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世界遺産/南ボヘミア民俗バロック様式の家並み・ホラショヴィツェ村 Holasovice

壮麗優美なフルボカー城 Hluboka Castle/美しいクラトフヴィーレ城 Kratochvile Castle

世界遺産/「モラビアの真珠」テルチ旧市街 Telc/トシェビーチ旧市街 Trebic


民俗バロック様式の家並み/ホラショヴィツェ村

                                lg-unesco
世界遺産/民俗バロック村
  南ボヘミア地方の中心チェスケー・ブデヨヴィツェ Ceske Budejovice から西方へ約15km、世界遺産の美しい街チェスキー・クルムロフ Cesky Krumlov から北方へ18km、詳細な地図でなければ、ホラショヴィツェ村 Holasovice はその地名さえも表記されていない。
歩いて回っても10分とかからない本当に小さな集落であるが、村には18世紀〜20世紀に建てられた南ボヘミア民俗バロック様式(フォーク・バロック)と呼ばれる家並みが残り、1998年、UNESCOは歴史的集落保存地区として世界遺産に登録している。
「民俗バロック様式」とは、バロック様式にロココやクラシック様式がミックスされた特徴的な建築様式で、この村だけでなく南ボヘミア地方の幾らかの村々、例えばホラショヴィツェ村の北方2kmのザーボジー村 Zabori、北方5kmのラドシェヴィツェ村 Radosovice などにも同様な民俗バロック様式建物が残されているが、ここホラショヴィツェ村が最も完全で建物の数も多い。

ホラショヴィツェ村/(C)legend ej
                            霧氷のホラショヴィツェ村/南ボヘミア地方

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ホラショヴィツェ村には南北に長い210mx70mのほぼ長方形の緑地があり、この緑地を囲むように一周する並木の道路に面して22軒の住宅が並び、村全体の住宅は合計40軒ほどである。家々の間口自体はそれ程広くはないが奥行きがあり、各々の建物が広い緑地を中心に放射状に細長く伸び、住宅のほか小さな納屋などを含めると合計では100棟近くが集まっている。
家々の正面外観はバロック様式で造られ、切妻式の屋根はほとんどが朱色、壁面は明るい白とクリーム色を基本に窓回りや植物モチーフの飾り部分をピンク、黄色、赤色や青色などで綺麗に装飾して、さながら映画のセットか、意図的に造った模型の家のような美しさが漂う(上写真)。またこの地方は淡水魚の養殖が盛んで、村の南側にある幅100mほどの丸い池でも魚を飼っていると言う。

ホラショヴィツェ村の歴史
  現在ホラショヴィツェ村の住民は150人前後、この小さな村が歴史の中に登場するのは13世紀の1263年で、村は当時ヨーロッパで勢力を広げていたキリスト教シトー修道会に寄進されたとされる。以降、ほとんど発展しないまま時が経過し、村は16世紀にはヨーロッパを襲ったペストの大流行でほぼ全滅の危機に扮したと言われている。
その後、18世紀頃には住民が徐々に増え、建物の外装も漆喰施工され、当時流行していた混合バロック様式で着色装飾され始めた。20世紀にかけて、村全体でこの伝統的な民俗バロック様式の装飾施工を保持したことで、今日見ることのできる可愛らしい家並みが残された。

聖ヤン・ネポムツキー
  「東欧のカラー」と言える明るい黄色と白で装飾されたネポムクの聖ヤン(ヨハネ)礼拝堂が、氷点下の雪景色の中で静かに佇んでいる。真夏なら広場として活用されるであろう緑地の北端にあるこの礼拝堂は1755年の創建と言われ、ボヘミアの有名な聖人ヤン・ネポムツキー Svaty Jan Nepomucky を祀っている。

ネポムツキーは14世紀半ばの1340年、ボヘミア地方ネポムク Neppomuk(ホラショヴィツェ村の北西80km)の町で生まれたカトリック教の守護聖人で、聖ヤコブ(ジェームス)教会で初等教育を受け、プラハ大学で学び、宮廷付きの司祭を務めた人であった。
ネポムツキーの聖務した時代、カトリック教会はボヘミア王ヴァーツラW世と激しく対立していた。ネポムツキーはヴァーツラW世王に「王妃ソフィアの告解(懺悔)を明かさなかった」、という理由で拘束・拷問を受け1393年3月29日に殉教する。

プラハ・カレル橋/(C)legend ej そうして、王令により、ネポムツキーの遺体はプラハ
 を流れるヴルダヴァ川(ドイツ語=モルダウ)のカ
 レル橋から投げ落とされた。
 この時、伝説では、川面からあるいは天空から「5
 個の☆」が現れたとされる。
 ネポムツキーの遺体は1か月後の4月17日、聖十
 字騎士団の修道士、あるいは漁師達によりヴルダ
 ヴァ川の右岸で発見され、プラハ城内の聖ヴィート
 大聖堂に埋葬された。

 現在、首都プラハのカレル橋(左写真)の欄干
 に立つ30体の聖人彫像の中に聖ネポムツキー
 の像
がある。
 チェコの人々の間で、象徴である「5個の☆」を光
 背した聖ネポムツキーの名を知らない人は居ない。


眩しいほどの晴天下のカレル橋の賑わい/プラハ
世界遺産/聖ヤン・ネポムツキー像の立つ首都プラハ・カレル橋/プラハ城・プラハ旧市街

真冬の東欧の風景/ヤン・フスの故郷フシネツ
  雪が止み、ホラショヴィツェの村から粉雪の積もった地方道を東方へ歩き、2kmほど先にあるやはり小さなヤンコフ村 Jankov へ向かう。ボヘミアの広い平原、小さな村々が離れて点在していることや寒い季節柄か、住民の姿も通行する車もまったくない。気温は氷点下だが、風がなく、頬に触れるキリキリと冷えた空気が何故か気持ち良く、徐々に遠ざかる美しいホラショヴィツェの村を何回も振り返ったりして・・・

また、チェコが生んだプロテスタント派の先駆者ヤン・フスが生まれたのは、ホラショヴィツェ村から北東へ約20kmほど(チェスケー・ブデヨヴィツェから西北西へ約35km)、人口1,300人の小さな街フシネツ Husinec である。貧しい家庭で生まれたフスは苦学の末プラハのカレル大学総長にまで上り詰め、チェコのキリスト教の改革に火を付けたが、それを許さないヴァチカンの「異端」に対する厳しい批判を受け、プラハで火刑となった。現在フスの生家は「ヤン・フス記念博物館」となっている。

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「チェコで最も美しい城」 フルボカー城

フルボカーの町/フルボカー城
  チェコ有数のヴルタヴァ川(ドイツ語=モルダウ)は、中世の美しい街チェスキー・クルムロフからチェスケー・ブデヨヴィツェを経由して、さらに北方の首都プラハへ向かってボヘミアの平原を悠々と流れている。チェスケー・ブデヨヴィツェからフルボカー・ナト・ヴルタヴァ Hluboka nad Vltavou の町まで北方へ約10kmの距離。高校生などが大勢利用するため、路線バスが頻繁に往復している。

西側に町が控え、上流の森林地帯に生育するマツ材やナラ科の樹木や葉の腐植から生成されたタンニンなどフミン酸が理由なのか、鉄分の影響から、ブランデー色のヴルタヴァ川を見下ろすような小高い尾根に建つフルボカー城 Hluboka Castle は、1250年頃に初期ゴシック様式で造営され、以降、貴族や王家の邸宅として使われてきた。この城は「チェコで最も美しい城」と称えられている。

フルボカー城/(C)legend ej 16世紀半ばになると、神聖ローマ帝国・ボヘミア・ハンガリー王フェルディナントT世が城
 をフラーデッ家へ譲り、その後は3世紀にわたり南ボヘミア地方を統治したシュヴァルツェン
 ベルク家の所有となった。
 居住者である歴代の指導者が代わる度に、フルボカー城はその都度整然としたルネッサ
 ンス様式や豪華なバロック様式、あるいは優美なロマンティック様式などへの改装が行わ
 れた。
 その後も複数回の改装と周囲に美しい建物が建てられたが、第二次大戦が始まると、
 城の最後の所有者であったシュヴァルツェンベルク家の皇太子アドルフは、ナチスの迫害
 からイタリアへ逃れ、さらにアメリアへ渡り、二度とこの城へ戻ることはなかった。
 戦後、フルボカー城はチェコ共和国へ所管が移された。


 フルボカー城・入口
 南ボヘミア地方


 空から見るならば、フルボカー城は外観の平面視野でローマ字の「A」のような左右対
 称に近い形容の壮麗優美な城である。
 特に内部の壁面の至る所にはめ込まれた木彫の飾りパネル、飾りドアー、寄木模様の
見事な床面、さらに木彫りの天井装飾パネルなどは目を見張るものがある。
フルボカー城は南ボヘミア地方で外観と内装の最も美しい建造物の最上位と称され、花の植込みとトチの大木が立ち並ぶ付属のイギリス様式の広い庭園も含め、チェコ国内だけでなく広くヨーロッパに知られ、多くのツーリストが訪れる。チェコ語や英語でのグループ構成ツアーで内部見学ができる。また、フルボカー・ナト・ヴァルタヴァの街には、毎年夏季に大規模な「フルボカー城音楽祭」を主催する「シンフォニー Sinfonie」という団体がある。

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ルネッサンス様式の美しいクラトフィヴィーレ城

クラトフヴィーレ城
  ホラショヴィツェ村の北西10kmほどにネトリツェ Netolice の町があり、その西の郊外2kmに16世紀後半に建てられたイタリア・ルネッサンス様式の非常に美しいクラトフヴィーレ城 Kratochvile Castle がある。
クラトフヴィーレの城館が建っている場所は、かつて16世紀にはローゼンベルグ家から領地の摂政へ寄贈された「レプターツ Leptac」と呼ばれた農場であった。ローゼンベルグ家の領主がこの地に狩猟に相応しい城館の建設をイタリア人建築家に依頼したのが1583年と言われ、完成は1589年であった。

クラトフヴィーレの城館は白壁に切石が露出する幾何学的なデザインの高い塔の館門を備え、朱色の屋根の長い建物とイタリア風の塀で囲まれた横140m 奥行き175mの広大な敷地の中にある。城館は刈り込まれた樹木と芝生の庭園と長方形の池があり、池の中に造られた長方形の島状の区画に白壁の映える2階建てのシャトー区画と広い芝生の庭園が整然と配置されるという、全てが完璧な左右対称を基本とする美しいイタリア・ルネッサンス様式で造られている。
建築にたった6年間という短期間で完成したという城館は、16世紀の初頭に建てられたイタリア・ローマの有名な「ヴィラ・ファルネジーナ Villa Farnesina」に共通する壮麗な美しさが漂うと称されている。城館内部で最も美しい部屋は「黄金の広間 Golden Hall」で、客間でもあり、音楽サロンの役目も果たした。黄金の広間の壁画やドアー左右の壁画、さらに窓のニッチなどはすべて金色の錦織り模様のレリーフ装飾が施されている。
城館の2階を飾るローマ時代の歴史絵巻などをモチーフにしたフレスコ画は、16世紀のイタリアの有名な画家アントニオ・メラーナ Antonio Melana の作品とされ、彼は城館だけでなく、聖母マリア礼拝堂のフレスコ画も担当した。また、聖母マリア礼拝堂は、教会精神を隈なく表現した「ボヘミア・ルネッサンス様式」の建造物の典型例の一つとされ、特に白地に金色の模様、天使の舞う天井レリーフ装飾、キリストの受難を叙事詩的に表現した壁画は見事と言うしかない。

Ref.  東欧の地方料理

美しい城のあるフルボカーの町にはヴルタヴァ川が流れ、街の周囲には大小さまざまな湖や池が点在していることからも、当地は世界遺産ホラショヴィッツェ村と同じく淡水魚養殖が盛んで、コイ(鯉)を使った魚料理が「自慢メニュー」となっている地元レストランも幾軒かある。
2000年の秋、フルボカー城を訪ねた後、幅1kmほどのムニッキー湖の畔にあった魚料理レストランで食したチェコ・コイ(kapr 鯉)の地元風スープの味は、人生の「味の記憶」とでも言おうか絶品であった。チェコ人に最も人気のある淡水魚は何をさて置いてもコイで、特にクリスマス時期、どの家庭でもコイ料理が食卓に上がることは良く知られている。また、コイ(鯉)料理では東フランスのサングオ地方も知られている。

フランス・南部アルザス・サングオ地方/ダンヌマリー&フェレット城/「鯉フライ街道」とコロンバージュ様式の村々

個人的な偏りの経験論を言えば、東欧の淡水魚を使った魚料理の記憶では、かつて1980年代に複数回、累計2か月間余り滞在したハンガリー南部、中世の香り漂う街セゲド Szeged で何回も食した「ハーラスレー halaszle/漁師のスープ」が回想できる。
この風土的な魚スープはセゲドを流れるティサ川 Tisza 流域で獲れるヨーロッパ・ナマズ(harcsa 鯰)やティサ・コイ(ponty 鯉)、オニオンなどを少し辛いパプリカと白ワインで煮込んだ朱色のシチューに似た濃厚な辛味スープで、臭みもなく、身体が冷え込む寒い日に食する絶好の料理である。
ハンガリーでは西部のバラトン湖を「海 tenger」と呼んでいるが、塩水の本物の海を持たない東欧の国々では、牛や羊、鹿やウサギなどの肉料理は無論のこと、人々の間で川や湖、養殖池などから上がる淡水魚を使った魚料理も伝統的に好まれてきた。

「食」はその国や地方の文化であり、偶然に訪ねたどんな田舎の町や村であっても、ツーリストはガイドブックに載っている有名レストランの高級ディナーではなく、できれば古めかしい大衆食堂でも良い、地元の人々が食する地方料理を真っ先に挑戦すべき、と常々私は思うのだが・・・
また、内陸地方特有の魚料理から離れるが、やはり東欧ブルガリアの地方料理のメニューに必ず上る豚肉とトマト、オニオン、キノコなどを白ワインで煮込んだ濃厚なシチュー・「カヴァルマ kavarma」も絶品である。カヴァルマ料理では氷点下15℃の夕刻、ブルガリアの歴史を刻んだ古都ヴェリコ・タルノヴォ(下写真)で食した経験は忘れがたい。

ヴェリコ・タルノヴォ Veliko Tarnovo/(C)legend ej
                    真冬の古都ヴェリコ・タルノヴォの夜/バルカン山脈
                    「カヴァルマ」の味/ブルガリアの歴史を秘めた古都ヴェリコ・タルノヴォ

「モラビアの真珠」 可愛らしいテルチ旧市街

                               lg-unesco
世界遺産/テルチ旧市街
  小さな町テルチ Telc はチェスケー・ブデヨヴィッツェ Ceske Budejovice の東方約80km、ブルノ Brno の西方90kmほどのモラビア地方の西南部に位置している。テルチの人口は6,000人である。早くも中世11世紀後半には、テルチの町は繁栄を始める。14世紀に入ると貴族のフラデッツ家の支配が始まり、その後支配者が替わるが、最終的にはリヒテンシュタイン家が統治してきた。

テルチの旧市街はそれ程広くはなく、周囲を三つの湖でU字形に囲まれ、天然の要塞的な地勢に特徴を見せる。旧市街の中心部には、1530年の大火の後、現在の町の形容を造った人物ザハリアーシュ・フラデッツ Zacharias z Hradce の名前を付けたザハリアーシュ広場(下写真)がある。
広場の幅自体はそれ程広くはないが、長さ350mもある総石畳の広場の最も奥まった場所には、13世紀の建立と言われるテルチ城、ゴシック様式の聖ヤコブ教会、イエスズ教会が並び、そして残りの周囲はファサード装飾が見事な優美可憐でカラフルなルネサンス様式の歴史的建造物が軒を連ねている。UNESCOはこの「おとぎ話の世界」のようなテルチの旧市街を世界遺産に登録している。

            テルチ旧市街/(C)legend ej
                         テルチ旧市街・ザハリアーシュ広場/モラビア地方

テルチ城の裏側にはブナなどの大木の生い茂る自然を十分に活かしたイギリス式庭園が広がっている。首都プラハ やボヘミヤ地方チェスキー・クルムロフなどと比べると、テルチは本当に小さな町と言える。
私は「モラビアの真珠」と呼ばれるこの小奇麗な旧市街を2000年の秋、そして粉雪の舞う2006年の真冬にも訪ねたが、いずれの時期もカラフルな家々の並ぶ広場の優しい風景と静けさに心癒された。

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丘に佇む聖ヤン教会堂
  テルチ旧市街の西方へ1kmほど離れた小高い丘の上には、二つの塔をもった白壁と朱色の屋根が印象的な聖ヤン・ネポムツキー教会堂がポツンと建っている。
この教会堂は2000年と2006年に二度訪れたが、抜けるような青空に対比して周囲の白樺や広葉樹の葉枝が黄色く染まる秋の紅葉の頃、あるいは氷点下の外気の中に音もなく粉雪の舞う冬の時期、遠方から眺める聖ヤン教会堂のその姿は、いかにも東ヨーロッパ的な趣があり、絵のように美しい。

小奇麗な街テルチを訪れたなら、ぜひチェコを、いやヨーロッパを代表する美しい街を訪ねたい:
世界遺産/チェコ首都プラハのプラハ城と美しい旧市街
世界遺産/ボヘミア地方の中世都市チェスキー・クルムロフ(下写真)とズラター・コルナ修道院

チェスキー・クルムロフ Cesky Krumlov/(C)legend ej
                 世界遺産/初秋のチェスキー・クルムロフ・王城と旧市街/ボヘミア地方

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トシュビーチ旧市街

                                lg-unesco

世界遺産/トシェビーチ旧市街/聖プロコープ大聖堂
  交通の要衝トシェビーチ/トジェビーチ Trebic の町は、世界遺産の町テルチから東方の大都市ブルノ方面へ向かい約30Km、ブルノから西方へ60kmほど戻る位置である。現在のトシェビーチの町は、周囲に工業団地や新市街地も広がるモラビア地方を代表する人口4万人の中都市である。
2003年、UNESCOはトシェビーチを貫くイーフラヴァ川 Jihlava 沿いの低い丘に建つ聖プロコープ/聖プロコピウス St Prokop 修道院付属大聖堂と旧市街のユダヤ人街、そしてユダヤ人の墓地などを世界遺産に登録した。

12世紀が始まったばかりの1101年、イーフラヴァ川脇のトシェビーチの丘にベネディクト会の修道院が建立された。これによりトシェビーチの宗教的な重要性が高まり、さらに特に交易と商業面で大きな恩恵を受けた町は急速に発展拡大して行く。13世紀になるとベネディクト修道院の付属教会堂は、後陣や北入口にバラ窓を備えた後期ロマネスク・初期ゴッシック混合様式の三廊式の聖プロコープ大聖堂バシリカに改築された。大聖堂の重要な区画であるロマネスク様式の交差ヴォールト天井の地下納骨堂クリプトやフレスコ画などは、700年前のこの時代に属している。
14世紀の半ば頃から、キリスト教徒の町にユダヤ人の居住が始まり(最初の記述は1338年)、それ以降トシェビーチはモラビア地方のユダヤ人のセンター的な役目を果たすことになる。15世紀にはハンガリーの攻撃で修道院と大聖堂は大きな被害を被り、大規模な改修が行われた。
続く16世紀の改築では修道院の一部が要塞となり、17世紀の「三十年戦争」の後には、聖プロコープ大聖堂が馬の厩舎に使われたり、地下納骨堂クリプトは穀物やビールの倉庫として200年間も非宗教的な目的に使用されたされる。18世紀以降、修道院と聖プロコープ大聖堂には再び本来の宗教的な目的と使用が復活し、20世紀になってからも大聖堂の内装の改修が行われた。

ユダヤ人街とその墓地
  同じく世界遺産となったトシェビーチのユダヤ人街は、家屋の密集した狭い路地や通り、小さな広場なども含め、現在120棟ほどの住宅が聖プロコープ大聖堂の東側の旧市街、そしてイーフラヴァ川の南側の旧市街などに残されている。18世紀のトシェビーチの街には、260を数えるユダヤ人家族が居住し、19世紀には最大1,500人のユダヤ人が生活していたとされる。現在でも18世紀の壁画で装飾された住宅も残されている。
また、世界遺産の対象であるユダヤ人の墓地は、17世紀になり、旧市街の東方に位置するフラーデクHradek の丘の北斜面に集合的に移された。現在3,000を数える墓石(11,000墓)が公園のような緑地帯に残され、ユダヤ人墓地としては中央ヨーロッパで最大級の規模である。最も古い墓石は17世紀の移転時の1625年に遡るとされる。

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