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オータン 聖ラザール大聖堂 Cathedrale St Lazare d'Autun

ブランシオン村 聖ピエール教会堂 Eglise St Pierre de Brancion

オータン・聖ラザール大聖堂/(C)legend ej
                  オータン聖ラザール大聖堂/タンパン・「最後の審判」/ブルゴーニュ地方

オータンの街/聖ラザロ信仰

歴史あるオータンの街
  オータン Autun はパリから南東約250km、ディジョンから南西70km、ヴェズレーから南方70km、波打つ緑の丘陵がどこまでも続くフランス・ブルゴーニュ地方にあって、2,000年前のローマ帝国の重要な都市としてスタートして以来、繁栄と発展をしてきた。現在でもオータンの街中と郊外にはローマ時代の建造物が残され、街の長い歴史を今に伝えている。

聖ラザロ信仰の聖地
  オータン旧市街は緩やかな登り坂に広がっている。街の南端に位置する聖ラザール大聖堂 Cathedrale St Lazare d'Autun は、どの方角からも見えるひと際高い塔を備える。聖ラザール大聖堂の歴史を見ると、マグダラのマリア(聖マリー・マドレーヌ)の弟・聖ラザロとの関わりを忘れることはできないだろう。
2000年前、聖ラザロは当初マルセイユに葬られていたが、11世紀の後半、聖ラザロの聖遺物がブルゴーニュ地方オータンへ運ばれ、古い教会堂の地下納骨堂クリプトに収められた。その半世紀の後、教会堂は1120年から地元の砂岩を使って新しく12世紀ロマネスク様式で再建され、1130年にヴァチカン教皇イノセントU世により、聖ラザロを祀るクリュニー修族(クリュニー会)系の大聖堂として献堂されたのである。
ブルゴーニュ地方の重要な巡礼聖地となった聖マリー・マドレーヌ信仰のヴェズレー修道院と同様に、この献堂の後、オータンの大聖堂は病気から蘇った聖ラザロ信仰の、特に旧ライ病(ハンセン病)患者や貧しいジプシーの人達などの信仰者が多く訪れるキリスト教巡礼聖地となって行く。

聖ラザール大聖堂

ROM 12世紀 ロマネスク様式〜ゴシック様式

聖ラザール大聖堂の建物構造
  大聖堂の建物は当初12世紀ロマネスク様式であったが、15世紀の火災の後、ブルゴーニュ大公国の繁栄に大きな貢献をしたニコラ・ロラン枢機卿により、先の尖った高い塔も含めゴシック様式として再建されたものである。また、外観の一部にはロマネスク様式が残されているが、18世紀にも大聖堂の大規模な改築が行われことから、多くはゴシック様式の形容となっている。身廊の壁面には、ロマネスク様式では存在しなかったステンドグラスや多くの窓、吠える動物を形取ったガーゴイル飾り、時計台なども追加された。

大聖堂のハード面では、内陣の外側のフライング・バットレスなどゴシック様式が多く見られるが、西正面入口のタンパン彫刻と身廊内部の柱頭彫刻では12世紀のロマネスク様式をそのまま残し、訪れる人に感銘を与えている。ただ、大聖堂の建築材に地元産の比較的肌理の粗い砂岩が使われたことから、その外観や装飾部分も年月の間で表面風化を受け砂岩特有の重い色調も影響してか、ほかのロマネスク様式の大聖堂に比べ、多くの箇所が若干燻(くす)ぶったような鈍い色調となっている。

大聖堂・西正面/タンパン・「最後の審判」
  わずかな坂道の旧市街の通りを街の南サイドへ歩むと、尾根状の最も高い位置にある聖ラザール大聖堂の高いゴシック様式の塔が見えてくる。大聖堂の西正面入口(北西側)へは、通りから10段ほどの階段を昇る。通りがスペースのない狭い路地で、階段下から望むタンパン彫刻・「最後の審判」の図像(トップ写真)は、首が痛くなるほど、正に「見上げる」という感じの高い位置にある。

※トップ写真・タンパン彫刻・「最後の審判」へ戻る

大聖堂の西正面入口のタンパン部を飾る「最後の審判」は、ヴェズレー聖マドレーヌ大聖堂の玄関間ナルテックスのタンパン彫刻・「聖霊降臨(下写真)」と並んで、ブルゴーニュ地方の12世紀ロマネスク様式の図像を代表する作品と言われ、有能な彫刻家ギスレベルトゥス Gislebertus により、1135年頃に製作された。
実はこのタンパン彫刻は18世紀の大聖堂の改築の際、図像の表面は漆喰で塗り固められてしまう。その後19世紀になり、歴史的な建造物の保存運動から、その漆喰部分が取り除かれ、現在見ることのできる図像が現れたと言うエピソードがある。

聖ラザール大聖堂の「最後の審判」の図像は、何時かはやって来る人の死後、全ての死者はイエスの前で「最後の審判」を受け、天国へ行ける「善人」 と地獄へ堕ちる「罪人」に分けられる、という新約聖書の思想を具現化したシーンを描いている。 図像の中央では、肩から頭部に小さな光背(後光)を抱くイエスが両手を広げ、全身を「マンドルラ」と呼ばれる楕円形の大きな盆のような光背に収められ、両脚を開いた姿で立っている。
ロマネスク様式のタンパン彫刻の顕著な特徴の一つである遠近法的な不均等な描写から、長めの身体や手と脚のサイズに比べ、イエスの顔は極端に小さく、しかも表情を抑えた若干判別し難い感じで表現されている。

レリーフ彫刻の技法的な処理なのか、あるいは宗教的な教訓のアピールなのか、イエスの身体とX脚に開かれた脚は幾分不自然さを否定できない。がイエスの図像が左右対称であり、「天国」へ行くも「地獄」へ堕ちるも、公正なる「最後の審判」の結果とする強い意図を表現しているかの様にも見える。
また、イエスの衣の襞(ひだ)の表現は、ヴェズレー大聖堂の「聖霊降臨(下写真)」のそれに比べ流動感や立体感は弱く、明らかに形式化された感じを受ける。さらにイエスの表情もヴェズレー大聖堂のイエスの方がリアルティ感が強い。

「最後の審判」の細部
  オータンの「最後の審判」ではイエスを除き、水平線で上下に三分割されている(トップ写真)。イエスの右手側、図像では向かって左側が「天国」を意味するグループ。最上段には顔の判別が難しいが座り姿の聖母マリア、その左方にはラッパを吹く天使と小さな「天国の扉」が開かれ、中段のイエスの脇には胴長で小さな頭部の弟子達がイエスの方角を向いて配置されている。
薄い衣を着た9人の弟子の中でただ一人「天国への鍵」を抱える聖ペトロは、ほかの弟子達より少し大きく、イエスの方角とは反対の外側を向き、天使達が支える「天国」への導きを示している。
一方、イエスの左手側、図像では向かって右側が「地獄」を意味するグループ。最上段では「天国」のグループと同様にラッパを吹く天使が配置され、イエスの直ぐ脇の中段には大天使ミカエルと悪魔が袋と秤(ハカリ)を使って「魂の計量」を行っている。トグロを巻く蛇が女性の脚に絡まる激しいシーンもあり、「地獄」に堕ちる人々は大きく口を開けた悪魔か、怪物に何か最後の嘆願をする様が描写されている。

左右に延びたタンパン部最下では、死後に墓から蘇った35人ほどの人々がぞろぞろと横に並び、その中央には天使が配置され、「天国」へ導かれた善人達はイエスの右手側、図像では向かって左方向へ歩んでいる。「天国」へのグループには、天使や巡礼のためか肩に袋を担いだ大人達に混じり喜びの子供達も含まれている。
一方イエスの左手側、図像では向かって右方向には「地獄」へ振り分けられた罪人達が並んでいる。中央の天使が罪人の肩を押している姿、絶望して頭を抱え嘆き悲しみの表情の人達、あるいは天井から延びた巨大な爪で首を絞められる人さえも表現され、誰が観ても、罪人達の向かう先には恐ろしい地獄絵の世界が待っていることを知らしめている。

また、タンパン部の周りを飾るアーキヴォルト(飾りアーチ)では、連鎖する無数の円形メダイヨンが表現されている。
ヴェズレー大聖堂の「聖霊降臨」の図像(下写真)と同様に、ここには占星術を表す「黄道十二宮」が描かれ、星座のほかにブドウの枝の手入れや収穫草刈りの準備、薪を背負ったシーンなど、四季折々の農作業の情景が表現されている。

ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂・「聖霊降臨」 Basilique Sainte Marie Madeleine, Vezelay/(C)legend ej
            ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂・タンパン彫刻・「聖霊降臨」/ブルゴーニュ地方
            世界遺産/ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院 聖マリー・マドレーヌ大聖堂

Ref.
教会堂建築の石材
ロマネスク様式の教会堂の特徴の一つだが、道路事情や馬車などの輸送手段に限界があったことから、中世ロマネスクの時代では教会堂の建設には遠方から運送する石材の買い入れは難しく、地元産の石材を多用した建築構造となる。このため完成した教会堂はその地方の石材の放す独特な色調となり、外観から受ける印象もそれぞれ地方ごとに異なる。その後、ゴシック様式の時代では、輸送手段も発達して石材の選択と遠方からの買い入れも可能となり、建材の違いに起因する地方ごとの特徴は薄れ、ほとんどの大聖堂や教会堂が同じような外観印象となる。

ロマネスク様式美術/修道院の装飾
中世ロマネスク様式の教会堂においては、高い塔が聖地エルサレムの方角である東側にあることから、基本的に教会堂西側の入口が正面口となる。
シトー修道会系譜の教会堂を除き、クリュニー修族(クリュニー会)の教会堂の西正面扉口の上部にあたる半円形のタンパン部分の主題の多くは、「イエスの昇天」や「最後の審判」、あるいは「聖霊降臨」などを浮き彫りしたモニュメンタルなシーンを描いている。さらにタンパン彫刻の詳細部分を見る時、天国と地獄、善人と悪人、聖なる心と悪得心、果ては想像上の恐ろしい動物まで描き、キリスト教の歴史観的・時間的な思想と世界観、そして教訓的な意図を巧みに表現していることが分かる。
このタンパン彫刻が飾られた教会堂の西正面扉口は、「聖」と「俗」を分かつ明確な境界線を指し示している。この場に立ち止まる信仰の人々の目に最もつきやすいタンパン部の彫刻は、視覚を通して参拝者へキリスト教の「神」威厳と教訓を端的に伝える最高の場所と手段であった。
中世11世紀のフランス・ブルゴーニュ地方で、2世紀の間に相次ぎ成立した大きな勢力の修道会はクリュニー修族(クリュニー会)とシトー修道会の二つであった。両者ともに教皇直属の強力な修道会組織であり、教会堂を初め修道院の施設の建築や内部の造作には12世紀に一気に発達するロマネスク様式の技法と美術を採用した。
教会堂の入口正面ファサード装飾やタンパン彫刻を例に取れば、クリュニー修族(クリュニー会)のそれは明らかに「過度な装飾」とも言えるほどの多量の彫刻を施工する傾向が強い。反面、かたくなに禁欲主義をとるシトー修道会は、修道院や教会堂の建築にはロマネスク様式の基本設計を取り入れているが装飾に関しては無装飾を含む、ほとんど飾らない簡素な表現をもって理念の主張を行っている。

中世ヨーロッパのキリスト教・クリュニー修族・シトー修道会・聖ベルナールの生涯などの詳細:
クリュニー修族とシトー修道会/聖ベルナールとクレルヴォー大修道院/「プロヴァンス三姉妹」

イエスとマグダラのマリア/弟ラザロ
マグダラのマリアは王家の血を引く家系に生まれとされ、北部イスラエルの「ベタニア」、またはガリラヤ湖西岸の「マグダラ」の町に住んだユダヤ人であり、この地名から「マグダラのマリア」と呼ばれている。
キリスト教の正典である数多くの福音書では、常にマグダラのマリアが最も重要な女性とされ、多くの問題を抱えていたマグダラのマリアは、イエスにより健康の回復を得て、罪を意味する「七つの悪霊」を追い出してもらい、その後イエスの弟子となり、イエスの宣教の旅に常に同行したとされる。イエスに付き添ったマグダラのマリアはイエスの最も愛する弟子であり、配偶者パートナー(内縁の妻)とされ、イエスから深い愛情を注がれ、女性でありながら宣教活動の指導的な立場の人物となった。
ローマ帝国に後押しされたユダヤ教指導者により逮捕されたイエスのエルサレムでの処刑では、最後まで十字架の処刑を見守ったのはマグダラのマリアや多くの女性達であり、イエスの遺体がリンネルの布(聖骸布)に包まれ、埋葬されるのを見守った。さらに処刑の三日目の朝には、埋葬された墓で復活したイエスと最初に出会うのがマグダラのマリアであった。

マグダラのマリアには姉マルタ弟ラザロがいたとされ、≪ヨハネの福音書≫では、弟ラザロが病気になり、姉妹がイエスに弟の病気の回復を嘆願するが、間に合わずラザロは亡くなる。ラザロが洞窟の墓穴に埋葬され四日間の経過の後、イエスが到着して奇跡的にラザロを蘇らせる。現実の科学ではあり得ない「ラザロ蘇生」の出来事を切掛けに、ユダヤ教指導者のイエスに対する恐れと抹殺への策が練られたとされる。
その後イエスが再び彼らの住むベタニアを訪れると、蘇ったラザロと姉妹が出迎え、夕食が用意され、イエスはラザロと席を共にする。客人への礼儀であり、もてなしとしてマリアはイエスの足を洗い、非常に高価な香油を塗り、自分の髪でそれを拭うと、家の中は香油の香りで一杯になった。このようにしてマグダラのマリアの弟ラザロとイエスは出会い、その後ラザロはイエスの信頼できる重要な友人となる。

「イエスの妻=マグダラノマリアなのか?」/2012年学術発表
2012年9月、中東考古学の驚きの国際ニュースが発せられた。ローマで開かれた神学学会でハーバード大学カレン・キング教授が、縦3.8cm 横7.6cmの古いパピルス片(4世紀作成・古文書)に、「イエスの妻」に関わる情報が記述されていた、と学術発表した。
間違いなく「写本」であるが、エジプトのキリスト教徒が使うコプト文字で記述されたこの古パピルス片には、イエスと弟子達の会話の情景を表現しているのか、「イエスは言った、私の妻が」、さらに「彼女は妻になることができるであろう」とも解読できるとされた。
単純に断定や想像はできないとしても、果たしてこの古パピルス片の記述はどのような意味を含んでいるのであろうか? ローマ・ヴァチカンは歴史的に「イエスには妻は居ない」の立場であることは知られているが、もしこのパピルス記述が「真実」であったなら、その「妻」とはやはり「マグダラのマリア」であったのであろうか?

マグダラのマリアの弟・聖ラザロの生涯と伝承
マグダラのマリアの姉マルタと弟ラザロに関する福音書の記述はわずかであるが、マグダラのマリアとの姉弟関係からして、ほとんど間違いなくマリアと同様に、彼らもイエスの説いた博愛精神の原始キリスト教の布教活動に意を注いだ。
伝承では、南フランスに逃れたほかの信徒達もプロヴァンス地方を中心に散り散りと別れ、姉マルタはアルルの北方のタラスコンへ、マグダラのマリアとは別の二人のマリアと侍女サラは、アルルの南方の湿地帯カマルグに留まり、ほかの信徒達はアルルや西方地中海沿岸などに移り、原始キリスト教の布教活動を行ったとされる。

マグダラのマリアの弟ラザロは、マルセイユを拠点としてイエスの説いた教えの布教を行い、マルセイユの初代の司教となり、この地で没したとされる。現在マルセイユのシンボル的なノートル・ダム大聖堂の内部の礼拝室にはマグダラのマリアとラザロが祀られている。
マルセイユで「聖ラザロ」となったラザロの遺骸はその後、11世紀の後半になり、ブルゴーニュ地方オータンの教会堂へ運ばれ、地下納骨堂に埋葬された。その後、奇跡的に死の世界から蘇り、後に病気からの回復を願う、特に難病であった旧ライ病(ハンセン病)患者やジプシーの人達が、オータンの守護聖人ラザロに救済を求めた。
ただ別の伝承では、聖ラザロはマグダラのマリアの聖遺物が祀られたブルゴーニュ地方ヴェズレーから東方15kmのアヴァローン旧市街にある聖ラザロ教会堂にも祀られている。中世の頃に流行った聖地・聖遺物信仰から推測すれば、聖ラザロの何らかの聖遺物が距離的にも遠くないアヴァローンへも運ばれた可能性も否定できない。
さらに地中海のキプロス島に残る伝承によれば、イエスの処刑後、エルサレムから追放されたマグダラのマリアの弟ラザロは、南フランスではなく直接キプロス島へ移り住み、南海岸のラルナカを中心に原始キリスト教の布教を行い、この地の初代司教となったとされている。ラルナカでは9世紀に聖ラザロが埋葬されたとする地下墳墓が発見され、その上に聖ラザロ教会堂が建立された。

聖ラザール大聖堂/ロマネスク様式・柱頭彫刻

「マギの夢」
  オータンの聖ラザール大聖堂の身廊と内陣、そして、トランセプト部の柱頭彫刻では、20本の支柱の柱頭に合計40面以上もあるとされる。中でも大聖堂内部のトランセプトの右側にある狭い階段を登った2階にある柱頭展示室で公開されている「マギの夢」と呼ばれる作品が有名である。
これは「エジプトへの逃避」と共に、多くの人が注目するロマネスク様式の柱頭彫刻である。キリスト教の物語性を秘めたこの彫刻は、1120年〜1130年頃の作品で、聖ラザール大聖堂内の柱頭部を飾っていた彫刻を代表する見事な作品の一つである。

            オータン大聖堂・「マギの夢」/(C)legend ej
                           大聖堂柱頭彫刻・「マギの夢」/ 柱頭展示室

「マギの夢」では、生まれたばかりのイエスを訪ねるために、東方バビロンからやって来た三人のマギが、ドラ焼きの衣のような半円形の薄手の布団を掛けて、隣り合わせで一緒に仲良くベッドで眠り、その脇には、「エルサレムへ戻らぬように・・・」とする「神」のお告げを伝える天使の姿が浮き彫りされている。主題を立体化するために狭い範囲に細線と曲線を上手に使い、天使とマギの表情を丁寧に刻んでいる傑作品である。

なお、「マギ」とは博士、賢者とも、天文学者などとも言われるが、聖書にはその記述はなく、私は現代的に言えば、歴史や天文学を幅広く研究する優秀な科学者であったと推測する。ある説では、この「三人のマギ」は長老王ガスパール、青年王メルキオール、そして黒人王バルヌザールとされている。

Ref.
イエスの誕生とヘロデ王の虐殺
かつて2,000年前、ユダヤの地はローマ帝国の支配下となるが、ローマの政治的な混乱に乗じて紀元前37年にヘロデがユダヤ王に任命される。「ヘロデ大王」と呼ばれた彼は異様なまでに大型の建築・建設関連に力を注ぎ、新都市カイサリアとサマリアの建設、エルサレム神殿の大改築、難攻不落のマサダ大要塞の改築などを手がけた反面、極端な専制政治を行った。
またヘロデ王はその凶暴な性格から妻の家族や自身の二人の息子、更にユダヤ教指導者などを次から次へと殺害してしまう。そんなヘロデ大王の強権政治の時代、エルサレムの南方10kmのベツレヘムの地でユダヤの「救世主」となるべきイエスが生まれる。そしてユダヤの「新しい王」の情報収集を行っていた三人のマギが、「東方で王になるべき人の☆を見た・・・」と言い、ヘロデ王の元へやって来た。ヘロデは現在の王が自分であることから、「新しい王」という言葉に強い嫉妬と動揺を覚える。ヘロデ王は「その子を見つけたら、自分も会いたい・・・」とマギへ告げる。

三人のマギは新しい王となる人が生まれたと言うベツレヘムへ向かう。その新しい「救世主」になるべき幼児イエスと神が認めた「無原罪の人」である母マリアに会い、イエスに対して礼拝を行い、乳香、黄金、没薬を贈るのである。乳香はイエスの神性への敬意、黄金は王権への敬意、そして没薬は死の予兆を意味していた。
マギ達が幼子イエスの生誕の事実をユダヤのヘロデ王に知らせたなら、殆ど間違いなくヘロデ王はイエスを殺すに違いない。それを阻止する「神」のお告げをマギ達へ伝えるために、天使が小さな人差し指で眠っているマギの一人の右手をそっと触れ目覚めさせ、「神」のお告げを伝える(上写真)のである。
天使の左手の人差し指の先には、マギが東方で見たのと同じ「救世主」を予言する大きな天の「☆」が輝き、イエスが新しい王であることを暗示している。夢心地の中で、「ヘロデ王の元へ戻るべきでない」とする「神」のお告げを聞いたマギは、目覚めた後、ヘロデ王の住むエルサレムを再び訪ねることはなかった。

三人のマギが帰って行くと、天使がイエスの父(養父)ヨセフの夢に現れ、ヘロデ王の凶暴さから逃れるために、イエスと母マリアを連れてベツレヘムからエジプトへ逃げるように告げる。ヨセフは天使のお告げに従って「エジプトへの逃避(左下写真)」を行うのである。
一方、何時まで経っても三人のマギが自分の元へ戻らないことに、ヘロデ王は新しい王の誕生の信憑性に恐れを抱き、「救世主」が誕生したと言うベツレヘム周辺の2歳以下の全ての幼児の虐殺を命令する。しかし既に「神」のお告げに従った父ヨセフと共にエジプトへ逃れたイエスと母マリアは、辛うじて難を逃れるのである。そうして紀元前4年にヘロデ王が亡くなるまで、イエスと母マリア、そして父ヨセフはエジプトからユダヤの地へ戻ることはなかった・・・

イエスの生誕は何時か?
6世紀以来、イエスの誕生年が「紀元0年/AD」として長い間考えられてきた。しかし、イエスはヘロデ大王の政権時代に父ヨセフと母マリアとともに「エジプトへ逃避した」という新約聖書の記述から、現在ではヘロデ大王が亡くなる紀元前4年より以前に既にイエスは「生まれていた」と判断されている。しかも、懐疑心のヘロデ大王の「2歳以下の幼児の虐殺令」を考慮するならば、イエスの誕生は「紀元前7年〜前5年頃」であったと考えられる。

ボッティチェリ作・フレスコ画≪受胎告知≫の詳細;
A-KDP 「花の都・フローレンス」で観た ボッティチェリ作・フレスコ画≪受胎告知≫

「エジプトへの逃避」/「ユダの首吊り」/「グリフィンとの闘い」/「鐘の音」

「エジプトへの逃避」/(C)legend ej もう一つの有名な作品である柱頭彫刻・「エジプトへの逃避
 (左写真)」では、イエスの父ヨセフの引く大人しそうなロバの背
 に乗った母マリアは、生まれたばかりのイエスを左手でしっかりと抱
 いている。
 ヨセフは剣を携えているが、母マリアの表情はあまりに穏やかで、
 背景には花を咲かそうとしている植物をあしらい、エジプトへの避
 難が差し迫った危機感ではなく、何か週末の遠出を静かに楽し
 む現代のサラリーマン家庭の日常を連想するような平穏な雰囲
 気にも感じる。
 本物は大聖堂2階の柱頭展示室で公開されている。



 大聖堂柱頭彫刻・「エジプトへの逃避」                





身廊より奥のトランセプトの側面柱には、≪マタイの福音書≫から採ったイエスを裏切り密告したユダが、自らを後悔して首を吊るシーンの「ユダの首吊り」がある。これは非常にリアルに表現された図像としても有名で、本物は大聖堂の柱頭展示室で公開されている
さらに西正面入口から身廊へ入り、右側の最初の複合柱には、倒れながらも剣で想像上の動物グリフィンの腹を刺す「グリフィンとの闘い」があり、さらに右側の中間付近の柱頭では、一人が6器の鐘を吊った天秤棒を担ぎ、脇の二人が鐘を奏でている穏やかなシーンを刻んだ「鐘の音」の図像があり、理解しやすい作品である。

「ライオンと闘うサムソン」/「エマオの巡礼」/そのほかの柱頭彫刻
  「鐘の音」のさらに奥の支柱では、旧約聖書≪士師記(ししき)≫に記述された闘士サムソンが、妻にしたい女性の住むティムナへ向かう途中、ライオンに立ち向かう勇敢なシーンを描いた「ライオンと闘うサムソン」の図像もある。
さらに内陣の左側最奥の支柱では、≪ルカの福音書≫から、エルサレム近郊のエマオの地で、イエスの弟子でありながら復活したイエスと知らずに一緒に歩む二人の巡礼者が、夕食にイエスを招待して初めて復活したイエスと知り、驚く様を描いた「エマオの巡礼」が彫刻されている。

大聖堂の柱頭彫刻では、これらのほかにトランセプトに近い右側の支柱では、旧約聖書≪創世記≫からの「ノアの箱舟」の物語が有名である。さらにトランセプトに面する右側支柱には、アダムとイヴの最初の息子カインが弟アベルと一緒に神へ供物を奉げるが、神が弟の供物だけを喜んだことから、嫉妬のカインが弟を殺して、神からその事を問われるシーンである「神とカイン」がある。
あるいは内陣の最奥に位置する支柱では、断食を続けるイエスに向かって、ライオンのような大口の悪魔が、「石をパンに換えて食べれば良い・・・」と誘い寄るが、イエスは「人はパンのみでは生きられない。神の言葉で生きるのである・・・」と語る「イエスの誘惑」の図像が知られている。
そして、エルサレムの埋葬された墓内でイエスが復活してマグダラのマリアと会った時、イエスに触れようとするマグダラのマリアへ向かって、「触れないように・・・」と諭す、≪ヨハネの福音書≫から採った「イエスの我に触れるなかれ」のシーンなども良く知られた図像である。

ニコラ・ロラン Nicolas Rolin 美術館

リンテル彫刻「イヴの誘惑」
  14世紀のフランス・ブルゴーニュ公国の宰相であったニコラ・ロラン枢機卿の名を付けたロラン美術館は、聖ラザール大聖堂から北東へ100mの場所である。この美術館の展示数は決して多くはないが、大聖堂の西入口タンパン彫刻・「最後の審判」の作者とされる彫刻家ギスレベルトゥスの作品のほか、あまりに有名な「イヴの誘惑」と呼ばれる魅力的な彫刻が展示公開されている。

下写真でもはっきりと分かるように、「イヴの誘惑」は丁度真ん中付近で縦割れしている。そのサイズは縦72p x 横132p、間近で観るとたいへんと重量感のある石製レリーフ彫刻である。
中世12世紀の1135年前後に製作された「イヴの誘惑」は、当初大聖堂の古い北入口上部を飾っていた12世紀ロマネスク様式のリンテル彫刻であった。その後、18世紀の大聖堂の大規模な改築の際、リンテル部から取り外され販売されてしまう。その後になって大聖堂近くの民家から偶然に発見されたと言う。

            オータン大聖堂・「イヴの誘惑」/(C)legend ej
                    聖ラザール大聖堂北入口リンテル彫刻・「イヴの誘惑」/ロラン美術館

この「イヴの誘惑」では、特に彫刻の横サイズに比べ縦寸法が狭いという物理的な条件と表現の構成上の理由からか、イヴが少々不自然と言うか、空中に浮かぶか、水の中を泳ぐかのような無理な姿勢で描かれている。イヴは太い幹と枝葉を付けた植物の間に横たわり、罪深き女の象徴であるイヴの長い髪は肩に垂れ、自然に曲げられた膝、正面にさらけ出された豊かな胸、腰部分は幹と葉で上手に隠されているが、正に一糸まとわぬ完全なヌード姿である。

官能的で大きな瞳を見開いたイヴは、肘を突いた右手を頬に当てている。おそらくは彼女の顔の正面には、現在は失われてしまったがかつて愛を囁き合うアダムが存在したはずである。しかし、その一方では、彫刻上にその存在を確認できないが「蛇」の甘い誘惑に負けけたイヴの左手は、許されるはずのない「禁断の木の実」を確実に握っている。正に愛を語りながらも、他方で「罪」を誘惑する女性を効果的なビジュアル表現で強烈にアピールした傑作品と言える。

Ref.
「エデンの園」の物語/アダムとイヴの「罪」
かつてエデンの園には沢山の木があり、どの木の実を食べても良いが、「善と悪の知恵の木の実だけは食べてはいけない」とされていた。しかし蛇の誘惑に駆られた女(イヴの名はまだない)が、その実を食べてしまい、男(アダム)にもその実を薦め、アダムもそれを食べてしまう。こうしては人間が初めて「罪を犯した」とされている。
その後、二人は互いに「性」の恥じらいを感じ始める。「神」は蛇を呪い、二人を怒った後、女性に出産の苦しみを、男性には労働の苦しみを与え、人間には生命の限りがあることを告げる。男のアダムは女に命の母である「イヴ」という名を付けた。しかし怒りの「神」は二人に衣服を与え、楽園であったエデンの園から追放(失楽園)してしまう ・・・

小村ブランシオン/聖ピエール教会堂

穏やかな小村の風景
  ブランシオン Brancion の村はディジョンとリオンの中間付近、ブルゴーニュ・ワインの有数な産地でもあるマコネー地区のトゥルニュから西南西へ15kmの距離にある。この地方の典型とも言えるシャルドネ種の白ワイン用ブドー畑と森林を含む穏やかに波打つ丘陵地帯が続く風景の中にひっそりと佇んでいる。
ブランシオンは城壁に囲まれたブルゴーニュ地方の小村で、丘陵部から西側の平原に突き出たような雑木の丘の上にある。村の入口に近い位置には10世紀に創建され、12世紀に増築されたシャトー城砦(見学可)がある。
かつてブランシオンは正方形の高い塔を備えたこの城砦を中心に、この地域の要衝の役割を果たしていた。しかし時代の流れの中で今日で言う過疎化が進み、現在では小さなオーヴェルジェ(食事&宿泊)が1軒、民家20軒ほどの本当に小さな村となっている。

ROM

聖ピエール(聖ペトロ)教会堂
  ブランシオン村の最も奥まった場所、標高360m、丘の最も高い場所にロマネスク様式の聖ピエール(聖ペトロ)教会堂 Eglise St Pierre de Brancion が建っている(下描画)。

            ブランシオン村・聖ピエール教会堂/(C)legend ej
                        ブランシオン村・聖ピエール教会堂/ブルゴーニュ地方
                        描画=Web管理者legend ej

教会堂の内部
  教会堂の名称は既に10世紀の964年、この地からすこし南方のクリュニー大修道院の勅許状に記述されており、現在の建物は12世紀の再建と言われている。聖ピエール教会堂の全ての壁面は長方体に加工された茶系石材を丁寧に積み重ね、隙間を接着層で固め、まるで近代のレンガ造りを思わせるような頑丈な造りである。
教会堂の正面部は幅12m、入口は装飾のないアーチ形、内部は規模的に小さいが身廊・左右の側廊・トランセプトと内陣という「十字形・三身廊タイプ」の構成で、装飾はほとんど見られず、入口から内陣までの奥行は約30mである。左右合計10本ある身廊の支柱は壁面と同様に比較的薄い平石材を積み重ねた大型の角柱、天井はやや尖頭アーチ形状を示す。

身廊床面は形が不ぞろいな敷石施工で長い年月の間に敷石の表面は磨り減り、内陣付近から振り返って眺めると、入口からの明るい光に床面の敷石が美しい反射光の帯をつくっている。照明を控えた薄暗い内部全体は、使われている地元産の石材の色調や接着層の施工もさることながら、素朴でありながら神秘的な印象を受ける。

小さな村の簡素な教会堂にあっても、村の人々が代々850年の間守り続けてきた意味とその歴史、そして威厳さをも感じ取れる。また、側廊と内陣には14世紀以降に描かれたとされる聖人アブラハム、伝道師達や巡礼者達のフレスコ画が描かれ、それらは今でも色褪せてはいない。
建物全体の屋根、そしてプロヴァンス地方のラベンダーの花咲くセナンク修道院(下写真)に見られるように、正方形の鐘楼の屋根も薄い平石材を積み重ねたロマネスク様式の典型的な仕様で、非常に丁寧に仕上げられている。

セナンク修道院 Abbaye de Senanque/(C)legend ej
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ブルゴーニュ平原の展望/ロマネスク様式の教会堂のある小村
  聖ピエール教会堂の西入口の前は芝生の広場となっており、丘からは直ぐ下方400m先、民家10軒ほどのラ・シャペル・スー・ブランシオン村 La Chapelle sous Brancion を初め、延々と続く美しいブルゴーニュの平原と緑濃い林、そして遠く数km先の隣の村などの見事な眺めを独り占めできる。
丘の下方の小村ラ・シャベル・スー・ブランシオンには、12世紀に建てられたロマネスク様式の聖母被昇天教会堂がある。やや高さのある尖塔(鐘楼)を持つ教会堂は、丘の聖ピエール教会堂より一回り小さい「十字形・単身廊タイプ」だが、きちんとした造りの半円形の内陣には13世紀以降のフレスコ画が描かれている。

なお、ロマネスク様式の教会堂では、9世紀創建のトゥルニュ・聖フィリベ−ル修道院・教会堂があまりに有名である。トゥルニュ周辺には小規模のロマネスク様式の教会堂がたくさんのこされている。
先ず、トゥルニュ〜南方5kmの小村ファルジェ Farges les Macon には聖バーセレミー教会堂、さらにファルジェ〜南西1.5kmのユシジー村 Uchizy にはフランスの「歴史的建造物」の高い角塔が特徴的な11世紀創建の聖ピエール教会堂がある。
ブランシオン村〜西方5kmのシャペーズ村 Chapaize には、フランスの「歴史的建造物」の11世紀、1040年〜1050年建造の角塔を備えた聖マルタン教会堂、さらに村の北東1.5kmのランシャール地区 Lancharre には、フランスの「歴史的建造物」のノートルダム教会堂が残されている。
何れも目立たない小村に建つ教会堂だが、歴史を秘めながら村人により守られてきたロマネスク様式を顕著に残す建築物である。

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