旅人 legend ej の世界紀行・心に刻む遥かなる「時」

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中世ヨーロッパのキリスト教世界/クリュニー修族(クリュニー会)とシトー修道会

聖ベルナールとクレルヴォー大修道院/「プロヴァンス三姉妹」


中世ヨーロッパのキリスト教世界

ローマ帝国の東西分裂/「聖ベネディクトウスの戒律」
  エジプトや中東を含む地中海全域で繁栄を誇ったローマ帝国は、政治の不安定から弱体化して、4世紀の終わりには東西に分裂してしまう。その後、西はポルトガルから東は現在のボスニア付近/ライン川の西側、南は北アフリカ沿岸地域、北はイングランド北部まで支配を広げた西ローマ帝国は、東方からのゲルマン民族の侵入に脅かされ続けていた。
ローマ帝国の支配拡大に合わせるように普及したその頃のキリスト教世界は、「ヨーロッパ修道院の父」と呼ばれた聖ベネディクトウスBenedictus de Nursia(ベネディクト 480年頃〜547年/下記コラム)により編集された修道会則、73章から成る≪聖ベネディクトウスの戒律 La Regola de St Benedetto≫が長い間宗教的な規範とされていた。

西ローマ帝国の滅亡/中世ヨーロッパの混乱
  その後もゲルマン民族の西ローマ帝国内への侵入は止まず、イングランドではケルト系民族との抗争、帝国内の勢力争いと内紛が続いた。拡大し過ぎた帝国領土を守る最前線兵士の経費の増加や戦線離脱の脱走兵まで出る始末であった。
政治的にも経済と社会的にも混乱から脱し切れずに、5世紀の終わりにとうとう西ローマ帝国は政治的に消滅、混乱の中で時代は中世へと移る。しかし帝国の拡大と共に安定を確保したキリスト教は、イタリアからフランス、ドイツ、イングランドを含めたヨーロッパ全域へ普及、飛躍と発展の時代を迎える。

Ref.
聖ベネディクトウス
聖ベネディクトウスはイタリア中部ヌルシアの古代ローマ貴族の家系に生まれ、ローマの南東125km、ナポリの北北西90kmの突き出た尾根に建てたモンテ・カッシーノ大修道院(下記URL)で生涯を過ごしたとされ、6世紀の半ば、晩年に近い540年頃、この「聖ベネディクトウスの戒律」を執筆した。「ヨーロッパ修道院の父」と言われる聖ベネディクトウスは、イタリア・モンテ・カッシーノ大修道院の歴史に残る最も優れた修道士とされる。
また、≪聖ベネディクトウスの戒律≫と同じように古代〜中世キリスト教世界で最も基準としたものに、北アフリカ生まれ、現在のアルジェリア・アンナバ(旧ヒッポ)で没した、古代キリスト教の「最大の教父」と呼ばれる聖アウグスティヌス(354年〜430年)が集約した≪聖アウグスティヌスの戒律≫がある。

政治と社会の安定と混乱/キリスト教の発展と乱れ/フランク王国の分裂
  特に宗教的な規範であった「聖ベネディクトウスの戒律」を積極的に取り入れ、混乱していた政治と社会の安定を図ったのは、ローマ・ケルト・ゲルマン・ビザンティン美術の融合とも言える「カロリング朝様式」と呼ばれる宮廷を中心とした質の高い美術様式を生み出した、カロリング朝フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)である。
しかし、絶大なる力を誇ったカール大帝が亡くなると、フランク王国は厳格な敬虔王ルートヴィッヒT世(ルイT世)へと続き、美術のカロリング朝様式はさらに発展し続けたが、840年にルートヴィッヒT世が亡くなり、王国としてのカロリング朝は政治的な大混乱を招くことになる。

841年、終には王位と領土を狙い互いに譲らないルートヴィッヒT世の三人の息子達、1男ロタールT世軍に対して、「ストラスブールの誓約」で結ばれた3男ルートヴィッヒU世と4男禿頭王シャルルU世の同盟軍により、オクセールの南西25km付近で「フォントノワの戦い Schlact von Fontenoy」に突入する。
4万人の犠牲者を出したとされる戦争の終結とその妥結である「ヴェルダン条約」を経て843年、カロリング朝フランク王国は禿頭王シャルルU世の西フランク王国、ロタールT世の中フランク王国、そしてルートヴィッヒU世の東フランク王国へと分裂してしまう。

フランク王国の分裂は、北からの異民族ノルマン人(ヴァイキング)や東からのイスラム教徒の領土への侵入を招き、安定していたヨーロッパの政治と社会は再び混乱の様相を呈して来る。それは同時に、ヨーロッパ・キリスト教世界にも大きく影響を及ぼすことになり、破壊や略奪の横行で修道院や教会堂は荒廃して、この時代にキリスト教の布教活動の中心的な役割を負っていた修道士の意気の低下と規律の乱れを生んでしまう。
この当時、パリはまだフランス西北部の「小さな町」に過ぎず、ヨーロッパの政治の中心はライン川流域〜フランス・ブルゴーニュ地方であった。政治と権力者はキリスト教と深く結びつき、それに従属し牽引される社会も文化も宗教抜きに考えられない時代となってきた。だが、それに逆行するように中世ヨーロッパにおけるキリスト教世界は大きく乱れ、腐敗した環境へと進んで行った。
そうした中、イタリアと並んで中世ヨーロッパでキリスト教が最も早くから深く根付いていたフランス東部のブルゴーニュ地方に、必然の如く二つの大きな勢力のキリスト教修道会が発祥して来る。この新たに生まれた改革的な修道会を抜きにして、中世ヨーロッパの政治と社会、文化と人々の生活、そしてキリスト教の改革の歴史は語れない。

新たに生まれた改革的な修道会

1) 新たに生まれた修道会/クリュニー修族(クリュニー会)
  改革的な修道会の一つは、荒廃と混乱から世俗化したキリスト教会に対して改革的な運動を起こし、10世紀初頭の910年アキテーヌ公ギョーム GuillaumeT世が、南部ブルゴーニュ地方マコンの北西20kmのクリュニー Cluny の地に、カトリック教会の最古のベネディクト修道会から派生した修道院を創建した「クリュニー修族(クリュニー会 Congregation de Cluny)」である。「黒い修道士」と呼ばれたベネディクト修道会と同じように、クリュニー修族(クリュニー会)の修道士も「黒い僧衣」をまとっていた。

クリュニー修族(クリュニー会)は、その後2世紀の間に都市部だけでなく、領主や有力者への働きかけを初め、農民や貧しい人達の救済を通して布教を行い、フランスのみならずヨーロッパ各地に約1,500か所もの系譜の修道院を建て(影響を受けた修道院はさらに2,000か所以上)、中世ヨーロッパ最大の教団会派に発展拡大して、キリスト教世界に大きな影響を及ぼし歴史的な痕跡を残すことになる。
しかし、ヴァチカン教皇直属の教団であるが故に、クリュニー修族(クリュニー会)は形式を重視する傾向が強く、創建のクリュニー大修道院 Abbaye de St Pierre et St Paul de Cluny を頂点として、莫大な資産と宗教的な権威を背景に多くの国王を初め有力領主、そしてヴァチカン教皇との太いパイプを確立、政治にも介入できるほど絶対的な権力を持ち、中央集権的な巨大ピラミッド型の連合体的組織へと変貌して行く。

クリュニー修族(クリュニー会)は(現代人が考える)修道会の組織よりも封建的な組織形態であり、これを「修族」と呼び、特にクリュニー修道院の大修道院長の存在と権威は、傘下の修道院に対して封建領主のような絶対的なものであったとされる。
クリュニー修族(クリュニー会)は理念とした「聖ベネディクトウスの戒律」を尊守しながらも、徐々に煌びやかで壮麗な建築と過剰とも言えるほどの装飾を好み、音楽や芸術へも参入、労働は控えめ、全修道士参加の壮麗な典礼や連祷(Litany/Ektenia)に多くの時間を注ぐ傾向となった。
結果、教会堂は異常に高いヴォールト天井や見事な柱頭彫刻に例を見るように、壮麗な儀式を執り行うに相応しい荘厳な建築へ傾向して、聖務する修道士も贅沢と華美な日常に走って行く。さらに有力諸侯や信仰者からの土地や宗教施設など寄進と献金を受け、庶民へは高い納税を課して「富の蓄積」に組織の目標が志向してしまう。
教団創立から数世紀を経過する間に、クリュニー修族(クリュニー会)の権力は膨張・拡大を続け、王侯貴族を遥かに凌ぐほど強力であったとされ、結果的に神聖たる修道会は宗教的な規律と基本理念を失ってしまったと言える。

※「クリュニー修族(クリュニー会)」に関して、部分的に大分トラピスト修道院から情報のご提供をいただきました。

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2) 新たに生まれた修道会/シトー修道会
  もう一つの改革的な修道会はクリュニー修族(クリュニー会)の華美と富を優先する傾向と理念に大いなる批判を抱き、キリスト教修道院と修道士の規範である「聖ベネディクトウスの戒律」への再回帰を強く求め、やはり最古のベネディクト修道会から派生した「シトー修道会 Ordo Cisterciensis OCist」である。シトー修道会の修道士は「白い僧衣」を身にまとっていた。

労働より壮麗な典礼や集団での連祷など形式を重視して、体制や膨大な資産など中央集権的な一括管理をとったのが先行のクリュニー修族(クリュニー会)であった。これとは大きく異なり、シトー修道会では経済的にも各修道院が、それぞれ独立した管理体制が採用された。
そして、シトー修道会の基本は、あくまでもキリスト教の信仰であり、王侯貴族からの土地などの寄進を受けたのは事実であるが、民から税を徴収せずに祈祷と清貧、倹約と労働、そして何処までも妥協を許さない厳格で禁欲的な規範を守り抜いた。

最初の修道院建立の11世紀末以降、「フランス革命」の後の1791年に「修道院解散令」が発令され、事実上修道院が消滅するまでの約700年の間、シトー修道会はフランスを中心に、ドイツやイングランド遠くはスカンジナビア地方に至るヨーロッパ全土の人里離れた山間部や草原、島、農村などに合計約1,750か所以上もの系譜修道院を建てた。
本来のキリスト教の布教と修道活動は当然のこと、シトー修道会はクリュニー修族(クリュニー会)と同様に、ワインの醸造を初めとする卓越した農業技術や地方産業の発展にも大きく貢献寄与したことが知られている。

聖ロベルト/シトー修道会の創立

聖ロベルト/モレーム大修道院の創建/シトー大修道院の創建/シトー修道会の創立
  南部シャンパーニュ地方トロワの貴族の家系に生まれたロベルト、後の聖ロベルト(St Robert 1027年〜1111年)は、初め15歳でクリュニー修族(クリュニー会)系の修道院へ入会する。後に修道会則に対する見解の相違から、クリュニー修族(クリュニー会)から離れて、フォントネー修道院の北方35kmのラングル教区モレーム Molesme に新たに創建した大修道院の院長となる。
しかし、強い熱意をもって創建したモレーム修道院内部でも思考的な異なりと分裂が起こり、聖ロベルトは20名余りの同調する修道士達と共に、11世紀が終わる1098年、クリュニー修族(クリュニー会)より2世紀近く遅れて、ブルゴーニュ地方ディジョン Dijon の南方20kmのシトー Citeaux の地に新しい大修道院 Abbaye de Citeaux を創建する。これがシトー修道会 Ordo Cisterciensis OCist の創立となる。
先行したマコン近郊のクリュニー修族(クリュニー会)の本院クリュニー大修道院から北方のディジョン近郊のシトー大修道院までは直線で約90kmの距離である。歴史を刻む中世ヨーロッパ最大の二つの修道会は、フランス東部のブルゴーニュ地方に相次いで生まれたのである。

Ref.
フランク王国分裂と「西・中・東フランク王国」
843年にフランク王国が3つの王国に分裂した後、各王国はそれぞれ1〜1世紀半ほど継続する。しかし、最終的には962年に東フランク王国はオットー大帝により「神聖ローマ帝国」へ引き継がれ、987年には西フランク王国は「カペー朝フランス王国」へと発展して、繁栄するフランス王朝の基礎をつくる。

クリュニー大修道院
南部ブルゴーニュ地方マコンの北西20kmのクリュニーの地に最初に建立されたクリュニー大修道院は、3期の大きな改造・再建の建築時期を経て、最終的に修道院施設は巨大な建物集合体となった。特に11世紀末〜13世紀に工事が行われた「第三教会堂」と呼ばれた付属教会堂(聖堂)は、入口〜身廊〜内陣までの長さが190m近い非常に大型の教会堂であった。
17世紀に再建される長さ210m超のヴァチカン・サン・ピエトロ大聖堂が完成するまでは、クリュニー修道院・第三教会堂が「ヨーロッパ最大の教会堂」であった。しかし「フランス革命」の後、「修道院解散令」により、第三教会堂は解体され、石材は競売にふされてしまう。
なお南部ブルゴーニュ地方の農業改革、特にワインの生産に関してはクリュニー修族(クリュニー会)の存在と努力あっての結果と言える。ブルゴーニュ地方の今日有名なビンテージ・ワイン畑のほとんどは、クリュニー修族(クリュニー会)と後述のシトー修道会の所有から始まったとされる。

シトー修道会の創立者
聖ロベルト St Robert はブルゴーニュ地方シトーの地に創建した大修道院の最初の院長となるが、その後ヴァチカン教皇ウルヴァヌスU世の令により、聖ロベルトは指導力の低下したモレーム修道院へ戻り、院長に再任される。後継のシトー大修道院長に聖アルベリコ(アルベリック Alberic)が就くが短命に終わり、次の院長にはイングランド人の聖ステファーノ(スティーヴン・ハーディング Stephen Harding)が任命される。シトー修道会では、この3名を以って修道会の「創立者」としている。

聖ベルナール/家系・教育・信仰への道

貴族家系と騎士の父
  ベルナール(ベルナルドゥス)、後の聖ベルナール(St Bernard 1090年〜1153年)の家系は、ブルゴーニュ公国宮殿のあるディジョンの北西郊外のフォンテーヌ Fontaine les Dijon にシャトー)を構える貴族階級であった。
ブルゴーニュ公の有力な臣下である父親テセリン・デュ・フォンテーヌ Tescelin de Fontaine les Dijon は、勲爵士(騎士)の称号を持っていた。ベルナールの父テセリンの父、要するにベルナールの祖父もフォントネー修道院から北東へ30km、シャティヨン・シュル・セーヌ Chatillon を領地とする貴族、祖父の名も父と同じテセリン・デュ・シャティヨンTescelin、祖父の妻(ベルナールの祖母)サル・デュ・グロンシィ Saruc もやはり貴族の家系出身であった。

ベルナールの父テセリンには弟オットー・デュ・シャティヨン Othon が居り、ベルナールの祖父の領地シャティヨンを継ぎ治めていた。このオットーは後にベルナールの母の妹と結婚をする(後述参照)ことになる。

貴族出身の母アレス/信仰心と教育と存在
  一方、ベルナール、聖ベルナールの母アレス Aleth は、ディジョンの北西60kmのモンバール Montbard を領地とする、遠く遡れば名門アンジュー家の血筋を引く有力伯家で生まれた。アレスは15歳でテセリンと結婚したとされ、二人はベルナールを含め合計7人の子供に恵まれた。平均寿命が50歳以下であった当時としては、母アレスの15歳での結婚は決して「早婚」ではない。
テセリンとアレスの子供達は、誕生順に1男ギー Guy、2男ジェラール Gerard、3男ベルナール(聖ベルナール Bernard)、一人だけの女性アンベリーヌ Humbeline(後述)、4男アンドリュー Andrew、5男バルトロメー Bartholomew、6男ニヴァール Nivard である。
信仰心があり、教育に力を注いだ母アレスは、3男ベルナールを除き、男児が生まれると直ぐに修道院に預け養育したとされ、子供達が青年になると父と同じくブルゴーニュ公を支える騎士の教育が行われた。ただ、ベルナールと妹のアンベリーヌだけは母アレスが自身で養育したとされ、その後、ベルナールが騎士の道を選ばずに信仰の道を歩むことを切望し続けたのは、幼少の頃から大きな影響を受けていた母アレスの人柄と存在があったからと言われている。

聖ベルナールの学問/母アレスの死
  優しい母親の愛情の下で育ったベルナールは、9歳になるとフォントネー修道院から北東30kmでクレルヴォー修道院の南西35km、父の弟オットーが治めるシャティヨン・シュル・セーヌの聖ヴォルル聖堂参事会学校で、神学を初め文法論やレトリック(修辞学)、弁証論などの高等教育を受ける。
しかし、ベルナールが慕った母アレスは、ベルナールが15歳になる1105年、熱病を患い40歳で亡くなってしまう。母アレスの遺体は、ベルナールが修道院長に就任した後にクレルヴォー修道院に埋葬された。また、ベルナールが30歳の時に亡くなった父テセリンも同じくクレルヴォー修道院に埋葬された。

聖ベルナール/シトー修道会へ入会
  その後、母親の遺伝子を受け継ぎ、多分野の豊富な知識と高い見識と信仰心を身に付け、ベルナールが23歳となった1113年、母アレスの弟の叔父ギャウドリィ・デュ・トィヨン Gaudry とベルナールは、カペー朝フランス王ロベールU世に系譜する領主ブルゴーニュ公ユーグU世(温和公/在位1103年〜1143年)と父テセリンの許しを得て、騎士の道を歩み始めていた兄弟達に信仰の道へ進むことを話し説得を行う。

聖ベルナール/オーストリア・ハイリンゲンクロイツ修道院 所蔵 
 結果、兄弟で最も騎士の道に拘っていた2男ジェラールを除き、最年少であった6男ニ
 ヴァールも含め、ベルナールの兄弟達は、1113年10月下旬、活躍と発展の期待を
 胸にディジョンの南方20kmにある創設後間がないシトー大修道院の門をくぐる。
 この時、一緒にシトー修道会へ入会したのは、ベルナールの4人の兄弟を初め、母アレ
 スの弟であり、ベルナールの理解者であった叔父ギャウドリィ・デュ・トィヨンと叔父ミロン、
 母アレスの妹ダイアナとベルナールの叔父オットーとの息子(ベルナールの従兄弟)ロ
 ベール・デュ・シャティヨン Robert、さらにベルナールのシトー修道会入会に同調した多
 くの貴族階級の友人達など合計約30名であったとされる。
 このベルナールとその家族・親族・友人達のシトー修道会への入会で、教団は一気に
 活気付き、それ以降、シトー修道会は論に長けた有能なベルナールを中心に歴史的
 な発展と拡大を成し遂げる。




 「聖ベルナール」の画像
 写真情報: Georg Andreas Wasshuber 1700年作
   オーストリア・ウィーン南西25km 「ウィーンの森地方」 シトー修道会系譜
   ハイリンゲンクロイツ聖十字架修道院 Helingernkreuz Abbey 所蔵



なお、聖ベルナール画像を所蔵するオーストリア・ハイリンゲンクロイツ聖十字架修道院は、後述のシトー修道会の「四父修道院」の一つ、モリモン大修道院が建立した「娘修道院」の一つであった。修道院には10世紀の辺境伯レオポルトW世を初め、フリ−ドリヒT世やフリードリヒU世(闘争公)など、13世紀までオーストリア公国を統治したバーベンベルク家の継承者が埋葬されている。

Ref.
聖ベルナールの兄ジェラールとワイン貯蔵所
当初ベルナールと叔父ギャウドリィ・デュ・トィヨンの強い説得に応じず、修道会への入会を避けていた2男ジェラールは、この後になって教団へ入会することになる。2男ジェラールはクレルヴォー修道院のワイン管理担当となり、以降、1130年〜1150年頃、現在のディジョン市内の「共和国広場」近くの Ruelle de Suzon 通り(路地)に建てられたクレルヴォー修道院直属のワイン貯蔵所セラー La Cellier de Clairvaux に活躍の場を得る。
このワイン貯蔵所はワイン生産と保管だけでなく、ブルゴーニュとシャンパーニュ・ワインの改良と普及や農業改革にも大きな力を発揮した。ブルゴーニュ地方のワイン畑のほとんどは当初クレルヴォー修道院やポンティニー修道院、オクセール修道院、クリュニー修道院などの新興の大修道院が所有していたとされる。
なお分厚いロマネスク様式の石積み外壁、大型倉庫を連想させるクレルヴォー修道院のワイン貯蔵所は、当初、ディジョンの市街を守る塁壁の役目も兼ねて建造されたとされる。内部には交差ヴォールト天井を支える六角柱が整然と並び、8つのベイ(柱と柱の空間)の大空間を教会堂の三身廊のように3つのスペースに分けている。現在、12世紀の趣きある雰囲気を今に伝えるこの旧ワイン貯蔵所は芸術イベントや展示会、コンサートや結婚パーティの会場として使用されている。

年長兄ギーのシトー修道会の入会と妻エリザベートの女子修道院への入会
ベルナールと兄弟達がシトー修道会へ入会した時、年長の兄ギーはすでにエリザベートと結婚をしていたため、妻の許しを得て入会を果たした。ただ夫が聖職者になったことで、妻エリザベートも当時の仕来りに従って女子修道院(尼僧院)に入り、修道女シスターとなる。またすでに二人の間には娘が一人生まれおり、娘が成長して貴族と結婚することで聖ベルナールの生誕シャトー(上述写真)を含め、祖父テセリン・デュ・フォンテーヌが創始したディジョン・フォンテーヌ領地を継承することになる(後述)。

Ref.  聖ベルナールの両親とその家系

聖ベルナールの家系
  ベルナール、聖ベルナール(St Bernard 1090年〜1153年・上写真)の父親・テセリン・デュ・フォンテーヌは、勲爵士(騎士)の称号を受けたブルゴーニュ公の臣下で、ディジョン郊外を治める有力者であった。家系はブルゴーニュ地方の貴族階級、代々フォントネー修道院から北東30kmのシャティヨン・シュル・セーヌを領地としていたことから、父テセリンがディジョン郊外のフォンテーヌの領地の創始者となったと考えられる。

一方、ベルナールの母親アレスの父は、遠く名門アンジュー家のブロードラインを引く伯家のモンバールのベルナールI世 BernardTで、モンバール周辺を領地として治めた。ベルナールの祖母であるアレスの母オンベルース Homberge は、アミアンの南東地区を治めるやはり貴族の家柄であった。
ベルナールの母アレスの兄弟(姉妹)は、後にフォントネー修道院の主要な創設パトロン(後援者)となる兄レイナール・デュ・モンバール Raynald/Renaud、弟ミロン Milon、弟ギャウドリィ・デュ・トィヨン Gaudry、30歳前後で亡くなる弟の年上アンドリュー Andrew、妹ダイアナ Diana、弟の年下アンドリュー Andrew の合計6人が居たとされる。
うち、ベルナールの叔父にあたるフォントネー修道院の北東5kmのトィヨンを治めていたギャウドリィ・デュ・トィヨンは、後にベルナールと共にシトー修道会へ入会する人物である。聖職者となった後、トィヨンは自分の領地を創建直後のフォントネー修道院へ寄進している。また、次の叔父ミロン・デュ・モンバールもベルナール達と一緒にシトー修道会へ入会している。
さらに、母アレスの妹でベルナールの叔母にあたるダイアナ・デュ・モンバールが、後にベルナールの父テセリンの弟でシャティヨンを領地とするオットー・デュ・シャティヨンと結婚することで、一緒にシトー修道会へ入会するベルナールの従兄弟ロベール・デュ・シャティヨンが生まれる。この結婚は、ベルナールの父とその弟、相手はベルナールの母とその妹という、「兄・弟」と「姉・妹」が結ばれたものである。
また、ベルナールの叔父である二人居たアンドリューのうち、年下アンドリュー・デュ・モンバールは騎士の道を選び、33歳頃にテンプル騎士団へ入会、聖地エルサレムへ赴き活躍、56歳でテンプル騎士団の第5代グランド・マスター(総長)となるが、3年後に59歳でエルサレムで死亡した。

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聖ベルナールの妹/貴族生活から信仰の道/ジュリー女子修道院入会/聖アンベリーヌ
  貴族の家系でありながら騎士の道を捨て、1113年、シトー修道会へ揃って入会した5人の兄弟のほかに、ベルナールにはアンベリーヌ(Humbeline de Fontaine les Dijon 1092年〜1136年・下写真)という名の美しい妹が居た。

聖アンベリーヌ画像/Le Eglise d'Orgelet,Jura ベルナールの兄弟全員がシトー修道会へ入会したことで、父親テセリンからの家系領地
 の継承は形式上、すべて妹アンベリーヌが引き継ぐことになった。が、その後、アンベリーヌ
 は、トロワの貴族アンセリック・デュ・シャセナリィ AnsericU世と結婚をすることになる。
 このアンベリーヌの結婚で、ベルナールの父の領地ディジョン郊外フォンテーヌの継承問題
 が生じて来る。
 その後、ベルナールの兄ギーの娘が成長した後、ディジョン西方25kmを治めるバルテル
 ミィ・デュ・ソンベルノン Barthelemy と結婚することで、父の領地ディジョン郊外フォンテ
 ーヌ Fontaine は断絶せずにこの家系に継承されることになる。領地はさらに彼らの息
 子カロ・デュ・ソンベルノン(Kalon デュ・フォンテーヌ)へと継承されて行く。


 聖ベルナールの妹・清楚な「聖アンベリーヌ」の画像
 写真情報: 18世紀 「サロン・ド・パリ」の画家 Adrian Richard 作
          東フランス・ジュラ地方オルジュレ Orgelet 昇天の聖母教会 所蔵

 ※オルジュレはブルゴーニュ地方マコンから北東65km、人口1,600人、ジュラ地方の
  小さな村。オルジュレの教会堂は13世紀初めからの由緒ある建物だったが、17世紀
  初期・1606年の火災、その後の戦争でほとんどの区画を破壊、再建された。
  「聖アンベリーヌ」の画像は18世紀に再建された教会堂・「聖アンナ礼拝堂」の壁面に
  飾られている。



貴族との結婚で恵まれた生活を送り、誰からも愛されたアンベリーヌは、たいへん魅力的な女性であったとされる。しかし、ある日クレルヴォー修道院を訪ね、多忙でありながらも極めて充実した信仰の道を歩む兄ベルナールとの会話を交わした後、彼女に信仰への強い意志が芽生え始める。
この時、すでにアンベリーヌと夫アンセリックU世の間には一人娘が居たが、愛する夫の許しを得た後、1130年頃、38歳前後のアンベリーヌはフォントネー修道院の北北西16km、ジュリー Jully les Nonnains のモレーム修道院系譜のベネディクト修道会の女子修道院(創建1113年)に入り、修道女シスター・アンベリーヌとなる。

その後、1132年、ジュリー女子修道院の院長エリザベート(シャロン・シュル・ソーヌ伯の娘)が、ディジョンから南東20kmのラングル教区タール・ラーベイ Tart-l'Abbaye のタール女子修道院(下記コラム)へ移ったことから、アンベリーヌはその後を継ぎジュリー女子修道院の院長となった。そして類稀な指導力を発揮したアンベリーヌは、数年の間に少なくとも7か所に次々と新しい「娘修道院」を建立する。
しかし、貴族生活を捨て、信仰の道を選択して神聖な活躍が期待された矢先、運命はアンベリーヌにあまりにも皮肉なカードを切ることになる。純粋で清楚、透き通るような美しい顔立ちのアンベリーヌは、危篤の知らせで駆けつけたクレルヴォー修道院の兄ベルナール、弟アンドリュー、弟ニヴァールに見守られ、当時の習わしに従って、兄のベルナール、聖ベルナールの腕に抱かれ、1136年2月、ジュリー女子修道院で静かに息を引き取ったとされる。聖ベルナールの妹アンベリーヌ、44歳の人生の終焉であった。
ヴァチカン Holy See によって、1703年、兄ベルナールを慕い続けた妹アンベリーヌは祝福され、聖人となりカトリック教では「聖アンベリーヌ Blessed Humbeline」と呼ばれ、その霊名日は「2月12日」である。

Ref.
聖アンベリーヌの娘ペトロニール(エリザベス)とその子孫の系譜
アンセリックU世と結婚したアンベリーヌは、23歳になった1115年頃、一人娘となるペトロニール(エリザベス Petronille-Elizabeth)を生んでいる。この娘はバール・シュル・セーヌを治めていた貴族ギー Guy と結婚をして、その子孫の系譜はフランスやベルギー、イングランドの国王〜貴族家系にまで広がり拡大して行く。
娘ペトロニール(エリザベス)を聖アンベリーヌの「1代目」の子孫とすれば、ルクセンブルグ王家を経て、「6代目」の子孫に現在のフランス北部アヴェーヌ・シュル・エルプを治めたギョームIII世(ベルギー南部エノー伯T世)が生まれる。ギョームV世(エノー伯T世)とその妻は8人の子供に恵まれ、5人いた娘の二番目が、1328年、イングランド王エドワードV世と結婚をして王の妻・王妃となるフィリッパ・アヴェーヌ Philipa d'Avesnes/Hainaultである。
高貴な家系であったアヴェーヌ家では、イングランド王妃となったフィリッパのみならず、彼女の年長の姉マルグリットは神聖ローマ帝国(バイエルン)皇帝ルートヴィッヒW世の妻・王妃となる。この二人の姉妹の結婚で、イングランド王エドワードV世と神聖ローマ帝国ルートヴィッヒW世は義理の兄弟となった。

また少し時代を遡ると、14世紀・1308年、フランス・カペー朝シャルルW世の妹、ヨーロッパ貴族社会で「絶世の美女」と言われたイザベルが、イングランド王エドワードU世の妻・王妃となってフランスからイングランドへ嫁いで行く。本国フランスでは350年近く続いた名門カペー朝の最後の王となる兄シャルルW世が亡くなり、王に男子継承者の無かったため、従弟のヴァロワ家フィリップY世がフランス王に就く。
シャルルW世亡き後、フィリップW世王の妹イザベルの息子であり、遠く聖アンベリーヌの血筋でもあるフィリッパ・アヴェーヌの夫、イングランド王エドワードV世が「自らがフランス王の血を引く正当なる継承者」を主張する。その結果、フランス王位継承と毛織物産業で経済的な繁栄をしていたフランドル地方などの領地の獲得と利権を巡って、1337年(or 1339年)〜15世紀・1453年まで、フランスとイングランドは長い長い「百年戦争」を続けることになる。
この数世代に引き継がれた「勝ったり負けたり」の止むことのない中世ヨーロッパの列強フランスとイングランドとの戦争を通じて、後述する聖ベルナールが建立した世界遺産のシトー修道会フォントネー修道院を初め、フランスの多くのカトリック教の修道院と教会堂はイングランド軍の攻撃を受け大きな被害を蒙ることになる。

世界遺産/聖ベルナール建立のブルゴーニュ地方フォントネー修道院

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ディジョン近郊のシトー修道会系譜のタール女子修道院(尼僧院)
小さな村タール・ラーベイのタール修道院は、1125年、シトー大修道院長・聖ステファノ(スティーヴン・ハーディング)やブルゴーニュ公、ラングル教区司教などの援助で建立されたシトー修道会の最初の女子修道院(尼僧院)となり、1132年、初代院長にはジュリー女子修道院から来たエリザベートが就任した。
エリザベートはシャロン・シュル・ソーヌ伯の娘で、タール女子修道院の院長を38年間務めた。タール女子修道院はシトー修道会の女子修道院の指導と「娘尼僧院」の建立に大きな力を発揮する。しかしイングランドとの「百年戦争」や「フランス革命」で大きな被害を受け閉鎖された。現在、施設の遺構を見学できる。

シトー修道会・「四父修道院」の建立

ROM

指導的な大修道院の建立/「四父修道院」
  シトー修道会は、「母修道院」と呼ばれるブルゴーニュ地方シトーの地に創建した修道会発足時のシトー大修道院をルーツとして、一気に精力的な宗教活動を開始する。二番目に建立された修道院は、第一次十字軍(1096年〜1099年)が創設した中東・トリポリ伯国の主要都市トルトォーサ Tortosa(現在=シリア地中海沿岸)から北方35kmのバラネア修道院 Balanea (下記コラム参照)であった。

そして、時を置かずして、シトー修道会はブルゴーニュ地方と南部シャンパーニュ地方の4か所に、特別な地位と意味をなす大修道院を建立し始める。建立順に、ヨーロッパで第一番目の「娘修道院」となるラ・フェルト修道院 Abbaye de la Ferte、二番目がポンティニー修道院 Abbaye de Pontigny、三番目は聖ベルナールのクレルヴォー修道院 Abbaye de Clairvaux、第四番目がモリモン修道院 Abbaye de Morimond である。
修道会スタート時のフランス国内4か所のこれら最古の大修道院は、ヨーロッパに無数に新たな修道院を建立して「修道院ネット・ワーク」を構築、系譜修道院への指導的役目を果たし、後になり、総称してシトー修道会の「四父修道院」と呼ばれるようになる。

シトー修道会の「修道院ネット・ワーク」は、世界遺産フォントネー修道院など本拠地のブルゴーニュ地方だけでなく、セナンク修道院などプロヴァンス地方を初め、王立シャーリ修道院(Chaalis Royal Abbaye 創建1137年)などのパリ近郊、さらにはフランスのみならずイングランド、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、遠くは北欧スカンジナビア地方まで及んだ。

シトー修道会・修道院建立順/年代時系列/創設〜トップ15番目(16番目以降 省略)

建立順 創建年 修道院名称 所在地/主要都市からkm
01 1098 シトー (創設) Citeaux ディジョン南方20km 「母修道院」
02 1102 バラネア Balanea 中東・十字軍国家・トリポリ伯国
03 1113 ラ・フェルト La Ferte ボーヌ南方40km 「四父修道院 1」
04 1114 ポンティニー Pontigny オクセール北東20km 「四父修道院 2」
05 1115 クレルヴォー Clairvaux トロワ南南東55km 「四父修道院 3」
06 1115 モリモン Morimond ディジョン北北東95km 「四父修道院 4」
07 1118 プレゥリィ Preuilly パリ南東70km
08 1118 トロワ・フォンティーヌ Trois Fontaines トロワ北東80km
09 1119 モン・サン・マリー Mt St Marie ブザンソン南東60km
10 1119 ラ・クル・デュー La Cour Dieu オルレアン北東25km
11 1119 ボヌヴォー Bonnevaux リヨン南東35km
12 1119 ボウーラ Bourras ロワール・ヌヴェール北方35km
13 1119 キャドゥアン Cadouin ボルドー東方110km
14 1119 フォントネー Fontenay ディジョン北西60km 世界遺産
15 1120 アストルガ Astorga スペイン・サンティアゴ・コンポステーラ巡礼路

Ref.
十字軍国家・トリポリ伯国/港町バラネア Balanea/マルガット要塞 Qalat al Marqab
一次十字軍(1096年〜1099年)の勝利の後、ヨーロッパ・キリスト教軍勢は現在のイスラエルからトルコ南部へ至る地中海沿岸に、エルサレム王国・エデッサ伯国・トリポリ伯国・アンティオキア伯国など、4つの主要十字軍国家を設立する。現在のシリア沿岸を治めたトリポリ伯国の中心地となったのが港町トルトォーサであった。
バラネアはトルトォーサの北方35km程、特産のレバノン杉の輸出港として栄えた古い町で、シトー修道会は最初の「娘修道院」をこのバラネアに創建した。古代バラネアは現在のバニヤース Bulunyas の旧名称で、バニアス Banias の別称があり、さらにフランス人にはヴァラニアValania とも呼ばれていた。
バラネアの町の南方3.5km、地中海から2km内陸、標高370mの丘の上には、10世紀の半ばにイスラム領主が創建したマルガット城がある。ここは一次十字軍のヨーロッパ・キリスト教軍の攻撃にも落城することなく、イスラム勢力が占拠し続けた堅固な要塞であった。しかし、1100年代に入り、キリスト教軍により占領され、さらに12世紀の終わりになると、「テンプル騎士団」よりわずかに早く創設された「エルサレム・ホスピタル騎士団」、後の「聖ヨハネ騎士団」の居城となった。聖ヨハネ騎士団はこの要塞の周囲を統治して、エルサレムへの主要道路の通行料などの徴収で莫大な富を獲得した。

「テンプル騎士団」と「ホスピタル騎士団」は、後述する「情報・関連」・「テンプル騎士団」の急激な発展、特権と横暴な支配、突然の解散を参照のこと。

聖ベルナールとクレルヴォー修道院/シトー修道会の発展

ROM

クレルヴォー修道院の建立/大修道院長・聖ベルナール
  厳格な規範を厳守するシトー修道会は、最初に大修道院を建立したブルゴーニュ地方シトーが「創立・本院」の地であった。その後、若干25歳の有能なベルナール、聖ベルナールが、1115年6月、シトー修道会の第三番目の「四父修道院」となる新設のクレルヴォー修道院の初代修道院長に任命される。
これ以降、聖性な理想に燃えるベルナールと兄弟達、叔父ギャウドリィ・デュ・トィヨン、従兄弟ロベール・デュ・シャティヨンなどが聖務するクレルヴォー修道院が、事実上、シトー修道会の中心的な役割を果たし、修道会の拡大と発展に大きく寄与することになる。

寄進者シャンパーニュ伯/ユーグT世
  聖ベルナールのクレルヴォー修道院は、トロワ伯でありシャンパーニュ伯でもあり、ベルナールの友人でもあったユーグT世(ユーゴ Hugo/Huges I de Cahmpagne 1074年〜1125年)が、1115年、ディジョンの北方90km付近のラングル高原を水源とするセーヌ川の支流のオーブ川 Aube の中流域、現在の県庁トロワ Troyes の東南東55kmにあった自分の領地をシトー修道会へ寄進したことで建てられた。
なお、寄進者ユーグT世は「第一次十字軍(1096年〜1099年)」の遠征には参加していないが、その後、1104年〜1107年、さらに1114年〜1116年にも聖地エルサレムに滞在した。その間、短期帰国して、友人のベルナールが担当するクレルヴォー修道院の創建に尽力した人物である。さらにユーグT世は自身が創設に関わったテンプル騎士団へ入団する。

聖ベルナールの指導力/無数の修道院の建立
  当初、「クララ・ヴァーリ Clara Vallis」と呼ばれ、後にまくら言葉のように「クレルヴォー修道院の聖ベルナール」と呼ばれる南部シャンパーニュ地方クレルヴォー修道院において、ヒューマニスト・ベルナールの指導の下に聖務と厳しい修業を行い、選抜・派遣された修道土達がヨーロッパ各地に建立した系譜の「娘修道院」は、シトー修道会の全体約1,755か所のおおよそ20%、350か所を数えるとも言われている。
特に1130年以降の15年の経過の中、クレルヴォー修道院に限って言えば、イングランドとアイルランドの3か所を含むヨーロッパ各地に100か所近い新たな系譜の修道院の建立に関わり、または他の教団からの所属変更の促進が急加速度で連続的に行われた。

また、ベルナール自身が直接的に関わった新たな修道院の建立では、世界遺産フォントネー修道院(下写真&描画)など、生涯で69か所のシトー修道会系譜の修道院を数えたとされる。他の追随を許さないベルナール、聖ベルナールの指導力が如何に優れ、カリスマ的なその存在がヨーロッパ・キリスト教世界に短期間に、そして広く浸透していたかを物語っている。

フォントネー修道院・付属教会堂 Abbaye de Fontanay/(C)legend ej
                フォントネー修道院・付属教会堂・西正面部(西入口)/ブルゴーニュ地方
                描画=Web管理者legend ej

フォントネー修道院 回廊 Abbaye de Fontenay/(C)legend ej
                   フォントネー修道院・ロマネスク様式の回廊/ブルゴーニュ地方
                   回廊の床面に射し込む中庭からの明るい光とのコントラストが美しい
                   世界遺産/聖ベルナールが建立したブルゴーニュ地方フォントネー修道院

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12世紀〜13世紀/1,472か所の系譜修道院
  なお、シトー修道会全体をとれば、1098年の教団設立からわずか100年、年間建立数で何と53か所に新たな修道院を建立した驚きの1147年を初め、興隆の12世紀が幕を閉じた時には、すでにヨーロッパ各地に710か所の教団系譜の新たな修道院が建てられていた。そして、次の13世紀の終わりまで続く「修道院建立ラッシュ」でさらに760か所以上の「娘修道院」が加わり、12世紀と13世紀の200年間で、累計1,472か所のシトー修道会系譜の「巨大修道院ネット・ワーク」が完成していた。
今からおおよそ900年〜700年ほど前、たった2世紀の間の迫力に満ちた修道院建立の実績数値、シトー修道会の連続的な修道院建立のスピード感と計画力、組織全体の運営力、修道士のリクルート、資金・費用の調達力などは正に驚きに値するものがある。

   クレルヴォー修道院の約350か所の「娘修道院」のうち 主な10例(ランダムピックアップ):

創建年 修道院名称 所在地/主要都市からkm
コロン・ル・セック Clomb クレルヴォー修道院の北方12km
ボーモン Beaumont クレルヴォー修道院の南南西15km
1128 イニー Igny シャンパーニュ地方ランス西方25km
1131 ボンモン Bonmont レマン湖ジュネーブ北方20km
1131 エーベルバッハ Eberbach ドイツ・ライン河畔マインツ西北西15km下記参照
1132 リヴォー Rievaulx イングランド北ヨーク州・ヨーク北方30km
1134 ヒンメロード Himmerod ドイツ・モーゼル川地方・コブレンツ南西60km
1136 ノワールラック Noirlac シェール県ブールジュ南方40km
1142 ソボラド Soborado スペイン・サンティアゴ・デ・コンポステーラ北東50km
1154 エスロム Esrum デンマーク・ヘルシンガー西方15km

創設した「母修道院」のシトー大修道院から派生した修道会系譜と影響を受けた修道院は、「フランス革命」の直後までに累計で1,755か所に建立された。しかし、1791年にフランス革命政府から「修道院解散令」が発令され、この時点でシトー修道院は閉鎖され事実上消滅することになる。
しかし、その後、19世紀以降〜現在に至る間に、「厳律シトー修道会OCSO(トラピスト会)」など、シトー修道会の規範と理念を継承する多くの「新しい修道会」が創設され、ヨーロッパのみならず、アフリカや南米、日本などアジア諸国を含め世界中に226か所の修道院が再設、または新設された。
下記はシトー修道会のデータからの引用だが、創設シトー大修道院〜「フランス革命」の直後までの修道院の建立数、それ以降〜現代に至るまでの修道院の数、そして累積数を示す。

   世紀別シトー修道会の修道院建立の実績:

世紀 各100年間毎 修道院 建立数
12世紀 創設1098年〜1200年 710
13世紀         〜1300年 762
14世紀         〜1400年 94
15世紀         〜1500年 59
16世紀         〜1600年 67
17世紀         〜1700年 54
18世紀         〜「フランス革命」の直後 9
合計1,755
19世紀〜20世紀〜21世紀(現在) 226
総計 1,981か所

Ref.  ドイツ・エーベルバッハ修道院

    1) 映画≪薔薇の名前 The Name of the Rose≫1986年ワーナー・ブラザーズ作品
       撮影場所: ドイツ・ライン川流域・クレルヴォー修道院系譜のエーベルバッハ修道院

エーベルバッハ修道院/映画≪薔薇の名前≫
  日本でも1987年に公開され話題となった映画≪薔薇の名前≫。物語は中世14世紀、ショーン・コネリー扮するフランシスコ修道会の良識ある元異端審問官ウィリアムが、弟子の若い修練士アドソと共に、北イタリアの「ある所」に建つベネディクト修道院で起こる怪奇な修道士連続殺人事件の真相を探るという、「シャーロック・ホームズ風」の比較的単純なミステリーである。
しかし、この映画は単なる娯楽作品ではない。背景に流れるは、複雑で難解な中世キリスト教世界の混乱と結論の出ない論争である。特に教皇庁がヴァチカンからフランス・アヴィニオンへ移った14世紀当時の乱れた教皇庁とフランシスコ修道会との「イエスの財産/清貧論争」、あるいは教皇庁と神聖ローマ帝国との争議、古代ギリシアの哲学者アリストテレス論や「実在とは何か?」を問う中世スコラ哲学の「普遍論争/実念論と唯名論」がちりばめられている。
さらには、アヴィニオン教皇ヨハネス22世の始めた「魔女狩り」も含めたドミニコ修道会ベルナール・ギー Bernard Gui の1,000件を超えたという異端審問、そして無名の貧しい農民や庶民の生活などである。

この中世ヨーロッパの混乱の歴史と社会的な背景を知らずして、この映画≪薔薇の名前≫を本当に理解することは出来ない。
故に映画のタイトル≪薔薇の名前 Il Nome della Rose≫は、単純にバラの花の種類や名称を意味しているのではなく、「バラの花は類の形相としての実在なのか?具体的な事物としての実在なのか?」とする難解な神学・哲学論がベースとなっている面を重要視したい。
ショーン・コネリー扮する修道士ウィリアムが、盲目の長老ブルゴスのホルヘ尊師へ語る言葉、「枯れてもなお残るは薔薇の名前・・・」がその「普遍概念」を暗示させ映画のタイトルとなったのか? あるいは若く純粋な修練士アドソが、初めて経験した好意を寄せた村娘との出会いと忘れ得ぬ「生の性」、年老いたアドソがその「Rose」のような娘の「名前」を知ろうと懐古する語りが、映画のタイトルになったのか?

映画の中で、荒涼とした山岳や廃墟を主題とした18世紀ドイツ・ロマン派のカスパー・フリードリッヒなどの絵画からヒントを得たとされる、粉雪の舞う草木のない雄大な山岳風景の中に建つベネディクト修道会の修道院、最後に大火災で禁断の写本蔵書が燃え尽きる無限の螺旋階段の複雑な構造の石積み城塞にも似た「迷宮の図書館」、「悪霊」が住むと信じられていた暗黒の修道院施設全体は、ローマ近郊に作られた大規模な野外セットである。
が、頭蓋骨が並ぶ地下道はローマ市内のレストランの階下に走る本物の地下墓地カタコンベで撮影された。さらに修道士達が聖務する写本や筆耕作業の写字室や殺人があった薬草室、修道士ウィリアムが年老いた恩師と会う付属教会堂(聖堂)などは、ドイツ・ライン河畔マインツから下流15kmのライン右岸、ラインガウ地区に展開するブドウ畑の斜面の先、深い森の谷間に、1131年、聖ベルナールのクレルヴォー修道院により建てられたエーベルバッハ修道院 Kloster Eberbach が撮影に使われた。
尖頭アーチ型交差ヴォールト天井の広い修道士室(寝室)、ワイン搾りプレス装置のある厚壁の貯蔵室セラー、装飾の少ないロマネスク様式の大型角柱が立ち並ぶ横断アーチ型トンネルヴォールト天井の付属教会堂の内部など、エーベルバッハ修道院の多くの施設がこの映画の内容にマッチして、その雰囲気を完璧に発揮している。
また映画で何回も映し出される極めて美しい中世写本などはエーベルバッハ修道院で製作された貴重な作品が使われたとされる。

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    2) 映画≪VISION/aus dem Leben der HILDEGARD von Bingen≫  2009年ドイツ映画
        撮影場所: ドイツ・ライン川流域・クレルヴォー修道院系譜のエーベルバッハ修道院

エーベルバッハ修道院/映画≪VISION≫/聖ヒルデガルト・ビンゲン
  中世ロマネスクと初期ゴシック様式が映えるエーベルバッハ修道院で撮影されたドイツ映画もある。これは中世12世紀のドイツと言わず、ヨーロッパで最も才能に恵まれた聡明な女性(賢女)とされた聖ヒルデガルト・フォン・ビンゲン Hildegard von Bingen(1098年〜1176年)の生涯を描いた作品である。ドイツ人なら誰でも知っている聖ヒルデガルトは、1140年 or 1141年、42歳前後、イエスの啓示である「生ける光の影 Umbra Viventis Lucis」の幻視体験 Visio/Vision をした神秘学者であり、優れた薬草学者であり、宗教音楽の作曲家でもあった。
「生ける光の影」の幻視体験に関しては、1146年 or 1147年、クレルヴォー修道院の聖ベルナールと複数回の往復書簡のやり取りを行ったとされる。そして聖ヒルデガルトの幻視体験の記述書面は、マインツのハインリッヒ大司教により、教皇エウゲニウスV世も出席して1147年11月〜翌年2月に開かれたドイツ・トリーア(トリアー)での「教会会議 Synode zu Trier」で教皇判断を仰いだ結果、教皇から聖ヒルデガルトへ女子修道院の創設認可状が下ったとされる。その後、マグダラのマリア(聖マリー・マドレーヌ)の聖遺物信仰のヴェズレー修道院と同様に、ヨーロッパ社会では救いを求める信仰信者が激増する。

聖ヒルデガルトは、エーベルバッハ修道院より約20年ほど遅れて、1150年、ライン河畔のマインツから下流へ25km、エーベルバッハ修道院から13km、ライン左岸のビンゲンの西側、ライン川と合流するナーエ川左岸に広がる丘陵地ルペルツベルグ Rupertsberg (現ビンゲルブリック地区Bingerbruck)にベネディクト修道会系譜の女子修道院(尼僧院)を創建する。その後、1153年には、聖ヒルデガルトは自らの幻視体験Visio/Vision を記述した≪道を知れ Scivias≫を出版する。
聖ヒルドガルトは聖大ゲルト・フォン・ヘルフタ St Gert von Helfta などと並んで、ドイツで最も良く知られた聖人の一人であり、医学と薬草学は現在にも大きな影響を残し、作曲した宗教音楽、例えば≪ハレルヤ≫など合唱聖歌、典礼劇では≪諸徳目の秩序 Ordo Virtutum≫など、現在でも広く知られている。
なお、860年前に聖ヒルデガルトの創建したルペルツベルグ女子修道院は、17世紀、ヨーロッパ諸国を巻き込んだウィーン・ハプスブルグ王朝とプロテスタント派との「三十年戦争」の時代、スウェーデン軍により完全に破壊されてしまった。

現在のエーベルバッハ修道院
  中世の時代には、修道院と教会はライン川の通行税が免除されていたことから、卓越したワイン醸造技術を持つエーベルバッハ修道院は、この特権とライン川の往来を最大限に活用してヨーロッパ各地へワインの輸出を行っていた。その後、時が過ぎ、シトー修道会の本拠地フランスで勃発した「フランス革命」の後、1791年、革命政府から発令された「修道院解散令」により、フランス国内のすべての修道院が事実上閉鎖される。この歴史に残る社会の大変革の影響は、同じシトー修道会系譜のドイツ・エーベルバッハ修道院へも及び、1803年修道院も閉鎖され、修道院の名は残るがその聖務と活動は終了する。
その後、病院などの施設として使われ、第二次大戦が終結した後、ヘッセン州立ワイン醸造所がエーベルバッハ修道院の所有権を獲得して、現在は国内最大級のブドウ畑を所有する州立のワイナリーとして世界のワイン通なら誰でも知っているドイツが誇るライン白ワインの最高峰リースリング・「シュタインベルガー Steinberger」の醸造元になっている。

またエーベルバッハ修道院の施設は財団法人として管理運営され、「ラインガウ・ワイン協会」の本部も置かれ、日本でも頻繁にワイン愛好者の話題になるワイン試飲ツアーやワイン・オークションの開催、直営ワインショップやホテル・レストランを併設、有名なラインガウ音楽祭やコンサート、結婚式など、多分野・多角経営が行われている。当然、映画で使われたかつての中世の姿を伝える修道院施設は一般公開され、UNESCO世界遺産・「ライン渓谷中流上部」観光の一端を担っている。

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聖ベルナールの活躍と指導力/テンプル騎士団

「白い僧衣」・シトー修道士/厳しい修道生活
  12世紀以降、ヨーロッパ各地1,750か所へ散り、俗界から離れ自分達の建てた修道院で質素な生活を続ける「白い僧衣」のシトー修道士達は、深夜2時前に起床して、夜8時に就寝するまでびっしりと詰った厳しい日課をこなした。ただ余りの苛酷な生活から30歳になる前に亡くなる修道士も数多く居たと言われるほど、シトー修道会の厳格な聖務と身を削る修道生活は厳しいものであったと言われている。

聖ベルナールの尽力・功績/「テンプル騎士団」の設立/「教会分裂」の回避
  12世紀の前半、頭脳明晰な聖ベルナールの人格とずば抜けた説教力は、ヨーロッパ宗教界に広く知れわたり、ローマ教皇さえもが助言を求めるほどであったとされる。また、「第一次十字軍(1096年〜1099年)」の中東遠征の後に、イスラム教徒の攻撃から聖地エルサレムとキリスト教巡礼者を守護する目的で、聖ベルナールの友人シャンパーニュ伯ユーグT世の臣下であったユーグ・デュ・ペイヤン Hugh de Payens ら貴族騎士9名が中心となり、1119年頃、「テンプル騎士団」が組織される。この新しい騎士修道会の設立に関しての教皇認可は、聖ベルナールから教皇への強い働きかけの結果とされ、1128年、教皇からテンプル騎士団へ正式認可が下りる。

テンプル騎士団は「グランド・マスター」と呼ばれた総長の指導の下、騎士・従士・修道士・司祭で構成された修道会であり、その会憲・会則は聖ベルナール自身が執筆したとされる。テンプル騎士団の最大の理解者であったシャンパーニュ伯ユーグT世自身も1125年頃に騎士団へ入会した。さらに上述の通り、騎士団の創設メンバーの一人であり、聖ベルナールの叔父にあたる母アレスの弟アンドリュー・デュ・モンバールは、1153年〜1156年、テンプル騎士団の総長、第5代グランド・マスターに就いている。

聖ベルナールがクレルヴォー修道院から指導力を発揮して、シトー修道会が最盛期となった12世紀、ヨーロッパ・キリスト教世界ではローマ・ヴァチカンの教皇選挙が紛糾し始め、複数の教皇が対立していた。この時、聖ベルナールは事態の打開に向けて幾多の論戦を闘い、「教会分裂」を避けるために大いに力を発揮した。その後も、聖ベルナールは中央ヨーロッパに渦巻く政治的な混乱と数々の宗教的な難問題に深く関わりその多くを解決して、「クレルヴォー修道院の聖ベルナール」の名声はさらに輪をかけて高まって行く。

Ref.
「テンプル騎士団」の急激な発展、特権と横暴な支配、突然の解散
勝利に終わった「第一次十字軍」の後、エルサレムは奪還され再びキリスト教徒の聖地となった。結果、ヨーロッパからおびただしい数のキリスト教徒が押し寄せた。しかし政治的に奪回したエルサレムはイスラム教徒支配地に囲まれていたため、聖地巡礼のキリスト教徒は常にイスラム盗賊団の格好のターゲットとなり、巡礼者達は大きな危険を伴い聖地に向かわねばならなかった。地中海の港ヤッファYafo(現在=テル・アヴィブ南地区)からエルサレムへ向かう約60kmの道筋で数百人規模のキリスト教徒の虐殺さえも発生した。

そんな状況下、エルサレム王ボードゥアンU世に清貧・貞潔・服従、そして聖地巡礼のキリスト教徒の保護を誓う敬虔なユーグ・デュ・ペイヤン Hugh de Payens などフランスからの合計9名の貴族騎士が現れた。ボードゥアンU世はこの騎士達の本拠地として王宮の東側、かつてのユダヤ・ソロモン王の創建したエルサレム神殿(テンプル)があった場所を騎士達に与えた。
これにより9名のキリスト教徒騎士達は「キリストとソロモン神殿の騎士達」、いわゆる「テンプル騎士団」と呼ばれるようになる。この騎士団創設にシトー修道会の聖ベルナールが深く関わったとされている。

※エルサレム神殿は、紀元前10世紀にユダヤ・ソロモン王が創建、その後紀元前6世紀に新バビロニア軍に破壊され、ユダヤ人は「バビロンの捕囚」となる。その後、新バビロニアが崩壊すると捕囚のユダヤ人4万以上が祖国へ戻り、紀元前6世紀の終わりにダレイオスT世により神殿の再建(第二神殿)が行われた。イエスの生まれる直前の紀元前1世紀には、ヘロデ大王による大規模な神殿の拡張が行われたが、紀元70年、神殿は「嘆きの壁」を残しローマ帝国軍により完全に破壊され、その後再建されることはなかった。

テンプル騎士団は、1128年の創設後の約1世紀半、何度となく結成された十字軍の遠征と共に聖地エルサレムと中東地域で活動と発展を見る。聖地での活躍と幾多の功績から多くの特権を勝ちっ取り、次第に騎士団の組織は独走し肥大化して行く。
テンプル騎士団は王侯貴族に資金を貸し出す今日の「銀行システム」、あるいは巡礼者達がヨーロッパ本国で騎士団に預けた金銭に相応しい手形書類を受け取り、聖地で現地貨に換金する、言うなれば現代の海外旅行で利用される安全な「トラベラーズ・チェック TC」の発行など、保障と精度の高い金融システムの構築も行い、傲慢さと武力による支配力と共に膨張路線を続けた。
しかし、「第八次十字軍」の遠征の後、13世紀の終末の1291年、「第八次十字軍」の延長でもある中東アッコンの陥落(第九次十字軍とも言う)の結果、テンプル騎士団の聖地防衛と巡礼者の保護という「聖なる大義」は消滅してしまい、テンプル騎士団はフランスを主としてヨーロッパへ撤退する。たがその貪欲と横暴さは目に余るものがあり、次第にローマ・ヴァチカン教皇とヨーロッパの王侯貴族、さらには庶民社会からも「恐怖の騎士団」とされ強い批判を受けるようになる。

14世紀の初め、ハンサム・ボーイで「端麗王/美男王」と呼ばれた策略家のフランス王フィリップW世とその傀儡(かいらい)教皇クレメンスX世の強攻策で、教皇庁がローマからプロヴァンス地方アヴィニオン(アヴィニオン教皇庁宮殿 下描画)へ移された後、1312年、巨大な資金力と支配力を誇示していたテンプル騎士団は突如として解散させられる。
その背景と実態は、当時、フランス王国は北方イングランドやフランドルとの戦いで「銀行」でもあったテンプル騎士団に莫大な借金があり、騎士団の強制解散はそれを負債免除、借金の帳消しを行うための強引な政治力による解決策でもあった。

解散させられたテンプル騎士団の利権は「聖ヨハネ騎士団」に有償で譲渡された。聖ヨハネ騎士団はテンプル騎士団よりわずか15年ほど前にエルサレムで設立された修道騎士団で、当初は病院の管理を行う「ホスピタル騎士団」と呼ばれていた。
その後、1291年のアッコンの陥落でテンプル騎士団などと同様に聖ヨハネ修道騎士団もエルサレムから撤退して、キプロス島を経由して本拠をエーゲ海ロードス島へ移し「ロードス騎士団」と呼ばれた。この時期に解散したテンプル騎士団の利権を譲り受けるが、16世紀になってオスマン帝国との戦いに敗れ、地中海の要衝マルタ島へ移り「マルタ騎士団」と呼ばれるようになる。

アヴィニオン教皇庁宮殿 Papacy Palace, Avignon/(C)legend ej
                アヴィニオン教皇庁宮殿/プロヴァンス地方/描画=Web管理者legend ej
                宮殿前の広場はやや斜面 アヴィニオン大聖堂は宮殿の北側(左方)に隣接
                世界遺産/中世キリスト教の混乱/アヴィニオンとローマ水道橋ポン・デュ・ガール

「聖ベルナールの十字軍」と聖ベルナールの最期

第二次十字軍/聖ベルナールの勧誘演説
  12世紀半ばの1145年、勢力を拡大してきたイスラム教徒が、第一次十字軍の遠征時に中東につくられた最大級の十字軍国家エデッサ伯国(Comte d'Edesse/現在=トルコ・シリア国境付近) を襲撃占領した。即早馬でヴァチカンへ連絡が入り、キリスト教ヨーロッパに心理的な危機感が高まった。
これに対応するため、かつて聖ベルナールの弟子でローマ南郊外のトレ・フォンターナ修道院の院長であった「ピサのベルナール」、後のヴァチカン教皇エウゲニウスV世(在位1145年〜1153年)が聖地エルサレム救援の「第二次十字軍」の派遣を呼びかけ、その勧誘の提唱が教皇の師匠であるクレルヴォー修道院の聖ベルナールにより各地で行われた。

歴史的に最も有名となった勧誘演説は、1146年の復活祭の日(3月末日)、「マグダラのマリア」に関わるブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院(下写真)での伝説的とも言える説教であった。
ヴェズレー修道院の丘の斜面に集まった信仰深いおびただしい数の人々を前に、聖ベルナールが十字軍の派遣提唱を力強く説き、民衆のみならず、フランス軍の指揮官となるサン・ドニ修道院で育ち信仰心の溢れるフランス「若年王」のルイZ世を初め、ヨーロッパ最強で最富裕と言われたその王妃アリエノール・ダキテーヌ、さらにトゥールーズ伯アルフォンセZ世など、聖ベルナールの説教に感動した国王や有力貴族、司教までもが十字軍に参加して中東のイスラム教徒との戦いに赴くのである。
その後、聖ベルナールは北フランスからネーデルランド地方(オランダ・ベルギー)、ライン河畔地方も訪れ、同様な勧誘演説を行い、指揮官の一人となるホーエンスタウフェン朝神聖ローマ帝国(ドイツ)のコンラートV世や毛織物産業で活況したフランドルのティエリ伯も参加するなど、聖ベルナールの十字軍勧誘の効果と影響は絶大なものであった。

ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂・「聖霊降臨」 Basilique Sainte Marie Madeleine, Vezelay/(C)legend ej
            ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂・タンパン彫刻・「聖霊降臨」/ブルゴーニュ地方
           世界遺産/ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院 聖マリー・マドレーヌ大聖堂

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「聖ベルナールの十字軍」
  ヴェズレー修道院を初め、ヨーロッパ各地での聖ベルナールの感動的な説教と呼びかけで「聖ベルナールの十字軍」とも言われ、フランスを初め、ヨーロッパ各地のキリスト教徒が多数従軍した「第二次十字軍(1147年〜1148年)」は、総勢10万人とも、14万人とも言われ規模的には大いに盛り上がった軍勢であった。
しかし、予想に反して軍事目的意識の明確性に乏しく、指揮官同士の意見対立や指揮と組織統制の乱れ、略奪などを優先する民衆参加者達の低い戦意などから、1148年の夏、数日間だけの攻撃で流れてしまう「ダマスカス包囲戦」の失敗を初め、結果的にはキリスト教徒側の強調すべき歴史的な成果は上がらなかった。
勝利に至らない不完全燃焼の「ダマスカス包囲戦」の後、「失敗」の烙印を押された「第二次十字軍」は撤退・解散となった。同時に十字軍の派遣を呼びかけたヴァチカン教皇エウゲニウスV世、そしてその勧誘説教を行った聖ベルナールの指導力と権威は急速に弱まって行く。聖ベルナール、58歳の時であった。

聖ベルナールの最期と埋葬
  厳しく絶え間のない聖務と指導、各地への長い旅路、粗食の生活、そして大切な友人達、特に1152年には「第二次十字軍」を指揮した神聖ローマ帝国コンラートV世が亡くなり、さらにその翌年の1153年7月にローマ東方25kmの別荘地ティヴォリで教皇エウゲニウスV世までも亡くなり、聖ベルナールの体力も強靭な精神も限界が近づいてきた。
教皇エウゲニウスV世が去った翌月、1153年8月、聖ベルナールは自らが建立したクレルヴォー修道院で最期の時を過ごし、63歳でこの世を去り、修道士達により母アレスと父テセリンと同じクレルヴォー修道院内に埋葬された。
時が経過して「フランス革命」の後、1792年、革命政府により、聖ベルナールの遺骨はクレルヴォー修道院から、元々ロマネスク様式であったが1188年の焼失後、13世紀の初めに荘厳なゴシック様式で再建されたステンドグラスの美しいトロワ大聖堂へ移された。

ヨーロッパ宗教界の混乱/「フランス革命」とナポレオン/中世修道院制度の崩壊

ヨーロッパ修道会の凋落/トラップ修道院の存在
  12世紀〜13世紀の200年間が、シトー修道会とその中心的な役割を果たしたクレルヴォー修道院の最盛期であったが、それ以降の数世紀間は、ほかのすべての宗教関連組織や施設と同様に、シトー修道会とクレルヴォー修道院にとっては、凋落と崩壊への一途をたどる厳しい時代となった。
14世紀〜15世紀にはフランス王位継続を巡ってイングランドとの長く激しい「百年戦争」、そして16世紀に起こったフランス宗教戦争である「ユグノー戦争」を経る間に、クレルヴォー修道院も多くの施設を破壊され失った。同時にシトー修道会全体も統率力を失い、新規の「娘修道院」の建立は激減、意を異にする複数の地域活動グループが生まれるなど、教団の組織力は極端に低下して来る。16世紀の半ばになり、さらに規範認識の異なりや意見対立が顕著となり、教団は分裂状態となった。
そうした中、パリ西方135kmのソリニー・ラ・トラップ村 Soligny-la-Trappe のシトー修道会トラップ修道院 Abbaye de la Trappe では、もはや分裂状態のシトー修道会にあって、なおも教団創設時と同様に「聖ベネディクトウスの戒律」をより厳守する修道活動を行っていた修道院もあった。

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クレルヴォー修道院の閉鎖

「フランス革命」/クレルヴォー修道院の閉鎖/キリスト教修道院の消滅
  最後に致命的な打撃となるのは、1789年に勃発した「フランス革命」であり、この革命直前にはシトー修道会の借入金は膨大な額に膨れ上がったとされ、修道院長の任命に国が干渉し始め、結果、修道規律の低下を招き、教団は内部崩壊したに等しい状態に陥って行く。
「フランス革命」の直後、繁栄を誇ったクレルヴォー修道院には、最後の修道院長となる第51代の院長 ド・ルイ・マリィ・デュ・ロホクー Dom Louis-Marie de Rocourt の率いるたった26名の修道士と10名の平修士が残るのみであったと言う。革命政府から「修道院解散令」が発令され、1791年に修道院は閉鎖され、残っていた修道士達はクレルヴォー修道院から追放された。
修道士の一部はスイスなどへ亡命、修道院のあったバール・シュル・オーブ地方だけでなく、フランス全土には修道士が全く居なくなってしまい、クリュニー修族(クリュニー会)の創設後880年、シトー修道会の創設後680年を経て、フランス国内のほとんどすべてのキリスト教修道院は、ここに事実上消滅して行く。

クレルヴォー修道院施設の転用の変遷/ナポレオン時代の刑務所
  「フランス革命」の後、90を数えたクレルヴォー修道院の建物施設と20,000ヘクタール(200Ku=東京ドーム約4,276個分)と言われた広大な管理耕作地は、1791年、修道院の閉鎖と同時に革命政府に差し押さえられ、国家財産となり、所蔵していた膨大な数の宗教書籍はトロワへ移された。
その後、クレルヴォーの修道院施設は競売で個人所有となり、聖ベルナールが建立したフォントネー修道院、あるいはチェコ南ボヘミアのズラター・コルナ修道院(下描画)などと同様に、折からの「産業革命」で製紙工場・醸造所・倉庫などにも転用された。

フォントネー修道院 Abbaye de Fontonay/(C)legend ej
        フォントネー修道院・正面ガーデン・噴水〜修道士食堂&暖房室/ブルゴーニュ地方
        描画=Web管理者legend ej  世界遺産/聖ベルナールが建立したブルゴーニュ地方フォントネー修道院

ズラター・コルナ修道院 Zlata-Coruna Klaster, Czech-Rep/(C)legend ej
           ズラター・コルナ修道院/チェコ共和国 重要文化財/ボヘミア地方
           初秋の頃 入口には巨大なシナノキの枝葉が垂れ下がる/描画=Web管理者legend ej
           世界遺産/チェコ南ボヘミア地方チェスキー・クルムロフとズラター・コルナ修道院

その後、1808年、「フランス第一帝政」のナポレオンがクレルヴォー修道院施設を購入して、最大2,700人の囚人を収監する刑務所として使用することが決定され、ロマネスク様式の美しいトンネル・ヴォールト構造の大回廊の上階が囚人の収監部屋として改造された。
玄関間ナルテックスを備えた修道院付属のロマネスク様式の大教会堂(聖堂)は、11ベイ(支柱間スペース)の三身廊式でトランセプトへと続き、9か所の小さな放射礼拝室を付属した円形の後陣、また北側廊の第10と第11ベイには四角い礼拝室もあった。

無数のロマネスク様式の八角支柱と交差ヴォールトで尖頭アーチ型の天井を支えた広い修道士室のほか、高い天井と白色石材の美しい床面施工の修道士の食堂は、ナポレオンの時代には「フランス革命」で逮捕・収監された囚人達の食堂として使われたとのこと。
さらに18世紀の再建施設だが、シトー修道会の伝統的な建築様式である石積みの広い屋根を備えた作業納屋では、水路を経由して遠く3km離れた森の泉から水を引き、回転水車を動力にした鍛冶など色々な職人作業が行われ、また水路の水は敷地内の養魚場へも導かれたとされる。

今日のクレルヴォー修道院/刑務所/修道院・部分公開
  クレルヴォー修道院の位置は、オーブ県庁トロワの東南東55km、聖ベルナールが建立した世界遺産フォントネー修道院から北東へ約65km、南部シャンパーニュ地方を流れるオーブ川中流域、バール・シュル・オーブ地区のヴィル・ス・ラ・フェルテ村 Ville sous la Ferte の北方2.5kmである。
小さく蛇行を繰り返すオーブ川の左岸、標高200mほどの平地に建てられた修道院の周囲には、現在、穏やかに波打つ標高250m〜300mの丘陵森林と豊かな平原が広がり、地方道D-396号とD-12号が修道院の脇で交差している。修道院の周囲、南部シャンパーニュ地方の典型的な田園風景は、かつて900年ほど前の1115年、聖ベルナールがクレルヴォーの最初の修道院長に就いた時とほとんど変わっていないのかもしれない。

ナポレオンの帝政時代から長期間刑務所として使われてきたクレルヴォー修道院の施設は、1970年代以降、さらに大掛かりな修復と改造が実施され、現在でも多くの建物施設はフランス有数の大規模な刑務所として使用されている。
その一方で、かつてのロマネスク様式の修道院施設を初め、シトー修道会・「プロヴァンス三姉妹」のシルヴァカーヌ修道院などと同様にルネッサンス様式へ改造された修道院建物の一部はフランス政府文化庁が管理を行い、今日、見学者への内部の一般公開が行われている。

シトー修道会・「母修道院」

シトー修道会/波乱の歴史
  12世紀〜13世紀の200年間でヨーロッパ各地に約1,470か所の「娘修道院」を建立したシトー修道会の最盛期が過ぎ、14世紀以降、教団と修道院は「百年戦争」や「ユグノー戦争」など数世紀間にわたって厳しい歴史の嵐の影響を受ける。結果、新規の「娘修道院」の建立は激減、修道会内部では理念の混乱と組織力の低下を招き、徐々に組織的な分裂の様相を呈して来る。
16世紀の半ば、規範認識の異なりや意見対立が益々顕著となり、シトー修道会は分裂状態となった。ただ、パリ西方135kmのシトー修道会のトラップ修道院では、分裂状態のシトー修道会にあって、なおも「聖ベネディクトウスの戒律」をより厳守する修道活動が行われていた。続いて18世紀には「フランス革命」が勃発して、フランスの宗教界は大混乱となり、シトー修道会の多くの修道院が破壊され、閉鎖への道を歩む。

創設・「母修道院」/シトー大修道院/「厳律シトー修道会」の創設
  11世紀末期の1098年、シトー修道会がブルゴーニュ地方シトーの地に最初に建立した「本院・母修道院」であるシトー大修道院 Abbaye de Citeaux は、「フランス革命」の直後の1791年、革命政府から出された「修道院解散令」を受け閉鎖、シトー修道士はフランスから追放された。
「フランス革命」の嵐が収まった頃、スイスなど亡命先から戻ったシトー修道会の幾らかの修道士達は、1815年、トラップ修道院の厳しい規範を元にして、新たな教団として「厳律シトー修道会OCSO(トラピスト会)」を創設する。旧シトー大修道院は1898年に再創設され、現在、「厳律シトー修道会・聖母マリア修道院」として活動が行われている。
なお、「厳律シトー修道会OCSO トラピスト会」は「聖ベネディクトウスの戒律」を厳守する修道活動を行っていたトラップ修道院からその名を由来している。日本国内では、厳律シトー修道会(トラピスト会)系譜の北海道・灯台の聖母トラピスト大修道院と九州・大分トラピスト修道院の2か所の男子修道院、あるいは九州・伊万里トラピスチヌ修道院など5か所の女子修道院が、祈りと労働の聖務を行っている。

シトー修道会・「四父修道院」の過去と現在

ROM

第一番目・「四父修道院」/ラ・フェルト大修道院
  シトー修道会創設時に指導的な役割を果たした「四父修道院」の第一番目の「娘修道院」は、ブルゴーニュ地方のボーヌの南方40km、当初「フェルミタ Fermita」と呼ばれた平原に建てられたラ・フェルト修道院 Abbaye de la Ferte であった。ラ・フェルト修道院はイタリア・ジェノバの北西30kmのティグリエット修道院(Tiglieto 創建1120年)を初め、イタリアとフランス・ブルゴーニュ地方や中東シリアに少なくとも合計5か所に「娘修道院」を建立している。

ラ・フェルト修道院は、ほかの修道院と同様に「フランス革命」の後の1791年に閉鎖され、民間へ販売され個人所有となった。現在、付属教会堂(聖堂)などは崩壊してしまったが、クレルヴォー修道院と同じく、整然とした広い花の庭園、14世紀〜18世紀の美しい装飾品やタペストリーが展示されたギャラリーなどが公開されている。
12世紀のままの旧修道士の食堂での結婚式やレセプション・パーティ、修道院の建物をバロックとロココ様式へ改修した壮麗なホテル施設も整備されている。また、如何にも「気品のブルゴーニュ」と言える、子供達を対象とした18世紀の貴族コスチュームを身に付けてのカルチャー勉強会なども企画されている。

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第二番目・「四父修道院」/ポンティニー大修道
  フランス白ワインの産地である北部ブルゴーニュ地方のシャブリ地区に建立された、シトー修道会の第二番目の「四父修道院」は、ロマネスク様式と初期ゴシック様式が混在する12世紀のオリジナルな姿を保つ大型教会堂で知られたポンティニー修道院 Abbaye de Pontignyである(下描画)。

シトー修道会・ポンティニー修道院 Abbaye de Pontigny/(C)legend ej
                  「白い船」と呼ばれるポンティニー修道院 付属教会堂/ ブルゴーニュ地方
                  描画=Web管理者legend ej
                  世界遺産/ヴェズレー修道院/シトー修道会・「四父修道院」ポンティニー修道院

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第三番目・「四父修道院」/クレルヴォー大修道院
  上述・「クレルヴォー修道院と聖ベルナール」を参照。

第四番目・「四父修道院」/モリモン大修道院
  シトー修道会の第四番目の「四父修道院」のモリモン修道院 Abbaye de Morimond は、1115年、ディジョンの北方95kmの南部シャンパーニュ地方、現在、民家30軒が建ち並ぶ小村フリノア・アン・バッシーニ Fresnoy-en-Bassigny の外れ(今日の地方道D-139号脇)に建立された。その場所はシャンパーニュ地方からベルギー東部の山中を流れ、オランダへと下るムース川の支流であるフランバール川の源流部、標高400mの雑木林の中であった。
12世紀〜13世紀のシトー修道会の最盛期が過ぎると、ほかの修道院と同様に、モリモン修道院も16世紀の「ユグノー戦争」や17世紀の「三十年戦争」で大きな被害を被り、その度に再建が行われた。しかし、18世紀の「フランス革命」で徹底的に破壊され、1791年、「修道院解散令」から敷地は国有財産となり、かろうじて付属教会堂は残されたが19世紀になりそれも崩壊してしまう。

モリモン修道院は聖ベルナールのクレルヴォー修道院と同様に、精力的に「娘修道院」の建立を行った。プロヴァンス地方のシルヴァカーヌ修道院を初め、フランスやドイツ、オーストリアやイギリス、イタリアや東欧など、ヨーロッパ各地で270か所以上のシトー会系譜修道院の建立に直接・間接的に関わってきた。
モリモン修道院の最も有名な「娘修道院」では、先ずドイツ・ケルン大司教・フリードリヒT世が建立して、創建後にドイツとオランダに15か所の「娘修道院」を建てるディッセルドルフの北北西30kmのカンプ修道院(Kamp 創建1123年)である。あるいは神聖ローマ帝国バーベンベルグ家の辺境伯であったレオポルトV世がシトー会修道士となった息子オットーの懇願を受け、オーストリア・ウィーンの南西25kmに建立したハイリンゲンクロイツ・聖十字架修道院(Heilingenkreuz 創建1133年)も挙げられる。
さらにイタリアでは、ミラノの南西20kmのモリモンド修道院(Morimondo 創建1134年)、あるいは遠いポーランド・ワルシャワの南方120kmのボンホック修道院(Wachock 創建1179年)などがあり、何れも建立後に神聖ローマ帝国内やイタリア、東欧でのシトー修道会の活動拠点となった大修道院である。また下述するプロヴァンス地方のシルヴァカーヌ修道院は、モリモン修道院の第20番目の「娘修道院」である。

かつて、シトー修道士達が開墾した管理農地を含まない修道院の建物や庭園などの敷地だけでも、東西約700m 南北約400mの広大なスペースを占めていたモリモン修道院は、現在、建物の北翼部であったほんのわずかな壁面を残し、ほかは緑地となり完全に無と化してしまっている。
修道院があった東側には、フランバール川の湧き出た清流を堰き止めて、南北1kmの細長い「の字形」の人造湖が造られた。周りを水路で囲まれた長さ180m 幅70mの美しい幾何学庭園への給水、あるいは動力水車を回し、養魚用にも使われたであろう湖からの配水遺構が、今日、水と花咲く安らぎの庭園の存在とかつてのモリモン修道院の繁栄をわずかに伝えている。

シトー修道会・「プロヴァンス三姉妹」とマザン修道院

ROM

南フランス・シトー修道会/「プロヴァンス三姉妹」
  プロヴァンス・リュベロン地方の最南の水の街エクス・アン・プロヴァンスからアクセスできるシトー修道会シルヴァカーヌ修道院 Abbaye de Silvacane(下写真)、港町マルセイユと地中海のリゾート・カンヌの丁度中間のアクセスの難しい山間部にひっそりと佇むル・トロネ修道院 Abbaye de Le Thoronet、ラベンダーの花咲くセナンク修道院 Abbye Notre-Dame de Senanque(下写真) の3か所をもって、シトー修道会の歴史的背景と修道院建築の共通性から、シトー修道会の「プロヴァンス三姉妹」と比喩して呼ばれている。
これらの修道院には12世紀ロマネスク様式建築の基本的な技法と装飾が今日まで残されており、中世ヨーロッパの美術様式の変遷の歴史で重要な役目を果たしてきた。詳細は下記の各修道院ページを参照。

「プロヴァンス三姉妹」・シルヴァカーヌ修道院/(C)legend ej
            シトー修道会・「プロヴァンス三姉妹」・シルヴァカーヌ修道院 付属教会堂/プロヴァンス地方
            シトー修道会・シルヴァカーヌ修道院

セナンク修道院 Abbaye de Senanue/(C)legend ej
           ラベンダーの花咲くシトー修道会・「プロヴァンス三姉妹」・セナンク修道院/プロヴァンス地方
          ブログ 夏 ラベンダーの花咲く季節/シトー修道会・南仏プロヴァンス地方・セナンク修道院

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マザン修道院/「プロヴァンス三姉妹」を建立した修道院
  マザンの修道院は、「母」たるシトー大修道院の直系第7番目の「娘修道院」としてリヨンの南東35kmに建立されたボヌヴォー修道院 Bonnevaux から出た修道士達により、シトー修道会のセンター的な存在であったクレルヴォー修道院やモリモン修道院など「四父修道院」の創建時期より少し遅れて、1120年に建立された大修道院である。
後にマザンの修道院から派遣された修道士達によって、南フランス・モンペリエの西南西へ75kmのシルヴァネー修道院(Sylvanes 創建1136年)、ラベンダーの花咲く「プロヴァンス三姉妹」のセナンク修道院(創建1148年)、ル・トロネ修道院(創建1136年)、マザン修道院から西南西105kmの山中のボネーヴァ修道院(Bonneval 創建1161年)など、少なくとも合計4か所にマザン修道院の「娘修道院」が相次いで建立された。

人目に付きにくい山間部に建てられたマザン修道院であったが、フランスの多くの修道院や教会堂と同じく、14世紀〜15世紀のフランス・カペー朝の継承を巡り起ったイングランドとの止むことのない「百年戦争」で、あるいは18世紀の「フランス革命」でも大きな被害を受けその直後の1791年に「修道院解散令」により修道院は閉鎖、フランスの混乱する歴史の中ではかなくも崩壊の運命を辿った。
19世紀以降、修道院施設は次々に崩れ、教会堂の身廊も1920年代に完全に崩壊してしまい、その後、修道院の崩落石材を利用して隣接して小さな教会堂が建てられた。現在では12世紀初期のオリジナル基礎部と壁面の一部、そして、南側を流れるマザン川脇に塔を残すだけの廃墟と化し、かつての繁栄を今に伝えている。

マザン修道院の正確な位置は、アヴィニオンの北西105km、リヨンの南西130km、ローヌ・アルプ地方アルデシュ県の標高1,100m付近を流れるロワール川源流域のマザン川沿いに開けた盆地状の小村マザン・ラーベィ Mazan l'Abbaye である。現在では修道院の建物は完全に崩壊してしまい、マザン・ラーベィ村は時折神学と建築関連の研究者が訪ねるだけ、アクセスが難しい民家15軒の小村となってしまった。

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