」もなく、自由で勝手な見学が許される「のんびりムード」が漂っていた。

真夏のクレタ島の長い午後の時間は、兎にも角にも誰にとって気だるく喉が渇き、広いクノッソス宮殿遺跡を歩き回った疲労で、私を含むヨーロッパからの若いツーリストや学生達などは王の居室であった東翼部・「両刃斧の間」の円柱ベランダ、複雑構造の柱廊の間の階段、西翼部・控えの間の石製ベンチなどの涼しい場所を探し出し、腰を下ろしてガイドブックを読み始める。だが結局ほとんどの人がその内ウトウトと平和な居眠りを始めてしまう始末であった。
3,500年前の王妃のバスタブ脇の床面に腰を下ろして仲良く居眠りをするヨーロッパからの若いカップルに注意勧告をするでもなく、地元雇用の年配ガードマンは両手を広げ、「しょうがないなあ、若いやつらは、まったく、オレは知らんぜ・・・」と言い残し、首を左右に振りながら、微笑でその場を静かに立ち去って行く光景は珍しいことではなかった。
乾燥して気だるい真夏の時期のクレタ島では、地元雇用のガードマンとて、業務である「遺跡管理」よりツーリストと同様にまどろみの「ウトウト居眠り」に比重を置いていたように、当時、私には見えたが・・・

ギリシア滞在1年間以上/クレタ島滞在5か月間
私は1970年代の初めに累計4か月間ほどアテネやオリンピア(下写真)などギリシア本土に滞在した後、1980年代〜90年代には主にクレタ島とペロポネソス地方に連続して長期間滞在している。
ギリシア滞在では累積1年間以上となり、その間に訪れた考古学遺跡は、アテネ・アクロポリスやミケーネ宮殿を初め、草原に石材が数個転がっている程度の忘れ去られた小規模遺跡まで合計200か所以上となる。
クレタ島では島都イラクリオンを初め、マーリア宮殿遺跡のマーリアの町、メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿遺跡近くの町ミレス Mires(モイラエ Moirae)、西部のハーニア Khania や中世の香りが残るレセィムノン Rethymnon、人気ある東部のリゾートのアギオス・ニコラオス Ag Nikolaos や小奇麗な町シティア Sitia、南岸のイエラペトラ Ierapetra などを拠点にして、おのおの複数回にわたり、累計では5か月間以上も滞在してきた。

           オリンピア遺跡/(C)legend ej
                     オリンピア遺跡・ゼウス神殿/ペロポネソス・イリア地方/1972年

  ギリシア/ミノア文明&ミケーネ文明、クラシック文明に関する遺跡の詳細情報は、Webサイトマップを参照;
                           Webサイトマップ  サイトマップ

上辺を見せる観光スポット/感動・感激は何処で?/「本物」の価値は?
たとえば長い間島都イラクリオンに滞在した私が、1週間も毎日クノッソス宮殿遺跡へ通い続けた時、チケット売り場のオバサン達には顔馴染みの常連となり、毎朝、「ねー、あんた、トーキョーから来たの、日本人って珍しいわねぇー、クレタまでやって来るなんて ・・・」と長い時間ペチャクチャと話しかけられた。宮殿の遺構に足を向ければ「カリメーラ・サス・トーキョー/おはよう 東京の人よ!」と、決まって笑顔で「友人挨拶」までしてくれる若い管理ガードマンさえも居たくらいである。
しかし、現在のクノッソス宮殿遺跡では、遺構の保護のために厳しく管理規制され、ツーリストの自由見学は宮殿遺跡の概要だけを見せるロープと柵で囲まれた限りなく狭い範囲に限定されてしまった。これではたった1時間のクノッソス宮殿ツアー観光でも、ランチ持参で1日滞在した個人ツーリストにおいても、「外を見せて内を見せない」とする限定コースのわずかな遺構と「こうであろう復元・複製」のフレスコ画を見ただけ、という単純なクノッソス宮殿遺跡の知ったがぶりの観光経験談となってしまう。

余談となるが、クレタ島クノッソス宮殿遺跡だけでなく、世界中、今や有名な観光スポットは何処でも同じような観があり、管理を担当する「見せる側」の公的機関などが、人気の対象物を見学料金を払った「見る側」に「少しだけ公開してやる」という、何とも上辺だけと言うか、明確な「管理枠の図式」ができ上がっている。舞台の役者と観賞するお客が一体になり共感することなど最早あり得ず、期待することもできない。
さらに言えば、今日、世界最大の来館者数(年間800万〜850万人)を誇るパリ・ルーブル美術館。警備が厳しくなった現在では望んでも絶対に不可能であるが、かつてルーブル美術館の≪モナリザ≫の絵の周囲に規制ロープや厳しいガードマン警備が無いに等しかった1972年には、私は「La Gioconda」とタイトルされた≪モナリザ≫の顔にできた絵の具の細かなヒビ割れが確認できるほど、わずかに微笑する「彼女」から20cmまで顔を近づけたことがある。
15世紀のイタリアの裕福な絹商人フランチェスコ・D・ジョコンドの妻リザ(La Gioconda/ジョコンド夫人)がモデルとされる≪モナリザ≫と、正に互いの吐息を感じ熱烈なキスができる超接近距離で、詳細に観賞と言うか、不倫のキスこそしなかったが長い時間じっくりと観察したことがあった。
「彼女」の、眉毛はない(薄い?)が、富裕な生活を暗示させる瞳や口元はもちろん、カールの髪、触れたい誘惑に駆られる丁度良い形容の胸の谷間、高貴さを連想させる深緑色の柔らかそうな衣装、女性の貞淑を表す左手に右手を重ねる穏やかなポーズ、その福与かな指先までも、超接近した位置から30分以上も眺め続けたのである。この絵が本物の≪モナリザ≫なのだ、と納得しながら・・・

あるいは、1972年の早春、まだ世界的な観光ブームが巻き起こる以前、私はツーリストが一人も居ないドイツ・ロマンティック街道アウグスブルグの「モーツァルトの家(記念館)」を訪ねたことがある。
年配の管理人はモーツァルトが実際に作曲に使っていたピアノ(父のピアノ・下写真)に向かい、「ソナタを弾くけれども・・・」と言いモーツァルトのピアノ・ソナタを2曲演奏してくれた。本物のモーツァルトのピアノで・・・
早春の明るい陽光が降り注ぎ、柔らかな微風が白いレースのカーテンを揺らす窓辺に立つ私が唯一の観客である。響きの持続が短く、あくまでも柔らかく優雅に流れるようなフォルテ・ピアノが奏でるそのモーツァルトのソナタ≪第5番・ト長調・アンダンテ≫とほか1曲の調べは、今でも、そして生涯にわたって私の鮮明な記憶音域から消えることはない。

           アウグスブルグ・「モーツァルトの家」/(C)legend ej
                    アウグスブルグ・「モーツァルトの家」/南ドイツ地方/1972年・春
                 1970年代初め/ドイツ・「ロマンチック街道」ローテンブルグとアウグスブルグ

クノッソス宮殿遺跡の王妃のバスタブや水洗トイレなど、たとえこのWebページの現物写真を10回眺めても、決してイメージの実感が湧かない。やはり本物を1回だけ見て、自分の手で意識して触れれば、それこそが「男達の夢想」の実現というものである。1982年にクノッソス宮殿の王妃のバスルームで、3,500年前にミノアの王妃が実際に使ったバスタブに触れた感触は、今でも私の指先の神経細胞の中で変異しない「iPS細胞」となって息づいている。
小説や絵に描かれたような美しい内容ではないが、予期せぬ偶然で本物と接した経験とその時不意に感じた高揚感や意識の記憶は、何十年もの時間経過があっても大きく劣化することはない。これらは、あくまでも偶然のチャンスから本物と遭遇できた私の狭い経験論の範疇だが・・・

                    クノッソス宮殿遺跡/宗教関連の施設/聖なる祭祀・儀式の区画

西翼部一階・クノッソス宮殿の「聖域」
  クノッソス宮殿の最も重要な区画、宮殿の「聖域」は中央中庭の西側を占める宮殿・西翼部一階の中央付近である。西翼部の北区画にある王座の間の南側には復元された大階段があり、下作図のとおり、その南側が「聖域」にあたる。

             クノッソス宮殿遺跡・「聖域」Sanctuary of Knossos Palace/(C)legend ej
                   クノッソス宮殿・西翼部1F・「聖域」周辺(現在=立入禁止区域)
                        クレタ島/1982年/作図=Web管理者legend ej

「聖域」・三分割聖所
  現在、クノッソス宮殿遺跡では一部写真撮影が許されている西翼部・王座の間や東翼部・王妃の間などを除き、多くの区画で外観を見せて内部を見せないロープ規制が敷かれ、遺跡のほとんどが「ツーリスト立入禁止」の対象になってしまった。勢いクノッソス宮殿遺跡の「トレードマーク」でもある王座の間などへ見学者が殺到して、人気のアトラクションの順番待ちの如く長い列が出来ている。
私が思うに、ミノア王の執務室であった王座の間と並び、クノッソス宮殿遺跡の最も重要な意味を成す区画は、西翼部一階を占有する宮殿の「聖域」であったと確信する。しかし、1980年代には許されていた「聖域」の内部への立ち入りは、大挙して訪れる一般ツーリストの増加に伴い、遺跡保護を優先するギリシア政府により、この区画も完全に「立入禁止」にされてしまった。
故にツーリストは中央中庭からプラスチック保護屋根に覆われた「聖域」の正面入口周辺の崩壊壁面を眺め、内部を見ることなくその重要性をわずかに「連想」するだけ、あるいは「聖域」へまったく関心を抱かずにロープ規制された見学コースを回る以外に術はない。

現在、崩壊壁面がゴロゴロと並べてあるが、上作図の通り、「聖域」の正面入口へ向かって右側(北側)は「三分割聖所 Tripartite Shrine」と呼ばれる、言わば「聖域」の正面部ファサードであった。
発掘されたフレスコ画の断片などから想像できる三分割聖所は、中央部が幾分高く、エンタシス様式の2本(または1本)の細めの円柱が立ち、柱礎と上部にはミノア文明の力の象徴でもあった雄牛の角を模した小型の「U型オブジェ」が置かれていた。中央部より低い左右部はやはり細めの円柱が各1本(または2本)立ち、柱礎部と上部には「U型オブジェ」の装飾があった。
推量の異なりがあり、円柱の数は断定だが、ほとんど間違いなく合計5本存在したはずで、中央中庭の西側、最も目立つ場所であった「聖域」の三分割聖所は、宗教思想の重要性からしても、細部まで色鮮やかな色彩で表装が施されていたはずである。

かつて私が初めてクノッソス宮殿遺跡を訪れた1982年には、三分割聖所の南側の正面入口から数段のステップで「聖域」の内部へ脚を踏み入れることが出来た。先ず、石膏石舗装された東西8m、南北6mほどの空間は「石製ベンチの控え室」と呼ばれ、北側の壁面には石膏石製ベンチが有り、この「聖域」で執り行なわれたであろう重要な祭祀・儀式の関係者の待機に使われたと推測できる。
西翼部のこの周辺は崩壊が激しく、明確に判断できないが、この「聖域」の区画には少なくとも18〜20を数える部屋が連なり、この控え室の正面入口はそれらのすべての部屋へ通じていた。さらに控え室の内部には北〜西〜南側に配置されたそれぞれの聖なる部屋へのドアー口があった。

石製ベンチの控え室の南側は崩壊が激しい区画だが、控え室の南7m付近に正方形の小部屋があり、発掘作業では、このページの最後項で描画説明するが、馬車や馬などが刻まれた「馬車の線文字B粘土板」が発見されている。
さらにその南側には、東西12m・南北8mクラスの大きなスペースがあり、崩壊のこの場所は「聖域」の南端部として「何らかの聖なる機能」を果たしていた、とエヴァンズは考えた。また、幾らかの研究者は、東翼部の王家のプライベート区画にある王の居室のように、この広い部屋は「三部屋続き」の構成であったとされる。

「聖域」・神殿宝庫と大型ピトスの部屋
  石製ベンチの控え室の北側の位置、石製ベンチの左側(控え室の北西端)から入ると石膏石舗装された二つの部屋がある。この場所こそが、クノッソス宮殿あるいは過剰に言ってしまえば、ミノア文明を象徴するに値するファイアンス製(色彩装飾陶器)の「蛇の女神像」や「ライオン頭リュトン杯(リトン杯・後述描画)」などが発見された宮殿の「宝庫」の区画である。
奥の部屋が、研究者に「神殿宝庫 Temple Repositories(左下写真)」と呼ばれる宝飾品の保管庫で、東西に少し離れて2か所、深さ1m20cmほどの方形のピット穴があり、ピット壁面は石膏石の平板で堅固な「箱状」に形容されている。ピット壁面には同じ高さ位置に複数の小穴が加工され、おそらくは細棒が水平に差し込まれ、薄板がセットされ、その上に数々の宝飾品が置かれていた。
また二つの深い収納ピットの間に、小型だが長方形の浅い収納ピット穴があり、この中からも無数の宝飾品類が見つかっている。

なお、1903年のエヴァンズの発掘ミッションで、この神殿宝庫のピット穴から下写真のファイアンス製の「蛇の女神像」が発見されたことから、一部の研究者はこの「聖域」を「蛇の女神の聖域」と呼ぶこともある。
また、参考だが、今では絶対に許されないが、クノッソス宮殿遺跡の警備が穏やかな1980年代、私はこの宝飾品の大型ピット穴へ降りて、自分の身体と比較して「深さを確認」したことがある。警備が厳しい今日なら、「マナー無き日本人ツーリストの遺跡荒し」として、NERIT・新ギリシア公共放送テレビのトップニュースとなって放映され、本国送還措置の身の上であったであろう。「どうか、お許しを!」

    クノッソス宮殿遺跡・「神殿宝庫」Temple Repositories, Knossos Palace/(C)legend ej      クノッソス宮殿遺跡・「大型ピトスの部屋」 Tall Pithos Room, Knossos Palace/(C)legend ej
          神殿宝庫/宝飾品類の収納ピット                 大型ピトスの部屋/宝飾品類の収納ピット
                  クノッソス宮殿遺跡・「聖域」/クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)

エヴァンズの発掘ミッションでは、当初、神殿宝庫の床面にはエーゲ海ミロス島産の多くのアンフォラ型容器や水差し容器などが並べてあった。その後、その床面下部の収納ピット穴の存在が明らかになったことで、三体のファイアンス製の「蛇の女神像」を初め、色塗装された貝殻と模造貝殻、ファイアンス製のトビウオやフルーツ類や花の装飾品、細かなビーズ類、動物骨と象牙製の装飾品、金製の小品、ファイアンス製のヤギを描いた装飾板など、正におびただしい数のミノア文明の宝飾品類が出土した。

現代的に思考すると、たとえ古代文明の時代とは言え、宝飾品の「地中保管」とはあまりの無謀な話に聞こえる。しかし、特に乾燥が激しい風土であったエーゲ海クレタ島の自然環境を考慮した時、単純に部屋の棚上や壁面のニッチ(凹部)に乾燥でダメージを受け易い象牙や陶器、テラコッタ製の宝飾品を保管するより、年中湿度が安定した地中の方がより有利である、とミノアの人々は発想したのであろう。
これは現代建築の住宅の床下や半地下室の有効的な活用と同様な考え方で、3,500年前のクノッソス宮殿の指導者の賢さが見えてくる。また宝飾品の「地中保管」に関しては、クレタ島東端のザクロス宮殿遺跡の「宝庫(下写真)」では、土間にセットされた泥を積み上げた枠の中に宝飾品が保管されていたことでも、地中の湿度の活用価値はミノア人の先見の共通認識であったと考えられる。

ザクロス宮殿遺跡・蝶の宝飾品/オオム貝宝飾品/(C)legend ej   ザクロス宮殿遺跡・宝庫/(C)legend ej
上: 蝶の象牙宝飾品・登録番号323                  ザクロス宮殿遺跡・西翼部・宝庫区画
下: オオム貝型宝飾品・登録番号311/幅約220mm     泥レンガ仕切りの中に宝飾品が保管されていた
イラクリオン考古学博物館/描画=Web管理者legend ej           クレタ島/1982年
                      未盗掘で発見されたクレタ島・ミノア文明のザクロス宮殿遺跡

「聖域」の石製ベンチの控え室と神殿宝庫に挟まれた部屋は「大型ピトスの部屋 Tall Pithos Room(右上写真)」と呼ばれ、100年前のエヴァンズの発掘作業で見つかった大型ピトスが1基、私が初めて訪れた1982年にはそのまま放置されていた。この部屋の床面にも深さの浅い長方形の収納ピット穴があり、宝飾品類が出土した。
私が写真に納めた大型ピトス容器は、今日では博物館に収納されたはずだが、宮殿・西翼部の貯蔵庫群の長い通廊(後述写真)に残されている、紀元前1450年頃に属するミノア文明の典型的な大型ピトス容器と同じ様式で、類似の幾何学デザイン紋様が施されていた。立ち入りが許されていた1982年、広角レンズ(一眼レフ・f=28mm)で撮影した右上写真のピトス容器は、一見では「中型タイプ」に見えるが、「実測高さ=160cm」、私の肩ほどの高さの大型容器であった。
クノッソス宮殿遺跡の東北翼部の工房や作業所などで展示公開されているほかのピトス容器もおおむね高さ=120cm〜160cmほど、超大型では高さ2m以上のピトス容器も製作された。ピトス系容器は大型器形であるからこそ、丁寧に成形され高温で確実な焼入れが行われたはずで、ミノア人の陶器製作の高技術力を証明している貴重な文化遺産と言える。

「聖域」から出土した「蛇の女神像」
  クノッソス宮殿・西翼部一階の「聖域」の内部、神殿宝庫の床面の収納ピット穴から出土した優れたファイアンス製(色彩装飾陶器)・「蛇の女神像 The Snake Goddess」は、上半身の欠けた一体を含め、同じ製作様式の合計三体が見つかった。ミノア文明のファイアンス像は、現代で例えればフランス王朝御用達であった「リモージュ色彩磁器」、あるいはスペインの高級色彩人形・「リヤドロ」に相当する、非常に高度な陶器製作の技術を応用した芸術作品であった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「蛇の女神像」/(C)legend ej 高さ295mmの像(左写真右像)では、両手に蛇を持った細身の
 「蛇の女神」の豊かな胸は、コルセットのような引き締まった衣装
 から完全にはみ出している。
 また、高さ342mmの大きい女神像(左写真左像)は、両腕に蛇
 を巻きつけている。
 ミノアの時代から蛇は神の使いであり、特に女神との関わりが強
 調されて来た。これらのファイアンス像は、その製作技術と表現の
 もつ意味からして、紀元前17世紀の終わり頃、旧宮殿時代が終
 わり、新宮殿時代がスタートした時期における最高傑作の美術
 品とされている。

 かつて1980年代〜90年代、イラクリオン考古学博物館の展示で
 は、女神像の回りには幾らかの貝殻が置かれていた。実際の発
 掘時に像と共に多くの貝殻も出土している。
 崇める女神と神の使いである蛇、加えて「永遠の生命」が宿ると
 される貝殻を融合させる聖なる思想が、既にミノア文明の、特に
 統治者達の間には継承されていたことを意味している。


クノッソス宮殿遺跡・「蛇の女神」のファイアンス像/紀元前1600年
イラクリオン考古学博物館/左像: 登録番号63/高さ342mm
クレタ島/1982年    右像: 登録番号65/高さ295mm
蛇の信仰
ミケーネ宮殿遺跡・「聖なる蛇像」/(C)legend ej クノッソス宮殿遺跡から出土した「女神像」
 の持つ神の使いの蛇に対するミノア人の崇
 拝思想は、ギリシア本土ミケーネ文明でも
 共通した観があった。
 ミケーネ宮殿の宮殿聖所から出土した「聖
 なる蛇像(左写真)」にその典型を見ること
 ができる。
 ただミケーネ宮殿の蛇像は女神との関わり
 ではなく、出土した場所からしても、蛇像単
 体で何か神聖なる儀式や祈祷などに使わ
 れたと考えるべきかもしれない。


    ミケーネ宮殿遺跡・宮殿聖所/とぐろを巻く「聖なる蛇」の塑像
       アルゴス地方ナフプリオン考古学博物館/1982年
       ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・「アトレウスの宝庫」
「聖域」・支柱礼拝室
  クノッソス宮殿の支柱礼拝室(Pillar Crypt 左下写真)は、復元された大階段の南側、中央中庭の西側を占める西翼部の非常に重要な宮殿の「聖域」の内部に位置している(上述作図)。
支柱礼拝室は、無数の宝飾品類が見つかった神殿宝庫と大型ピトスの部屋などの南西側の奥部、「聖域」の中心である石製ベンチの控え室〜西方の貯蔵庫群の長い通廊へ連絡できる、狭い通路のような形容の二部屋の連なりで構成されている。双方の部屋には外部からの明り取り用の窓がなく、内部は非常に暗く、あくまでも石製ランプの明かりだけが頼りの「特異な場所」である。
二つの支柱礼拝室の壁面は、紀元前1375年頃、宮殿崩壊時の大火災で真っ黒に焼けただれている。その異様な雰囲気に中を覗くのを躊躇してしまいそうなこの部屋では、ミノア時代、極めて重要な聖なる祭祀・儀式が執り行われていた、と研究者は考えている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・支柱礼拝室 Pillar Crypt, Knossos Palace/(C)legend ej    写真情報: エヴァンズ・Mycenaen Tree and Pillar Cult/1901
    クノッソス宮殿遺跡・西翼部・東支柱礼拝室            クノッソス宮殿遺跡・西翼部・支柱礼拝室/発掘当時
          (現在=立入禁止区域)                  写真情報: Wikipediaページ/エヴァンズ・「Mycenaen Tree
            クレタ島/1982年                   and Pillar Cult and Its Mediteranean Relations/1901」

最も神聖なシンボル/両刃斧の記号
  上写真で言えば、支柱礼拝室に立っている石積角柱の下から第2段・3段・4段目の中心より左寄り表面には、各々若干斜めに刻まれたミノア時代の聖なる「両刃斧/ラブリュス」の記号、丁度日本の「竹トンボ」か蝶(チョウ)のような感じの刻み(左下描画)がわずかに確認できる。
また支柱の裏側面(右上写真=1901年エヴァンズ発掘当時)にも、表側のそれと位置と向きが若干異なるが、同じような両刃斧の刻みが残されている。両刃斧の記号は、二つの支柱礼拝室の2本の支柱を合わせると合計20か所に刻みが残されていた。
ミノア文明では政治と宗教は強く結び付き、多神教の思想からして、例えば聖なる動物とされた力のある雄牛やその角を初め、色々な崇拝対象があったが、両刃斧の記号のある場所は、限られた人だけが近づくことができる非常に「特別な場所」を意味していた。

聖なる両刃斧  斜めに刻まれ、配置も決して規則正しいと言えないが、ミノアの人々にとりあらゆる宗教的な崇拝シンボルの中で「最
  も神聖」とされた両刃斧の記号、あるいは高さ2mを越す長い支持棒に取り付けられた超大型の青銅製の飾り両刃
  斧は、極めて重要な「神聖な標識」であり、神と王からの最も高次な宗教的な「警告」でもあった。

支柱礼拝室は非常に暗く何か怖いくらいの畏敬と言うか、神聖なる空気が漂う場所でもあるが、クノッソス宮殿で最重要の場所の一つであったことを知っていればこそ、ぜひとも立ち入って詳細に見学したい区画と言える。ただし、大人数のツアーグループを中心としたおびただしい数のツーリストが押し寄せる現在、残念ながらクノッソス宮殿の最重要な「聖域」では、一般ツーリストの立ち入りは全面禁止となってしまった。
なお、参考ですが、当Webサイト・シンボル fv は、このミノア文明の聖なる「黄金の両刃斧/ラブリュス」をモチーフにしています。

焼け焦げた部屋と大型角柱
  支柱礼拝室の焼けただれた角柱の黒焦げ模様は、紀元前14世紀、クノッソス宮殿が最終的に崩壊した時に焼けた跡である。なお東支柱礼拝室の大型角柱を挟んで手前と奥に見える床面の浅いピット穴は、私が最初に訪ねた1982年では、灰に半分ほど埋まっていたが、発掘レポートでは儀式に使った品物を収納した場所とされる。
右上写真のように、エヴァンズの発掘時には角柱の下から第4段目しか残っておらず、第5段目以上と天井部分は、後のコンクリートの復元・複製である。また、広角レンズ(一眼レフ・f=28mm)で私が撮影した左上写真では、一見、角柱は「細い角柱」を連想するが、発掘時の右上写真のように、実際には第4段目が人の背高と同じくらいで、かなり「ご太い角柱」である。太い支柱の存在は大広間などの階上区画が存在したことを連想させる。

支柱礼拝室は二つ連結するように横並び配置され、東礼拝室の直ぐの西側にも同様な西支柱礼拝室があり、さらに北隣にも連結する小部屋が配置されている。礼拝室と同様に、これらの周辺付属部屋の室内も火災の跡が生々しく残る真っ黒焦げである。
立ち入りが許されていた1980年代には、3,400年前の焼けた灰のような乾いた土がそのまま残され、全てが窓もなく狭く暗い空間であった。これらの奥まった部屋から幾らかの祭祀・儀式的な用品が出土していることから、支柱礼拝室で執り行われた何か特別な儀式のための準備室、またはそれらの用品の保管室であったかもしれない。
ただ、支柱礼拝室と付属部屋や神殿宝庫など、宮殿・西翼部の「聖域」の区画は立ち入りが禁止となり、この周辺に関連する詳しい情報や写真や説明も途絶え気味、中央中庭にセットされたロープ囲いから遠く眺めても、もはや薄暗い支柱礼拝室などの存在さえも確認できない。古代の歴史をひも解き、ロマンに傾倒する精神を最も大切にして訪れる真摯なツーリストにとっては、無情なるロープ規制は大いなる落胆と言える。

他のミノア宮殿との共通点
  参考だが、メッサラ平野のファイストス(フェストス)宮殿遺跡の南西翼部の複雑な区画では、壁面に両刃斧の聖なる記号が刻まれた4室の小部屋(下写真)がまとまって配置されている。さらにイラクリオンの東方約35km、エーゲ海岸の平野でフランス考古学チームにより確認されたマーリア宮殿遺跡・西翼部の支柱礼拝室内には、聖なる三叉記号や星型、両刃斧の記号を刻んだ大型サイズの角柱2本(下写真)が残されている。
これらのミノア宮殿にもクノッソス宮殿の支柱礼拝室と同様な機能を有した支柱礼拝室があり、いずれも神聖な儀式を行なう宗教的に極めて重要な「聖域」であったと考えられる。

            ミノア文明・フェストス(ファイストス)宮殿/(C)legend ej
           フェストス(ファイストス)宮殿遺跡・南西翼部の聖域(現在=立入禁止区域)/クレタ島/1982年

            マーリア宮殿遺跡/(C)legend ej
                   マーリア宮殿遺跡・西翼部・支柱礼拝室周辺/クレタ島/1982年

             フェストス(ファイストス)宮殿遺跡(上写真)&マーリア宮殿遺跡(下写真)の詳細情報は;
                               ミノア・ページ

                           クノッソス宮殿遺跡/「両刃斧の聖所」

南東翼部・宮殿聖所
  西翼部の支柱礼拝室と並びクノッソス宮殿の重要な祭祀・儀式の役目を果たしていた場所は、中央中庭の南東側で、王妃の間の南側を占める「両刃斧の聖所」と呼ばれる区画である。この区画はクノッソス宮殿が紀元前1375年頃の大火災で崩壊した後、それ以降完全に放棄されたままの状態で発見された場所である。
この区画では通路のような細長い部屋が平行して並び、その南側には石段で降りる半地下式の「聖なる浴場」が残されている(下写真)。クノッソスの宮殿時代には、位置的に王家のプライベート区画に隣接していることから、もしかしたらこの区画は王家の家族だけが専用に使うことができた、言わば「内輪の聖所」であったかもしれない。

  ミノア文明・「聖なる両刃斧」と「聖なる浴場」について

            クノッソス宮殿遺跡・「両刃斧の聖所」/(C)legend ej
                   クノッソス宮殿遺跡・宮殿聖所・「聖なる浴場」/クレタ島/1982年

ミノア時代の重要な施設、「聖なる浴場」はクノッソス宮殿の西翼部・王座の間の付属、あるいは復元されたものは北東翼部でも見ることができるが、この両刃斧の聖所の「聖なる浴場」は発掘時のままの状態が保たれ、通路と階段の側壁面は加工された美しい石膏石で表装施工されている。
この場所は明らかに最下部に満たされた水と石製ランプの灯りだけで、身体の清めを含め何らかの聖なる儀式が執り行われた空間である。「聖なる浴場」は半地下となる最下の水場へ下りる石製階段が、右回りか左回りかの違いはあるが、例えばクレタ島東端のザクロス宮殿遺跡(下写真)など、複数の宮殿や邸宅遺跡でも確認されている。

            ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・「聖なる浴場」/(C)legend ej
                        ザクロス宮殿遺跡・「聖なる浴場」/クレタ島/1982年

クノッソス宮殿の「聖なる浴場」を含む両刃斧の聖所の区画の部屋は正確な造りで、ミノアの聖所に共通する漆喰塗りのベンチが設けられていた。発掘時に部屋の床面とベンチの上には、海岸から採取して来たようなキレイな小石が相当数(200個以上)まき散らかしてあった。
また横長さ1.5m程の漆喰ベンチの上には、祈祷などに使ったのか?2個の焼成石膏製の雄牛角オブジェと曲げた両手を上方へ上げる形容の塑像一体を含む五体の粘土製像が置かれ、小石の散在する床面には背の低い三脚の円形奉納台、10器ほどの容器類が置かれていたとされる。いずれも祭祀・儀式に深く関係する物品である。

両刃斧の聖所の南と東側にも不明確な遺構が残されている。この区画は宮殿から独立した複数の邸宅様式の建物跡とされ、宮殿勤務の高官レベルの人達の住まいか、オフィス的な施設であったと考えられている。

                             平和主義のミノア人とその精神文化

城壁・城門のない宮殿
  歴代のミノア王が住んだクノッソス宮殿の周囲には「城壁的な防御施設が存在しない」、という驚くべき事実も判明している。ギリシア本土ミケーネ宮殿やティリンス宮殿、あるいは東方パレスチナなどでは強固過ぎるくらいの城壁が存在するように、この時代では外敵からの攻撃を防ぐ堅固な城壁は、宮殿建築の常識であったはずである。
クノッソス宮殿が城壁や堅固な城門を築かなかった意味は、中東やエジプトへ続くこのエーゲ海域において、偶然にも紀元前2000年頃〜宮殿時代の500年間も平和な時代が続いたことの証なのか、「迷宮」にも通じる不思議なことである。
城壁を築かない無防備な宮殿と戦いを好まない穏やかなミノア人を裏付けているのは、クノッソス宮殿だけでなく、クレタ島メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿や東部のマーリア宮殿、最東端のザクロス宮殿などにも共通して城壁的な遺構や痕跡がまったく確認できていない点が挙げられる。

ミノア文明・海洋性デザイン様式陶器/(C)legend ej     ミケーネ文明・「ミケーネ兵士の絵柄」/(C)legend ej
       海洋性デザイン・アンフォラ型容器                    「兵士の絵柄」・クラテール型容器/拡大
       クレタ島・ザクロス宮殿遺跡出土                       ミケーネ宮殿遺跡・南翼部出土
  タコのモチーフ/ミノア陶器の自然主義的な絵柄           戦闘用衣装と武器を携えた兵士/好戦的なミケーネ人
イラクリオン考古学博物館/登録番号13985/1994年             アテネ国立考古学博物館/1987年

自然主義のミノア人/好戦的なミケーネ人
  また、クレタ島の多くの場所で発掘されたミノア時代の墳墓からは、ギリシア本土ミケーネ文明とは異なり、武器や武装具などの戦いに関する副葬品がほとんど出土していないことにも特徴がある。さらに時代と社会思想が色濃く反映される陶器の絵柄モチーフを例に取っても、ミノア陶器では一貫して自然主義を尊び、タコや貝類などの海洋性デザイン(左上写真)、ユリやサフランやパピルスなどの植物性デザインが優先採用されてきた。
一方、ミケーネ陶器では戦闘シーンや精強な兵士(右上写真)や多種の武器、近代兵器の二輪戦車など好戦的な絵柄、堅苦しい抽象的デザインが採用されてきた。この一目瞭然と言える両者の芸術表現を見る時、ほとんど同時代にエーゲ海域の隣同士で繁栄したのに関わらず、二つの文明の精神文化の特徴には大きな隔たりを感じる。あくまでも自然と平和を愛し、戦いを好まないミノア人の社会と文化は、先史の時代の東地中海域では、偶然で稀な安定した文明であったと言える。

  ギリシア本土のミケーネ文明の主な陶器様式の変遷と特徴

穏やかな民族性/ミノア人の精神文化/美しいフレスコ画の世界
  同じく精神文化のバロメーターと言える部屋や廊下、天井を飾るフレスコ画でも、ミノア文明ではあまりに美しく穏やかなモチーフに特徴される。美しいメイキャップの女神を初め、衣装からはみ出た豊かな胸やブラッシングされウエーブのかかる髪、引き締まった腰のミノアの魅力的な女性達(下写真)、宮殿の王妃の間を装飾しているイルカなど海洋生物、鳥類や小形の動物、草原の花や草など平和で自然的な優しい対象物、あるいは後述するスペインの闘牛のような「牛跳び/牛飛び」など、庶民の全員参加のイベント行事の絵柄などがフレスコ画に採用されている。
また、描画の技法面で言えば、この美しいフレスコ画もグラデーション技法ではなく、上述の王妃の間の「イルカの絵」と同様に、古代エジプト絵画のように輪郭線を描き、幾らかの色を単色で塗り、それぞれ単色のもつ特徴を強調する「繧繝彩色(うんげんさいしき)」の技法で描かれていると言えるだろう。それにしても、ミノア時代の女性達は美しい。

            クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画・「青の婦人達/(C)legend ej
            宮廷の女性達を描いたミノア文明のフレスコ画・「青の婦人達 Minoan Fresco, Ladies in Blue」
                  クノッソス宮殿遺跡出土/イラクリオン考古学博物館/クレタ島/1994年

ギリシア本土ミケーネ文明のフレスコ画
  なお、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿は大崩壊を起こして、事実上ミノア文明の宮殿システムは終焉を迎え、エーゲ海域の覇権は先行したクレタ島ミノア文明から1世紀以上遅れながらも、すでに紀元前16世紀頃から急速にギリシア本土で興隆してきたミケーネ人へと移行して行く。
ほぼ完璧な状態で出土したミケーネ文明のフレスコ画を例に挙げれば、紀元前13世紀頃の美しい作品であるが、ミケーネ宮殿・南翼部の邸宅遺構で見つかった「宮廷婦人の絵(下写真)」がある。このフレスコ画は明らかに2世紀前に消滅したクレタ島ミノア美術から大きく影響を受けていると判断できる。ただ、200年という時間の経過により、ミケーネ文明のフレスコ画は、その精緻さやリアリティ面など表現力において「恩師」であるミノア文明より遥かに洗練されてきたことも分かる。
女性達の宝飾品やバストの大きさなどは、ミノアとミケーネ・フレスコ画ともに豊かであるが、華やかできれいさを強調したミノア文明の三人の「青の婦人達(上写真)」より、下写真のミケーネ宮殿の「宮廷婦人の絵」の方が、高いフレスコ画技法とより洗練された美的センスを裏付ける、知的でちょっと気取ったクールビューティとも言えるモダンな雰囲気が漂っている。
後述するフレスコ画・「女神パリジェンヌ」も含め、3,200年〜3,500年前のエーゲ海文明の女性達は、現代の日本のきれいな女性達と同様に、全員が一様に眉毛を美しいカーブで細く長く切り揃えている。その整った目鼻立ちから推測すれば、早くも何か特別な「美容術」が流行っていたのかもしれない。

            アテネ国立考古学博物館/ミケーネ宮殿遺跡・フレスコ画・「宮廷婦人の絵」/(C)legend ej
                 ミケーネ宮殿遺跡・南翼部出土・ミケーネ文明のフレスコ画・「宮廷婦人の絵」
                   アテネ国立考古学博物館/登録番号11670/アルゴス地方/1987年
                  ミケーネ文明の出土品を最大規模で展示・公開 アテネ国立考古学博物館

                 クノッソス宮殿と周辺遺跡からの代表的な出土品/イラクリオン考古学博物館

膨大な量の出土品
  壮大なクノッソス宮殿遺跡からは、東方のパレスチナやエジプトから影響を受けた宝飾品や陶器などだけではなく、自らの文化の繁栄と技術を示す作品が数多く発掘されている。特に有名な出土品は宮殿の神殿宝庫や聖所と呼ばれる宝飾品を収めた部屋、あるいは宮殿の外部の邸宅遺跡や埋葬墳墓などからも多数もたらされている。
ミノア文明を代表する出土品は、ファイアンス像(色彩装飾陶器)や石製リュトン杯、精巧な象牙作品や美しいフレスコ画、美的な器形と洗練の絵柄の陶器類などで、記録としての3,000点を数える線文字B粘土板を含め、これらのほとんど全ての出土品は、現在、イラクリオン考古学博物館で展示公開されている。

クノッソス遺跡・小宮殿/石製・雄牛頭リュトン杯
  クノッソス宮殿遺跡の外部、今日のチケット売場の北西150mほどに、「小宮殿 Little Palace」と呼ばれる大規模な遺構がある。小宮殿はクノッソス遺跡地区において、宮殿区域以外で最も大きく最も整然とした「優美な建物」であったことを連想させる遺構(右下作図)である。
かつて宮殿周辺には、研究者の説によれば、人口4万人規模のクノッソスの街・「ko-no-so(コノソ)」が広がっていた。おそらく街中で最も美しい建造物であったはずの小宮殿の内部には、主部屋であった天空に開口した吹抜け構造の「三室続きの部屋」、屋根付きのバルコニー形式の広間、精巧な階段や敷石舗装の通路などが配置されていた。
ギリシア本土ミケーネ文明の「メガロン形式」と同様な上品に敷石舗装された「三室続きの部屋」は、ミノア王のプライベートな居室であった宮殿の両刃斧の間より広い間取りであり、ここが小宮殿の主部屋であったと思う。

  ミケーネ宮殿の特徴ある建築様式の「メガロン形式」とは?

ミノア人の崇拝した力の象徴である雄牛の頭部を形取った儀式用リュトン杯(リトン杯/左下写真)は、厳密にはクノッソス宮殿遺跡からの出土ではない。小宮殿の主部屋から少し離れているが、南側角部に2本の角柱が立っていた長方形の支柱部屋(右下作図・矢印)があり、この部屋から両刃斧の支持棒を立てる角錐台などと一緒に、この雄牛頭型のリュトン杯が破断状態で見つかった。
小宮殿には階段があったことから、階上にも豪華な広間や部屋が数多く存在したはずで、このリュトン杯がもともと一階の支柱部屋に置かれていたものか、あるいは階上の豪華な部屋などから落下したものか分かっていない。
また、同時に見つかった両刃斧の支持棒を立てる角錐台の存在からして、この支柱部屋か、あるいは上階の部屋は何か神聖な部屋か、儀式用具を保管する場所であったと想像できる。

イラクリオン考古学博物館に展示公開された蛇紋岩、またはセラミック絶縁材ステアタイトに加工できる滑石(タルク)製の雄牛頭型の石製リュトン杯は、雄牛の真ん中から左半分がミノア時代の「本物」の部分で、ピカピカと光沢している右半分は複製である。このリュトン杯の製作時期は紀元前1600年〜前1500年とされる。
なお、雄牛頭型の儀式用リュトン杯では、ミノア文明の影響を受けたと考えられる金製の角と額ロゼッタが装飾された銀製のリュトン杯が、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡の円形墳墓Aからも出土している(アテネ国立考古学博物館・登録番号384)。

クノッソス遺跡・「雄牛頭リトン杯」 Bull's Head Rhyton/(C)legend ej    クノッソス地区・「小宮殿」/(C)legend ej
            クノッソス地区・「小宮殿」 平面プラン図
         クレタ島/1982年/作図=Web管理者legend ej

 クノッソス地区・小宮殿遺構出土・雄牛頭形リュトン杯
 イラクリオン考古学博物館/登録番号1368
 角を除く石製雄牛頭部の高さ206mm/クレタ島/1982年

                              フレスコ画・「女神パリジェンヌ」

ロングドレス姿・X脚の簡易スツールに座るグラマラスな艶髪の女神
  紀元前1500年頃の製作とされる「パリジェンヌ la Parisienne」と名称された魅力的なフレスコ画(左下写真)は、発掘者エヴァンズがこのフレスコ画をクノッソス宮殿の西翼部で発見した時、思わず「オー、パリジェンヌ!」と叫び、その美しさに歓喜した、という伝説的な話が伝わっている。
フレスコ画・「パリジェンヌ」の断片を発見した後、エヴァンズは母校オックスフォード大学にスケッチ画(右下写真/写真情報=Oxford University Digital Library ページ)を残している。エヴァンズの描画からは、「パリジェンヌ」は京都・西陣織より豪華なロングドレスの衣装を羽織り、戦国の世で野戦の武将が腰掛けたX脚の床机(しょうぎ)タイプの簡易スツールに座った腰周りの福与かな美しい女神と判断できる。

     クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画・パリジェンヌ/(C)legend ej       エヴァンズ作成スケッチ画・「パリジェンヌ」/写真情報: Oxford University Digital Libraryページ
     クノッソス宮殿遺跡出土・フレスコ画・「パリジェンヌ Parisienne」        エヴァンズ作成・「パリジェンヌ」のスケッチ画
       イラクリオン考古学博物館/登録番号11・高さ250mm           「キャンプスツールのフレスコ画」の部分
                 クレタ島/1994年                   写真情報: Oxford University Digital Library

彼女の正面には、出土したフレスコ画が少ないために顔部分だけしか描かれていないが、やはりロングドレス or スカート衣装のミノアの若い女性(女神 or 巫女/右上写真=・トリミング加工で見えない)が、「パリジェンヌ」の方へ向かって何か話しかけている、または「パリジェンヌ」へ何か容器、おそらくワイン入り儀式杯を差し出そうとしている立ち姿が描写されている。
日本の若い女性達の読むファッション雑誌の言葉を借りるならば、東京・青山の人気のヘアサロンでセットしたような「フェミディカールでグラマラスな艶髪」が特徴の「女神パリジェンヌ」。胸を張ったその正しき姿勢と大きな瞳の向いている方角から、この「パリジェンヌ」とロングドレス衣装の若い女性(女神 or 巫女)が話し合っている、または儀式杯を捧げている、というエヴァンズの想定は間違っていないと判断できる。

聖なる結び目の女神
  目にも鮮やかなルージュをひいた「パリジェンヌ」の首筋(うなじ)部分には、ループカーブしている深紅色のロープ、または紐(ひも)が描かれている。エヴァンズは、これを「聖なる結び目 Sacral Knot」と呼び、本人が街に住む普通のミノア女性ではなく、宮殿の聖所や儀式などに関わる特別な存在の女神、あるいは位の高い巫女(みこ)を意味していると考えた。

               聖なる結び目          聖なる両刃斧 「聖なる両刃斧」/描画=Web管理者legend ej

  「聖なる結び目」/描画=Web管理者legend ej

  なおネクタイ結びに似たこの「聖なる結び目(ファイアンス陶器・左描画/アテネ国立考古学博物館・登録番号653)」
  は、幾らかの女神のフレスコ画、上述の「蛇の女神像」のコルセットの綴じ部分や腰バンド、石製や象牙製の彫刻品など
  にも残されている。
  この結び目は両刃斧(上描画)や雄牛リュトン杯と同様に、ミノア文明やミケーネ文明の人々の精神文化と祭祀に深く
  関係する神聖なるシンボルでもあった。

聖なる座り姿勢
  背骨が極端に湾曲しないことから普通の男性ではポーズできないが、「パリジェンヌ」は腰を引き、背を美しく弓なりにカーブさせ、胸を張り、肩から首筋(うなじ)と頭部を垂直に保つたいへんと魅力溢れる女性特有の座り姿勢で描かれている。
その腰〜背にかける流れるような曲線の秘めたる魅力を強調するため、今日の多くのファッション・モデルもポーズ表現に採用しているが男性から見れば「パリジェンヌ」の座り姿は「セクシー度100%」と言うか、ゾクゾクするような何とも言えない、「勝負姿勢」として女性だけが凛と決められる美しい座り方である。
エヴァンズの「聖なる結び目」にならい、世界の考古学者に問うことなく、私は「パリジェンヌ」の座り姿に勝手に名称を付け、ミノア文明の女神だけに許された「聖なる座り姿勢 Sacred Stability Posture」と呼ぶことにしている。果たしてこの私の名称表現が的確かどうか、自信をもって付けた呼び名なのだが・・・

フレスコ画・「パリジェンヌ」が発掘された場所は、中央中庭の西側を占める西翼部一階の「聖域」に配置された支柱礼拝室(上述写真)と貯蔵庫群の長い通廊(後述写真)との境目付近とされる。
このことから、一階を占める貯蔵庫群の長い通廊と同様に、もし宮殿の西翼部二階にも多くの豪華な広間を結ぶ同じような50m以上最大で75mの南北に長い通廊が、建築構造から判断しても階下と同じ位置関係で存在していたと推測できる。そうならば、「パリジェンヌ」は西翼部二階の長い通廊の東側壁面を飾っていた可能性が高く、紀元前1375年頃、宮殿の崩壊時に階上から小片となって崩落したと考えられる。
エヴァンズは、クノッソス宮殿の西翼部二階をイタリア・ルネッサンス様式の大邸宅からヒントを得て「Piano Nobile/高貴な造りのフロアー Noble Floor」と呼び、王座の間や礼拝室や貯蔵庫群が配置された階下とは異なり、二階部分は豪華な装飾の大広間や客間や立派な通廊で構成されていたと想定した。

キャンプスツール・フレスコ画/「フレスコ画の宮殿」
  「聖域」の周辺では発掘の過程で「パリジェンヌ」と一緒に色々なフレスコ画の微細断片が出土している。しかしほとんどは土と化しその数と量もそれほど多くなく、ジグソーパズルのように出土断片をつなぎ合せ、フレスコ画の全体を簡単に復元することは不可能である。ただエヴァンズの想像では、二階の50m以上、最大で75mの長い通廊の全壁面にわたって、横線で区切られた高さ75cmほどの横帯状の「青い描画スペース」が上下二段、合計高さ1,5m前後で設けられていた。
簡易スツールに座った「パリジェンヌ」と立ち姿の若い女性(女神 or 巫女)が互いに向かい合って「二入一組」を成すように、同じような向かい合う座りポーズの色々なロングドレスの女神と立ち姿の若い女性(女神 or 巫女)がやはり「二入一組」となり、その横帯状の描画スペースに延々と連続的に描写されていたとされる。
これを以って、「パリジェンヌ」を含む二階の50m以上、最大で75mの長い通廊を飾ったであろうこの一連のフレスコ画は、女神達の座るX脚のアウトドアー用折りたたみ式腰掛け Camp Stool から由来した「キャンプスツールのフレスコ画 Fresco of Campstool」と、ヨーロッパの研究者の間では呼ばれている。なお、下写真のフレスコ画のイメージでは、「パリジェンヌ」は上段・左から三番目である。

                            「パリジェンヌ」
                               ↓
            キャンプスツールのフレスコ画/写真情報: Demosthenis/Interkriti/Iraklion,Creteライブラリー
               クノッソス宮殿遺跡・「キャンプスツールのフレスコ画」/フレスコ画断片とイメージ画
                   写真情報: Demosthenis/Interkriti,/Iraklion, Crete ライブラリー

一連のフレスコ画は、手の動作と位置は微妙に異なるが、「二入一組」の全ての立ち姿の女性(女神 or 巫女)は、ゴブレット杯やミノア様式の水差し容器を捧げ、相手となる自分の前の簡易スツールに腰掛けたそれぞれの女神が差し出す聖なる受け容器へワインを注ぐか、あるいは水差し容器や儀式杯そのものを座り姿勢の女神へ渡そうとしている神聖なシーンであった。
エヴァンズの推測が正しければ、クレタ島ミノア文明の特徴的な色、エーゲ海と同じ高彩度の青い壁面を背景に、赤や黒や黄色などを使い、美しい色彩で精密に仕上げられた「キャンプスツールのフレスコ画」は、向かい合う腰掛けたロングドレスの女神と立ち姿の巫女など、おそらく上段に25組、下段にも25組、上下二段で50組前後、合計100人前後の聖なる女性達が、まるで平安朝の絵巻物のように描写されていた訳である。それは正に長い通廊の壁面に「花が咲いた」ような、先史の時代に類を見ない圧倒的に華やかな装飾壁画であったに違いない。

「キャンプスツールのフレスコ画」はただ単に豪華であったと一言では表現できないほど、宮殿の二階に配置された「Piano Nobile」の壮麗な広間へと案内される遠来の客人達が歩む長い通廊に相応しい絵柄であった。流麗なハープの伴奏に合せゆったりと踊るような女性達の優美なその立ち振舞いの連続描画は、その場を歩む全ての人が感動せずには居られないほど優しく、そして落ち着き感をかもす高貴な雰囲気を漂わせていたことであろう。
それはまるでフランスの作曲家ジュール・マスネの間奏曲・《タイスの瞑想曲》のヴァイオリンとハープによる甘美な調べが奏でられているかのように、純粋に優雅、醇然たる表現力で・・・
これが事実であったなら、「パリジェンヌ」を含む、50m以上、最大で75mの「キャンプスツールのフレスコ画」の長い通廊は、1,000室を数えた壮大なクノッソスの大宮殿で、いや当時のエーゲ海全域の宮殿や邸宅の中で「最も美しい場所」の一つであったかもしれない、と私は勝手に美的な夢想を抱いてしまう。
日本の最初の王国・邪馬台国を治めたとされる「女王・卑弥呼」が登場する時代より 1,700年前、今から3,500年以上の昔、クノッソス宮殿の西翼部二階の長い通廊には、すでに100人を数えるミノアの美しい女神と巫女の姿が、ゆったりと全員で踊る優雅なバレーダンスかマスゲームのように精緻に描かれていた。

私の乏しいアート感覚では、エヴァンズのように、その圧倒される優麗なフレスコ画全体のイメージを完全にリーカンストラクトすることさえも難しいことだが、もしもこの「キャンプスツールのフレスコ画」が、紀元前1375年頃、宮殿の大火災で破壊されずに「現存」していたならば、と想うと余りに残念である。
なお、研究者の間ではフレスコ画の数量とその高い芸術レベルから、クノッソス宮殿は「フレスコ画の宮殿」とも比喩されている。

パリジェンヌの座り方/金製リングの女神と同じか?
  個人的に興味深い点は、エヴァンズの描いたスケッチ画で簡易スツールに座る「パリジェンヌ」の姿勢が、ギリシア本土ミケーネ宮殿から南方へ20kmほど、世界遺産ティリンス遺跡から出土した超大型の金製リングに刻まれたミノア文明の女神(下写真・左側で鎮座するロングドレスの女神)の姿勢とまったく同じであるという事実。正に私が勝手に付けた「聖なる座り姿勢」である。

「パリジェンヌ」の両腕部分は欠損しているが、エヴァンズのスケッチ画や「キャンプスツールのフレスコ画」のイメージでは、素肌の腕は前方へ向けられている。「パリジェンヌ」もティリンス遺跡の金製リングの女神と同様に、エヴァンズの想像通り、女神だけが許された聖なる容器、または金製のゴブレットなどワインを受ける大きな儀式杯を胸の前方で保持していたのであろう。
ティリンス遺跡の「王家のトロス式墳墓」から出土した横幅57mmの金製リングが、紀元前15世紀頃、クレタ島クノッソス宮殿のミノア王からティリンス宮殿の王、または王妃へ献上されたものと考えれば、ほとんど同時代で共通な神聖なミノア美術モチーフからしても、間違いなくクノッソス宮殿のフレスコ画・「パリジェンヌ」は「美しいグラマラスな艶髪の女神」を描いたもの、と確信をもって言えるであろう。

            アテネ国立考古学博物館/ミケーネ文明・ティリンス遺跡/金製リング・「ティリンスの財宝」/(C)legend ej
              ティリンス遺跡・トロス式墳墓出土・横幅57mmの金製リング/アルゴス地方/1987年
             ミノアの女神へ貢物を奉げる4頭の聖霊達/アテネ国立考古学博物館・「ティリンスの財宝」
              世界遺産/ミケーネ遺跡やティリンス遺跡からの出土品/アテネ国立考古学博物館

クノッソス宮殿の多くの広間や部屋は、特に宮殿・西翼部二階と東翼部二階〜三階では、15m〜18m四方レベルの大広間を含め、全ての部屋が「パリジェンヌ」のような美しいフレスコ画で装飾されていた。場所によっては、柱や壁面、窓辺や天井までも、部屋の全面がフレスコ画装飾であった可能性もある。
それを裏付けるように発掘作業では東北翼部の工房群と単純倉庫などを除き、宮殿全域の28か所の部屋から大小の破断フレスコ画が発見されている。これらは3,400年の時間経過の中で辛うじて残されてきたもので、紀元前1375年頃の宮殿の崩壊以前には、1,000室を数えるほとんどの広間と部屋などが、女神を初め宮廷の若い女性や男性達、想像上の「グリフィン」や鳥やサルなどの優しい動物、きれいな草花やチョウ、渦巻き線など連鎖する抽象紋様の美しいフレスコ画で埋め尽くされていた、と想像できる。

Ref.  何故に「パリジェンヌ」なのか?
ミノア文明とパリジェンヌは関係ないじゃん。何がパリジェンヌなのよ!ちっとも理解できないわ!」、という意見がある。確かにその通り、クノッソス宮殿遺跡からフランスの首都パリはあまりに離れた距離にある。
「フランス革命」の後、1830年の「7月革命」、さらに1848年の「2月革命」の市民革命を経たフランスは、1800年代後半〜1900年代前半、社会の安定化が図られた結果、首都パリは正に「芸術の都」となり作曲家や画家が集まり、バレー音楽なども急激に発展してきた。音楽ではロマン派のサン・サーンス、印象派のドヴュッシーや≪展覧会の絵≫のラヴェルが、画家では印象派のマネやクロード・モネ、さらにドガやルノワール、続いてゴーギャンやロダン、ゴッホやロートレックなどが活躍した時代であった。
パリの街は華やぎ、考古学者エヴァンズの活躍した1900年代の初め頃は、「美しい女性=パリジェンヌ」という方程式が適用できる時代で、最先端都市パリに住む女性(パリジェンヌ)は世界の男性諸君の“憧れの的”であった。1789年に起こった「フランス革命」の100周年となる1889年には、パリ市内にはエッフェル塔が建造され、《パリ万国博覧会 Expo-1889》が開催されるほど、産業革命を成し遂げたイギリス・ロンドンと並び、当時のパリは誰もが認める世界の中心都市であった。
そんな折、クノッソス宮殿遺跡はパリとは無縁であったが、発掘中に美しいフレスコ画の断片を見つけた発掘者エヴァンズが、即「パリジェンヌ」を連想したことから、このフレスコ画に名称が付けられた。特にフレスコ画に描かれたミノアの女神が「フランス女性に似ていた」という訳ではなく、美的な女性の絵柄だからこそ、時代を映してパリジェンヌに匹敵する「美しい女性」を100年前の男達が褒め称えたのである。

                                  ミノア文明の陶器

優美な宮殿様式陶器
  美術と文化レベルを顕著に表す陶器では、既にクレタ・ミノア人が確立していた植物性と海洋性デザイン様式陶器の影響を受け、紀元前1500年代、主にギリシア本土ミケーネ地方で発達した陶器技法がクレタへ逆輸入され発達、特にクノッソス宮殿で愛用されたのが「宮殿様式陶器」と呼ばれるアンフォラ型容器である。

ミノア文明・宮殿様式陶器/(C)legend ej イラクリオン考古学博物館で展示公開されている宮殿様式の典型的
 なアンフォラ型容器(登録番号8832・左写真)は、3か所にハンドルが
 付けられ、形式化されたユリとパピルスをモチーフにして、黄土色の無地
 を生かした優美な絵柄が流れるような線と円形のコンビネーションで描
 かれている。
 これは形容から実用としての貯蔵用に見えるが、高級なアクセントとし
 て宮殿の大広間などに置いた装飾用の大型の容器である。この時代
 のクレタ・ミノア人の陶芸技術が、いかに高いレベルに到達していたかを
 物語る代表的な作品例と言える。
 製作の技術面も含め、ウェストを絞り、美しいヒップラインを強調した女 
 性の「マーメイド・ローブ」のようなビューティ・シルエットの宮殿様式陶器
 は当時、エーゲ海やエジプト、中東パレスチナを含めた東地中海域で
 「最も美しい陶器」の一つであった、と私は確信する。



 クノッソス宮殿遺跡出土・宮殿様式・アンフォラ型容器
 イラクリオン考古学博物館/登録番号8832・高さ700mm
 クレタ島/1994年




クレタ島で長い間製作され続けてきたミノアの伝統的なカマレス様式陶器(左下写真)とは異なる宮殿様式陶器は、大型のろくろを使って作られ、容器デザインは簡素化され、原料に肌理の細かな陶土を使い、高温度で焼成することで硬度が高く、洗練された美しい形式と自然主義を活かした抽象的な絵柄モチーフなどに特徴がある。

※ミノア文明&ミケーネ文明の陶器に関する詳細ページは;
  クレタ島ミノア文明の主な陶器様式の変遷と特徴
  ギリシア本土のミケーネ文明の主な陶器様式の変遷と特徴

    ミノア文明・カマレス様式陶器/(C)legend ej       イラクリオン考古学博物館/「ヤシの絵柄陶器」/(C)legend ej
カマレス様式陶器/イラクリオン考古学博物館/クレタ島/1982年 クノッソス宮殿遺跡出土・中東から輸入のヤシの木絵柄容器
   ・上段右の深ボウル/登録番号10091/高さ=161mm     イラクリオン考古学博物館/登録番号7691・高さ545mm
   ・下段右の水入れ/登録番号10073/高さ=267mm                   クレタ島/1994年

ヤシ木絵柄の輸入容器
  独特な黒地にカーブする葉を力強く描いた「ヤシの木」の絵柄と注ぎ口が付いた大型容器(登録番号7691・右上写真)は、紀元前1600年頃、頻繁に行われていた交易の相手先の一つであったシリアなど中東地域から輸入されたものである。容器の形容と絵柄デザインはミノア様式より遥かに劣るが、クレタ島ミノア文明と東方諸国との海外交易を裏付ける貴重な出土品である。

                              儀式用・石製リュトン(リトン)杯

石製・ライオン頭リュトン杯
  睨み(みらみ)を利かした少々怖い表情のライオンの頭部を形容した儀式用の石製リュトン杯(リトン杯・登録番号44・左下描画)が、宮殿・西翼部の「聖域」の神殿宝庫から出土した。全体がツルツルに精巧に磨かれ、黄色〜白色系を放すこの美しいアラバスター(石膏)製リュトン杯は紀元前1500年頃の作品とされ、高さ(外径)約17cm、長さ29.5cmである。
ライオンの首周りに象嵌の跡もあり、また現在は欠損しているが、上述の雄牛頭型のリュトン杯などの出土例からして、眼球と鼻部分はより高級な石材が使われたはずで、研究者は「聖なる石」とされる褐色〜赤茶系のジャスパーが象嵌されていたと推測している。

      クノッソス宮殿遺跡・ライオン頭型石製リュトン杯/(C)legend ej         ミケーネ文明・ライオン型リュトン杯/(C)legend ej
        クノッソス宮殿遺跡出土・ライオン頭型の石製リュトン杯      ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・第W竪穴墓出土
        イラクリオン考古学博物館/登録番号44 長さ29.5cm         ライオン頭型の金製リュトン杯/アルゴス地方
         クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej        アテネ国立考古学博物館/登録番号273/1982年

参考だが、ドイツ人シュリーマンが発掘したギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡の円形墳墓・第W竪穴墓からは、紀元前16世紀〜前15世紀に遡るライオンの頭部を形取った金製の儀式用リュトン杯(アテネ国立考古学博物館・登録番号273・右上モノクローム写真)が見つかっている。こちらの金製リュトン杯は一見少々グロテスクのように感じるが、よく観察すると眼や口元などに神聖なライオンの穏やかさと同時に少々の愛嬌さも表現していることが分かる。
材料こそ異なるが、クノッソス宮殿遺跡とミケーネ宮殿遺跡からのライオン頭部を形容した二つの儀式用リュトン杯は、いずれも同じ時代の作品と判断でき、アフリカ生息のライオンを表現していることから、距離的によりアフリカに近く、芸術レベルの高かったクレタ島クノッソス宮殿の方が「オリジナル」になっているかもしれない。それならば、ミケーネ宮殿の金製リュトン杯はクレタ島から輸出されたか、クノッソス宮殿の王からミケーネ王へ献上されたものかもしれない。

                            奉納用・石製山頂リュトン(リトン)杯

石製・山頂聖所リュトン杯
  クノッソス宮殿遺跡から南方約600mになだらかなジプサデス Gipsadhes の丘があり、クノッソス宮殿の「王家の墳墓」や「高位祭司の館」など幾らかの建物遺構が残されている。丘は大部分未発掘の区画だが、この区域の邸宅遺構から見つかった蛇紋岩製の「山頂聖所リュトン杯(リトン杯/左下描画)」の破断片には、山頂聖所に置かれたバスケット容器にパンを奉納するミノア男性がレリーフされている。
これは装飾用の石製リュトン杯(容器型)の破断片であり、全体の彫刻モチーフは分からないが、外面全体にも神聖な絵柄が刻まれていたことであろう。リュトン杯の製作時期は、新宮殿時代の最も繁栄した後期ミノア時代の初めとなる紀元前1500年頃である。

また同様な神聖なモチーフをレリーフした緑泥石(クロライト)製の「山頂聖所リュトン杯」が、クレタ島東端のザクロス宮殿遺跡から発見されている。こちらは何頭かのヤギが山頂聖所の地面に並んで座り、空中をジャンプ(右下描画)したり、岩場を登るシーンが表現されている。このリュトン杯はザクロス宮殿遺跡からの最も重要な出土品の一つで、元々は金表層されていたとも推測されている。

   イラクリオン考古学博物館/クノッソス遺跡・「山頂聖所リュトン杯」/(C)legend ej      ザクロス宮殿遺跡・山頂聖所リュトン杯/(C)legend ej
     クノッソス地区・邸宅出土・石製「山頂聖所リュトン杯」      ザクロス宮殿遺跡出土・石製「山頂聖所リュトン杯」/拡大
    イラクリオン考古学博物館/登録番号2397 高さ59mm          イラクリオン考古学博物館/登録番号2764
       クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej          クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej

ザクロス宮殿遺跡からのリュトン杯
ザクロス宮殿遺跡・大理石製リュトン容器 Marble Rhyton, Zakros Palace/(C)legend ej 山頂聖所のリュトン杯ではないが、同じくザクロス宮殿遺跡の「聖
 なる浴場」で発見された肌理が非常に美しい色大理石製の儀
 式用リュトン容器
(左描画)がある。
 この容器はイラクリオン考古学博物館の至宝の一つでもあり、博
 物館を訪れた際には見逃さずに鑑賞したい作品である。
 偶然に自然がつくった大理石の材質は無論のこと、ろくろを使った
 陶器に近似する流線形のこのバランスの取れた美しい形容とデザ
 イン、繊細・精緻な石工職人の加工技術、しかも3,500年前に製
 作されたとは信じがたい見事な作品である。



 ザクロス宮殿遺跡出土・大理石リュトン容器/紀元前1500年
 高さ405mm/イラクリオン考古学博物館/登録番号2720
 クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej
 未盗掘で発見されたクレタ島・ミノア文明のザクロス宮殿遺跡




ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・各種石製リュトン杯&カップ/(C)legend ej 未盗掘のまま3,400年間も眠り続けたザクロス宮殿遺跡から
 は、驚異と言って良いほどの精巧な加工技術で仕上げられた
 各種の石製リュトン杯装飾用カップ類が出土している。
 いずれも紀元前1550年〜前1500年頃のミノア文明の工芸
 部門の傑作品である。



 各種石製リュトン杯&カップ類/イラクリオン考古学博物館
 クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej
   左容器: 登録番号2734/高さ325mm
   中容器: 登録番号2725/高さ305mm
   右容器: 登録番号2726/高さ350mm           

                          「牛跳び(牛飛び)」/象牙製とフレスコ画

象牙製・牛跳びをする人
  クノッソス宮殿・東翼部の王妃の間に隣接する区域からの出土品の中に、象牙製の「牛跳び(牛飛び)をする人 Bull-leaping Man」と呼ばれる彫刻(下描画)がある。これはクノッソス宮殿遺跡からもたらされたほかの多くの出土品より幾分古い時代に製作されたもので、紀元前17世紀、3,650年前の旧宮殿時代の後期と推測されている。
このデリケートに彫刻された象牙像は、下述のフレスコ画と同じようなモチーフで、ミノア人が好んだ「牛跳び/牛飛び(雄牛跳びとも言う)」の競技、またはある種のイベント演技を精巧に表現した見事な作品である。
残念ながら、「牛跳び(牛飛び)をする人」の男性の右腕の肘(ひじ)から手にかけての部分は失われている。しかし、伸身の「E難度・ひねり技」こそないが体操競技の跳馬の動作のように、今正に雄牛の背を飛び越えるかのような身体の機敏な動きと前を見据えた頭の向きなどが極めてリアルに表現されている。バランスのとれたスリムな体格のミノアの若者の左手先〜足先まで長さ=245mmである。

                   クノッソス宮殿遺跡・象牙製・「牛跳び」/(C)legend ej
                      クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・象牙製「牛跳びをする人」
                       イラクリオン考古学博物館/登録番号3/長さ245mm
                          クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej

フレスコ画・牛跳び/東大広間=宮殿最重要施設=大女神の聖所か?
  「牛跳び/牛飛び(雄牛跳びとも言う)」とは、現代で言えば、全員集合のお祭り的な大きなイベント開催の時に行われた、おそらくスペインの闘牛に似た「見世物」や「スポーツ」、あるいは幾分神聖な「儀式」の一つであったと考えられる。勇気あるミノアの若者達が暴れる雄牛の角に捕まったり、背にまたがったり、動き回る牛の背の上で逆立ちしたりするなど、非常にアクティブな行為であった、と推測できる。ミノア文明の特徴的とも言える「牛跳び/牛飛び」では、象牙製のほかにクノッソス宮殿遺跡の東翼部から紀元前15世紀の美しいフレスコ画(下写真)が出土している。
ただ後述するクレタ島内で発見されている幾らかの石製印章や容器の絵柄彫刻などの「牛跳び/牛飛び」の表現を除き、雄牛の背中を跳ぶという同様な内容を描いたほかのフレスコ画や陶器の絵柄のサンプルが乏しいことから、ミノア時代に「牛跳び/牛飛び」がどのような状況で行われていたのかなど、未だに不明点が多いことも事実である。

宮殿の南翼部に複製された高さ2m強のいわゆる「グリフィンを牽くプリースト・キング(祭祀王/ユリの王子)」と呼ばれるフレスコ画に比べると、決して大型のフレスコ画ではないが、高さ約78cmのこの「牛跳び/牛飛び」のフレスコ画の断片が見つかった場所は、中央中庭の東側で両刃斧の間(王の居室)や柱廊の間などが配置された王家のプライベート区画の直ぐ北側であった。
発掘者エヴァンズは、フレスコ画・「牛跳び/牛飛び」が見つかった区画の階上には、中央中庭の地面レベルよりほんの少し高い東翼部三階に相当する、東西18.5m 南北15mの「東大広間 Great East Hall」が配置されていたと想定している。その大広間の機能は宮殿の最も重要な施設の一つであった「大女神の聖所 The Great Goddess Sanctuary」との連動であったとされる(下作図)。

            クノッソス宮殿・主要区画の位置関係(透視概略図)/(C)legend ej
            クノッソス宮殿・主要区画の位置関係(透視概略図)/中央中庭南端⇒北入口方向を望む
             西中庭〜西翼部(貯蔵庫群・王座の間)〜中央中庭〜東翼部(王家のプライベート区画)
                         クレタ島/1982年/作図=Web管理者legend ej

中央中庭から東大広間へ上る12段の階段の途中には3本の円柱が、さらに大広間の入口にも3本の大型角柱が立ち、内部には8本の円柱が中心部に「8m x 8m」ほどのスペースを作るように立ち広い天井を支えていた。この円柱群に囲まれた広間の中心スペースは、天空に開口した採光吹抜け構造であった可能性もある、とエヴァンズは考えている。

            イラクリオン考古学博物館/「牛跳び/牛飛び」/(C)legend ej
               闘牛に似たイベント行事の「牛跳び/牛飛び」を描いたフレスコ画/クレタ島/1994年
              クノッソス宮殿遺跡出土/イラクリオン考古学博物館/登録番号T-15 高さ約78cm

東大広間の区画からは(実際の発掘=階下の貯蔵庫付近)、「牛跳び/牛飛び」以外にも無数のフレスコ画の断片が見つかっている。その多くは競技やスポーツに関連する絵柄と判断され、クレタ島南西部のアギア・トリアダ遺跡からの滑石製の「ボクサー・リュトン杯(イラクリオン考古学博物館・登録番号498)」と同様なボクシングやレスリングと推測できる絵柄があり、古来からの想像上の動物・「グリフィン」の絵柄も含まれていた。
多くの研究者は、宮殿・東翼部の三階に配置されたエヴァンズの言う東大広間(大女神の聖所)の壁面には、「牛跳び/牛飛び」を初め、激しい動作を伴ったアクション系のフレスコ画が、まるで1990年代まで全盛であったアニメ用の「セル画(セルロイド画像)」と同様に、一連のスローモーション画像を一枚ずつ表現するかの如く連続的に描かれていた、と推測している。
また、エヴァンズは東大広間の北壁面の真下にあたる階下区画から複数の青銅製の固定具を発見している。出土した金具のサイズと想定できる機能面から、大女神の聖所と想定できるこの東大広間の東側の最奥部には、顔の長さ40cm、全身では高さ3mの「聖なる女神」の大型木製像が安置されていた、とエヴァンズは考えた。

スペインの闘牛との比較で連想することはできるが、今日の常識から言えば、フレスコ画・「牛跳び/牛飛び」は少し誇大な描写とも考えられなくもない。私はずーと若い頃に鉄棒や吊り輪、床運動などの体操競技に熱中していたので理解が早いが、本当に暴れ狂う雄牛の背中で逆立ちして、尖った角を平行棒代わりに掴むという「E難度」と言うより、非常に危険なパフォーマンスが行われていたのであろうか?
ただ疑問符が付けられても、クノッソス宮殿遺跡のフレスコ画では、間違いなく三人のミノアの若者達が暴れ狂う雄牛を相手にした、かなり危険に見える行為か儀式などのシーンを大胆に表現している美術的・文化的な意味は大きい。後述のコラムのように、「牛跳び/牛飛び」はエジプトや中東地域でも美術モチーフとして選ばれているように、先史の時代に人々が好んだ非常に重要な日常的・伝統的なイベント、または日本の神楽に似た神への奉納儀式であったのかもしれない。

牛跳びをしたのは誰か?
  フレスコ画・「牛跳び/牛飛び」に描かれている三人の人物に関して、ロングヘアなどが判断材料と思うがミノアの「男性一人と女性二人」という研究者の説が有力である。しかし私は発掘されている複数のフレスコ画から判断するならば、女神を含めてミノア時代の女性は極めて静的で優雅、優しさを強調しているように考えられることから、ミノアの女性が大怪我もあり得るかなり危険な「牛跳び/牛飛び」に主役で参加していたとは、どうしても想像できないのである。
また、左右の白人らしき人物は確かに胸に女性的な特徴があるように見えるが、腰が強調的に絞られて描写されているために反作用で胸が大きく見えるのであり、詳細にチェックすると間違いなく男性の顔の表情が見て取れ、鍛えられた若い二人の男性の筋肉描写と思える。

さらに彼ら二人が腰にまとっているは、クレタ島東端のパライカストロ町遺跡の山頂聖所から出土したテラコッタ製・「男性兵士の像(左下描画・左側)」、あるいはイラクリオンから南西15kmのティリッソス邸宅遺跡から出土した青銅製の「敬礼する男性像(右下描画)」などに共通する、日本古来の「ふんどし」のような男性用の衣装と判断できる。
ミノア時代の女性が好んで着用していたのは釣り鐘型のロングスカート(左下描画・右側)であり、優しさとエレガントな雰囲気を大切にしていた豊かなバストのミノア女性が、勢いビキニ水着に近い男性用の「ふんどし」風の布切れをまとい、宮殿の中央中庭やカイラトス河畔の広場に集まった大勢の人々の面前で、大胆不敵に危険なイベント参加をしたであろうか? あくまでもミノアの女性達はイベントや儀式では観客席を埋めていたはずである、と私は想像するのだが・・・

             パライカストロ遺跡(左下描画)&ティリッソス邸宅遺跡(右下描画)の詳細情報は;
                               ミノア・ページ

           テラコッタ製塑像/(C)legend ej             ティリッソス遺跡・青銅製・「敬礼」の青年像/(C)legend ej
             パライカストロ遺跡出土・テラコッタ製塑像         ティリッソス遺跡出土・青銅製・青年像
              男性像 登録番号405 高さ175mm              登録番号1831/高さ152mm
              女性像 登録番号9832 高さ264mm          塑像&青銅製像=イラクリオン考古学博物館
                        クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej

故に私は、フレスコ画・「牛跳び/牛飛び」の人物は、ミノアの「男性二人」、そして交流が深かったエジプト方面からアフリカの猛獣などを引き連れてやって来た「黒人男性」と判断したい。彼らは訓練を重ねた曲芸サーカス団のメンバーのような存在で、お祭りや儀式祭典などに合わせて、定期的に各地の宮殿地区を巡回した命知らずの見世物の芸人であったのではないだろうか。これはあくまでも多くの研究者の判断と大きく異なる私の独断的な推論なのだが・・・
あるいは雄牛の背中で逆立ちをしている真ん中の人物は「黒人」ではなく、緊張の「牛跳びの勇者」を強調するために、クノッソス宮殿の北入口の「赤い雄牛」のように、フレスコ画の作者があえてパワーを象徴する赤色で人物を色付けしたとも推測できるが・・・
果たして「牛跳び/牛飛び」はミノア文明の人々にとってどのような意味をなしていたのか? あるいはこのフレスコ画が「大女神の聖所」の壁面を鮮やかに飾っていたのであろうか? 真実はエーゲ海の文明の島クレタに吹く乾いた夏の微風だけが知っている・・・

Ref.   「牛跳び(牛飛び)/石製リュトン(リトン)杯/石製印象/ピクトリアルクレタ島トリル様式陶器
クレタ島メッサラ平野に残るアギア・トリアダ遺跡の墳墓から見つかったハンドルを除く容器の高さ465mmの滑石(タルク)製の「ボクサー・リュトン杯」の表面レリーフでは、上下に4つに段区分されたスペースに色々なスポーツ的なシーンが彫刻されていた。

アギア・トリアダ遺跡・「ボクサー・リュトン杯」/(C)legend ej 最上段のシーンではレスリングの試合、二段目は「牛跳び/牛飛び」、三段目と四段目のシーンは
 ヘルメット無しの男性とヘルメットを装着した男性のボクシング試合を表現している。
 この石製容器はボクシング試合の彫刻から名を取り、「ボクサー・リュトン杯」と呼ばれ、紀元前16世
 紀の後半期、紀元前1550年〜前1500年頃に製作された。いずれのシーンも力強く躍動感あふれ
 る表現で、ミノア人のスポーツ的なイベントが盛んであったことが推測できる。


 ← 上から二段目が「牛跳び/牛飛び」のシーン



 アギア・トリアダ遺跡出土・滑石(タルク)製・「ボクサー・リュトン杯」
 イラクリオン考古学博物館/登録番号498/ハンドル除く高さ465mm
 クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej
 メッサラ平野のファイストス(フェストス)宮殿遺跡とアギア・トリアダ遺跡




また、紀元前17世紀に遡るシリア北部アララック遺跡 Alalakh から出土した円筒形(シリンダ型)の石製印章にはクノッソス宮殿遺跡のフレスコ画に描かれたのとまったく同じ「牛跳び/牛飛び」の光景が刻まれている。ただ表現スペースが狭いことから、この印章にはフレスコ画の左右の二人の白人は刻まれていないが、1頭の雄牛の背中で背を反らせて二人が逆立ちするシーンで、一人の頭は雄牛の頭部へ、もう一人の頭は雄牛の尻の方へ向いている。
さらに、同じアララック遺跡で見つかった紀元前16世紀〜前11世紀に属するピクトリアル様式クラテール型容器の外面には、暴れ狂う雄牛から後方へ振り落とされた男性が描かれている。これはミノア文明というよりこの時期にギリシア本土で繁栄の頂点にあったミケーネ文明の職人が、ミノア文明の芸術モチーフを模倣して製作したピクトリアル様式陶器を中東アララックの人々が輸入したもとの判断できる。
そのほかでは、エジプトや中東の多くの地域からもフレスコ画や印章、象牙作品などに「牛跳び/牛飛び」のシーンが表現された出土品がもたらされている。

  ピクトリアル様式陶器などギリシア本土ミケーネ文明の主な陶器様式の変遷と特徴

ミノア文明・スクラヴォカンボス遺跡・「牛とび」の印影/写真情報: The Department of Archaelogy & Ancient Near Eastern Cultures/Tel Aviv University クレタ島内では「牛跳び/牛飛び」のシーンを刻んだ印章で押された粘土印影(左写真)が、
 イラクリオンから南西方向の丘陵地帯のスクラヴォカンボス邸宅遺跡から出土している。
 これと同じ印影がクレタ島ザクロス宮殿遺跡やアギア・トリアダ遺跡などからも見つかっていること
 から、同じ金製印章を携えた特定の人物が、島内を巡回して何か重要な「監査」を行っていた
 証拠とされている。

 スクラヴォカンボス遺跡・「牛跳び」の印影
 写真情報: イスラエル/Tel Aviv University考古学&中東古代文化研究室
                        ミノア文明/ティリッソス邸宅遺跡とスクラヴォカンボス邸宅遺跡

                                 ミノア文明の装飾剣

墳墓遺跡出土・装飾剣
  クノッソス宮殿・東入口の東方を南から北方へ流れるカイラトス川の岸辺一帯は、研究者から「死者の谷」と呼ばれ、宮殿関係者であった高位な官僚クラスの人々を含む、最盛期には約4万人が居住したクノッソスの街・「ko-no-so コノソ」の人々の墓地であったと考えられている。
クノッソス宮殿遺跡から真北へ丁度1km、カイラトス川の左岸(西側)、ザフェール・パポウラ地区 Zafer Papoura からもミノア文明の共同墓地が発見された。この墳墓遺跡からは無数の副葬陶器や宝飾品が出土しているが、中でも青銅製の剣類が大量に出土しているのが特徴的である。

ミノア文明・装飾剣/(C)legend ej イラクリオン考古学博物館で展示されている武器以外の美しい装飾
 剣の例を挙げれば;
 柄頭にメノウ玉を付けた長さ560mmの剣(下描画・左剣)は、柄全
 体は5個の目釘リベットを含め金製、変形の鍔(つば)部分には野生
 ヤギを追い詰めるライオンの打出加工が施されている。
 さらに5個の目釘リベットで固定された柄全体が金製の剣(下描画・
 右剣)では、変形の鍔(つば)部分は連鎖する渦巻き紋様の打出加
 工で装飾されている。
 この2例の剣はいずれも紀元前1450年以降に製作されたもので、研
 究者から「タイプD剣」と区分されている。


 クノッソス宮殿近郊ザフェール・パポウラ遺跡・竪穴墓出土・装飾剣
 イラクリオン考古学博物館/左剣: 登録番号1098/長さ560mm
                   右剣: 登録番号710/長さ610mm
   クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej

ただし、明らかにクレタ島ミノア文明の影響を受けた、あるいはクレタ島の工房で製作されたと考えられる、ミノア文明の象徴的なモチーフである「雄牛」を表現した金製カップ(下写真)が出土したギリシア本土に比べ、クノッソス宮殿遺跡やほかの遺跡からの金製の宝飾品はそれほど多くはない。

金製ヴァフィオ型カップ Gold Cup of Vaphio/(C)legend ej
               スパルタ近郊ヴァフィオ遺跡出土/金製・「ヴァフィオ型カップ」 Gold Cup of Vaphio
               アテネ国立考古学博物館/登録番号1758/ペロポネソス・ラコニア地方/1982年
                 アテネ国立考古学博物館/ギリシア本土ミケーネ文明の出土品
                 金製カップの出土/ペロポネソス・ラコニア地方・ミケーネ文明のヴァフィオ遺跡

                           クノッソス宮殿遺跡/宮殿付属の貯蔵庫

宮殿の貯蔵庫群&貯蔵庫群の長い通廊
  規則正しく並んだ宮殿直属の貯蔵庫群(下写真)は、宮殿二階の部屋の床面に相当するコンクリートで復元された西翼部の階上見学用ステージから眺めることができる。しかし、現在、ツーリストが階下へ降りて、貯蔵庫群へ直接立ち入ることはできない。
貯蔵庫群は位置的には、厚い壁を隔てて王座の間の西側に配置され、宮殿の西翼部の階上にあった壮麗な大広間などの真下の位置である。20室を数える貯蔵庫群の各々の入口は、南北に走る貯蔵庫群の長い通廊に面して規則正しく配置されている。
貯蔵庫群の壁面は上階の部屋の重量を支えるため、壁面部を木板で囲い、中に割り石を積め、隙間を粘土で塞ぐという強化仕様の非常に分厚い構造である。巨大な重量となる階上の大広間の崩落を防ぐ意味でも、一つ一つの貯蔵庫スペースは幅が狭く、奥行きがある細長い造りである。

            クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群/(C)legend ej
      クノッソス宮殿遺跡・規則正しく配置された宮殿直属の貯蔵庫群/クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)

≪ギリシア神話≫の時代から「迷宮」と呼ばれたクノッソス宮殿では、建造物の建築技術や装飾レベルの高さや部屋の数の多さだけではなく、空間も限りなく効果的に活用していたことに特徴がある。野外の空間活用としては、平石板で舗装された広い中央中庭や西中庭もその例である。
一方、室内の効果的な空間利用の例では、ファイアンス製の「蛇の女神像」が出土した宮殿の神殿宝庫(上述写真)と呼ばれた石膏石舗装の宝物保管室を初め、その南隣の大型ピトスの部屋(上述写真)、さらに貯蔵庫群の床面に石板囲いの深いピット穴(左下写真)を設け、隙間と表面に石膏の表装施工を行い、大切な宝飾品だけでなく、長期保存の効く乾燥した穀物などを貯蔵していたことが分かっている。
ただし、この半地下式のピット収納術は文明の最大センターであったクノッソス宮殿だけで採用され、メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿やマーリア宮殿の貯蔵庫などの床面では、収納ピット穴は設けずに床面を石膏石で舗装する単純な仕様となっている。

クノッソス宮殿直属の貯蔵庫群は、西翼部の神殿宝庫などが配置された「聖域」と並んで宮殿の極めて重要な場所であった。
貯蔵庫群の長い通廊(右下写真)の壁面は、丁寧に加工された厚い白色石膏石で完全表装され、所々に神聖なる「両刃斧」の記号が刻まれ、その床面は石膏石の舗装仕様である。ミノア時代、両刃斧の記号の刻まれた場所は聖なる区域か、普通の人が立ち入ることができない「特別な場所」を意味していた。

   クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫内部/(C)legend ej     ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群の通廊/(C)legend ej
 貯蔵庫/収納ピット(現在=立入禁止区域)          貯蔵庫群の長い通廊(現在=立入禁止区域)
   クノッソス宮殿遺跡/クレタ島/1982年              クノッソス宮殿遺跡/クレタ島/1982年

1982年当時、ツーリストは長い通廊と貯蔵庫群の内部まで立ち入ることが許されていた。私は確認のために左上写真の貯蔵庫の床面に設けられた収納ピット穴の中に降りたこともあるし、その周囲辺も好き勝手に見学することができた。しかし、その後、残念ながらこの区画周辺はツーリストの立入禁止区域となってしまった。
この宮殿直属の貯蔵庫群の長い通廊の丁度真上の上階には、上述の通り、かつて間違いなくクノッソス宮殿で最も美しい区画であったであろう、「パリジェンヌ」を含む「キャンプスツールのフレスコ画」が描かれた優美な長い通廊が配置されていた、と推測されている。

また、新宮殿時代にはピトス系など大型貯蔵容器はフェストス(ファイストス)宮殿の統治範囲であったメッサラ平野のミトロポリス邸宅の焼き窯などで生産されていた。訪ねた1994年には、屋根カバーのミトロポリス邸宅遺跡には、数多くのピトス容器が発掘時のままで残されていた(下写真)。この邸宅遺跡はフェストス(ファイストス)宮殿遺跡の東方11kmの距離である。

            ミノア文明・ミトロポリス遺跡/(C)legend ej
             大型ピトス容器の製作拠点であったミトロポリス邸宅遺跡/クレタ島メッサラ平野/1994年
               ミノア文明のメッサラ様式円形墳墓のコウマサ遺跡やピトス生産のミトロポリス邸宅遺跡

Ref.   クノッソス宮殿周辺のミノア・ワインの産地は?/ワインは甘口赤ワイン or ロゼワインだったのか?

クノッソス宮殿公認のワイン産地/ヴァシィペトロン邸宅/3,450年前のワイン搾りプレス装置
ミノア文明の時代、ワイワイ・ガヤガヤの「飲み会」で飲まれたクノッソス宮殿周辺のワインの最大産地は、私が自身の脚で歩き回り探した範疇では、ギリシアの考古学者マリナトス教授が、1949年、クノッソス地区から南方へ約12kmの起伏に富んだ丘陵地帯で発掘したヴァシィペトロン邸宅 Vathypetron House と確信する。
この邸宅遺跡からは、配置に段差を設けた3器の大型容器と床面すれすれに切られた溝付きの溜り部分で構成されたワイン用ブドウとオリーブ油の「搾りプレス装置(Wine & Olive-oil Presses 下写真)」が発見されている。ヴァシィペトロン邸宅は紀元前1450年頃に破壊、または放棄されているので、この搾りプレス装置は少なくとも3,450年以上前まで実際に使われていたものである。
この装置はクレタ島東端のアノ・ザクロス邸宅遺跡から出土した滴り口付き搾りプレス容器(シティア考古学博物館)と同種で、ミノア時代にはワイン醸造やオリーブ油の製造には欠かせない極めて重要な産業設備であった。大型容器と溜まりの組み合わせというシンプルな装置だが、間違いなくこれはワイン造りの最初の重要な工程であるブドウの果粒を潰すための、「足踏み搾りプレス容器」であった。

           クレタ島ミノア文明・ワイン搾りプレス装置Wine & Olive-oil Presses, Vathypetron House/(C)legend ej
             ヴァシィペトロン邸宅遺跡/ミノア文明のワイン用搾りプレス装置/大型容器と床の流れ溝
              紀元前15世紀/Wine & Olive-oil Presses, Vathypetron House/クレタ島/1982年
             ミノア文明のワイン搾りプレス装置のヴァシィペトロン邸宅遺跡とアルカネス共同墓地遺跡

ヴァシィペトロン邸宅のミノア・ワインの醸造方法は?
ワインの歴史は非常に古く、紀元前6000年〜前4000年頃、すでに中央アジア・コーカサス地方や中東メソポタミア・シュメール文化でもワインが生産・飲用されていた。その後、ワイン造りの技術と薬効性や嗜好習慣は、中東からエジプト文明を経由してクレタ島ミノア文明へ伝播されて来たと考えられる。
フランス・ブルゴーニュ風に表現すれば、ヴァシィペトロン邸宅はクノッソス宮殿周辺の最も重要な醸造所・「ドメーヌ Domaine/ボルドーならシャトー Chateau」であり、ここで生産された「雄牛のロゴ」が付いた「クノッソス宮殿政府公認」の甘口赤ワイン or ロゼワインは、厳密に言えば、上写真のプレス装置で搾られた赤ブドウ果汁から醸造されていたのである。※雄牛はミノア文明ではパワーの象徴であった。

ヴァシィペトロンの丘陵地で栽培された完熟の赤ブドウは収穫された後、ブドウ房の小茎・果梗を取る作業、いわゆる除梗をしないで房のまま上写真の大型容器に入れられた。今日でもヨーロッパの幾らかのワイン産地で行われている作業、風味を落とす要因の種子を破壊しないように、人の足で丁寧に踏み付けてブドウの果皮を破砕、果粒から果汁を搾り出す伝統的な「足踏み」の手法が採用された。
またはキプロス島南岸リマソールの北方15km〜20km付近、標高400m〜900mのトロードス山間部に点在する小さな村アギオス・ママス Ag Mamas など、14の村で限定的に栽培されているジニステリ種白ブドウから醸造されるコマンダリアワインの手法と同じであった可能性もある。古くから「キプロスの宝」とも呼ばれたコマンダリア白ワインは、かのエジプト女王クレオパトラも愛飲したとされる極甘口ワインで、完熟のブドウを収穫した後、さらに糖度を上げるためにブドウ房を天日干ししてから果皮の破砕作業を行ってきた。

白ワインか、赤ワイン or ロゼワインか?
今日の白ワイン造りに似た醸造方法が確立されていたならば、ヴァシィペトロンでは、「足踏み」で搾り出された赤ブドウ果汁だけをアンフォラ型容器に移し替えて、石造りの室温の安定した場所に保管した。おそらくクレタ島の温暖気候からして25℃〜30℃の赤ワイン醸造の適温下で、果汁とミックスされたブドウの果皮に付着していた天然酵母の働きでアルコール発酵が始まり、果汁の糖分はアルコールと炭酸ガスに分解され徐々に赤ワイン、またはプロセスから判断するとロゼワインへ変化したであろう。
あるいは標準の赤ワインの醸造方法を採用したならば、「足踏み」で果汁を搾り出した後、プレス容器には果汁を含んだグシャグシャ状態の果皮・果肉・種子・果梗が残っているはずで、「もったいない」ので捨てずに、これらを搾り出した赤ブドウ果汁と一緒にしてアンフォラ型容器に移し替えたかもしれない。
そうならば、白ワインやロゼワインの手順とは異なり、アルコール発酵の途中で炭酸ガスと一緒に果皮や種子などが表面に浮き上がり帽子のような果帽キャップができる。果皮から染み出る赤ワイン特有の赤み色素やタンニンの微妙な味を得るため、櫂棒(かいぼう)でアンフォラ型容器の発酵汁と果帽を定期的にかき混ぜるピジャージュ(櫂入れ)を行い、マセラシオン作用(浸漬・醸し)を促した可能性もあるだろう。この微妙な醸造の技をミノア時代のヴァシィペトロンの醸造スタッフが認識していればだが・・・

クレタ島の乾燥気候は収穫前からブドウの含有水分は蒸発、完熟の果粒には蜂蜜のように高い糖分が凝縮されていたと推測できる。ヴァシィペトロン邸宅のワイン造りのスタッフは、発酵を途中で止めれば糖分が全てアルコールに成らずに半分程度は残る(甘口)、というワイン造りの微妙な理屈と知識を経験的に会得していたであろう。
ただ、アルコール発酵(一次発酵)が終了した赤ワイン or ロゼワインをさらに自然の乳酸菌を活用したマロラクティック発酵(MLF 二次発酵)を行い、渋いリンゴ酸をまろやかな乳酸に変化させ、美味なフレーバーを加味したかどうかは定かではないが・・・
ヴァシィペトロン邸宅で働く熟練スタッフにより醸造された特産ワインは、世界に知られた極甘口の東欧ハンガリー産の黄金色を発するトカイ貴腐ワインやボルドー・ソーテルヌ産の白ワイン、あるいはドイツが誇るトロッケンベーレンアウスレーゼ貴腐ワイン、さらには上述のキプロス島コマンダリア白ワインにも似た、色彩こそ異なるがおそらくアルコール度数5%〜10%の甘口の赤ワイン or ロゼワインであったであろう。
また幾らかの説では、後世の古代アテネなどの赤ワインは原液ではなく、「ワイン1:水3」の「水割り」で飲用されたと言われているので、キプロス島コマンダリアワインと同じように、アルコール分15%前後のより高濃度ワインであったかもしれない。

クノッソスの街にあった「ワイン居酒屋」/宮殿の「公式晩餐会」の夕べ
何れにしても「宮殿政府公認」のアンフォラ型ブランド容器に詰められたヴァシィペトロン産の甘口赤ワイン or ロゼワインは、ミノア文明の最盛期の紀元前1500年頃、12kmの道のりをロバの背に載せられ、住民4万人で賑わうクノッソスの街(ko-no-so)へと運ばれた。美味な赤ワイン or ロゼワインは庶民に愛された「ワイン居酒屋」で、あるいは遠来の客人達を招き大規模に開催されたクノッソス宮殿の華やかな「公式晩餐会」で大量に消費されたのである。
美しいフレスコ画で装飾されたクノッソス宮殿の大広間での宴(うたげ)では、出土品からも推定できるが水鳥の頭部を彫刻したアラバスター(石膏石)製の小型リラ(たて琴/右下描画)など、細くきれいな指のミノアの女性達が奏でる弦楽器による優雅な音楽に合わせ、宮殿・王妃の間に描かれたフレスコ画のようにロングドレスの美しい女性達が踊り(後述・王妃の間・写真参照)、壮麗優雅な宴の時が過ぎて行った。

    カマレス様式の円筒型大皿/(C)legend ej          ミノア文明・小型リラ(たて琴)/(C)legend ej
      ファイストス(フェストス)宮殿出土・カマレス様式の円筒型大皿               ミノア文明・リラ(たて琴)部分
          イラクリオン考古学博物館/登録番号18442              アラバスター(石膏石)製/推定高さ約300mm
                  クレタ島/1982年                    イラクリオン考古学博物館/登録番号107&179
                                                     1982年/描画=Web管理者legend ej

世界のワイン【Amazon.co.jp 通販サイト・Wine Store】送料無料! 定温倉庫から出荷ワイン95,000種/お薦めセット・タイプ別セット・世界の産地周遊セット/\980均一お買い得ワイン/希少・限定ワイン&ワンランク上の厳選ワイン/\980以下ディリーワイン

華やぎの宴は最高に盛り上がり、程なくしてカマレス様式の円筒型大皿(左上モノクローム写真)に載せられた表皮をパリパリに焼いた美味な「ローズマリー風味・子羊の丸焼き」の料理が振舞われ、花弁装飾が特徴的な豪華な大型クラテール型容器(右下カラー写真)にはミノア王国が誇る「雄牛のロゴ」の宮殿ブランド赤ワイン or ロゼワインの「水割り」が並々と満たされた。
何時の世にも居る知ったかぶりしてワインのウンチクを熱弁して語る格好付けの若いイケメン参列客は、流行りの色絵柄が美しいリングハンドル付きカップ(左下モノクローム写真)でワインの香りを楽しむ。一方、酔いの失態も何のその、慣わしを重んじともかくも量を優先させる古老や年配者達は、現代のコーヒーカップに近似する伝統的なカマレス様式の大型エッグシェルカップ(左下カラー写真)でヴァシィペトロン産のワインを味わったのである。
今日、世界中のコレクターから「ヴィンテージワインの最高峰」と呼ばれる1本¥50万〜¥100万、イエスの一番弟子聖ペトロのラベルが付いたボルドー産・「シャトー・ペトリュス Ch Petrus」の赤ワインに勝るとも劣らない美味なヴァシィペトロン・ワインが、毎年、ミノア時代の人々の間では「ベスト・ワイン賞」であった・・・
これは極彩色壁画で知られた我が国・奈良・明日香の高松塚古墳の時代より遥か2,200年前、今から3,500年以上も前の、私が想像するほとんど間違いない最盛期のクノッソス宮殿の「ワインのある宮廷風景」だが・・・

ミノア文明・カマレス様式陶器/(C)legend ejミケーネ文明・リングハンドルカップ/(C)legend ej













     コウコウナーラ遺跡出土・リング・ハンドル・カップ
    ピーロス考古学博物館/メッセニア地方/1982年

ミノア文明・カマレス様式陶器/(C)legend ej


      フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式クラテール型容器
         イラクリオン考古学博物館/登録番号10578
             高さ455mm/クレタ島/1982年


 クノッソス宮殿遺跡出土・カマレス様式エッグシェルカップ
 イラクリオン考古学博物館/登録番号2690/高さ75mm
 クレタ島/1982年
 クレタ島ミノア文明の主な陶器様式の変遷と特徴



ミノア文明のほかのワイン産地
ミノア文明のワイン生産に関して、クノッソス宮殿遺跡から西方へ直線で13kmほど、丘陵地帯の尾根に残されたティリッソス邸宅遺跡、さらに深い渓谷を遡った盆地に広がるブドウ畑の管理を担当していたと推測できるスクラヴォカンボス邸宅遺跡の周辺でも、ワイン生産が盛んに行われていたことが分かっている。
ただしティリッソス邸宅とスクラヴォカンボス邸宅遺跡からは、ワインを貯蔵したであろう大型アンフォラ型容器などは出土しているが、上述のヴァシィペトロン邸宅遺跡のような「ワイン用搾りプレス装置」は見つかっていない。
また、ワイン搾りプレス容器が見つかったクレタ島東端のアノ・ザクロス邸宅遺跡の周辺もミノア・ワインの有数な産地であったのは間違いない。さらにミルトス・ピルゴス邸宅遺跡からは、ミノア文明の公用語であった線文字Aスクリプトで「ワイン本数」を刻んだ粘土板も出土していることから、邸宅があったリビア海に面するクレタ島の南岸地域でもワイン生産が行われていたと考えられる。

  ミノア文明の「ワイン産地」/ティリッソス遺跡&スクラヴォカンボス遺跡、アノ・ザクロス遺跡の詳細情報は;
                             ミノア・ページ
現在のクレタ・ワイン産地
参考だが、クノッソス宮殿遺跡の周辺、現在のクレタ・ワインの生産では、ヴァシィペトロン邸宅遺跡の東北東4km、クノッソス宮殿遺跡から南方へ約10kmのペーザ村 Peza には、1850年代から続く赤・白・ロゼワインを年間80万本生産する「MINOSクレタ・ワイン醸造所」が知られている。
ペーザ村の南方1kmのカローニ村 Kalloni には「ペーザ農業共同組合」のワイン醸造所 PEZA UNION CRETE があり、さらにクノッソス宮殿遺跡の南方へ約8km、ペーザ村の手前2kmのコウナヴォイ村 Kounavoi には、1973年創業の近代設備を誇る「クレタ・オリンピア・ワイン醸造所 CRETA OLYMPIAS」がある。

nova37°エキストラバージンココナッツオイル 優良ココナッツ産地認定のベトナム南部の自社農園・自社工場で製造/業界初、製薬技術導入の37°以下・完全低温製造・収穫〜瓶詰め2時間以内・100%非加熱の高品質ココナッツオイル・2μmフィルターで不純物ろ過・香り低減・高い栄養価と豊富な坑酸化物質・自然に最も近いオイル/450ml\2,800/450mlx3本セット\8,100/携帯プッシュボトル15ml\500

                                中東・エジプトとの交易

エジプト文明との関わり
  規模こそ小さいが、クレタ・ミノアの文明はエジプトの大文明とほとんど同じ時期に興隆して、エジプトや中東パレスチナからの影響を受けつつ、ミノア独自の文明を確立して行ったのである。特に地中海域で最大の力を誇ったエジプトとの関わりと影響は、ミノア人にとっても大きな比重を占めていたと考えられる。
リビア海を隔てたエジプト文明のクフ王を初め、「三大ピラミッド」が造営された時期に、クレタ島ではミノア文明の芽吹きがあり、より有名なエジプト・ツタンカーメン王の時代には、ミノア文明は終焉の時期を迎えている。その後、エジプト文明は最後の女王クレオパトラの支配が終わるまで1,400年以上も続くが、その頃ミノア文明は消滅して遥かな過去の伝説の物語となっていた。
その点から言えば、エジプト文明より遥かに短命であったが、ミノア文明は地中海域で約2,000年間も続いた輝かしい文明の一つであったことは間違いない。

・クレタ島ミノア文明・初期 エジプト・古王国時代・三大ピラミッド造営期
・クノッソス旧宮殿の造営時 エジプト・中王国時代
・クノッソス新宮殿の造営時 エジプト・中王国時代〜新王国時代への過渡期
・クノッソス新宮殿の崩壊時 エジプト・新王国時代
・クレタ島ミノア文明の衰退時 エジプト・新王国時代・ツタンカーメン王支配

キプロス島から銅の輸入
  自然をこよなく愛し、城壁のない宮殿を建て、クレタ島とエーゲ海域の効果的な統治と平和を維持したミノア人が代々継承してきた輝かしいミノア時代は、初期の旧宮殿を含め、新宮殿が崩壊するまでのいわゆる宮殿時代に限っても約500年間も続いた。この間、ミノア王国は自国の発展と同時に、遠い中東パレスチナやエジプト方面、あるいはキプロス島やキクラデス諸島との交易を通じて、さらなる文化の発展と洗練を繰り返してきた。
エジプト・テーベでは紀元前1490年〜前1436年の高官が埋葬されていた墳墓が見つかり、内部壁画からはミノア人がエジプト・ファラオへ貢物の献上している情景が描かれていた。クレタ・ミノア製の石製容器や陶器、宝飾品、さらにクレタ島からエジプトへ向かう途中に立ち寄り、確保したと推測できるキプロス島産の銅インゴットなども献上されていた。ミノア人がキプロス島やエジプト王国とのかなり親密な交流交易を行っていたと判断できる。

            キプロス島・新石器文化〜青銅器文明遺跡/(C)legend ej
                  キプロス島・新石器文化〜青銅器文明遺跡/作図=Web管理者legend ej

クレタ島のミノア文明では、エジプト王国への献上のみならず、自らもキプロス島(上作図)から、研究者の間で「ケフテウ Kefteu インゴット(下描画)」と呼ばれる「座布団」に似た形状の銅インゴットを大量に輸入していた。クレタ島東端のザクロス宮殿がその銅インゴットの輸入業務を担当していた。 クレタ島ミノア文明のザクロス宮殿遺跡/キプロス島からの銅インゴットの輸入陸揚げ港

キプロス島から輸入された銅インゴット/(C)legend ej また、メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡からは、輸入された19枚、ザクロス宮殿遺跡からは複数
 枚の「ケフテウ銅インゴット」が発見されている。サイズと形状は若干異なるにしても、重量は20kg
 前後〜最大では32kg(イラクリオン考古学博物館登録番号721など)であった。

                      クノッソス宮殿遺跡/生活関連の施設/上下水道システム

導水路/排水路システム/総延長150mの規模
  文明の最盛期には、クノッソス宮殿とそれを取り囲むクノッソスの街・「ko-no-so(コノソ)」では、王族や高官、祭司・神官、女官や大勢の宮殿スタッフと職人、あるいは遠来の客人達の分、街に住む大勢の住民、さらには飼育している動物などの毎日の飲料水、食事の準備、洗濯や掃除や水洗トイレに至るまでも、相当量の水の供給と排水が必要であったはず。
現在、クノッソス宮殿では、特に東翼部の周辺で集中的に見ることができるが、色々な箇所で雨水を集める石材ブロックに溝を付けた導水路(下写真)や半地下の給排水用パイプ、あるいは王妃のバスルームやトイレの床面などに敷設されたトンネル形式の排水路が残されている。
なお、クノッソス宮殿では、このような導水・給水・排水用のネットワークの総延長がおおよそ150mと計測されている。テラコッタ製の給排水用パイプ(下写真)は、サイズがほぼ標準化され、太さ10cm〜15cm、長さ1m〜2mほど、パイプとパイプのつなぎ目には互いに管径を大小にした差込式の継手ジョイントを作り、接続部には粘土や縄などで水漏れ防止の処置が行われていた。

            クノッソス宮殿遺跡・導水路/(C)legend ej

            クノッソス宮殿遺跡・給排水パイプ/(C)legend ej
           クノッソス宮殿遺跡・東翼部/雨水および飲料水の導水路・給排水システム/クレタ島/1982年

石材に溝を掘った導水路の設備は、クノッソス宮殿だけでなく、クレタ島東端のザクロス宮殿、メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿とその近郊のアギア・トリアダ準宮殿など、主要宮殿の重要区画でも発見されている。
特に広い中央中庭を備えた諸宮殿では、中庭に降り注いだ雨水の集約と「溜め」は重要なことであったはずで、例えばクノッソス宮殿では、中央中庭より5m以上低いレベルにあった東翼部の宮殿付属工房群の周辺が、この雨水の集約場所(上モノクローム写真=導水路の遺構)となっていた。

新鮮な飲料水の確保/カイラトス川の水の利用/ヴリチアスの小川
  クノッソス宮殿から南方10kmには、ミノア時代の共同墓地遺跡が見つかったアルカネス Archanes がある。アルカネスの「ケファラの丘」を源流とするカイラトス川が、クノッソス宮殿の東側へ流れ出ている。クノッソス宮殿と4万人規模のクノッソスの街・「ko-no-so(コノソ)」で使う飲料水は、この新鮮なカイラトス川の水を活用していたと考えられる。

ミケーネ宮殿遺跡・地下式泉/(C)legend ej また、南の邸宅の南側を流れるヴリチアスの小川(カイラトス川の支流)の近くからは
 2か所の水溜め遺構も確認されている。そのほか上述の通り、乾燥したクレタ島では
 貴重な水資源となる屋根から集めた雨水さえも、導水路システムで確実に集めて
 飲料水として使っていたに違いない。

 ただ、ギリシア本土ミケーネ宮殿とティリンス宮殿の城壁内部で見つかっているような
 「兵糧攻め」を考慮した地下式泉(左写真)の類は、現在までの所、クノッソス宮殿
 の敷地からは発見されていない。
 この意味はクノッソス宮殿と周辺の街では、枯れることのないカイラトス川からの新鮮
 な飲料水が年中確保され、古代文明に共通する深刻な課題である飲料水の確
 保問題が、クノッソス地区ではそもそも存在しなかったと言えるだろう。




 ミケーネ宮殿遺跡・地下式泉への入口階段
 ギリシア本土アルゴス地方/1982年



東入口の排水路システム
  宮殿で使い終わった汚水と汚れた雨水は、排水路システムを経由して宮殿の東方へ導かれた。現在、カイラトス川へ至る宮殿の東入口には、目立たないのでツーリストも興味を持たないが、大型の切石を使った美しい階段とゲートが復元されている。
この東入口では水路と正方形の水の「溜まり」を設けた復元・複製の「排水路システム」を見ることができる。これはミノア人の高度な建築知識と賢さの典型例である。

                           クノッソス地区の遺跡/「キャラバンサライ」

給水設備/「フレスコ画のパビリオン」
  かつてミノア時代には、クノッソス宮殿から「王家の墳墓」や「高位祭司の館」などが残る南方約600mのジプサデスの丘へ向かうためには、宮殿の南入口と南の邸宅の直ぐ南側のヴリチアスの小川に架かる「ミノアの橋」を渡っていた。ミノアの橋は現在のクノッソス地区の南方に架かるコンクリート橋の150m下流付近にあった。
ミノアの橋(遺構)の南東60m、今日の地方道路とヴリチアス小川に挟まれた狭い畑のある斜面に、1924年、クノッソス宮殿遺跡の発掘者エヴァンズが確認した「キャラバンサライ Karvansara or Kervansaray」と呼ばれる廃墟的な建物遺構が残されている。ほとんど目立たないので立ち寄るツーリストも少ない遺構だが、近年、復元が完了となった。
クレタ島の南部方面からクノッソス宮殿へやって来る人達が、南入口から宮殿へ入場する前に、このキャラバンサライで足を洗い、身を清めたとされる建物である。砂漠のオアシスにある旅人やラクダを連れた隊商の宿泊設備と同様な意味から、エヴァンズが「キャラバンサライ」と名称した。ここには休憩の部屋とエヴァンズの言う ”Foot Bath” と呼ばれるテラコッタ製の給水用パイプが設備され、常時、誰でも新鮮な水を自由に使えるように配慮されていた。

なおクノッソス宮殿の西方にある「青いサル」などが見つかった「フレスコ画の邸宅」と同様に、キャラバンサライは「フレスコ画のパビリオン」とも呼ばれている。キャラバンサライ内部の梁フリーズ部分を飾っていた茂みに佇む大人しそうなキジの仲間のヤマウズラの群れ、金色の冠鳥などを描いた紀元前1550年頃の美しいフレスコ画の断片(イラクリオン考古学博物館)が見つかっている。
訪ねた1994年には、復元されたキャラバンサライの梁フリーズには、イラクリオン考古学博物館の絵柄と同じ色鮮やかな「ヤマウズラ」のフレスコ画が描かれていた。クノッソス宮殿遺跡に飾られている額に入った多くの複製フレスコ画と異なり、キャラバンサライの鳥のフレスコ画は縦28cmで横長、決して迫力感がある訳ではないが、復元梁のフリーズ壁面に直接描かれていることから、ミノア時代の「本物」のフレスコ画と勘違いするほどである。

                            クノッソス宮殿の崩壊とミノア文明の終焉

クノッソス宮殿崩壊
  王の住む宮殿に防衛城壁を設けず、戦うことを嫌ったミノア人は、音楽と舞踊、馬車競技やスペインの闘牛に似たお祭り的なスポーツイベントであった「牛跳び/牛飛び」などをこよなく愛し、草原の植物や動物、さらにはイルカや貝やタコなど自然主義に憧憬して、平和主義を貫いていた。しかし、長期にわたる未曾有の繁栄を極めたミノア文明と中央政府クノッソス宮殿は、紀元前1375年頃に起こった大火災で完全に崩壊して、エーゲ海クレタ島に華やかに花咲いたミノア人の文明は急速に形を失ってしまう。

線文字B粘土板/宮殿崩壊とミケーネ人
  クノッソス宮殿の崩壊時の大火災で焼けただれ、偶然に残された約3,000点とされる線文字Bスクリプトで刻まれた粘土板から判断する時、宮殿の崩壊は小麦の採り入れが終わり、羊の毛を刈り取る季節がやってきた春の頃とされ、その崩壊の原因はおそらく異民族の「攻撃」によるものであった、と想像する。
最も可能性が高いのは、この時代にミノア文明の影響を受けながら発展を続け、ギリシア本土からエーゲ海へ進出するほどの強い勢力を増強してきた好戦的なミケーネ人が、クレタ島の主要宮殿と邸宅の破壊、さらに最終的にクノッソス宮殿の崩壊、そしてミノア文明の終焉に「何らかの関わり」をもっていたと考えて良いだろう。

            ペロポネソス地方・ミケーネ文明・宮殿遺跡/(C)legend ej
                 ペロポネソス地方・ミケーネ文明・宮殿遺跡/作図=Web管理者legend ej

クノッソス宮殿の大火災
  戦いでエーゲ海域の支配権を広げたギリシア本土ミケーネ人の攻撃か、穏やかであったミノア政府内の反乱かあるいは現代の我々にも想像もできない何かの理由により、無防備に等しく、戦いの経験の少ないミノア政府クノッソス宮殿に火が放された。それは紀元前1375年頃である。

  世界遺産/好戦的なミケーネ人のミケーネ宮殿遺跡
  クレタ島クノッソス宮殿崩壊の「原因」について

火は宮殿・東翼部の豪華な造りの王家のプライベートな生活区画を初め、中央中庭の西翼部の神殿宝庫や聖なる記号の刻まれた支柱礼拝室、大規模な部屋が連なる儀式的な西翼部の階上区画や貯蔵庫周辺、北入口と北翼部に配置された工房や大型ピトス容器の倉庫群などを瞬く間にのみ込み、1,000室を数える宮殿のほとんど全ての区画が完全に焼け落ちてしまう。
宮殿の多くの区画では、厚い壁面や石柱の南側がより焼け焦げの度合いが強く、これは南方のアフリカ・サハラ砂漠方面から吹き付けた「春」の乾いた強風に煽られた結果と考えられる。消火の手を尽くせぬまま、クノッソスの大宮殿はおそらくは1週間、あるいは10日間以上も炎上し続け、その火柱はエヴァンズが復元・複製した宮殿石柱の朱色の塗装色よりも明るく、フレスコ画・「女神パリジェンヌ」の情熱的なルージュと同じくらいクレタの夜空を真っ赤に染め上げたはずである。

クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫付近・焼け跡/(C)legend ej クノッソス宮殿・西翼部一階に配置された貯蔵庫群のオリーブ油の大量
 貯蔵が裏目に出て、宮殿が最終崩壊する時、油が火力を一層増させ
 たと考えられる。
 特に20室を数える宮殿付属の貯蔵庫の区画やその近くの西正面部(西
 中庭に面する外壁面)などには、大火災の後3,400年の経過があっても、
 今でも激しいオリーブ油の火力で真っ黒で極端に焼け焦げた痕跡(左
 写真・左側壁面)を確認できる。

 1982年に初めてクノッソス宮殿遺跡を訪ねた際、私はこの写真を撮った
 後、貯蔵庫群の床面に施設された深いピット穴へ降りたことがある。
 大火災当時、おそらく保管していたオリーブ油のピトス容器が割れ、大量
 のオリーブ油がピット穴へ溜まりそれが完全に燃焼するまで火力は衰えな
 かったはずで、壁面だけでなく、ピット穴の底部分まで真っ黒に焼け焦げて
 いた。
 また、特に壁面は表装の石膏やモルタル質が強い火力により溶けて、陶
 磁器と同じように硬いガラス質へ高温変質したことが確認できる。



 クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫・火災焼け跡(左側壁面・床面)
 クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)

                             クノッソス宮殿崩壊/ミノア文明の変化

大火災と聖なる儀式?
  クノッソス宮殿が焼け落ちる最中に、宮殿所属の祭司・神官による聖なる儀式が執り行われていたのか、西翼部の王座の間に付属する奥の部屋では、石製ランプが転倒したままの状態で発見された。祭司・神官が石製ランプを使って、宮殿崩壊と大火災を鎮めようと、燃え盛る炎の中で「神への最後の祈り」の儀式を続けていた、というある研究者の説も否定できない。

武具・武器の副葬/陶器様式の変化
  紀元前1375年頃に起こったクノッソス宮殿の最終崩壊の直後、そしてそれ以降には、時代と文化を素早く反映する多くの発掘陶器の絵柄モチーフに大きな変化を見ることができる。その代表例は長い柄(ワイングラス・ステム)のキリックス杯(アテネ国立考古学博物館・登録番号6943・左下モノクローム写真)、あるいはツタの葉など植物や海洋性のタコのモチーフを極端にデフォルメしたアンフォラ型の容器(イラクリオン考古学博物館・右下カラー写真)などの日常的に使われる陶器である。いずれの陶器もギリシア本土ミケーネ文明で流行した代表的な形容と絵柄モチーフである。
さらに墳墓からは今までクレタ島では無かった武器や武具、あるいは戦いを描いたした陶器(イラクリオン考古学博物館)などの副葬品の出土例が異様に増えたように、クノッソス宮殿崩壊後のミノア文明は、急速にしかも極端にギリシア本土ミケーネ文明の影響が強くなってきた。

   キリックス杯/(C)legend ej    ミノア陶器/(C)legend ej
   ギリシア本土イライオン遺跡出土・キリックス杯       クレタ島出土・極端に抽象化された絵柄のアンフォラ型容器
巻き貝の絵柄/典型的なミケーネ文明様式の陶器     ミノア文明末期/クレタ島イラクリオン考古学博物館/1994年
アテネ考古学博物館/登録番号6943/1982年

ガジ遺跡の崇拝用塑像
  宗教的な変化では、ガジ遺跡 Gazi の聖所と推測される場所から見つかったテラコッタ製の大型塑像が特徴的と言える。この種の塑像は紀元前12世紀に家庭用や奉納用の崇拝像として盛んに作られた。女神は銃を突きつけられた時の「ホールドアップ」のように両手を広げ(下描画)、頭部には聖なる雄牛角や鳥、写真のようにケシの種などがシンボル装飾された。

ミノア文明ガジ遺跡出土・テラコッタ製塑像・「ケシの女神像」/(C)legend ej 女神の下半身は「ろくろ」を使って作られたことから安定感のある円筒形、さらに後期にはロングスカートの
 裾部分が少し上げられ脚の見えるタイプも出現した。これは自然崇拝の本来のミノア文明では有り得ない
 像であり、この時代にクレタ島の宗教観が大きく変化した証とも言える。
 
 なお、ガジ遺跡はクレタ島北海岸から内陸へ1km、イラクリオンの市街地から西方6kmの地点、高貴な邸
 宅遺構が残るティリッソス遺跡へのルートの途中の地区である。
 当初、1936年、農作業中の住民がやや小型の「ホールドアップ」の崇拝像二体を見付け、直後の発掘
 調査でさらに三体の像が出土した。左描画の「ケシの女神像(登録番号9305)」はその内の最も大型サ
 イズで高さ755mmである。
 ガジ地区の発掘ミッションでは、1950年代にガジ村より北側、エーゲ海岸のスカフィダラス Skafidharas 地
 区ではミノア文明後期の居住地遺構と隣接する墳墓が発掘され、石製容器や陶器製作の2基のろくろ
 が見つかっている。さらに1960年代には紀元前13世紀の複数のラルナックス陶棺が出土、内1基には三角
 の帆を張った舟が描かれていた。

 イラクリオン近郊ガジ遺跡出土・大型テラコッタ製の塑像・「ケシの女神像」
 紀元前12世紀/イラクリオン考古学博物館 登録番号9305 高さ775mm
 クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej

                        クレタ島へ侵攻して来たミケーネ人/ミノア文明の終焉

ミノア文明の終焉/侵攻ミケーネ人/エピローグ
  こうしてエーゲ海クレタ島では、かつて平和な精神と自然主義を特徴とした優美なミノア文明が、芸術性も技術レベルも低く、インパクトに欠ける「ミノア・ミケーネ融合様式」と呼べる少々異質な文化へと変わって行く。
それは同時に政治や行政だけでなく、農業や漁業から工芸の生産に至るクレタ島の経済活動のあらゆる分野もコントロールを失い、もはや穏やかにして誠実なミノア人が、社会の中心に存在していなかった証拠であろう。安穏で秩序あるクレタ・ミノアの豊かな成熟された社会が、乱雑と言える環境に激変したからに他ならないと考えて良いだろう。

クレタ島のみならず、遺跡からの出土例とエーゲ海域の周辺事情など色々な情報から判断するならば、クノッソス宮殿の崩壊の前後の時期には、エーゲ海ロードス島を含むキクラデス諸島と同様に、クレタ島もギリシア本土からやって来た好戦的なミケーネ人により占領支配されたはずである。
ミケーネ人によるクレタ島統治に関わる証拠として、ギリシア本土ミケーネ文明で使われていた3,000個を数える線文字Bスクリプトの粘土板が、クレタ島では「クノッソス宮殿遺跡に限り発見されている」、という決定的な事実がある。
この意味は紀元前1450年頃、本土から侵攻して来たミケーネ人により3か所の主要ミノア宮殿と各地の邸宅が破壊された。破壊せずに残した唯一のクノッソス宮殿を本拠として、紀元前1375年頃に宮殿が火災で崩壊するまで約75年の間、占領ミケーネ人は何としてもクレタ島を専制的にコントロールしようとしたのではないか?
軍事力で占領統治したこの75年間、そしてそれ以降のわずかな期間、辛うじてクレタ島の限定的統治を続けたミケーネ人は、敗者であるミノア人の線文字Aではなく、当然のことに、「自分達の言語」であるギリシア本土ミケーネ文明の線文字Bを使っていたと推測できる。その一部がクノッソス宮殿の大火災で硬質に変化して、粘土板という証拠品となって、3,400年間も宮殿遺構の中に残されてきたのである。
下の「馬車の線文字B粘土板」と呼ばれる長さ100mmの粘土板は、宮殿・西翼部一階の「聖域」の内部から発掘された。
                   線文字B粘土板/(C)legend ej
              クノッソス宮殿出土/線文字Bスクリプト粘土板/描画=Web管理者legend ej
        紀元前1450年頃以降のクレタ島占領ミケーネ人の文字/イラクリオン考古学博物館/登録番号1609
                  古代文明の記録である「線文字A」と「線文字B」の粘土板について

Ref.   エーゲ海の夏/雨が降らない最高の季節/ヨーロッパ人と日本人の観光事情/タベルナ食堂でのランチ
「エーゲ海/多島海」という響きの良い単語から連想するロマンティックな雰囲気だけではなく、ヨーロッパからのアクセスの容易性から、今やエーゲ海域で最大級のツーリスト・スポットになったクレタ島は、東西250km 南北は平均30kmほどの島である。また面積では日本の四国の半分以下(45%相当)、あるいは兵庫県とほぼ同じくらいである。
エーゲ海を含む地中海は、地質学的には500万年以上前に干上がった巨大な塩湖が在り、そこへジブラルタル海峡の狭い裂目から大西洋の海水が流れ込み現在の姿が形成されたことから、太平洋やインド洋などに比べ塩分濃度が比較的高い。
経験論では、特に陽光が強い夏、海水浴で海から上がった際、濡れた身体をバスタオルで素早く拭かないと速乾した皮膚は塩分でヒリヒリ炎症、頭髪には白い塩粉が残るほどである。海洋学のデータによれば、通常の海水塩分濃度・「鹹度35‰=3.5%前後(大西洋=3.3%)」に対して、エーゲ海は「鹹度39‰=3.9%」と高い塩分濃度を示している。
この東西に長いクレタ島の真夏6月〜9月の降水量は「月平均1mm以下」である。雨がまったく降らず、乾燥したエーゲ海の長〜い夏の季節、毎日が快晴でまどろみの午後、クレタ島を訪れるツーリストのほとんどが海岸での快適な長期リゾート滞在の合間に、考古学へのアカデミックな興味とバカンスの気分転換で必ず訪れるのがミノア文明の象徴たる「クノッソス宮殿遺跡」である。

クノッソス宮殿遺跡の最初の発掘者エヴァンズがイギリスの著名な考古学者であり、さらに近世ギリシアのオスマン・トルコ帝国からの独立運動など歴史的な関係の深さなどから、クノッソス宮殿を初めミノア文明遺跡が無数に点在するクレタ島は、伝統的にイギリス系の礼儀正しき中高年ツーリストが多いことでも知られている。
イギリスのみならず、ドイツやオランダなど年金制度が充実しているヨーロッパ先進国の余裕ある中高年達は、気に入った特定の場所を「人生の旅先」と決め、毎年その場所を訪ね、同じ宿泊施設に長期間滞在する傾向にある。公式データでは、ギリシアの人口約1,130万人/ギリシアを訪ねる海外ツーリストはヨーロッパ人を中心に年間約2,200万人(政府観光省2014年データ)となっている。

日本人に良くある訪ねた国の数や世界遺産の件数を自慢する人はヨーロッパには居ない。伝統的に「本物の旅行」を愛する多くのヨーロッパの人達は、訪ねた観光スポットの数には関心はなく、それぞれが「人生の旅先」に選んだ特定な場所に、何年前から、毎年どれだけ長期間の滞在を続けてきたか、これがある意味で「人生のプライド」となるからだ。ヨーロッパの多くの中高年達は、旅先で過ごすゆったりとした時間こそが、旅行の最も大切な基本条件と捉えている。
離れて点在する世界遺産を駆け足で巡る日本流の周遊ツアーのように、決して批判を言うのではないが、高級ホテルに宿泊、次の目的地への「東京⇒京都」に相当する500kmもの長距離を毎日バス移動する方法は体力的にも辛いし、とても経済的とは言えない。
結果、ツアーツーリストに評判の悪い、いわゆるバスから下車しない「20秒間の車窓見学」や「土産物店回り」を含め、メイン目的地での滞在時間は極端に短くなり、多くの観光地を巡ることが義務、常識化している日本流の旅行形態では、勢い日本人だからこそ対応できる過密なスケジュールに成り勝ちとなる。
癒されるはずの海外旅行に参加したほとんどの日本人ツーリストは、体力と気力を完全燃焼させて成田や関西空港へ帰国、荷物を受け取り、ゲートを出たその第一声は「ああ〜、海外旅行は疲れる・・・」となる。

個人的な旅行への取り組み方、国の歴史的な背景、風土と文化、社会の成熟度の違いだが、ヨーロッパの人達は夏の旅行を通じて日常生活で失った体力と気力を燃焼ではなく挽回して、全裸になり全身で地中海の陽光を浴び体内にビタミンDを蓄積させ、疲労ではなく秋以降のやる気モードにエンジンをかける。
何故ならば、ヨーロッパの人達にとっては、日頃離れて暮らす家族全員が祖母の家などに集まる年末のクリスマスには、夏の旅行でそれぞれが撮った写真やハプニングやエピソードを互いに披露し合うという大事な習慣があるからだ。
そのために彼らは遠距離に点在する急ぎ足の世界遺産巡りなどは、費用と時間を失うリスクが高いことからスケジュールに入れない。ヨーロッパの人達は長期滞在で大幅割引となる地中海やアドリア海の特定な島々、ガイドブックに載っていない地方リゾートの低料金の小ホテル、山間部の辺鄙な村にある素朴なペンション、嘘のような低料金ながら水道やシャワー・トイレなど設備の整ったキャンプ場などに宿泊する。物価の安いエーゲ海の沿岸の村や無数に浮かぶ無名の島々もその条件と希望をかなえる絶好の目的地になっている。

そういう場所では、海岸をゆっくりと散歩しながら孫達へのお土産となるきれいな貝殻や色小石を探す老夫婦、あるいはブドウ棚の木陰の素朴なカフェで冷たい飲み物をオーダーして、親族や親しい友人へ送る絵ハガキを何枚も書くブロンドの髪を若娘のようにポニーテールにまとめた北欧からの美しい中年婦人などを多々見かける。
スマートフォンやiPadタブレット画面をなぞって電子メールを送信するのは利便性に適う現代の必需手段だが、せっかくの旅先から送信するクールなデジタル信号では、時間をかけて手書きする絵ハガキに秘められた「旅情」を100%相手へ伝えることはできない。そうなのだ旅情とは単純な出来事の事実情報を言うのではなく、旅先の経験とゆったりとした時間がかもす普段は表現しない心の中の感覚なのだ。
ヨーロッパの人達は旅先の移動を最小限に抑え、その余った経費と自炊なども含め、徹底した倹約精神を発揮して3週間〜1か月間の長期滞在を可能にしている。旅行は急ぐものではないのだ。彼らの意識では、「旅行=日常経費(光熱費+食費)程度=長期滞在=ゆとり」であり、どれだけ低費用で、特に長い夏の旅行(滞在)をしたか、これがクリスマスで集う家族への自慢の腕の見せ所となる。

ギリシアを例に取れば、2000年代になり我が国の旅行会社もツアー企画に力を入れ、さらに2004年の「オリンピック・アテネ大会」が契機となり、「旅行=高額料金=短期・急ぎ足=疲労」が常識の日本からギリシアへのツーリストも年々増加の傾向にある。公式データによれば、ギリシアを訪ねる日本人ツーリスト年間10万人/海外へ向かう日本人ツーリスト年間1,600万人(大半はグアム・サイパン・ハワイを含むUS地域)となっている。
データはともかく、せっかく遠い日本から憧れの紺碧のエーゲ海ギリシアまで旅行にやって来たのですから、クレタ島のクノッソス宮殿遺跡を訪れましょう! しかし、多くの日本人ツーリストは長期滞在のヨーロッパ系中高年ツーリストとは異なり、興味旺盛なカナダ・カワウソや働き者のビーバーのように、「行きたいけれど、移動が多くて、フルスケジュールで時間がないので〜す」と力説する。
そうして、メテオラ奇岩修道院やデルフィ遺跡など、ギリシア国内の世界遺産を点と線で駆け足で巡り、感動のアクロポリスの丘のパルテノン神殿(下写真)に登り、旧市街プラカで定番のリズミカルな民俗ダンスを見ながら、串焼き肉グリル料理のスヴラキ・ミックスで食事を済ませ、翌日、急いで中東湾岸経由の帰国フライトに飛び乗ってしまう。
1週間〜10日間滞在しても、これでは最初に訪ねた有名な世界遺産の名前も帰国フライト機内で忘れてしまい、知ったかぶりしてギリシアの「何」を雄弁に語れるであろうか? どうもアルコールに弱くグラス2杯のクレタ・ワインで酔ってしまったようで、「ごめんなさい、ちょっと言い過ぎました!悪意はありませんから・・・」と謝りながら、私は日本人の得意な急ぎ足の旅行とヨーロッパの人達のゆとり旅行を比較する。

           アクロポリスの丘 夜景/(C)legend ej
                    フィロパッポスの丘から眺めるアテネ・アクロポリスの夜景/1972年
                 世界遺産/アテネ・アクロポリスの丘/パルテノン神殿/1970年代の情景
2009年にアクロポリスの丘の麓にNewアクロポリス博物館が建った以外、この感動的な眺めは私が初めてアテネを訪ねた遠く1970年代の初め頃からほとんど変わっていない。夏の夕方、丘全体のライトアップが始まる宵の頃、澄明された紺藍(こんあい)の空が夕焼けの茜色へ移ろうわずかな時間帯、アクロポリスの絶景の幕が開く。
古代ギリシア・女神アテナが与えたかの如く、白大理石のパルテノン神殿を初め、神域入口プロピュロンやニケの神殿などが、夕焼けの空に反射して淡いピンク色〜赤紫色〜黄金色(上写真)へと変わり無類の輝きを放す。例え急ぎ足ツーリストであっても、夏の宵、刻々と変化するこのアクロポリスの圧倒される魔術的光景を眺めることなくギリシアを去ったなら、自慢すべき「エーゲ海の物語」を絵日記ブログへアップできない。

大衆食堂「タヴェルナ TABEPNA」
まあ、国民性と予算と時間の都合もあるので各自の旅行内容には一切干渉しませんが、特に真夏の時期にギリシアへやって来たら、ともかくも、「大衆食堂」を意味するタヴェルナの野外テーブルに席を取りましょう! 背が黄色、背文字タイトルが赤色、日本が誇るガイドブック≪地球の・・・≫に記載された推奨レストランでも問題はないのですが、だまされた積もりで「大衆食堂タヴェルナ TABEPNA」の看板の店を選択しましょう! ※ギリシア語・「TABEPNA」のP=英語Rであり、“タヴェルナ”と発音する。
ランチ時、眩しいエーゲ海の夏の陽光、誠実そうな夫人や夏休みでアルバイトの笑顔の女子高校生がウェイトレス。枝葉を広げたプラタナスの大木やブドウ棚がつくる木陰に古めかしいテーブルがセットされ、淡いピンクやブルーのチェック柄のビニール製の簡易テーブルクロス。良いではありませんか、味が勝負のタヴェルナ食堂なのですから、プレスの効いた真っ白なリンネル・テーブルクロスでなくとも。

ここでは刺身やざるソバなど日本食の誘惑からサヨーナラ。当然の事、冷たいトコロテンや宇治金時のカキ氷もメニューにありません!
紺碧の海を見渡せるタヴェルナ食堂では、地元産の美味なテーブルワイン、新鮮な小エビやイカの唐揚げ(カラマラーキア)に岩塩とたっぷりレモンを搾り、ガーリック味のムール貝(夏ガキもあり)、串焼きの羊肉スヴラキ、あるいはオーブンで焼いた分厚いムサカを小指を立てずに優雅に口へ運び、オリーブ油とビネガーを効かしフェタチーズをトッピングしたグリーク・サラダをオーダーしましょう!
時折見かけるアルミ箔に包んだ「紀州の梅干」を自慢げにバッグから取り出す行為は、体力消耗の長野八ヶ岳トレッキングにはぜひとも必要ですが、エーゲ海ではまったく絵にならないので「ブー 禁止!」です。地中海の乾いた国では、特産のオリーブ漬けと美味しいピクルスがスタンダードなサイドディッシュなのです。

エーゲ海ミニクルージング
その上でアテネ滞在なら、何が何でも理屈なしに絶対にスケジュールに組み込みたい有名な「サロニコス湾1日クルージング」。下項の「アテネ滞在の定番/ギリシア現地オプショナルツアー」でも記しているが、クルージングの内容からしても料金はかなり割安。ギリシアを訪れる日本人ツアーツーリストに最も人気が高く、定員800人のクルーズ船(左下の小写真)、乗客の半分は個人旅行者も含め日本からの観光客で独占状態となっている。
送迎バスの市内ホテル・ピックアップ時刻が早朝6時〜7時過ぎなのは少々辛いが、1日でエーゲ海クルーズの感覚は十二分に満喫できる。何しろ、寄港するアエギナ島・イドラ島・ポロス島(下作図・下写真)の三つの島でのワクワクの下船観光ができるのである。たとえカナダ・ビーバーのように多忙な人でも、特に夏の時期の胸躍る「サロニコス湾1日クルージング」を旅行プランから外したなら、憧れのギリシア旅行は成立しないでしょう!

           アルゴス地方・ミケーネ文明遺跡 地図/(C)legend ej
             アルゴス地方・ミケーネ文明遺跡/サロニコス湾クルージング/作図=Web管理者legend ej

           イドラ島/(C)legend ej
                          「1日クルージング」/イドラの港/サロニコス諸島

ギリシア夏・ミニクルージング 「サロニコス湾1日クルージング
 定員800人の船の甲板デッキはエーゲ海の風を求めるクルーズツーリストで満杯
 運行船会社(所在地:アテネ)Hydraiki Naval Co.
 アテネ市内の約200軒ホテル・シャトルバス・ピックアップ時刻・食事・パーティ情報など
 個人ツーリスト乗船予約=下記の「現地ツアー日本語予約」が簡単・便利・割安

海外現地ツアー予約【VELTRA】ギリシア 世界113か国・15,150コース/最低価格保障・出発前予約・日本¥決済・1人申込OK
クレタ島・イラクリオン発/クノッソス宮殿遺跡〜イラクリオン旧市街散策〜古代劇場パフォマンス観賞・送迎半日/E59
クレタ島・イラクリオン発/サントリーニ島・日帰り・送迎/E164      サントリーニ島発・周辺火山島めぐり&イア地区夕日/E38
アテネ発・日本語/古代遺跡巡り(ミケーネ遺跡〜ナフリオン〜エピダヴロス遺跡〜コリント運河)・送迎&昼食1日/E170
アテネ発【ギリシア定番】サロニコス湾1日クルーズ(アエギナ島〜イドラ島・ポロス島)・送迎&昼食1日/E86
アテネ発【人気の世界遺産ツアー】メテオラ奇岩修道院(列車&タクシー)・1日/E100

心に刻む遥かなる「時」/遺跡のトカゲ達
  紀元前12世紀になるとギリシア本土ミケーネ文明の諸宮殿が次々に破壊され、事実上、ミケーネ文明は崩壊を迎え、ミケーネ人のエーゲ海の支配力も衰え始め、それにシンクロナイズするかのように、占領ミケーネ人のクレタ島統治と統制力も急激に弱体化する。
ここにおいて、初期ミノア文化から2,000年間も続いたクレタ島のミノア文明は、復活のためのエネルギーを完全に失ってしまう。こうして繁栄の文明を生んだ故郷である真っ青なエーゲ海へ溶け込むように、クレタ島ミノア人は徐々に歴史から消え去り、伝説の世界へ籍が移されて行く ・・・

先史の時代では、自然災害による場合もあるが、文明の終焉の多くは当事者内部の混乱や崩壊などではなく、異民族の武力による攻撃が要因となって、呆気なくしかも瞬間的に終わりを迎えてしまう。
いずれにしても、今から3,400年程前の紀元前1375年頃、大火災によりその輝かしいミノア文明の主演の役目を終えたクノッソス宮殿は、建築構造的に「迷宮」であると同時に、現代人の想像力をかき立てる伝説も含め、聖なる遺産の凝縮した複雑で大規模な遺跡である。残念ながら、100年前にクノッソス宮殿を発掘したエヴァンズによるコンクリート製の「復元・複製」の区画が在るにしても、クレタ島で最も魅力ある心に刻む遥かなる「時」を示す場所と言えるだろう。
3,400年の昔、確かにクノッソスの大宮殿とクノッソスの街・「ko-no-so(コノソ)」は崩壊してしまった。しかし、今この壮大な宮殿遺跡を訪ねる時、誰しもが出会う遺構の上で静かに佇むクールな顔付きの「遺跡のトカゲ達」が、数千年間の遥かなる「時」を生きて来た精悍にして温厚なミノアの王や美しき王妃、あるいは海を愛した穏やかなミノアの人々の化身となって、宮殿遺跡見学のツーリストを迎えている ・・・
                   遺跡のトカゲ
                 ミノア王妃の化身か? 古代遺跡なら何処でも出会うギリシアの「遺跡のトカゲ」

参考だが、私が1970年代〜80年代のギリシアの地方を旅していた頃、ギリシアは軍事体制下であり、私を含め、ヨーロッパからの貧乏なツーリストは「旅行」ではなく、「旅」をする時代であった。例えば、路線バスに乗車する場合、出発前にドライバーと車掌は、乗客の荷物、多くはバックパック類をルーフに乗せる作業から初め、30分くらいかけて全員の荷物を乗せ終わる。これでもバスがスピードを出せないので、荷物が落ちることは「まれ」、時折自分の荷物が落下するのは「運が悪い乗客」である。
ルーフに載せた自分の荷物が無事に目的地に着くか、心配をするようでは「旅」はできない。バスのエンジントラブルは当たり前、運行時間など「未定」、これが「旅」というものだ。だから、ワクワクするほど面白いのである。当然、今日のギリシアは地中海域でトップクラスの人気観光地であり、路線バスや長距離バスはエアコンやトイレ完備のモダンタイプとなっている。

1970〜80年代・ギリシア路線バス/(C)legend ej 1970〜80年代・ギリシア路線バス/(C)legend ej
                 1970年代〜80年代/屋根に荷物を満載したギリシア乗合バスの典型例

Ref.   ドイツ人シュリーマンの発掘とその信憑性・評価
ネットに氾濫している日本語の知ったがぶりの絵日記ブログ情報では、語学の天才で有名なドイツ人の実業家シュリーマン Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann は、自身の生き方や武勇伝的な物語性もあり、ギリシア本土ミケーネ宮殿やティリンス宮殿遺跡オルコメノス遺跡、トルコ西海岸トロイ遺跡などの発掘に関しては「輝かしい功績を残した」と非常に高い評価を得ている。
しかし、考古学的な立場からすると、アカデミックな方法ではなく、近世という時代的な背景もあり、やむを得なかった社会的な状況も考慮されるべきであるが、シュリーマンは「武器商人」で得た財力にもの言わせた「宝探しの発掘」を押し進めたのは事実であった。特にトルコ西海岸地方に残る有名なトロイ遺跡の発掘では、メチャクチャな発掘結果としての遺構だけが残されている。

古代遺跡の発掘では、現場を一旦発掘した場合、見つかった遺構が地中に残された時代と状態へ戻すことは絶対に不可能となる。発掘レポートの必要性と信憑性を重要視しないで金銀財宝を捜し求める発掘者は、単純な「遺跡荒らし」であり、古代文明の解明に「輝かしい功績を残した」とは到底言えない。
考古学では金銀財宝を掘り出した実績が同時に「輝かしい功績」と評価されるわけではない。古代の遺跡を発掘して、そこに流れる文化と背景を深く追求する学問としての考古学では、金銀財宝の出土品も当然重要な要素であることは否定しないが、さらに重要なことは発掘作業のプロセスと正確な記録、その後に時間をかけて行う科学的で精緻な発掘品と現場サイトの分析とリンク解明である。

世界遺産となった有名なトルコ・トロイ遺跡の発掘では、現場の「絵」を少々残しただけ、列強国のやり方で発掘品を「お宝」として、本国ドイツへすべて持ち去ってしまったことから、シュリーマンに関しては現地トルコのみならず、欧米の研究者の間でも決して高い考古学的評価を聞くことはない。
19世紀後半、当時、かなりの研究者の間では、トロイ遺跡でもギリシア本土ミケーネ遺跡の発掘でも、シュリーマンは職人に偽造・捏造を依頼して発掘品の一部を作らせ、「予め埋めて置いた」と批判された。「宝探し」の傾向が強かった実業家シュリーマンは、当局から許可が出る前に発掘を始めたり、発掘方法だけでなく、財力で本国プロセン・ドイツの高官を動かし、許可もなく発掘品を密かに本国へ輸送(密輸)するなど、強引な行動と独断的な考えに常に疑惑が向けられていた。
世間をアッと言わせるような古代遺物が次々に出土する「目だちたがり屋」のシュリーマンが発掘する現場には、名誉と名声に傾倒するシュリーマンの人格と発掘の信憑性さえも疑った、トルコやギリシアの政府から監視役の考古学専門官が派遣される状態であった。

また、伝記的な物語に良くあることだが、人々が信じて止まないシュリーマンの自叙伝の「子供の頃から信じていたギリシア神話」という美しい話は、実は実業家として成功したシュリーマンが、後に自身の人生を感動的に装飾するために考えた「作り話」であったことは、今や本国ドイツ人なら誰でも知っている。
ただしシュリーマンは莫大な財力を以って、エーゲ海文明遺跡の発掘と「宝探し」に異常なほどの情熱を注ぎ、盗掘者に等しいやり方ではあったが、結果として考古学の研究者としてではなく、「考古学者」として重要な遺跡を次々に発掘して、多くの宝飾品などの「お宝」を探し出したのは事実であるが・・・
そして、ベルリンで保管していたシュリーマンがトロイ遺跡で発掘した「お宝」のほとんどは、1945年、第二次大戦後の混乱の中、今度はベルリンへ攻め込んだソヴィエト赤軍(ロシア)が軍用列車に積み込み、モスクワへ持ち去っている。
パワーある国は見えない場所で強引に「お宝」の奪い合いを平然と行っている。これが世界の歴史の裏舞台である。宝飾品の元々の所有者であった4,200年前のエーゲ海文明トロイ王国・「第2市」を治めた王は、今頃、さぞかしお嘆きになっているはずである;

「私が使っていた優美な金の儀式カップ(下写真)は今何処にあるのか・・・? 何?カップはトロイの町にない。それではイスタンブールか?
エッ、ドイツのベルリン、なな!何と!今はロシアのモスクワにあるのか、何ゆえにそんな遠方に・・・」


               シュリーマンがトロイ都市遺跡で発掘した儀式用の金製カップや金製宝飾品

         写真情報: ドイツ・ベルリン新博物館(先史・古代史博物館)              写真情報: Wikipediaページ
       トロイ遺跡出土/釣鐘型金製カップ/高さ89mm          発掘品を身に付けたシュリーマンの妻ソフィア
           複製=ベルリン登録番号579                  金製の宝飾品は1945年にロシアへ持ち去られた
           現物=ロシア・プーシキン美術館保管                   写真情報: Wikipediaページ
   写真情報: ベルリン新博物館(先史・古代史博物館)公式

シュリーマン関連遺跡: ギリシア中部地方/オルコメノス・トロス式墳墓遺跡とグーラ塁壁遺跡
               世界遺産/トルコ西海岸・「トロイ戦争」の舞台のトロイ都市遺跡

ホームページ ⇒ このページ・トップへ