旅人 legend ej の世界紀行・心に刻む遥かなる「時」

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シトー修道会フォントネー修道院(大修道院) Abbaye de Fontenay

城塞都市スミュール・アン・オーソワ Semur en Auxois

「フランスの最も美しい村」フラヴィニー・シュル・オズラン Flavigny sur Ozerain

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フォントネー修道院・回廊 Abbaye de Fontenay/(C)legend ej
                        フォントネー修道院・静かな回廊/ブルゴーニュ地方

フォントネー修道院の位置/歴史/創建〜発展〜閉鎖

フォントネー修道院の位置
  パリ・リヨン駅発の「ディジョン方面行き」の新幹線TGVは、金属加工系の中規模な工場が稼動しているブルゴーニュ地方モンバール Montbard にも停車する。モンバールは人口約6,000人である。フォントネー修道院 Abbaye de Fontenay/Fontenay Abbay(大修道院)は、ブルゴーニュ地方の中心ディジョンから北西へ約60km、モンバールの街の北東約6kmの山間部に建てられている。
修道院の周囲には雑木を中心とした森が広がり、丘陵とも言える低い山に挟まれたフォントネーの谷間には清涼で豊かな水量のフォントネーの小川が流れている。フォントネー修道院への行き方、交通アクセスは若干難があるが、ブルゴーニュが誇る最も重要な観光スポットであり、無理してでもぜひとも訪れたい場所と言える。

フォントネー修道院の創建
  フォントネー修道院の歴史を紐解くと、12世紀の1118年、修道院はシトー修道会の「四父修道院」の一つである南部シャンパーニュ地方クレルヴォー修道院(Clairvaux 大修道院)の聖ベルナール St Bernard により、クレルヴォー修道院の第6番目の「娘修道院」、シトー修道会全体の順番では第14番目の修道院として建立された。

中世ヨーロッパのキリスト教・クリュニー修族・シトー修道会・聖ベルナールや家族の生涯などの詳細
クリュニー修族とシトー修道会/聖ベルナールとクレルヴォー大修道院/「プロヴァンス三姉妹」

フォントネー修道院建立の下地、特に土地や資金面では聖ベルナールの母アレス Aleth の兄、モンバールを治めていた聖ベルナールの叔父のレイナール・デュ・モンバール Raynald de Monbard/Renaud(FR) の修道院の創建への期待と援助による所が多い。また、フォントネー修道院の創建後には、母アレスの弟、聖ベルナールの理解者であり、同時に創設間がないシトー修道会へ入会した叔父ギャウドリィ・デュ・トィヨン Gaudry de Touillon は、自身の所有地であったフォントネー修道院の北東5kmのトィヨン Touillon の領地をすべて修道院へ寄進している。
さらにイングランド・ノーリッジのエブラルド司教(後述)が資金提供を申し出ることで、フォントネー修道院は聖性な聖ベルナールの精神、資金力と土地、クレルヴォー修道院から派遣された修道士達の意気と技術ですべてを盤石にして、建立後20年が経過した1139年〜1140年教会堂(聖堂)などを除き、現在見ることのできる修道院施設をほぼ完成される。

発展と閉鎖の波乱の歴史
  フォントネー修道院は現存するシトー修道会系譜の修道院にあって、12世紀の創建当時のままの修道院建築様式を留める数少ない施設であり、特にその建築と構成は、聖ベルナール指導のシトー修道会の理想観であった簡素性とロマネスク様式を見事に融合させている。
フランス各地の修道院や教会堂などの多くの宗教施設がそうであったように、フォントネー修道院もまた激動する中世ヨーロッパの歴史の中で翻弄され続けてきた。シトー修道会とフォントネー修道院の最盛期であった12世紀の半ば、1153年に修道院の創建者であった絶大なる力を誇った聖ベルナールが亡くなり、その後13世紀の半ばには宮廷付の修道院となるが、しばらくするとシトー修道会とフォントネー修道院の繁栄と指導力にも徐々に陰りが見え始める。
続く14世紀になると、フランス・カペー朝シャルルW世の妹、ヨーロッパ貴族社会で「絶世の美女」と言われたイザベルが、イングランド王エドワードU世の王妃となってフランスからイングランドへ嫁いで行く。そして本国フランスでは350年近く続いたカペー朝の最後の王となる兄シャルルW世が亡くなり、王に男子継承者の無かったため、従弟のヴァロワ家フィリップY世がフランス王に就く。
シャルルW世亡き後、W世王の妹イザベルの息子イングランド王エドワードV世が、「自らがフランス王の血を引く正当なる継承者」を唱えたことで、1337年(or 1339年)〜15世紀・1453年まで、フランス王位継承と毛織物産業で経済的な繁栄をしていたフランドル地方などの領地の獲得と利権を巡って、フランスとイングランドは長い「百年戦争」を続けることになる。
この数世代に引き継がれた「勝ったり負けたり」の止むことのない戦争を通じて、フォントネー修道院もイングランド軍の激しい攻撃や一時的な占拠さえも受けた(下記コラム)。

16世紀、神聖ローマ帝国(ドイツ)の大学教授マルティン・ルターの聖書信仰による救済の主張から始まり、10万の農民が殺される「ドイツ農民戦争」を初め、「宗教改革」の戦争がヨーロッパ各地で勃発する。フランスでは神学者カルヴァンの思想の影響を受けたプロテスタント教会(改革派/ユグノー教会)が、カトリック教会に激しく対抗した1562年〜1598年の「ユグノー戦争」が起こる。
ユグノー派であったブルボン朝初代のアンリW世(バラ王)がカトリック教への改宗を行い、同時にユグノー派の権利も保障したことでようやく戦いの終息をみるが、その被害と影響は計り知れなかった。各地のカトリック教系の修道院や教会堂は激しい破壊行為を受け、シトー修道会全体も統率力を失い、複数の地域活動グループが生まれるなど、教団の組織力は極端に低下して来る。

ズラター・コルナ修道院/(C)legend ej 最後には、18世紀の「フランス革命」の激しい嵐がフォントネー修道院にも襲いか
 かる。その結果、革命の余波が静まった数年後の1791年革命政府から強制的
 な「修道院解散令」が発令され、フォントネー修道院は閉鎖され、最後にわずか
 に残ったシトー修道士8人は修道院を去って行く。
 その後、フォントネー修道院の広い敷地と施設は競売(15万ポンドとされる)で
 個人財産となり、小規模な製紙工場となり、19世紀に入ってさらに転売され陶
 器を焼く工場となった。
 そして、1860年代にイングランドで始まった「産業革命」の流れから、シトー修道
 会クレルヴォー修道院やチェコ南ボヘミアのズラター・コルナ修道院(左写真)な
 どと同様に、20世紀の初頭にはフォントネー修道院も神聖な宗教施設から需要
 が延びていた産業の担い手の紙を生産する本格的な工場へと姿を変える。
 現在、UNESCO世界遺産であると同時にフォントネー修道院はフランスの「歴
 史的建造物」
に指定されている。


 ズラター・コルナ修道院/チェコ共和国 重要文化財/ボヘミア地方
 世界遺産/チェコ南ボヘミア地方チェスキー・クルムロフとズラター・コルナ修道院

Ref.
中世ヨーロッパの混乱
フランスとイングランドとの「百年戦争」の仕掛け人であるイングランド王エドワードV世の妻・王妃は、「下記コラム」に示すとおり、遠く200年以上遡れば、聖ベルナールの妹・聖アンベリーヌと貴族アンセリックU世の一人娘の6代後の子孫となる高貴なアヴェーヌ家に生まれたフィリッパ・アヴェーヌであった。
逆に言えば、イングランド王の妻・王妃フィリッパの7代前の祖先は聖アンベリーヌであり、その兄は中世キリスト教世界の最も偉大なる聖ベルナールである。故に王妃フィリッパの夫である王エドワードV世のイングランド軍は、フィリッパのブロードライン(家系・祖先)にあたる聖ベルナールの建てたフォントネー修道院を襲撃したことになる。このことを王エドワードV世が意識したか否か分からないが、歴史の皮肉と言うか、因果な巡り合わせと言うか、中世の混乱する政治と国家権力争いの現実的な出来事でもあった。

「娘修道院」の建立
  フォントネー修道院は、1118年の創建後、しばらくして指導力を発揮し始め、多くの修道士を育て、フランス国内で少なくとも4か所の「娘修道院」の建立に直接的に関わっている。
それらはわずかに往時の建物施設が残るオクセールの北西35kmのレ・ゼシャリ修道院(les Echarlis 創建1131年)、オータンの南西65kmのセプ・フォロン修道院(Sept-Forens 創建1132年)、ローヌ・アルプ地方/ジュネーブの西方20kmの標高600mの谷間に造られ「フランス革命」で破壊されたシェズリィ・フォロン修道院(Chezery Forens 創建1140年)、そしてヴェズレー修道院近郊のアヴァローンの北方7kmに一部の建物が残るマルシリィ修道院(Marcilly 創建1460年)などである。
うち、「ロワール・ラテラル(平行)運河 Canal Lateral a la Loire」の岸辺、修道院の建物だけでも南北270m 東西150mの大規模なセプ・フォロン修道院は、現在、「フランス革命」の後に創設された厳律シトー修道会(トラピスト会)が活動している。

世界遺産への登録
  波乱の歴史を経て、その後、1906年になり、製紙の生産が停止され、ようやくフォントネー修道院の歴史的・建築学的な価値が認められ修復工事が行われた。現在も歴史と文化に有識ある個人の所有財産であるが、1981年、UNESCOは世界遺産に登録をしている。
個人財産の世界遺産登録は非常に珍しい例だが、中世の姿へ修復された修道院施設は、12世紀ロマネスク様式の修道院建築を最も見事に保ち、一般公開が行われている。900年の歴史を秘め、中世キリスト教世界で最も有能でヒューマニストであったとされる聖ベルナールの建立したシトー修道会フォントネー修道院は、聖マリー・マドレーヌ大聖堂のヴェズレー修道院と並んで、今や北部ブルゴーニュ地方の最も重要で最も人気の高いツーリスト・スポットとなっている。

Ref.      聖ベルナールの妹聖アンベリーヌの娘ペトロニール(エリザベス)とその子孫の系譜

聖ベルナールの妹アンベリーヌは貴族アンセリックU世と結婚をする。アンベリーヌは23歳になった1115年頃一人娘となるペトロニール(エリザベス Petronille-Elizabeth)を生んでいる。その後、アンベリーヌは聖ベルナールと同じ信仰の道を選ぶ。そして、娘ペトロニールはバール・シュル・セーヌを治めていた貴族ギー Guy と結婚をして、その子孫の系譜はフランスやベルギー、イングランドの国王〜貴族家系にまで広がり拡大して行く。

         聖ベルナール画像/オーストリア・ハイリンゲンクロイツ修道院 所蔵         聖アンベリーヌ画像/Le Eglise d'Orgelet,Jura
                「聖ベルナール」の画像                 聖ベルナールの妹・「聖アンベリーヌ」の画像
     写真情報:Georg Andreas Wasshuber 1700年作     写真情報:18世紀 「サロン・ド・パリ」 Adrian Richard 作
     ウィーン南西25km 「ウィーンの森地方」 シトー修道会系譜   東フランス・ジュラ地方オルジュレ 昇天の聖母教会堂 所蔵
     ハイリンゲンクロイツ聖十字架修道院 所蔵

「聖ベルナール」の画像を所蔵するオーストリア・ハイリンゲンクロイツ聖十字架修道院 Heilingenkreuz Abbey は、シトー修道会の「四父修道院」の一つ、モリモン大修道院が建立した「娘修道院」の一つであった。修道院には10世紀の辺境伯レオポルトW世を初め、フリ−ドリヒT世やフリードリヒU世(闘争公)など、13世紀までオーストリア公国を統治したバーベンベルク家の継承者が埋葬されている。
一方、「聖アンベリーヌ」の画像を所蔵するオルジュレ Orgelet は、ブルゴーニュ地方マコンから北東65km、人口1,600人、ジュラ地方の小さな村である。オルジュレの昇天の聖母教会堂は13世紀初めからの由緒ある建物だったが、17世紀初期・1606年の火災、その後の戦争でほとんどの区画を破壊、その後に再建された。「聖アンベリーヌ」の画像は18世紀に再建された教会堂・「聖アンナ礼拝堂」の壁面に飾られている。

中世ヨーロッパのキリスト教・修道院と修道会・聖ベルナールや妹聖アンベリーヌの生涯などの詳細
クリュニー修族とシトー修道会/聖ベルナールとクレルヴォー大修道院/「プロヴァンス三姉妹」

娘ペトロニール(エリザベス)を聖アンベリーヌの「1代目」の子孫とすれば、ルクセンブルグ王家を経て、「6代目」の子孫に現在のフランス北部アヴェーヌ・シュル・エルプを治めたギョームIII世(ベルギー南部エノー伯T世)が生まれる。ギョームV世(エノー伯T世)とその妻は8人の子供に恵まれ、5人いた娘の二番目が、1328年、イングランド王エドワードV世と結婚をして、王の妻・王妃となるフィリッパ・アヴェーヌ Philipa d'Avesnes/Hainault である。
高貴な家系であったアヴェーヌ家では、イングランド王妃となったフィリッパのみならず、彼女の年長の姉マルグリットは神聖ローマ帝国(バイエルン)皇帝ルートヴィッヒW世の妻・王妃となる。この二人の姉妹の結婚で、イングランド王エドワードV世と神聖ローマ帝国ルートヴィッヒW世は義理の兄弟となった。

フォントネー修道院/主要な施設/教会堂

付属教会堂(聖堂)/教会堂・西入口
  フォントネー修道院の建物のほとんど全ては、ヨーロッパに普及発展してきた12世紀ロマネスク様式で建てられている。広大な敷地のフォントネーの修道院、その北側を占める施設で最も大きな建物が、1139年に工事が始まり、1147年に完成を見た修道院の付属教会堂(聖堂)である。
付属教会堂は「教会」ではなく、修道士達が祈りを奉げ、儀式を執り行う修道院付属の厳粛な聖堂である。フォントネー修道院の付属教会堂は、全長66m、平面視野ではロマネスク様式以前のバシリカ様式の教会堂に似ているが、立面視野では高窓を付けるバシリカ様式と異なり、窓のない大アーケードのみの暗いトンネルヴォールト天井である。教会堂の身廊と左右の側廊は一つの大屋根に覆われ、内陣の形状や納骨クリプトの配置など、すべてが純然たる12世紀ロマネスク様式の建築である。

教会堂の西入口の両側柱の柱頭にわずかな幾何学紋様の装飾が施されているが、入口タンパン部とそれを取り囲む半円の飾りアーチ/アーキヴォルト部にはまったく装飾がない。単純な紋様さえも許さない徹底した簡素性を貫き、無駄を完璧に省くシトー修道会、その指導者である聖ベルナールの拘った修道院建築様式の典型がここにある。

フォントネー修道院・身廊/(C)legend ej ● 教会堂・身廊
 教会堂の身廊(左写真)の幅は約8m、力強い淡赤茶
 色砂岩の尖頭アーチが走り、高さ17m近いトンネルヴォー
 ルト天井を補強している。
 側廊ベイの窓からの光が唯一の光源となって、ほとんど飾り
 彫刻のない身廊の大アーケードの強固な複合柱(円柱と
 角柱の接合柱)をわずかに照らしている。
 尖頭アーチで補強された身廊のトンネルヴォールト天井、そ
 れを支える複合柱とその側廊側の力強い厚めの控え壁、そ
 して漂う厳粛なる空気、簡素にして静寂な暗い空間・・・ 
 壮麗さを否定し限りなく無装飾を基本としたシトー修道会
 の建築様式で仕上げられたこの付属教会堂の内部こそが、
 聖ベルナールが拘り続けた12世紀ロマネスク様式の最もた
 る建築仕様を残す場所と言える。

 また、教会堂の左右の側廊は、ずんぐりした無装飾の側
 柱や石材の積層がむき出し状態の厚い控え壁、そして壁
 面から受ける圧迫感も働き、視覚的には比較的狭い空
 間に感じる。


 フォントネー修道院付属教会堂/身廊から内陣
 ブルゴーニュ地方






教会堂・内陣
  教会堂の内陣は多くの教会堂で採用されている半円形ではなく、プロヴァンス地方のシトー修道会シルヴァカーヌ修道院(下写真)と同様なフラットな方形で、祭壇には横手方向に長い「イエスの磔刑(たっけい)」の大型の図像がある。複雑な幾何学紋様が施された床面は、イングランド・ノーリッジのエブラルド司教の納骨クリプトである。エブラルド司教は創建から約20年ほど経過した1139年に始まるフォントネー修道院の本格工事の費用提供を申し出た人である。
なお、多くのツーリストが話題にする内陣のステンドグラスは1977年に装着されたもので、12世紀ロマネスク様式の建築ではなく、個人的には簡素性を貫いて来たシトー修道会の修道院であるここフォントネー修道院に相応しいか否か、幾分考えてしまう造作ではあるが・・・

            シルヴァカーヌ修道院/(C)legend ej
                 シルヴァカーヌ修道院/付属教会堂身廊〜内陣とバラ窓/プロヴァンス地方
                 シトー修道会・「プロヴァンス三姉妹」のシルヴァカーヌ修道院

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フォントネー修道院/中庭と回廊

明るい中庭と美しい回廊
  厳粛な付属教会堂の南側には芝生と幾らかの植え込みが眩しい中庭が配置され、その中庭を囲みバランスのとれた無数の支柱が整然と連なる「36m x 38m」の美しい回廊(トップ写真)が広がっている。個人的には、フォントネー修道院の中で特に胸打たれ感動する場所は、明るい中庭を取り囲むこの静かな回廊ではないかと思う。

※トップ写真へ戻る⇒フォントネー修道院・「美しい回廊」

シトー修道会の基本精神を完璧に表現している12世紀ロマネスク様式の無装飾の教会堂とは異なり、陽の光を受ける中庭という理由なのか、無装飾と簡素性を貫く厳格な精神が少しだけ緩和され、尖頭アーチ型天井の回廊を支える比較的短い複合柱と柱頭部には、植物を模したわずかな装飾が施されている。
直線と半円アーチをデザインした支柱間に差し込む中庭からの明るい光が、縞模様の美しいコントラストとなって石板で舗装された回廊の床面に描かれる。修道院にあって、この回廊は正に計算尽くされた調和美を主張する場所であり、幾何学的な回廊がつくり出す整然たる空間を構想し設計した修道士達の見事なバランス感覚を称賛せずにはいられない。
ラベンダーの花咲くプロヴァンス地方セナンク修道院の回廊(下写真)に似て、この穏やかにして均整のとれたフォントネー修道院の美しい回廊は、正に心に刻む遥かなる「時」。私はこの回廊の放す安定美に感動し、圧倒されそうなその見事な配置空間を脳裏に鮮明に刻み込む。

セナンク修道院/(C)legend ej
                  「プロヴァンス三姉妹」のセナンク修道院・美しい回廊/プロヴァンス地方
                  ラベンダーの花咲くシトー修道会・「プロヴァンス三姉妹」のセナンク修道院

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フォントネー修道院/修道士寝室〜写本工房〜鍛冶工房

修道士寝室/写本工房/鍛冶工房
  付属教会堂のクロス型トランセプトの南西端から30段ほどの階段を上ると回廊の東側の階上区画となり、木造船の底と同じ建築様式を見せる木造アーチ天井の広い修道士共同寝室に入る。中世の時代、ほかの全ての修道院と同様に修道士達はワラを敷いたこの冷たい床面で就寝していたのである。ワラを敷いた修道士寝室ではラベンダーのセナンク修道院でも一般公開されている。
フォントネー修道院のそのほかの見学では、円形アーチと交差ヴォールト天井の写本工房、修道士達の集会部屋、農耕具などの金属加工が行われていたレンガ造りの大型倉庫を連想させる全長53mの鍛冶工房、広く美しい幾何学庭園や噴水、パン焼きの部屋や大型カマドなども必見の価値がある。

            フォントネー修道院/(C)legend ej
               フォントネー修道院・玄関から修道士食堂と暖房室付近を望む/ブルゴーニュ地方

豊富な水の活用/共同生活・農耕具の生産農地の開墾・ワイン生産
  フォントネー修道院の名称の元になっているラテン語の「泉 fons」の言葉通り、修道院敷地内には豊富な水量の泉や大型噴水も設けられている。また修道院脇のフォントネー川には創建時から変わることのないコンコンと湧き出した清涼な水が流れている。特に川の水はかつて厳しい修行を続けた修道士達の生活用水であり、鍛冶工房や穀物粉砕の回転水車の動力として、あるいは農耕のための給水にも使われ、また養魚用にも活用されたに違いない。

シトー修道会は労働と祈りを重要視して、修道士達は粗末な食事の厳しい共同生活を続けていた。彼らは自分達が山や森から切り出した石材や木材で造る修道院の建物のみならず、美しい庭園や噴水装置を設計し、農耕具の生産と改良、自給自足のための農耕地を開墾していたのであった。また、北部ブルゴーニュ地方のポンティニー修道院(下写真)と同じく、フォントネー修道院が今日のブルゴーニュ・シャブリ辛口白ワインの生産と改良に大きく貢献したことも間違いない。

          ポンティニー修道院・回廊/(C)legend ej
                    ポンティニー修道院・回廊(南側のみ残存)/ブルゴーニュ地方
                    シトー修道会・「四父修道院」のポンティニー修道院

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Ref.
中世美術・ロマネスク様式
フォントネー修道院に代表されるシトー修道会の修道院の建築工法の基本はロマネスク様式である。聖ベルナールの指導下のシトー修道会の修道士達は簡素なデザインを堅持しながら、その建築工法や石材の加工の精度、配置と感覚的要素など、あらゆる部分と構成に関して極めて高い技法を確立していた。それは無装飾であっても、手を抜いたアマチュア的な単純で簡易的な建築様式ではなかった。
ロマネスク様式の後、ヨーロッパの中世美術はゴシック様式へ移行して行く。初期ゴシック様式の導入において、シトー修道会の修道院建築様式は、特にフランスやスペインのそれに大きな影響を与え、建築と美術の歴史の中で重要な役割を果たしたと言える。

ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂/(C)legend ej フォントネー修道院から南西の方角にあたる中部ブルゴーニュ地方には
 「ロマネスクの宝庫」とされる11世紀〜13世紀に栄華を極めた世界遺
 産ヴェズレー修道院、さらに少し南方の聖ラザロを祀るオータンにもロマ
 ネスク様式の重要な大聖堂がある。
 これらクリュニー修族(クリュニー会)系譜の大聖堂の入口ファサー
 ドや内部の「過度」とも言える彫刻作品に比べ、無装飾を基本とする
 フォントネー修道院やポンティニー修道院など、シトー修道会系の建
 築様式は、見た目の華やかさが弱く、それほど印象的ではないと感じ
 る人も少なくない。
 しかし、祈祷と清貧、倹約と労働、そして何処までも妥協を許さない厳
 格で禁欲的な規範を守り通したシトー修道会の歴史と修道士達の理
 念を想う時、ロマネスク美術の一方の主流である簡素性と無装飾の美
 意識を完璧に貫いた、シトー修道院建築の深く静かに訴える魅力は、
 正に感動的とも言える心に刻む遥かなる「時」。独り静かに心で旅する
 私には堪らない。

 世界遺産/ヴェズレー修道院 聖マリー・マドレーヌ大聖堂(左写真)
 マグダラのマリアの弟のラザロを祀るオータン聖ラザール大聖堂


 ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・西正面

城塞都市スミュール・アン・オーソワ

                                lg-fr-flw
美しいスミュール旧市街
  ブルゴーニュ地方の中心ディジョンから北西へ約70km、人口5,000のスミュール・アン・オーソワ Semur en Auxois の町は、ゆったりと流れるアルマンソン川 Armancon がヒョウタンの「くびれ」のように大きく湾曲する場所である。町は自然にできた渓谷の崖上という、防衛上極めて良好な場所に発展してきた(下写真)。
町の歴史はたいへん古く、早くも4世紀初頭には町の名前が存在したとする記録が残っていると言う。スミュール・アン・オーソワの旧市街地は、三角形の広場の正面に建つ13世紀のノートルダム聖堂参事会教会を中心に、赤色の硬い花崗岩質の岩盤が露出する崖の上に広がりを見せる。この教会堂の前身は11世紀ロマネスク様式で造られていた。
街は15世紀には地の利を生かした城壁に囲まれ、18か所のルネッサンス様式の尖がり屋根の高い塔や複数の堅固な城門も造られ、中世の戦いの時代から堅固な城塞都市として名をはせて来た。三角帽子の高い塔は現在4か所に残されている。

スミュール・アン・オーソワ Semur en Auxois/(C)legend ej
         美しい風景/城塞都市スミュール・アン・オーソワ旧市街とアルマソン川の「めがね橋」/ブルゴーニュ地方

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中世の街の夕暮れ
  蛇行してゆったりと流れるアルマンソン河畔から眺めるスミュール旧市街は、どの方角からの視界でもまるで絵画のように美しい佇まいである。大げさに言えば、それは何時間もその場に佇んでいても決して飽きない無類の感動に近い。特に街の南側にかかる「めがね橋」のピナール橋 Pont Pinard を視界に入れた河畔からの眺望(上写真)は、見る者を中世の時間へと一気に誘ってくれるような雰囲気がある。ここは美しい眺めだ!

私が訪ねた5月初めの夕暮れ時、と言っても「白夜」の夏時間の影響から夕刻は午後9時過ぎだが、古風な橋と高い塔が淡く照明され、西の彼方の残光を正面に受けたノートルダム教会の高い塔が輝き、崖に寄り添うように建てられた旧市街の家並みが印象的な青紫色のベールに包まれ始める。
夏が始まろうとしているこの時期の黄昏、中世を今に伝えるスミュール・アン・オーソワの静か過ぎる旧市街の家々の窓に徐々に橙色の明かりが灯り始める。何と穏やかで平和な時間なのであろうか。もったいない程の心豊かな時間がゆっくりと過ぎてゆく。独りでこの街を訪ねた孤独感を打ち消す幸福感を静かにしみじみと感じる。
城塞都市スミュール・アン・オーソワへの行き方、交通アクセスはかなり難があると言える。しかし、地元フランスのみならず、日本からも特に風景画を得意とする多くの美術志向の人達が目的地とするほど、後述の「フランスの最も美しい村」フラヴィニー・シュル・オズランと並び、ブルゴーニュ地方を旅する時、無理してでも訪れたい街の一つと言える。

城壁に囲まれた城塞都市のスミュール・アン・オーソワの旧市街には、街の門、住民の住む家々と古くからある砦にも似た厚い壁の建物などが密集的に建ち並び、狭い路地や石畳の通りなど、何処を見回しても如何にも中世の戦いと防御の歴史を連想する雰囲気が漂う。この感覚は、参考だが、ミディ・ピレネー地方の小高い丘の斜面と頂点に家々が建ち並ぶ、「天空の城塞都市」のコルド・シュル・スィエル Cordes sur Ciel(下写真)に共通した感じかもしれない。
ただスミュールに有ってコルドに無いものは、岩崖が高く蛇行する川を使っての城塞化であろうか。コルドでは穏やかな丘陵の尾根と頂上を城壁で囲んでいる。なお、フランスのテレビ局F2の調査、バカンスなどで滞在したいとする「フランス人の最も好きな村」では、城塞都市コルドは2014年1位にランクされている。

城塞都市コルド・シュル・スィエル/(C)legend ej
            「天空の城塞都市」 コルド・シュル・スィエル/ミディ・ピレネー地方
            ミディ・ピレネー地方の「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピー/「天空の城塞都市」コルド

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「フランスの最も美しい村」 フラヴィニー・シュル・オズラン

豊かなブルゴーニュの風景
  新緑の5月、全面緑色の穏やかに波打つフランス・ブルゴーニュの丘陵地帯、小川オズラン Ozerain の清流が流れている。「フランスの最も美しい村」に認定された小さな村フラヴィニー・シュル・オズラン Flavigny sur Ozerain は、穏やかなオズラン渓谷に張り出した尾根状の形容の標高400mの丘の上に遠慮がちに佇んでいた。フラヴィニーの村は城塞都市スミュール・アン・オーソワから東方へ18km、ブルゴーニュ地方の中心ディジョンからは北西へ直線で約45kmの位置である。

フラヴィニーは小さな村だが、どっしりとした堅固な門と城壁に囲まれ、村の周囲は特徴的な白い牛がゆったりと過ごす緑の牧草地と広大な森林、そして時期が麗らかな春ならば、 真っ黄色のジュータンと化した菜の花畑が緩やかに広がっている。5月、爽やかな微風に、菜の花が揺れ、土の匂い、春の陽光があまりに眩しい。
参考だが、フランスのテレビ局F2の調査、バカンスなどで滞在したいとする「フランス人の最も好きな村」では、美村フラヴィニーは2013年8位にランクされている。同年1位はアルザス・ワイン街道の美村エグイスハイムである。

フランス国内に約32,000余りあるとされる村の中で、「フランスの最も美しい村」に認定されているのは2017年現在155村である。
lg-fr-beaux http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/

フラヴィニー・シュル・オズラン Flavigny sur Ozerain/(C)legend ej
                           フラヴィニー村の遠望/ブルゴーニュ地方

フラヴィニー・シュル・オズランの歴史/修道院と城砦都市
  フラヴィニーの歴史は非常に古く、5世紀のローマ時代、後に皇帝となるカサエルのローマ軍がガリア(フランス)との戦いで勝利して、カサエルが功績のあった兵士Fleniniecum に領地を与え、それが簡略化され地名の「フラヴィニー」となったとされる。その後、民族大移動の流れの中でゲルマン・スカンジナビア系のブルゴンド族(ブルゴーニュ族)がこの一帯に侵入して定住を行い、城砦を築いたことでフラヴィニーという地名が知られるようになる。
しかし、間もなくして、ブルゴーニュ地方はフランク王国に併合され、5世紀から6世紀への転換期にフラヴィニーに最初の修道院が建てられた。その後、この最初の修道院は崩壊するが、8世紀に入りブルゴーニュ伯家の息子ウィドラルド Widerard により、「聖ベネディクトウスの戒律」を基本とするクリュニー修道会系ベネディクト修道院として再建される。
800年、フランク王国の領土拡大に大きく寄与したカールT世が、西ローマ帝国の遺産を引き継ぐ皇帝に即位すると、文化の研究とルネッサンス(復興)に力が注がれ、ローマ・ケルト・ゲルマン・ビザンティン美術の融合とも言える「カロリング朝様式」、あるいは「カロリング・ルネッサンス様式」と呼ばれる宮廷を中心とした質の高い美術様式が確立される。
この時代の最も顕著な遺産は、各地の修道院工房で行われた優美な彩飾写本の製作や金細工や象牙細工などの工芸分野であったが、フラヴィニーの修道院でも多くの写本が作られた。まだ9世紀の初めであり、パリ近郊シャンティ城所蔵の「世界で最も美しい本」と称される15世紀制作の≪ベリー公のいとも豪華なる時祷書 Les Tres Riches Heures du Duc de Berry≫の圧倒される美しさには遠く及ばないにせよ、フラヴィニー修道院では、この時代においては相当美しい彩飾写本が作られたはずである。

カール大帝とフランス王国の発展・カロリング美術:
世界遺産・「フランスの最も美しい村」のヴェズレー聖マリー・マドレーヌ大聖堂

また、9世紀の初めの813年、スペイン西北部でイエスの弟子であった聖ヤコブ St Jacob (スペイン=サンチィアゴ Santiago)の墓が発見されたことで、キリスト教徒の間には、この墓を詣でる「聖サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」が流行してくる。フランスからの出発地の一つであったヴェズレー修道院へ向かう巡礼者達の多くが、フラヴィニー修道院にも立ち寄り、修道院は巡礼者のための宿泊設備や病院まで備え始めたとされる。
さらに9世紀後半の878年には、ヴェズレー聖マドレーヌ大聖堂とまったく同じく、ヴァチカン教皇聖ヨハネ[世により修道院付属の聖ピエール教会堂が厳かに献堂された。その後、ラヴィニー修道院もオータン大聖堂などと同様にロマネスク様式の彫刻で装飾された。13世紀にはフラヴィニー修道院はヴェズレー聖マドレーヌ大聖堂やクリュニー大修道院、モレーム大修道院などのロマネスク彫刻を担当した工芸師達の宿舎になったとされる。
そして14世紀になると、王位継承問題がこじれ、活況のフランドル地方の領有権の奪い合いから、フランスとイングランドとの「百年戦争」が起り、フラヴィニー城砦はイングランド軍により6週間も包囲され、結局大きく破壊されてしまう。その後、この歴史の教訓が活かされさらに堅固な城壁を構築、村は完璧な城塞都市の姿になって行く。

修道院の閉鎖/アニス・ボンボンは「愛の証」
  18世紀後半、「フランス革命」が起り、かつて60名を数えた修道士は革命の後にはたった5名となり、修道院の施設は次々に崩壊され、1791年の「修道院解散令」に従って修道院は閉鎖された。その敷地は民間へ売却され、部分的にアニス・ボンボン製造の作業所として活用されてきた。
19世紀には修道士からアニス・ボンボンの製造技術を引き継いだ民間作業所は合計で8軒在ったとされたが、その後に吸収合併が繰り返され、最終的には旧修道院の敷地の中で1軒の作業所にまとめられ、アニス・ボンボンの製造が続けられた。そうしてフラヴィニー・アニス・ボンボンが今日まで残されたのである。

フラヴィニーは現在では人口350人と言われ、村の産業は牛の牧畜と農業、レストランやカフェやペンションなどの観光業が中心そして、中世の時代から王族・貴族の女性達にも愛されてきた村唯一の製造業とも言える「アニス・ボンボン」が作られている。
真っ白で硬く、真ん丸できれい、ほのかな香りのアニス・ボンボンは、元々歴史ある修道院で作られた。現在でも旧修道院の敷地で稼動する小規模な民間工場で生産と販売(村のお土産店でも販売)が行われ、フランス国内だけでなく日本を含む世界中に輸出されている。
完成まで全工程2週間の手作業と言う、時間をかけて丁寧に作られるアニス・ボンボンの真っ白な砂糖の層は極めて硬く、薄味の甘さが特徴、一粒そっと頬張る時、アニス特有の芳香が口の中に静かにそっと広がってくる。一昔前にはこの清潔な色合いのボンボンは、男性が恋する女性へ贈る「愛の証」として用いられたと言う。
2,000年の歴史あるフラヴィニーであるが、現在ではこんな田舎、と言ったら失礼だが、アクセスの非常に難しいブルゴーニュの丘陵地で作られた甘い砂糖菓子をフランス中の男性達が買い求め、バラの花束と一緒に愛する相手へ贈る風景を、ふと想像してみた。何ともフランスらしい「恋の物語」であろうか・・・

なお、現在旧聖ピエール修道院の中で操業するボンボン加工所の製造過程(平日・午前中のみ見学可能/時間制限あり)、同じ建物の聖ピエール修道院の地下クリプトは無料見学(午前・午後)できる。
また、かつて重要な役目を果たしたフラヴィニー修道院の名残りは、村の南方から堅固な城門を入った左側(西側)にはアニス・ボンボン作業所を含む旧聖ピエール修道院、右側(東側)には聖ヨセフ修道院の建物が残る。なお旧聖ピエール修道院はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

「フランスの最も美しい村」
  小さなフラヴィニーの村は、プロヴァンス地方の丘上の村ゴルドやミディ・ピレネー地方の崖上村サン・シル・ラポピー、あるいはアルザス・ワイン街道のエグイスハイムなどと並んで(下写真)、「フランスの最も美しい村」の認定を受けている。
通りのみならず、狭い路地やさりげなく花を植えた家々の裏庭に至るまで、現代的な過剰な装飾や意図的な造作はまったくなく、「フランスの最も美しい村」に相応しい中世の雰囲気が漂う。特にかつての金属加工や皮なめし、粉挽き、ガラス加工などの手工業者や職人達の住んだ住宅、小塔を備えたルネッサンス様式の旧侯爵邸を含む貴族階級の気品ある邸宅などが、そのまま現在でも使用され、まるで数世紀前の時代に戻ったような安らぎと心に沁みる風情が残る。

「フランスの最も美しい村」 サン・シル・ラポピー/(C)legend ej
          「フランスの最も美しい村」 サン・シル・ラポピー村/高くそびえる聖シル教会堂/ミディ・ピレネー地方
          ブログ 南西フランス・ケルシー地方・「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピー

アルザス・ワイン街道・エグイスハイム/(C)legend ej
          「フランスの最も美しい村」・アルザス・ワイン街道・エグイスハイム村
          ブログ 花のある風景/アルザス・ワイン街道・コロンバージュ様式の美しい家並み

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村の風景と穏やかな人々
  一面真っ黄色な菜の花が春の微風に揺れる日、村の通り、と言っても昔からの狭い通りだが、歩いていた私に60代の誠実そうな村の婦人から声がかかった。誘われるがままにお宅の中の通路を抜け、裏庭に案内された。遠慮勝ちにフランス語しか話さない笑顔の婦人が指し示す手の先には、蛇行するオズラン川の流れを挟み、対岸に広がるなだらかな斜面の草原と農耕地が織り成す見晴らしの絶景であった。
誰とも知らない東洋からの旅人を自宅へ引き入れても、この婦人が自慢したかったのは、自身の手入れされた清潔そうな栗色の髪と同様に緑一色に染まった春のブルゴーニュの美しく輝く雄大な草原風景であったのだ(下写真)。私が感動を表しお礼を述べると、婦人は自慢そうに小さく微笑した。そして10枚ほどの写真を撮影している間に、当の婦人は何時の間にかすーと姿を消していた。

鉄道も路線バスのアクセスもない非常に不便なブルゴーニュの片田舎の丘陵地方にあって、何故かこのフラヴィニーの村と人々の生活には、映画・≪ショコラ≫のように、人の心を和ませる魔法のようなものが漂っている。その癒しにも似た魅力は、村の小高い丘から眺めた緑豊かな草原と丘陵のもつ、目に優しい雄大な風景がかもし出したものなのかもしれない。
パリやニースなど、フランスの大都市や高級リゾートでは絶対に経験できない本物の「静かな旅の時間」、こんな小さな村で偶然に巡り合うことができた。日常から解放された心の豊かさを覚えたこの美しい小さな村で過ごした数時間の経験は、私にとり、遠い未来までも脳裏に確実に残るであろう。
それは風情を残す村の佇まいと周辺の緑一色の雄大な風景を含め、ずーと大切にしてゆきたい私の「人生の時間」でもあるから・・・

フラヴィニー・シュル・オズランの草原 Flavigny sur Ozerain/(C)legend ej
                明るい春の陽光に緑一色に染まったフラヴィニー村の丘陵草原/ブルゴーニュ地方

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映画≪ショコラ≫

映画の舞台の村
  2000年作品、アメリカ・ミラマックス社配給の映画≪ショコラ Chocolat≫は、「フランスの最も美しい村」フラヴィニー・シュル・オズランでロケ撮影されたものである。
日本ではあまり知られていないが、特に1970年代〜80年代に生まれたヨーロッパのオシャレな女性達、多くはすでに母親と成人したその娘たちにとっては、映画の主人公ヴィアンス(ジュリエット・ビノシェ 1964年生)と娘アヌーク(ヴィクトワール・ティヴィソル 1991年生)は同世代にあたる。結果、現代の母と娘たちは首都パリや地中海ニースを素通りしても、小さな村フラヴィニーはまさに憧憬を求めセンスを磨く「心の聖地」にも等しく、ブルゴーニュ地方を旅する時に「絶対に訪れたい場所」となっている。

---- 第二次大戦の後、ある日、寒い北風に乗って、30代の美人の母ヴィアンス(ジュリエット・ビノシュ)と感受性の高いその娘アヌーク(ヴィクトワール・ティヴィソル)という不思議な母娘が「ある村」へやって来る。南米の「秘薬」とされたトウガラシ入りのチョコレートを初め、濃厚でとろける甘さのチョコレート菓子を店頭に並べたスウィート・ショップを開店する。
古い因習に縛られた「ある村」の村長である敬虔なカトリック教徒の伯爵や村人達は、チョコレートを売るこの不思議な女性のショップを遠巻きして近付く人は誰も居ない。しかし、家族から理解されない老女が、母親の考えに沿えない聡明な少年が、夫の暴力に打ちひしがれた妻が・・・心悩む村人達が何事に対しても寛容と天性の明快さ、思いやりと人の心理を読み取る才能に長けた不思議な女性ヴィアンスに惹かれて、次々とドアーを押し、「駆け込み寺」のチョコレート・ショップへやって来る・・・
結局、最後には伝統と仕来りにどっぷりと染まっていた全ての村人達が、魔法にかかったように、不思議な女性ヴィアンスの作る甘いチョコレートに魅せられてしまう ・・・


映画は、背景に潜むカトリック教の古い仕来り、放浪する民ロマ(旧ジプシー)を含めた余所者に対する根深く隠し難い偏見を柔らかく批判しながら、チョコレートの甘味に象徴される他人を理解し尊重する人の心の大切さを暗示させ啓蒙している。映画の中の「ある村」が、ここ「フランスの最も美しい村」のフラヴィニー・シュル・オズランであり、風情ある現実のフラヴィニーの村は、この映画にピッタリの雰囲気と条件、そして相応しい長い歴史を秘めている。
ツーリストが世界遺産フォントネー修道院や城塞都市スミュール・アン・オーソワを訪ねたなら、同時に美しい村フラヴィニー・シュル・オズランへも脚を運ばねば、どれほど有名ワインの銘柄を知っていても、ブルゴーニュ地方の「美しさと魅力」を語る資格はないだろう、と私は強調したい。

「アリシアの戦い」のアリーズ・サン・レーヌ村

紀元前・ローマ時代遺跡/「アリシアの戦い」の跡/指揮官ウェルキンベトリクス
  古代ガリア(現在のフランス付近)のローマ帝国に対する最大の戦いと攻防戦、「アリシアの戦い」が行われたのは、色々な説がある中でほぼ間違いないのが、フラヴィニー・シュル・オズランの北西へ4km、人口650人の小さな村アリーズ・サン・レーヌ Alise Ste Reine のアクスァの丘 Auxois と言われている。
ガリア(フランス)軍の指揮官ウェルキンベトリクス Vercingetoix は、紀元前52年に行われた「アリシアの戦い」でローマ帝国の終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)軍に対抗、戦果はローマ・シーザー軍が勝ち取るが、ウェルキンベトリクスはその反撃の功績をもって「フランスの最初の英雄」となっている。
現在、アリーズ・サン・レーヌ村には、1865年建造、「アリシアの戦い」のガリア軍指揮官ウェルキンベトリクスを称える10m以上もある巨大な像が建っている。また、村の東の外れ500mのアクスァの丘は、発掘調査で明らかになったガリア軍の城砦陣地や古代ローマ時代の建物の遺構、戦場跡が広い芝生の記念公園となっている。

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