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古代エーゲ海ミノア文明のクノッソス宮殿崩壊の原因は?

MIN


ミノア文明/クノッソス宮殿の崩壊/幾らかの説/フィラ島の大爆発と大津波

クノッソス宮殿崩壊/原因はエーゲ海・フィラ島の爆発か?
  幾らかの説では、クレタ島ミノア文明のクノッソス宮殿(下写真)の崩壊の原因は、「アトランティス物語」のエーゲ海フィラ島、現在のサントリーニ島の大爆発による地震や大津波などの結果とされている。先史の「物語」としてはたいへんと興味深いが、サイエンスである考古学の見識では、この大爆発によるクノッソス宮殿の終焉は「時間的には起り得ない」と言えるだろう。
何故ならば、フィラ島の中心部にそそり立っていた活火山が、地球的な規模の大爆発を起こしたのは紀元前1500年前後であり、それはクノッソス宮殿が崩壊した時期より、おおよそ125年以上も「前に起こった出来事」であった。

            クノッソス宮殿・北入口/(C)legend ej
                       クノッソス宮殿遺跡・北入口付近/クレタ島/1982年

クノッソス宮殿遺跡の詳細;
A-KDP クレタ島ミノア文明 クノッソス宮殿遺跡

フィラ島の最後の文化は?
  フィラ島の爆発による大津波が、たとえどのような高さで押し寄せても、クレタ島北海岸から6kmも内陸の標高100mの丘状の場所に建つクノッソス宮殿までは、どう考えても、海の神ポセイドンの後押しがあって、物理的にも到達できなかったはずである。
しかも、火山爆発の現地フィラ島、現在のサントリーニ島の最も新しい地層からの発掘では、フレスコ画を除き紀元前1550年〜前1500年に属する陶器類(下写真)だけが発見されている。要するに発見された陶器類は、火山噴火の直前の陶器であり、それはフィラ島の「最後の文化」を意味している。

            アクロティーリ遺跡/(C)legend ej
                     サントリーニ島・アクロティーリ遺跡・残されていた陶器類/1982年
                     エーゲ海サントリーニ島のアクロティーリ遺跡

発掘ミッションにより明らかになったことだが、不思議なことに火山灰と軽石に埋もれたフィラ島のアクロティーリ遺跡からは、島が完全に吹き飛んだ大爆発があったにもかかわらず、貴重な宝飾品を初め、人間の遺体さえも発見されていない。残されているのは、居住地の建物群、部屋内部のフレスコ画、そして大量の大型の陶器類だけであった。
このことは、フィラ島の中心部にそびえていた火山、おそらくは北海道・利尻島の標高1,721m利尻岳に似て、海岸からそびえ立つ標高の高い火山が、ある日、大爆発を起こしたのは「突然」の出来事ではなく、爆発まで、例えば1か月とかの「予兆期間」があったのではないか?
かなり前から始まった強い余震などから、「火の神」の住む火山の爆発を予知したフィラ島の住民は、その限られた猶予期間の中で、全員が宝飾品を携えて舟でほかの島へ避難してしまったのではないか? 北方へ18kmのイオス島 Ios とか、北西のシキノス島 Sikinos へは30km、あるいは東方へ20kmのアナフィ島 Anafi など、決してフィラ島から遠くに離れた距離ではなく、古代の舟で十分い避難できる距離の水平線にかすかに見える島々である。

クレタ島最東端/ミノア文明/ザクロス宮殿遺跡の軽石/パライカストロ(パレカストロ)遺跡

火山性軽石の存在
  クレタ島の最東端に残るザクロス宮殿遺跡に隣接する町遺跡で発見された大量の軽石が、フィラ島の大爆発で発生した大津波で流されて来たとしても、軽石が発見された場所は海岸からたった200mの近距離、しかも標高20mほどの低地であった。軽石がフィラ島からの大津波で陸地の奥まで運ばれたなら、ザクロス宮殿遺跡以外でも発見されるはずであるが、クレタ島のほの場所からの軽石は現在までのところ見つかっていない。
フィラ島の火山爆発と地震による津波が発生した事実は間違いない。しかし、おそらく津波は数m前後の高さ、その被害は、有ったとしてもフィラ島から南方へ120km離れたクレタ島の北海岸沿いの集落や標高の低い農耕地をわずかにのみ込んだ程度であった、と推測できる。

さらにザクロス宮殿遺跡から直線で北方へ12km、やはりクレタ島の最東端で繁栄したミノア文明のパライカストロ(パレカストロ)の町遺跡がある(下写真)。この遺跡は海岸から200m、標高では5m、より高くとも10mにも満たない平地である。
また、古代にはエーゲ海へ突き出た半島であったが、現在、小島となったモクロス遺跡(下写真)に例を見るように、ミノア文明の時代以降、クレタ島の東部地区では地質学的な地盤沈下が進行している。
データによれば、過去3,500年間で2m〜2.5mほど沈下したとされる。この地盤変化を最大限に考慮したとしても、パライカストロの町は海水面レベルから、せいぜい10m前後の低い標高であったと考えられる。

            クレタ島・東部・ミノア文明遺跡 地図Minoan Archaeological Sites, Crete/(C)legend ej
                     クレタ島・東部・ミノア文明遺跡/作図=Web管理者legend ej

            ミノア文明・モクロス遺跡(島)/(C)legend ej
                    エーゲ海に浮かぶモクロス島/共同墳墓遺跡/クレタ島/1982年

クレタ島/モクロス遺跡(上写真)・パライカストロ遺跡(下写真)の詳細情報: MIN

ミノア文明・パライカストロ遺跡/(C)legend ej
                  パライカストロ(パレカストロ)町遺跡・「邸宅N」/クレタ島/1982年

パライカストロ町遺跡の発掘ミッションは、1902年以来、イギリス考古学チームが行っている。発掘レポートでは、遺跡の最終的な終焉は、フィラ島の火山爆発があった紀元前1500年頃ではなく、それより50年ほど後の紀元前1450年頃となっている。
このパライカストロ遺跡の発掘ミッションでは、街の邸宅も無数の庶民の住宅も、複雑に交わる通りや路地さえも、大津波などで破壊された壊滅的な状態ではなく、ほとんど無傷に近い通常の文明遺構として住宅の壁面や舗装道路、陶器の焼き釜や無数の陶器類なども発掘されている。
パライカストの町はザクロス宮殿と同じクレタ島の最東端に位置しており、しかもザクロス宮殿より北方、距離的にフィラ島により近く、海面とほぼ同じレベルにあったことから、もし「大津波」が発生したのなら、被害はかなり大きかったはずなのだが、この町遺跡の発掘ではその津波の痕跡は確認されていない。

「火山爆発・地震=即大津波」の考え方は、大地震と大津波の経験国である日本的な即断発想だが、考古学的な検証からの推測では、紀元前1500年頃のフィラ島の大爆発は、それほど大きな津波を引き起こさなかったはずである。
有り得ないが、もしも、強引に「アトランティス物語」を信じる人の言う大津波が発生したとしても、現在見ることのできるフィラ島(サントリーニ島)の「コの字形」の西方に開いた島地形からすれば、津波はフィラ島からギリシア本土ペロポネソス半島など、真西の方角へ進んだと考えられる。クノッソス宮殿などクレタ島の主要宮殿と町遺跡は、フィラ島から真南〜南南東の方角にあり、津波による大きな被害を受け易い位置関係とは言えない。

クレタ島ミノア文明の主要宮殿の崩壊/フィラ島の大地震/その時期と同時性

ミノアの主要宮殿の崩壊
  フィラ島の火山爆発に伴う大地震によって、クレタ島の複数の宮殿クラスの建物に致命的な被害があった、とする説もある。ただ、これらのミノア宮殿がまったくの同時期に、一斉に崩壊したとする考古学的な発掘の証拠もない。
クノッソス宮殿を除く、フェストス(ファイストス)宮殿(下描画)やマーリア宮殿(下写真)、ザクロス宮殿の3か所の主要宮殿と多くの高貴な邸宅、そして繁栄していたミノア人の町などは、紀元前1500年頃のフィラ島の火山爆発より50年程度後の紀元前1450年頃、まったくの同時ではなく、若干のタイムラグをもって次々に破壊され、その多くは火災で焼け落ちている。

これらのミノア主要宮殿の破壊と崩壊の原因は、単純に考えられる大地震やその結果の大津波などの一過性で単発の自然災害ではなく、かなりの確率で1年〜数年程度の時間差のある連続的な「人による破壊行為」であった、と考える方がより妥当であろう。

            クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡/(C)legend ej
                  クレタ島・ミノア文明・4か所の宮殿遺跡/作図=Web管理者legend ej

フェストス(ファイストス)宮殿・大階段 Phaestos Palace, Crete/(C)legend ej
         フェストス宮殿遺跡・大階段と周辺区画/クレタ島
         右下端=西中庭&旧宮殿時代の遺構/右奥=中央中庭/大階段の上部=大広間
         1982年/描画=Web管理者legend ej  クレタ島メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿遺跡

       ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Pillar Crypt, Malia Palace/(C)legend ej
       マーリア宮殿遺跡/西翼部・支柱礼拝室周辺/クレタ島/1982年/描画=Web管理者legend ej
       クノッソス宮殿遺跡・支柱礼拝室に類似/中央の角柱・最下段&二段目=「両刃斧」の記号あり
       クレタ島ミノア文明のマーリア宮殿遺跡/アムニッソス邸宅遺跡/ニロウ・カーニ邸宅遺跡

また、フィラ島の大爆発の火山灰がエーゲ海全域に降りそそぎ、以降10年とか20年間とかの長い期間、クレタ島でも農作物の収穫ができなくなり、その結果人々は島を去り、文明が衰退していった、とする納得し易い一般論的な説もある。
しかし、エーゲ海の広範囲の海底調査を行ったアメリカ研究チームのレポートでは、爆発時の風向きは冬の時期の北西からの風、海底に積もった火山灰はフィラ島の南方に位置するクレタ島ではなく、フィラ島から南東の方角、ドデカネス諸島に属する細長いカルパトス島とカソス島は含むが、島々のほとんど無いエーゲ海域に拡散されたとされている。

フィラ島の大爆発が、地球規模の、それほどの大爆発ならば、クレタ島のみならず、寒い冬の北西からの風向きからして、むしろカルパトス島の北東に位置するロードス島を初め、さらに東方のキプロス島、あるいは中東諸国やエジプトなどの地域が、より火山灰の飛来被害を受けたはずである。しかし、ドデカネス諸島や中東地区の発掘調査では、大量の火山灰などの存在を最もらしく証明している考古学的な証拠はない。

クレタ島ミノア主要宮殿の破壊と崩壊/ギリシア本土ミケーネ人の攻撃か?

ミケーネ人のクレタ島侵攻/クノッソス宮殿崩壊の時期
  紀元前1500年より以前からギリシア本土ミケーネ人はエーゲ海キクラデス諸島へ進出しており、強い戦力を持つこの好戦的なミケーネ人(右下写真・兵士の絵柄)が、紀元前1450年頃、クレタ島のほとんどの宮殿と邸宅などの主要センターを波状的な攻撃で破壊したとしても不思議ではない。ギリシア本土のミケーネ人の本拠地はアルゴル地方のミケーネ宮殿である(下作図・下写真)

宮殿時代 区分
●旧宮殿時代: 中期ミノア文明T期〜中期ミノア文明U期    紀元前1900年〜前1625年頃
●新宮殿時代: 中期ミノア文明V期〜後期ミノア文明VA1期  紀元前1625年〜前1375年頃  現存クノッソス宮殿遺跡


            ペロポネソス地方・ミケーネ文明・宮殿遺跡/(C)legend ej
                 ペロポネソス地方・ミケーネ文明・宮殿遺跡/作図=Web管理者legend ej

            ミケーネ宮殿遺跡・メガロン形式/(C)legend ej
             ミケーネ宮殿遺跡・メガロン形式による三部屋続きの配置/アルゴス地方/1982年
             世界遺産/ギリシア本土ミノア文明のミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓・「アトレウスの宝庫」

クノッソス宮殿を含めて、卓越した海洋性デザインに象徴される絵柄の陶器(左下写真)など、自然を尊び平和主義のミノア文明のすべての宮殿には、王の住む宮殿なのに城門もなく、敵からの防御の堅固な城壁もなく、軍事力もほとんど皆無であったことから、「戦いこそ全て」の好戦的なミケーネ人(右下写真)からすれば、攻撃と破壊行為は極めて容易なことであったはずだ。

ミノア文明・海洋性デザイン様式陶器/(C)legend ej     ミケーネ文明・「ミケーネ兵士の絵柄」/(C)legend ej
ザクロス宮殿遺跡・海洋性デザイン・アンフォラ型容器       ミケーネ宮殿遺跡・「兵士の絵柄」・クラテール型容器(拡大)
タコのモチーフ/ミノア陶器の自然主義的な絵柄          戦闘用衣装と武器を携えた兵士/好戦的なミケーネ人
イラクリオン考古学博物館/登録番号13985/1994年   アテネ国立考古学博物館/1987年
クレタ島東端のミノア文明のザクロス宮殿遺跡           ミケーネ文明の展示品/アテネ国立考古学博物館

紀元前1450年頃、フェストス(ファイストス)宮殿、マーリア宮殿、そしてザクロス宮殿の3か所の宮殿は破壊された。しかし、ミノア中央政府のクノッソス宮殿だけは、その後の「侵攻ミケーネ人」によるクレタ島統治の本拠地として必要であり、紀元前1450年頃の時点では部分的な破壊はあったにせよ、ほかのローカル諸宮殿とは異なり、クノッソス宮殿の完全破壊はなかったと考えられる。

その後、紀元前1375年頃に発生した大火災により、クノッソス宮殿は最終的に崩壊する。多くの宮殿と邸宅などが破壊された後のこの75年程の期間、新しい統治者となった「占領ミケーネ人」が、クレタ島で唯一残されたクノッソス宮殿から、島全体の支配権を行使し続けたと推量できる。

ミノア文明の線文字A/ミケーネ文明の線文字B

ミノア人の線文字A/ミケーネ人の線文字B
  「侵攻ミケーネ人」によるクレタ島攻撃を裏付けるのは、ギリシア本土ミケーネ文明で使われた線文字Bスクリプトで刻まれた大量の粘土板が、クノッソス宮殿遺跡から発見されていることである。この線文字Bスクリプトの粘土板が作成された時期については、発見された粘土板の焦げ跡からして、紀元前1375年頃のクノッソス宮殿崩壊時の大火災による高熱の結果と見るべきである。

クレタ島のミノア文明では、(クノッソス宮殿は破壊を免れたが)メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿や北海岸のマーリア宮殿、東端のザクロス宮殿の3か所の主要宮殿と多くの邸宅、ミノアの町が相次いで崩壊する紀元前1450年頃までは、現在でも未解読である線文字Aスクリプトの「ミノア文字」が使われていた(下描画)。
にもかかわらず、主要宮殿と邸宅などが崩壊した紀元前1450年以降、クノッソス宮殿が崩壊する紀元前1375年頃までの約75年間ほど、クノッソス宮殿の統治者はギリシア本土ミケーネ文明の線文字Bスクリプトを使った粘土板で国レベルの色々な記録作業を行っていたと判断できる。

クレタ島の線文字Bスクリプトの粘土板は、クノッソス宮殿遺跡以外からの出土例はない。このことは紀元前1450年〜前1375年頃まで、文字として線文字Bはクノッソス宮殿以外では使われていなかった。と言うより、すでに紀元前1375年頃には、ほかの主要宮殿や邸宅などが焼け落ちて「存在」していなかったことを意味しているだろう。
クノッソス宮殿遺跡から出土した3,000点とされる、紀元前1375年頃の線文字Bスクリプトの粘土板には、誰が見ても分かる2輪戦車(下描画)や軍馬などの好戦的な絵柄の刻みが確認できる。文明の性格上からも、これらは軍事力を最優先させ戦いでエーゲ海域の支配権を手中に収め、ギリシア本土から侵攻して来たミケーネ人による「記録」と判断できる。

線文字Aと線文字Bスクリプト粘土板/フェストス宮殿の円盤/パピルス

            ミノア文明・線文字A粘土板/(C)legend ej
            マーリア遺跡出土・線文字Aスクリプト粘土板/紀元前1700年頃のミノア文明の文字
            イラクリオン考古学博物館/1994年/描画=Web管理者legend ej

            クノッソス宮殿遺跡出土・線文字Bスクリプト粘土版 Linear B, Knossos/(C)legend ej
                     クノッソス宮殿出土・線文字Bスクリプト粘土板
                     紀元前1450年頃以降のクレタ島占領ミケーネ人の文字
                     イラクリオン考古学博物館/登録番号1609/長さ100mm
                     1982年/描画=Web管理者legend ej

紀元前1450年以降/文明の激変/陶器の形容と絵柄モチーフの変化

陶器形式の急激な変化
  ミノア文明の3か所の主要宮殿であるフェストス(ファイストス)宮殿とマーリア宮殿、ザクロス宮殿、エーゲ海岸のニロウ・カーニ(下写真)や南岸のミルトス・ピルゴスなど、各地の豪華な邸宅が崩壊した紀元前1450年以降、文化を顕著に反映するクレタ島生産の陶器の形容と絵柄モチーフに極端な変化が現れている。

            ミノア文明・ニロウ・カーニ遺跡/C)legend ej
             ニロウ・カーニ邸宅遺跡・中央通路/クレタ島/1982年
             クレタ島ミノア文明のマーリア宮殿遺跡/アムニッソス邸宅遺跡/ニロウ・カーニ邸宅遺跡

            クレタ島・中央北部・ミノア文明遺跡 地図/(C)legend ej
                   クレタ島・中央北部・ミノア文明遺跡/作図=Web管理者legend ej

ミノア文明・鐙型(あぶみ)様式陶器 Minoan Pottery, Stirrup Style/(C)legend ej      ミノア文明・宮殿様式陶器 Minoan Pottery, Palace Style/(C)legend ej
パライカストロ遺跡出土/海洋性デザイン鐙(あぶみ)型容器     クノッソス宮殿遺跡出土/宮殿様式アンフォラ型容器
イラクリオン考古学博物館/登録番号3383/高さ280mm      イラクリオン考古学博物館/登録番号3882
クレタ島/1982年                                クレタ島/1982年

特に今まで魚や貝や海草など、海洋性デザインや草花の自然物をモチーフにしてきたクレタ島のミノア陶器の絵柄が(上写真)、すでにギリシア本土で流行していた脚ステムの長いキリックス杯(左下描画)を初め、抽象化されたデザイン(右下描画)、好戦的なミケーネ人を象徴する兵士姿、武具、戦闘シーンの絵柄(上述・兵士の絵柄)へと急速に変化して行く。
この劇的な変化は、この時期、紀元前1450年以降、すでにクレタ島では王の住む宮殿でありながら城壁を設けず、自然と平和を愛した「純粋なクレタ・ミノア人」の存在は消滅して、陶器の形容とモチーフに象徴される好戦的な「ミケーネ人の社会」が成立していたことを意味しているだろう。

    ミケーネ文明・キリックス杯 Mycenaean Kilyx/(C)legend ej     ミノア文明・アンフォラ系クラテール型容器 Minoan Krater/(C)legend ej
    ミケーネ文明・マルコポウロ遺跡出土・キリックス杯          クレタ島出土・抽象化された絵柄のアンフォラ系容器
    アテネ国立考古学博物館/登録番号3740           クレタ島イラクリオン考古学博物館/ミノア文明末期
    1982年/描画=Web管理者legend ej            1994年/描画=Web管理者legend ej

クレタ島ミノア文明の主な陶器様式の変遷と特徴
ギリシア本土のミケーネ文明の主な陶器様式の変遷と特徴      

紀元前1375年頃/クノッソス宮殿の大火災と崩壊/ミノア文明の終焉

クノッソス宮殿の大火災
  そうして紀元前1375年頃、最終的に宮殿の放棄も含め予想もできない何かの重大な理由からか、または宮殿付属のキッチン担当者の単純な火の不始末とか、「奴隷」クラスになってしまったかつての統治者ミノア人による「占領ミケーネ人」に対する最後の反乱か、あるいは祈祷中の神官が誤って倒した石製ランプが出火原因となったか・・・何れかの原因でクノッソス宮殿は大火災を起こし完全に焼失して、純粋なミノア文明はここに終焉してしまう。

今から約100年前に行われたイギリスの考古学者サー・アーサー・エヴァンズによる4年間のクノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションでは、崩れた建物の隙間などから人々の遺体がまったく発見されていない。
このことから推測できることは、クノッソス宮殿の崩壊は、間違いなく、建物倒壊で生き埋めの確率が高い突発的で一過性の地震ではなく、宮殿スタッフなどが安全に外部へ逃げることが可能な昼間に発生した何らかの火災が原因であり、延焼した火炎で宮殿全体が燃え尽き、ミノア文明崩壊に至ったと言えるだろう。

クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫付近・焼け跡/(C)legend ej クノッソス宮殿の多くの区画では、壁面や石柱の南側がより焼け焦げの
 度合いが強く。この意味は南方のアフリカ・サハラ砂漠方面から吹き付け
 た「春」の乾いた強風に煽られた結果と考えられる。
 消火の手を尽くせぬまま、クノッソスの大宮殿はおそらくは1週間、あるい
 は10日間以上も炎上し続け、その火柱は発掘者エヴァンズが復元・複
 製した宮殿石柱の朱色の塗装色よりも明るく、フレスコ画・「女神パリジ
 ェンヌ」の情熱的なルージュと同じくらい、クレタの夜空を真っ赤に染め上
 げたはずである。

 宮殿の西翼部1階に配置された貯蔵庫群のオリーブ油の大量貯蔵が
 裏目に出て、宮殿が最終崩壊する時、油が火力を一層増幅させたと
 考えられる。
 特に20室を数える宮殿付属の貯蔵庫の区画やその近くの西正面部
 (西中庭に面する外壁面)などには、大火災の後3,400年の経過
 があっても、今でも激しいオリーブ油の火炎で真っ黒な極端に焼け焦げ
 た痕跡を確認できる(左写真)。


 クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫/火災焼け跡(壁面・床面)
 クレタ島/1982年(現在=立入禁止区域)
 クレタ島ミノア文明のクノッソス宮殿遺跡と出土品



クノッソス宮殿遺跡の詳細;
A-KDP クレタ島ミノア文明 クノッソス宮殿遺跡

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