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「アルザス・ワイン街道 」(中部)コルマール周辺/花を飾るコロンバージュ様式の美しい村々

     リボーヴィレ Ribeauville〜美村ユナヴィール Hunawihr〜美村リクヴィール Riquewihr〜コルマール Colmar
     ケゼルスベールKaysersberg〜テュルクアイム Turckheim〜美村エグイスハイム Eguisheim
     世界遺産ヌフ・ブリザック要塞 Neuf-Brisach/ドイツ・「黒い森地方」ゲンゲンバッハ Gengenbach

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コルマール Colmar/(C)legend ej
                   「アルザス・ワイン街道」の中心地コルマールの夏の夕暮れ/アルザス地方

「アルザス地方」 Alsace

アルザス地方の「戦争と平和」の歴史/「アルザス人」の民族系譜
  アルザス地方はフランスの北東部、ドイツとの国境線となるスイスを源流としてオランダへ流れ下るライン川の左岸(西岸)と標高300m〜1,000,級の山々が連なるヴォージェ山地(Voges 最高峰1,424m グラン・バロン山 Grand Ballon)とに挟まれた南北に延びる地域圏を指す。アルザス地方は「ライン川下流」の「バ・ラン県 Bas-Rhin」、スイスに近い「ライン川上流」の「オー・ラン県 Haut-Rhin」の南北二つの行政県に別れている。
アルザス地方は北西の現在のメッス Metz を中心とするロネーヌ地方と合わせて、「アルザス・ロネーヌ地方」として歴史の中で扱われることが多い。有史以前、紀元前1500年代からアルザス地方には古代ケルト人が居住していたとされる。その後、この地方への居住を試みたのは、現在のドイツ南西部の「黒い森地方」〜スイス北部を本拠としていた好戦的なゲルマン系アレマン人(アラマンニ人)とされ弱体化した古代ローマ帝国領への侵入を繰り返して、5世紀になりアルザス地方に定住を果した。
そのアレマン人が話していたゲルマン系言語・「アレマン語」が、アルザス地方に住み着いたアレマン・アルザス人の言葉・「アルザス語」へ派生したとされる。

Ref.
ドイツ系アルザス人とアルザス語
今日でも、西ゲルマン系フランス族系譜のフランス人の住む国フランスにおいて、民族的にフランス人と異なるアルザス地方に住む人々は、自分達を堂々と「アルザス人」と呼ぶ。フランス語が公用語になった現在でも、多くの人はドイツ語の方言に区分される「アルザス語」を理解することができる。特に年配の人達には、フランス語新聞だけでなくドイツ語新聞も講読して、雑誌や小説などをドイツ語で読んでいる人も少なくない。
現在、フランス語の教育を受け、日常会話そのものはフランス語だが、アルザス地方の人々は言語のみならず、文化や生活習慣、食事のメニュー、コロンバージュ様式/木骨組み造りの住宅建築に典型を見る街の佇まいに至るまで、標準フランスとは幾分異なるアイデンティティを「民族の誇り」としている。これは中世以来、歴史的に神聖ローマ帝国などドイツ系支配の期間が、フランス系支配より遥かに長いことからの当然の結果である。なお、現代フランス語では「ドイツ/ドイツ語」を「アルマニ Allemagne/アルマン Allemand」と呼ぶ。

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7世紀前半、フランク王国の勢いが衰え始めた640年頃、アルザス地方は初めて「公国」として登場してくる。7世紀末、アルザス公国はオベレンヘイム(現在=オベルネ)に居城を置いた三代目の有力者アーダルリヒT世公(Adalric I またはエティション Etichon/645年〜690年 or 720年)の時代に勢力拡大が行われ、現在のライン上流県〜スイス北部まで公国の領地とした。
8世紀の後半〜9世紀初頭、フランク王国のカロリング朝カールT世(シャルルマーニュ)の統治時代から、ライン川を使った交通の利便性を初め、鉄鉱石や豊富な石炭に恵まれたアルザス・ロレーヌ地方は、時代の統治者から戦略的に重要な地域と認識され、この地政学的な優位性からライン川右岸(東側)で勢力を強める「ドイツ」との歴史的な領土紛争が絶えないエリアでもあった。

800年、カールT世が西ローマ帝国の皇帝(大帝)に就き、フランス王国は領土の拡大を図ったが、10世紀後半にフランク王国は三つ(西・中・東フランク王国)に分裂、東フランク王国はドイツ・オットー大帝の神聖ローマ帝国へと引き継がれ、アルザス・ロネーヌ地方もその支配下となる。これ以降、アルザス・ロレーヌ地方の歴史は、神聖ローマ帝国との関わりを避けて通れない運命を歩む。
その後、14世紀の半ば〜16世紀まで、アルザス・ワイン街道の町コルマールやテュルクアイム、オベルネ、ケゼルスベルグ、ミュールーズなどは、自立と経済活動で力を発揮した強い結び付きの「十都市同盟」に加盟する。幾つかの街は神聖ローマ帝国の「自由都市」を獲得、ヴォージェ山地の麓に点在する村々では一部にローマ時代から、多くは7世紀ごろから修道院で作られていたワイン醸造を学び産業化、農産物の増産、ライン川の交易と商業取引が飛躍的に発展、それぞれが繁栄の「黄金時代」を迎える。

16世紀、中央ヨーロッパに共通したことだが、カトリック教徒からプロテスタント派への改宗する人々が続出、さらに各地の農民が支配階級に反発する「ドイツ農民戦争」が頻発する。17世紀になるとカトリック教会とプロテスタント派との「三十年戦争」が勃発、ヨーロッパ社会は「戦争の時代」となり、混乱の様相を見る中、アルザス・ロレーヌ地方は勢力を増したフランス王国の領土へ変わる。
17世紀後半、フランスのルイ]W世による「オランダ侵略戦争」など、一連の周辺国への侵略戦争を経てフランス王国の領土はさらに拡大傾向となるが、18世紀初頭の「スペイン継承戦争」の結果、アルザス・ロレーヌ地方は強力なドイツ・プロセイン王国の軍事力に凌駕される。
18世紀後半の「フランス革命」の時代には、革命政府はライン川左岸(西側)のアルザス・ロレーヌ地方をフランスへ併合する。しかし、歴史の動きはあまりに流動的で、ナポレオン政権の没落後のフランスはかろうじてこの地方を維持できたが、その勢力は弱体傾向となる。その後、1870年に始まるドイツ・プロセイン王国との「普仏戦争」に至り、翌年、激戦の末にフランスは敗退する。
結果、プロセイン王国は「ドイツ帝国」の成立を宣言して、アルザス・ロレーヌ地方のほとんどを「ドイツ語=エルザス・ロートリンゲン」と名称して直轄統治下に置いた。なお、このプロセイン王国の地域名称が、今日の「アルザス地方」の語源になったとも言われてる。

ほどなくして1914年に「第一次大戦」が始まり、激しい戦いを経てドイツ帝国は敗退、「ヴェルサイユ条約」によりアルザス・ロレーヌ地方はフランス領となり、アルザス語の使用の禁止、取って代わってフランス語が公用語となり、以降、フランス語の学校教育が始まる。そして「第二次大戦」ではナチス・ドイツ軍の占領、アルザス地方のほとんどの街と村々は大きく破壊され、戦後、フランス領へ復帰する。
中世以降、50年〜100年毎の支配権と帰属の絶え間ない変換、破壊と再生の歴史は、地政学的に避けられない「アルザス地方の宿命」とも言える大きな特徴である。「戦争と平和」に激しく翻弄されたアルザス地方には「歴史認識」などの言葉は存在しない。

「アルザス・ワイン街道 La Route des Vins d'Alsace」

「アルザス・ワイン街道」/花を飾る「コロンバージュ様式」の家々/「フランスの最も美しい村」
  「アルザス・ワイン街道」とは、「ライン下流県」のストラスブール Strasbourg の西方20kmのマルレンヘイム Marlenheim からスタートして、南方の「ライン上流県」のミュールーズ Mulhouse の西北西20kmのタン Thann へ至るまで、直線で100km、道路の総延長で170kmほどの範囲、山岳スイスから流れ出るライン川に平行するヴォージェ山地の東側の山ろくと裾野の地域、正確に言えばワインを産する「103か所の市と町と村々」、それらを結ぶ「昔からの道筋」の別称である(下地図=アルザス・ワイン街道・北部〜中部〜南部)。
アルザス・ワイン街道の街と村々の多くの住宅は、この地方が歴史的にドイツの影響を強く受けて続けてきたことから、ドイツ的な「コロンバージュ様式 colombages」と呼ばれる、壁面に柱や梁がむき出した建築施工・「木骨組み造り」に最大の特徴を示す。春から秋の季節、アルザス・ワイン街道のほとんどの家々の窓辺やベランダ、階段やバルコニーには美しい花々が飾られ、さながら中世の風情を呈し遠方から訪れるツーリストの心を癒す。そして、幾つかの村々は「フランスの最も美しい村」に指定されている。

               「アルザス・ワイン街道」地図(ライン下流)/(C)legend ej
                      アルザス・ワイン街道(ライン下流県)/作図=legend-ej

               「アルザス・ワイン街道」地図(ライン上流)/(C)legend ej
                      アルザス・ワイン街道(ライン上流県)/作図=legend-ej

フランス国内に約32,000余りあるとされる村の中で、「フランスの最も美しい村」に認定されているのは2017年現在155村である。
lg-fr-beaux http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/
lg-fr-flw http://www.villes-et-villages-fleuris.com/

アルザス地方の中心都市、ストラスブールの情報:
Web 世界遺産/ストラスブール旧市街とノートルダム大聖堂(下写真)

ストラスブール Strasbourg/(C)legend ej
                  ストラスブール旧市街/イル河畔の伝統的なレストラン群/アルザス地方

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アルザス地方の気候と地質
  大西洋からの幾分湿った偏西風は標高1,000m級のヴォージェ山地の西側で降雨・降雪をもたらす。しかし、山地の東斜面に広がるアルザス・ワイン街道のエリアでは「準フェーン現象」となり、アルザス地方は比較的乾燥する。夏は降水量も少なく乾燥が続き、氷点下10℃を下回る真冬の時期には、ほかの地域より気温が1℃〜2℃ほど高く、わずかだが温暖な気候となる。
一方、地質に関しては、5,000万年前の「新生代・古第三紀」に地球規模の地殻変動が起こり、100万年ほどかけて、現在のドイツ西南部の「黒い森地方」とフランス側のヴォージェ山地が裂けて東西に広がり、それ以前に湿地状の湖(ラグーン)であった現在のライン川が形成されたとされる。その結果、隆起して露出されたライン川の東西双方の構成地質は、ほぼ共通なレイアー層を呈して、恐竜が出現する前、3億年前の「古生代・ペルム紀」に生成された花崗岩・片麻岩・赤色砂岩・石灰岩などである。

「アルザス・ワイン」とは
  ヴォージェ山地の地質的な偶然の特徴と地下の帯水層の存在、品種改良されたブドウの生育に適した雨量と乾燥などの気候条件が相まって、アルザス地方で優良白ワインの生産が可能となっている。今日、アルザス・ワイン街道の村々で生産されるワインの95%は辛口白ワインとされ、生産量の25%以上は輸出されている。
アルザス地方のワイン造りの歴史は古く、一部は古代ローマ時代の駐屯兵士により、多くはすでに7世紀頃に修道院でブドウ栽培が行われていたとされる。中世16世紀頃までワイン交易の手段としてライン川が活用され、コルマールなどの「十都市同盟」の後押しもあり、アルザス地方は繁栄の上塗りが行われた。
17世紀、ヨーロッパは戦争の時代となり、宗教戦争・「三十年戦争」やフランスによる一連の「侵略戦争」は、アルザス地方の荒廃を招くことになり、ワイン生産も一気に落ち込んだ。しかし、大司教座の宗教都市ストラスブールの繁栄に伴ってブドウ栽培も復興、その後の「フランス革命」の混乱はアルザス地方のワイン生産に再び大きな打撃となるが、ドイツ・プロセイン王国への併合後、農産物の増産と同時にブドウの品種改良が試みられたとされる。

アルザス・ワイン街道の標高200m〜400mの村々で栽培されている主なワイン用ブドウ
    1) 上品な香りが特徴 リースリング種 Riesling
    2) 強い香り ゲヴュルツトラミネール種 Gewurztraminer
    3) 赤ワインのピノ・ノワール系 ピノ・グリ種 Pinot Gris
    4) 別名マスカット ミュスカ種 Muscat
    5) ピノ・ノワール種 Pinot Noir
    6) シルヴァネール種 Sylvaner
    7) ピノ・ブラン種 Pinot Blanc

上記 1)〜4) の4種を栽培する特定畑から収穫されるブドウが、濃厚なこくと香り、澄みきった深い黄金色を呈するアルザス特級ワイン・グラン・クリュ Grand Cru となる。アルザス地方の全ワイン生産量の4%である特級ワイン・グラン・クリュは、厳しい規制の下、ワイン街道の「合計51か所」の指定畑のみで作付けされた上記4種のブドウから醸造される「最高級ワイン」である。そのほか、アルザスワインAOC種として認められているブドウは上記 5)〜7)である。

       アルザス・ワイン街道 標識             アルザス特級ワイン・「グラン・クリュ Grand Cru」
          「ワイン街道」を示す標識      アルザス特級ワイン・グラン・クリュの例(シャトー醸造所 購入)
                               醸造所=シャトーオールヴィラー Ollwiller/ブドウ=ゲヴュルツトラミネール種
                               ミュールーズ北西17km/アルザス・ワイン街道・ヴィエンハイム村 Wuenheim

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「アルザス・ワイン街道」の中心 コルマール Colmar

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位置: ストラスブール⇒南南西65km/ストラスブール⇒コルマール=列車30分
人口: 68,000人(ライン上流県・県庁)/標高: 200m
lg-fr-flw http://www.villes-et-villages-fleuris.com/

※現地アルザス地方では、「コルマール」を「コルマ」と短く呼ぶ人が多い

コルマールの概要
  アルザス・ワイン街道(下記URL)に登録されたワインを生産する町と村々は、正確には「合計103か所」、すべてが比較的小さな自治体、そのうち歴史も古く最も大きな街であり、ライン上流県の県庁、ワインの集積地となっているのがコルマールである。コルマールの旧市街は、アルザス・ワイン街道の中でツーリストに最も人気のある観光スポット、ホテルやレストランなども充実している。

美しいコルマール旧市街(トップ写真)
  「オー・ラン県(ライン上流)」・アルザス平野に位置するコルマール旧市街は、今世紀に起こった戦争の被害も比較的少なく、周辺のアルザス・ワイン街道の魅力的な街や村々などと同じく、コロンバージュ様式と呼ばれるドイツ文化の影響を色濃く残す建築仕様・木骨組み造りを使った中世の美しい建物が数多く残されている。
また、コルマールは「フランスの花咲く町と村 Villes et Villages Fleuris」にも認定されているように、春〜秋の季節、運河沿いの手すり家々の窓辺やバルコニーを初め散歩の古い通りや橋の欄干までも、至る所が垂れ下がるようなアイビー・ゼラニウムやペチュニア改良花など色鮮やかな美しい花々で飾られる。

真夏の黄昏時、梁と柱が露出するコロンバージュ様式の壁や急斜面を持った独特な屋根、そして窓辺やバルコニーや階段などに飾られた草花鉢も微妙な薄紫色に染まる。静かなコルマールの石畳の通りをレストランの淡いカンテラの光が優しく照らし始める。
ヨーロッパでは世界遺産チェコ首都プラハやチェスキー・クルムロフ旧市街を初め、バルト海の世界遺産の古都タリンなど何処でも同様と思うが、特に歴史を秘めた中世都市が最も美しく感動的に輝く時間は、この黄昏の瞬間をおいて他にないであろう(トップ写真)。
粉雪舞う氷点下10℃の真冬とはまったく異なる柔らかな雰囲気がかもし出される夏の夕暮れ時、コルマールのこの場所で、この時間になると何故か心落ち着く。まだ夜の暗さはなく、さりとて昼間の明るさは既に残っていない。全ての物が「黄昏」という言葉としても響きの良い時が放す淡い紫色のベールに包まれて行くこの夏の微妙な時間帯が、私はたいへん好きである。

※世界の美しい都市や村々の情報:
ブログ プロヴァンス地方・「フランスの最も美しい村」ゴルド/世界の美しい都市

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Ref.
大都市ストラスブールと産業都市ミュールーズ
アルザス地方・「ライン下流県」の大都市ストラスブール、そして「ライン上流県」のミュールーズは、正しくはアルザス・ワイン街道に属する街ではない。双方の市中ではワインの集荷・取引はあっても、実際のワイン生産は行われていない。
ストラスブールは古くから大司教座(大聖堂)が置かれた歴史的・宗教的な大きな街であり、現在はEU議会場の存在が示すようにヨーロッパの「中心」に位置する経済・産業・観光都市であり、東フランスの最大センターである。
一方、南部のミュールーズは旧国営・「カリ鉱山」で発展した街、この歴史を引き継ぎ現在ではフランス・プジョー社の創業工場や日系三菱重工・エンジン工場など重工業メーカーや化学企業が生産拠点を置く東フランスの産業都市である。

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コルマール旧市街・「プチット・ヴェニーズ」/コロンバージュ様式の家々/フランスの「歴史的建造物」の宝庫
  コルマールの旧市街に「プチット・ヴェニーズ Petite Venice 小ヴェネチア」と呼ばれる地区がある。かつて農産物の運搬に利用された狭い運河沿いや石畳の通りには、窓辺などに美しい花々を飾った古い民家がまるで「おとぎの国」の家のように連なっている。一方、フランスの「歴史的建造物」に指定されている、旧市街の中心と言える聖マルタン大聖堂 St Martin Cathedral 近くの古い通りにも風情ある感じの良いレストランやプチホテルが軒を連ねている。
経験論だが、コルマールのこのエリアのホテルでは、「☆☆☆サン・マルタン・ホテル Hotel Saint Martin」など、人気が高く常に満室状態のプチホテルや雰囲気のあるカフェも多い。なお、サン・マルタン・ホテルの右側で角部に1668年建造の装飾出窓の付いた邸宅(Maison Sndherr/現在=Bar La Croc's)はフランスの「歴史指定建造物」に指定されている。

また、聖マルタン大聖堂の直ぐ南側、ツーリストで賑わうレストラン通りとなっている市場通り Rue des Marchandes、観光客が間違いなく上を見上げてシャッター押すことになる、男性二人の人物フリーズ装飾の大型の角部出窓と凝ったベランダ通路などで構成される邸宅 Masion Pfister(現在=ワインショップVinum)は、1537年に造られた建物でフランスの「歴史的建造物」に指定されている。
そして、道路の反対側(西側)に路地を挟んで同じような白壁とむき出し柱が美しいコロンバージュ様式の4階建て(現在=レストラン)と5階建て(現在=ブックショップ)がある。特に左側のレストランの建物はフランスの「歴史的建造物」で16世紀〜18世紀のままの邸宅 Maison Schongauger、さらにこれより50mほど南東の市場通り48番地のベージュ色の建物、1545年建造のアーチ型入口も「歴史的建造物」に指定されている。
このように、多くのツーリストが憧れるコルマール旧市街には多くの建物、例えば、コルマール中央駅の駅舎や後述するウンターリンデン美術館を初め、中世からの修道院や大聖堂やユダヤ教シナゴーグ、上述した貴族の旧邸宅シャトー、あるいは一般の住宅、さらに噴水なども含めて合計45か所がフランスの「歴史的建造物」に指定されている。村全体が破壊されるなど大きな戦争を何度も経験してきた東フランス地方にあって、一つの旧市街でこれほど多くの「歴史的建造物」が残されている市や町は少ない。

個人的な偏見とこだわりを告白しよう! フランスの「歴史的建造物」に指定されていないが、コルマール旧市街を訪ねた私が必ず脚を向ける場所がある。それは聖マルタン大聖堂の南西100mほど、市場通り12番地 Rue des Marchandes の「レストラン Le SERENO」の中庭である(下写真)。
レストランの左側(東側)、コロンバージュ様式の建物が並ぶ石畳の市場通りに面するベージュ色砂岩のアーチ型門に立つと、この中庭が覗けるので、手持ち時間の少ないツアーツーリストには無理だが、私以外にも「興味深い中世」を探す幾らかの旅慣れた個人ツーリストならこの中庭の存在に気付いているはずだ。
中庭正面を塞ぐように4階建ての古い納屋のような大型建物が建っている。急斜面の黒ずんだ朱色の屋根は出窓形式の大型ドーマー仕様、3階に設備された重量物を巻き上げる滑車装置(ホイスト)が目を引き、2基の金属オブジェが下がる壁面は古めかしい無表装のランダムな赤レンガ積み、春〜秋には手摺り階段に大量の花が垂れ下がり、1階の入口付近に止めた古い荷車にも美しい季節花が飾ってある。このデザインと言うか、建物と壁面や花の装飾レイアウトは、私が初めてこの中庭の存在を知った2002年の夏以来、年月の経過の中で、過去に10回ほど訪ねているがまったく変更されていない。

            コルマール/(C)legend ej
                    アルザス・ワイン街道コルマール旧市街/レストランの中庭と古い建物

花が見事に咲き誇る盛夏の季節もたいへんと風情をかもし心落ち着く感じだが、極寒の冬の霧氷の朝、あるいはクリスマス(仏語=ノエル)の時期には花は取り払われてしまうが、屋根にはまるで白砂糖のような粉雪が薄っすらと積もり、木靴を飾った2階の密閉窓と荒いレンガ壁面が燈色と青紫色で照明され、古い道具も見える三階の滑車装置の部屋の内部には赤々と明かりが灯される。
「人に見せる」ことを意識した所有者の何とも見事な演出だ。私はこの古い中庭に佇み、この風情に見惚れ黙って1時間ほど過ごすのがコルマールでの私の「密やかな旅の流儀」となっている。

さらに、経験論から言えば、17世紀の「オランダ侵略戦争」の「テュクアイムの奇襲攻撃」で神聖ローマ帝国軍に勝利するフランス軍テュレンヌ元帥も宿泊したとされる1565年建造の由緒ある「☆☆☆☆ Hotel Le MARECHAL」など、「プチット・ヴェニーズ」の運河沿いに建ち並ぶコロンバージュ様式の密集的な風景も心癒される。

「プチット・ヴェニーズ」の運河沿いの美しいコロンバージュ様式の家々の写真と情報:
ブログ 花のある風景/アルザス・ワイン街道・コロンバージュ様式の美しい家並み

また、観光シーズンの春〜秋の時期、時間に余裕あるツーリスト達は聖マルタン大聖堂の周囲や市場通りなどの伝統レストランで席を取り、リースリング種やピノ・ブラン種に代表される地元のアルザス白ワインをグラスに注ぎ、笑顔の会話、ザワークラフト(キャベツの酢漬け)やソーセージとポテトを使ったアルザス・ワイン街道の伝統的な料理・「シュークルト Choucroute」、あるいは美味しいタルト菓子などを何時間も味わう。
そんな時、たとえ東洋の遠い国からやって来た旅人であっても、フランスにあってあくまでもドイツ的なアルザス地方の特異な文化を知り、充実した時間を過ごすことができる。特にレストランの灯りが石畳の路地に淡く反射し、夏の夜の乾いた気持の良い空気が辺り一帯にゆるやかに流れる頃は、何とも言えない感激を覚えるだろう。
同じ過ぎ行く時間なのに中世の街コルマール旧市街の夏の黄昏の時間は、何故か日本のそれに比べはるかにジェントルで滑らかに過ぎていくような気がする。もう一度、「トップ写真」へ戻って、改めてコルマール旧市街の「夏の夕暮れ時」に心奪われてみようではないか。

※トップ写真: 「コルマール旧市街・夏の夕暮れ時のレストラン街」の写真へ戻る

コルマール旧市街・ウンターリンデン美術館
  「コルマール観光案内所」は旧市街地の北端にある、この近くにはパリのルーブル美術館などを除き、フランス国内で入館者数が最も多い地方美術館に屈指されている「ウンターリンデン美術館 Unterlinden FAM」がある。建物は中世13世紀に設立されたドミニコ会の女子修道院を改造したもので、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。
展示作品は中世〜ルネサンス期の絵画が中心、中でも極めて有名な作品は、ヨーロッパの重要な宗教画に屈指される≪イッセンハイムの祭壇画 Retable d'Issenheim≫で、鮮やかな赤色と黒色を基調にイエスの生涯と関連物語を描いた大小10枚の祭壇絵画である。また、旧ドミニコ会女子修道院は中世13世紀以降、南西5kmのエグイスハイム(後述)の歴史に深く関わっていた。

氷点下の気温/真冬の静かなコルマール旧市街の美しさ
  クリスマス時期の旧市街の賑わいと美しさは何とも魅力的だ。新年に入っても、伝統的なレストランやカフェの橙色の明かりに照らされて名残惜しそうにクリスマスの飾り付けが輝き、わずかに粉雪の舞う中世の石畳の通りは人通りも少なく、静まり返りひっそりと夜更けて行く(下写真)。
アルザス・ワイン街道の中心地コルマールは、私の最も好きなヨーロッパの古い街の一つで、何度訪れても飽きることはなく、どの季節であっても心躍る期待と予想を裏切ることもない。

コルマール Colmar/(C)legend ej
                  コルマール旧市街の深夜/クリスマス〜新年のレストラン群/アルザス地方

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聖マルタン大聖堂近くの石畳の市場通り Rue des Marchandes には、ストラスブール旧市街の「プチット・フランス(下写真)」と同じように、伝統的なアルザス地方料理をサーブする雰囲気の良いレストランが軒を連ね、ディッシュだけでなく、その外観や内装は何処でも絵になる程に美しい情景を提供している。
真冬、夜が更け、付近一帯に冷気が漂い始めてきた。 明日の朝、晴天の天候なら放射冷却が起こり、間違いなく古い石畳の通りの周辺も美しい霧氷に包まれることであろう。寒さが厳しいフランス内陸部の古い街コルマール、氷点下の誰も居ない通りにキリッと冷え込んだ時が流れる。

            ストラスブール「プチット・フランス」 Strasbourg/(C)legend ej
                 ストラスブール旧市街/真冬の「プチット・フランス」の夜/アルザス地方
                 Web 世界遺産/ストラスブール大聖堂と旧市街「プチット・フランス」

Ref.
「コロンバージュ様式 Colombages」の家々/ドイツ・「黒い森地方」 ゲンゲンバッハ旧市街
コロンバージュ様式は、建物の壁面に柱や梁がむき出し状態の建築様式の一つで、東フランス・アルザス地方だけでなく、有名な「ドイツ・ロマンティック街道」のローテンブルグ旧市街など、特にドイツの中世都市などで多く見ることができる。
ドイツ南西部・「黒い森地方」の街や村にもコロンバージュ様式の美しい住宅群の通りや路地がある。経験論を言えば、ストラスブールから南東30km、ライン川東岸ドイツ・オッフェンブルグ Offenburg から南東9km(ローカル⇒列車10分)のゲンゲンバッハ Gengenbach もコロンバージュ様式の建物を残す典型的な街である。
人口11,000人、中世から繁栄するゲンゲンバッハは決して大きな街ではなく、均整のとれたルネッサンス様式の18世紀建造の市庁舎と三角形のマーケット広場を中心に、「黒い森地方」から流れ出るキンツィヒ Kinzig 河畔に開けた非常にキレイな街である。市庁舎の東側には735年創建後間もなくしてカロリング朝・西ローマ帝国の直轄修道院となった壮大なベネディクト派ゲンゲンバッハ修道院がある。

旧市街全体が花と装飾に埋もれている感じだが、特にコロンバージュ様式の住宅が建ち並ぶエンゲルバッセ路地 Engalbasse の美しい佇まいは群を抜いている。風情、と言うより若干「田舎風」とも言えるアルザス・ワイン街道のコロンバージュ様式の建物に比べ、ゲンゲンバッハの住宅群は風情を超越した、如何にも「ドイツ的」とも言える整然とした芸術作品に近似する華やかで美的な景観を主張している。

また、ゲンゲンバッハはストラスブールと同様に12月の「クリスマス・マーケット」が有名で、市庁舎前から真北へ150m、アーチ型門と日時計のある上方城門(北門)まで伸びるVictor-Kretz通りに軒を並べる出店と市街がキレイに照明される。クリスマス前の1か月間、「キリスト降誕」を祝い、市庁舎の24か所の大型窓は世界中の有名な芸術家による色鮮やかなファンタスティックな絵で埋もれる。
建物の柱部分も装飾、広場には電照のツリーが立ち、一帯は幻想的な雰囲気となる。毎年10万人の観光者がこの美しい冬のイヴェントに訪れる。

          ドイツ・「黒い森地方」ゲンゲンバッハ/(C)legend ej
                 ゲンゲンバッハ/エンゲルバッセ路地 Engalbasse/ドイツ・「黒い森地方」

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「フランスの最も美しい村」/城塞都市 エグイスハイム Eguisheim
(エグイスハイム)

lg-fr-win lg-roman
位置: コルマール⇒南西5km
人口: 1,850人/標高: 210m
lg-fr-beaux http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/
lg-fr-flw http://www.villes-et-villages-fleuris.com/
lg-prefere フランス・テレビ局F2(2013年調査・1位)

アルザスの名門貴族エグイスハイム家/城塞都市エグイスハイムの発展
  今日、エグイスハイムはコルマール近郊の通勤圏の村でもあり、リクヴィールと並んでアルザス・ワイン街道の最大級のワイン造りの村そして、「フランスの最も美しい村」に認定された花に埋もれる美しい観光スポットである。
エグイスハイムは2006年に「ヨーロッパ花の街コンテスト」で優勝を獲得した。また、フランスのテレビ局F2の調査では、2012年1位の南西フランス・サン・シル・ラポピーや2014年1位のコルド・シュル・スィエルなどと並び、2013年の「フランス人の最も好きな村」として最上位ランクされている。街のほとんど建物は16世紀からの美しいコロンバージュ様式/木骨組み造りである(下写真)。

歴史に彩られたエグイスハイム旧市街は、八角形の敷地に建つシャトー城館 Chateau d'Eguishem を中心に直径約300mのほぼ円形、中心部は複雑な路地の交差と組み合わせだが、アルザス・ワイン街道の多くの街と村で見られるように、城壁に近くなるに連れて狭い石畳の通りがほぼ同心円状に設けられている。
1,000年以上の歴史の中で、エグイスハイムは常に「シャトーの存在」を切り離して無視することはできず、エグイスハイムの、特に中世の歴史はシャトーの居住者の「家系・系譜の歴史」であると言えるだろう。エグイスハイムはシャトーと城壁に取り囲まれた旧市街の中で発展を繰り返してきた。

7世紀前半、アルザス地方は歴史の中で初めて「公国」として登場してくる。アルザス公国はオベレンヘイム(現在=オベルネ)に居城を置いた三代目の有力者アーダルリクT世公(Adalric I 645年〜690年 or 720年/別名=エティション Etichon)の時代に特に勢力拡大が行われ、7世紀末には公国は現在のライン下流県〜スイス北部まで拡大された。
オベレンヘイム(オベルネ)のほかにヴォージェ山地のホーエンブルグ山にも城砦を築いていたアーダルリクT世は、「アルザスの守護聖人」となる聖(女)オディールの父であり、680年、山頂城砦を改築して娘オディールが初代修道院長となるホーエンブルグ女子修道院(モン・サントディール修道院)を創建している。

盲目の少女から奇跡の視力を得た聖オディール/ホーエンブルグ女子修道院(モン・サントディール修道院)の情報:
Web 「アルザス・ワイン街道」(北部)オベルネ周辺/コロンバージュ様式の美しい村

アーダルリクT世の孫(聖オディールの甥)のエーベルハート公(Eberhart 〜750年)が、父アーダルベルト公(聖オディールの弟)からアルザス公国を継承した8世紀前半、現在のエグイスハイム旧市街の中心となる場所、おそらく草原か林が広がる平坦な場所と推測できるが、木造の「小規模なシャトー城砦」を建てたとされている。
これがエグイスハイムの1,000年以上の歴史のスタート・ポイントとなり、以降、公の名称エーベルハートをもじり、「家」を意味するドイツ語系の「-heim」が付加され、「エギノ Egino の家=エゲネスハイム Egenesheim」 と呼ばれ、後世の「エグイスハイム Eguisheim」の語源となったという説を、私は信じたい。その後、エグイスハイムはアルザス伯アーダルリクU世の息子であり、公エーベルハートの従兄弟の伯アールベリヒT世(聖オディールの甥 Alberich 689年〜735年)の系譜に引き継がれる。

Ref.
アルザス公アーダルリクT世の系譜
アルザス公アーダルリクT世とアウストラシア王女であった妻ベルスヴィンデ Berswinde には、娘(聖)オディールのほかに息子ユーグ(若くして死亡)、アルザス公となるアーダルベルト Adalbert、アルザス伯となるアーダルリクU世、ユーグ Hugh、そして娘ローズミンダ Rosminda が居た。
オディールの弟・アルザス公アーダルベルトは、717年、ストラスブールに聖エティエンヌ修道院(フランスの「歴史的建造物」に指定)を建立する。アーダルベルト公と妻ゲルリンダは6人の子供(オディールの甥と姪)に恵まれた。息子エーベルハート公はエグイスハイムに最初の小城砦を造り、娘アターレ Athale は父が創建したストラスブール聖エティエンヌ修道院の初代修道院長となり、次の娘ユージェニアEugenie は720年にオディールが60歳で亡くなった後、オディールに継いでホーエンブルグ女子修道院の二代目修道院長に、末娘ガンドリーナ Gundlina はオディールが修道院長を兼務していたニーデルマンステ女子修道院の二代目修道院長に就任する。

オディールの末弟・ユーグ伯はボデール Bodel、ブレオン Bleon、レミ(レミギウス Remi/Remigius)の3人の子供を儲け、レミはマンステ(マンスター)修道院へ入り後にストラスブール司教となり、南方10kmのライン河畔の町エッシャウ Eschaus に聖ベネディクトウス派修道院&付属聖トロフィーム教会堂を建立する。そして兄ボデール伯の娘アダーレAdale/Athale が初代修道院長に、次の娘ロシュヴィンデ Roshwinde が二代目修道院長に就任する。
また、レミはローマ教皇セルギウスT世がローマ・マルティ地区の聖マルティヌス(マルタン)修道院に埋葬していた、304年のキリスト教迫害で殉教した「ローマの聖ソフィア」の遺物を、778年、自身が建立したエッシャウ聖トロフィーム教会堂(フランスの「歴史的建造物」)へ移している。

エグイスハイム家&ダグスブール家
7世紀のアルザス公アーダルリクT世を「1代目」とすると、9世紀の終わりから10世紀に「9代目」となるホーエンブルグ・ユーグV世(Hugh III von Hoenburg 870年〜940年)が、南部部アルザス・サングオ地方の名門貴族フェレット家の娘ハイデルガルト Hidergard と結婚することで、エグイスハイム家の系譜が広がり、領地と協力関係はさらに拡大と発展を見る。
そして、エグイスハイム家系はその息子・伯エーベルハートW世(Eberhart IV 900年〜973年)へ継承され、伯の系譜は最初の妻ルクセンブルグ・ルイトガルド Luitgarde との間に生まれた伯ユーグX世(Hugh V 918年〜986年)へ、次の妻となる北方のロートリンゲンの名門貴族メッス家の娘ベルタ Bertha との間に生まれた伯エーベルハートY世(Eberhart VI 950年〜1024年)へ継承される。
前者のユーグX世の息子はエグイスハイム伯ユーグW世(Hugh IV 960年〜1049年)である。ストラスブールから西方38kmの名門ダグスブール(ダボ Dagsburg-Dabo)伯家の娘ヘイルウィッグ Heilwig と結婚したユーグW世は、「子沢山の伯」として知られ、末息子のブルノ(Burno 1002年〜1054年)は後のヴァチカン・ローマ教皇レオ\世である。
一方、後者のロートリンゲンのメッスの名門貴族の家系 Nordgau-Metz を継承したエーベルハートY世の系譜は娘アデレード Adelaide となり、アデレードはオットーU世の息子・シュパイアーガル伯ハインリッヒU世へ嫁ぎ、後の神聖ローマ帝国・皇帝コンラートU世(990年〜1039年)を生む。
ローマ教皇レオ\世の父親と皇帝コンラートU世の母親は「従兄妹」の血族関係である。中世10世紀以降、系譜からみるエグイスハイム家は、アルザス・ロレーヌ地方のみならず、神聖ローマ帝国へも系譜を広げた名門貴族であった。

Wikipedia情報 11世紀、ローマ教皇レオ\世の父であり、子沢山のエグイスハイ
 ム伯(=北方ノルグウ伯 Nordgau)であったユーグW世の時
 代、エグイスハイムにあった古い城砦は解体され、跡地に新たに
 八角形の堀が設けられ、堀と同じ八角形の高い城壁に囲まれた
 堅固な「城砦タイプ」の石積みシャトー城館と高い塔が造営さ
 れた。
 今日、旧市街で見ることのできるシャトーとその周りを取り囲む城
 壁は、その後改築があるが、ベースラインはこの時代に遡るもので
 ある(左写真)。




11世紀の創建当時のエグイスハイムのシャトー城館
深い堀と高い城壁に囲まれた堅固な城砦タイプの城館
写真情報: Wikipedia

名門エグイスハイム家のシンボル的な「八角形」、その八角形の深堀には「城壁島」のようなシャトーへ渡る橋が掛けられ、城壁にわずかに1か所開けられた門を通じて城館内部へ入れる構造であった。堀の規模は今日のシャトー広場 Place du Chateau とマルシェ広場Place du Marche の合同広さに相当、堀の外壁は今日の二つの広場の丁度外側であり、橋と城門の位置は今日のシャトー広場の石畳面から聖レオ\世の礼拝堂へ向かう石製階段と通路がある場所であった。
ユーグW世の末息子、後のヴァチカン・ローマ教皇レオ\世となるブルノは、1002年、このシャトーで生まれ、父ユーグW世が建立したエグイスハイムの南東7km、ウォヘンヘイムの聖ベネディクトウス派女子修道院(後述 リクヴィール村)で最初の教育を受けている。

Ref.
ブルノ=ヴァチカン・ローマ教皇レオ\世
エグイスハイム伯ユーグW世の息子、後にローマ教皇レオ\世となるブルノは、1002年、エグイスハイム市街のこのシャトーで生まれた。エグイスハイム伯家の遠縁である神聖ローマ帝国・皇帝コンラートU世により、24歳になったブルノはロレーヌ地方ツゥールの司教に任命され、その後、コンラートU世の息子・皇帝ハインリッヒV世の推挙を受け、1049年、47歳でヴァチカン・ローマ教皇レオ\世となった。
教皇レオ\世は混乱が続いていたヨーロッパ宗教世界の秩序回復を目指し「教会改革」に着手、本拠ローマから離れてフランスやドイツを回り、大司教や修道院関係者との協議を重ねた。すでに兆候が出始めていた「東西教会分裂」の危機を回避するために大いに尽力するが、1054年、イタリア南部の異教徒との戦いで捕虜・収監された後、マラリアを患い51歳で世を去ってしまう。この年、教皇レオ\世は列聖に加えられ「聖レオ\世(教皇)」となる。

伯ユーグW世が北アルザスの名門ダグスブール(ダボ)伯家の娘ヘイルウィッグと結婚したことで、血縁の広がったエグイスハイム家は、11世紀の後半、ユーグW世の後、息子ブルノ(ローマ教皇レオ\世)の兄であるエグイスハイム&ダグスブール領を治めた伯ジェラルドU世(Gerard II 〜1038年)とユーグZ世(Hugh VII 990年〜1047年)の系譜へ継承されてゆく。
12世紀と13世紀、エグイスハイムのシャトーでは、八角形の城壁とその中心部に建つやはり八角形の高い三角帽子形の塔を保持したまま、伯家族が住むおおむね三つの独立ユニットで構成された建物の補修や改築が随時行われた。なお、今日見ることのできるシャトーの大部分は、この13世紀の改築後の姿で、1992年、8世紀の古い部分と併せてフランスの「歴史的建造物」に指定された。

しかし、歴史の皮肉な巡り合わせか、繁栄を続けた名門エグイスハイムの家系は、13世紀になり、ダグスブール領を治めたアーデルベルトU世(Adelbert II von Dagsburg 〜1212年)が男児に恵まれないまま亡くなる。その娘ゲルトルード(Gertrud 1190年〜1225年)は1220年、後にナバラ国の王となるシャンパーニュ伯テオバルトT世(詩人王・ティボーW世 Theobald I)と結婚するが、2年後に離婚、次いでドイツ・ライニンゲン家のザールブルッケン伯シモンV世(Simon III 1216年〜1246年)へ嫁ぎ、娘マチルダ Mathilde を生んだ直後に亡くなってしまう。
正統家系の継承者ゲルトルードが35歳で亡くなり、1225年、エグイスハイム家とダグスブール家系は男系継承の断絶となった。結果、エグイスハイムとダグスブール領地はストラスブールとメッツの司教、そして、ドイツ・ライニンゲン家系が継承することになる。

アルザス・ワイン街道・エグイスハイム/(C)legend ej
                    「フランスの最も美しい村」・アルザス・ワイン街道・エグイスハイム村
                     花を飾った老舗ワインカーブ・「PAUL SCHNEIDER」

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エグイスハイム旧市街/シャトー城館 Chateau d'Eguisheim、シャトー広場 Place du Chateau、周辺の建造物
  1225年、エグイスハイム家系の断絶の後、10世紀からの遠縁に当たる南部アルザス・サングオ地方の名門フェレット家フレデリクU世が領地継承を主張するが、これを退けたストラスブール司教がエグイスハイムを管理する。その後、13世紀半ば〜17世紀の中盤まで、エグイスハイムは南方10kmのストラスブール司教区のロウファッハ Rouffach からやって来た聖職官吏が駐留した。

一方、13世紀になるとエグイスハイムの街の規模は急激に発展・拡大され、北方のロスアイムやオベルネなどと同様に、現在の旧市街を取り囲んでいる直径約300mの円形の塁壁(城壁)の建設が始まり、1257年に市街の東西南北の4か所の城門が完成、1295年までにエグイスハイムの街は完全に城塞化とされた。この結果、事実上シャトーは「深堀と二重の城壁」に守られることになった。その後、農民などを含め周辺住民の城壁内への移転が図られた。
14世紀には、街の中心に建つシャトー城館を囲む八角形の城壁内部の余剰スペースには、教会と修道院が管理する建物が増設され、教会聖職者の常駐が始まり、建物内部には生産量の10%を納税・物納する義務、「十分の一税」が課せられた農民や住民から徴収した穀物や生産品が備蓄された。
16世紀には、円形の市街城壁の内部(内側)には、今日見ることのできるように、家屋の背面を城壁の代わりにする建築方法で、コロンバージュ様式の住宅が隙間なくびっしりと建てられ、その平行するように石畳の狭い道路、さらに同心円状に美しいコロンバージュ様式の家屋群が軒を連ねた(上写真)。
城塞化されたエグイスハイム市街は農産物の収穫とワイン生産で繁栄の「黄金時代」を迎える。今日、エグイスハイム旧市街を東西に走る大通り Grand Rue などで見られる住宅やショップなど建物のほとんどは、この16世紀〜18世紀に建てられたものである。
その頃ストラスブール司教は、1563年、西城門 Porte Haute 〜西方70m付近、市街の外となるが三角広場に石製の洗濯容器を付属した八角形の「聖母マリアの噴水」を、さらに1557年にはシャトーの西方50m、大通りとMonseigneur Stumpf 通りの交差広場に彫刻柱付きの八角形の噴水を建造した。この噴水の東側にあるコロンバージュ様式の建物の茜色の装飾出窓は美しい。

16世紀の「農民戦争」、さらにアルザス地方の多くの街と村々が経験したように、17世紀の初め、エグイスハイムもペスト病が流行して多くの犠牲者を出し、同じ頃に起こる「三十年戦争」の影響を受けながらも、この円形の城塞都市エグイスハイムの街は豊かなブドウ畑からの良質ワインの生産を背景に繁栄を享受して衰退することはなかった。
18世紀の後半の「フランス革命」の後、エグイスハイムのシャトーは国家財産となり民間へ売却される。その後、1834年までには市街の中心でシャトーを取り囲んでいた八角形の深堀は完全に埋められ、石畳で施工された今日のシャトー広場 Place du Chateau が造成され、八角形のシャトー城壁がシャトー広場からわずかに4.5mほど立ち上がる現在の形容となった。
1834年〜1836年、シャトーの東側のシャトー広場には、溜められた水量が実に8万リットル(ドラム缶400本相当)という、ローマ教皇レオ\世を称える「聖レオ\世(教皇)の噴水」が建設された。この噴水はアルザス地方で最大級を誇り、その中心には聖レオ\世(教皇)の立像が市街を見守っている。
1841年には市街の東城門近く、大通り Grand Rue に面する「エグイスハイム観光局」の直ぐ東方、現在オーベルジェ(宿泊&食事)・「Auberge de Rempart」となっている中庭風の広場にも八角形の大型噴水が造られた。この頃、市街の東西南北にあった4か所の城門はすべて解体され、天空に解放する自由通行の道路となった。

その後、1870年に始まるドイツ・プロセイン王国との「普仏戦争」に至り、フランスは敗退する。結果、プロセイン王国は「ドイツ帝国」の成立を宣言して、エグイスハイムも含めアルザス・ロレーヌ地方のほとんどを「ドイツ語=エルザス・ロートリンゲン」と名称して直轄統治下に置いた。
この「普仏戦争」でエグイスハイムのシャトーは被害を被り、その数年の後、1877年、追い討ちを掛けるようにシャトー城壁内部で火災が発生した。この火災事故により、伯家の象徴であった尖った八柱屋根の四階層の高い塔、そして14世紀以降に増築した「十分の一税」で徴収した穀物生産品を備蓄した倉庫や教会聖職者の居住建物などが焼失・崩壊してしまう。
崩壊した高い塔の跡地〜西側城壁までを整地して、1888年〜1894年、ストラスブール司教は、今日見ることのできるローマ教皇レオ\世を奉る「聖レオ\世(教皇)の礼拝堂 Chapelle St-Leon IX」を建立する。アルザス地方特産の赤色砂岩を使い、側壁面を厚い柱状壁(バットレス/控え壁)で強化、聖遺物を収める祭壇は西側、19世紀に流行したロマネスク・リヴァイヴァル様式の礼拝堂の東入口上部には聖レオ\世(教皇)の銅像が立っている。
同時期に、15世紀に改築されたかつてのエグイスハイム伯家のシャトー居住区画には、四階層の若干「宮殿タイプ」の装飾塔の階段とバルコニーがネオ・ルネッサンス様式で増設される。

エグイスハイム旧市街/聖ペトロ&パウロ(ピエール&ポール)教区教会堂 Eglise Saints Pierre et Paul
  シャトーから南西75mほど、聖ペトロ&パウロ(ピエール&ポール)教区教会堂の建つ場所には、13世紀のエグイスハイムの城塞化が始まる時期、1230年〜1240年に遡るロマネスク様式からゴシック様式で建て直された古い教会堂が建っていた。この中世の教会堂は手狭になったから、「フランス革命」の後、1807年に取り壊して、翌1808年〜09年、より規模を広げたゴシック様式の平面天井の身廊と内陣が再建された。
その際、新身廊の玄関間ナルテックスには13世紀に遡る古いタンパン部を残し、南西端には切妻屋根の四階層のゴシック様式の高い鐘楼を付属させた。13〜14世紀に属する鐘楼には南西3kmのマールバッハ修道院(マールバック Abbaye de Marbach)から運んだ16世紀に遡る4基の鐘もそのまま残された。
通常、教会堂の天井には力学的に有利な丸みを帯びたアーチ型を採用するが、パイプオルガンを備えたこの新身廊の天井が平面であることから、農家の物置などに見られる平らな天井を連想して、やや皮肉を込めて「納屋式 Barn Style」と呼ぶ人もいる。装飾を嫌った中世シトー修道会の典型的なロマネスク様式の教会堂、例えばプロヴァンス地方のシルヴァカーヌ修道院などに似て、この教会堂の西正面ファサードはさらに飾りっ気のない全平面仕様で、5段の石段下に立って見上げる時、圧倒される感を覚える。

教会堂内部へ入ると、外観が壁のような単調なファザードとは異なり、玄関間ナルテックスには13世紀後半に遡るロマネスク様式のタンパン部があり、多くの見学者が驚きの声をあげる。世界遺産・ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂の玄関間ナルテックス・タンパン部に残された、12世紀の最高傑作の一つロマネスク様式の超精緻な≪聖霊降臨≫の図像に比較しても始まらないが、エグイスハイム教会堂のタンパン部中央には祝福のイエスが座り、その左側には鍵を持つ聖ペトロ、右側には本を持つ聖パウロ、というカトリック教会の入口で表現されるスタンダード図像である。
イエスの衣服の色は時候劣化でかなり褪せているが、私には原色は朱色で、聖ペトロと聖パウロはおそらく紺藍色で着色されていたと推測できる。タンパン下部のリンテル部では、左側に天国への扉を開けて5人の整然と並ぶ「賢明な聖母達」を歓迎するイエスを表現、して、右側にはだらしなく並び「パンやジャガイモも値上げされたわね・・・」とか、ペチャクチャと談笑する5人の「愚かな聖母達」が天国への扉をノックするが一向に開かない情景、キリスト教の教義・啓蒙の対比図像が表現されている。

※プロヴァンス地方シルヴァカーヌ修道院や世界遺産ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院などの情報:
                              フランス紀行

さらに玄関間ナルテックスには、高さ110cm、木製の「聖母子の彫像 Vierge a l'Enfant」が置かれている。鮮やかな色彩、わずかに微笑みを浮かべた聖母マリアは左腕で子供を抱いているが、マリアの胸部分が縦ニ分割され、蝶番付きの「扉」として左右に開閉できる仕組みになっている。開かれた内部(マリアの胸の中)には聖十字架が、開けた左右の「扉」の内側には天使が描かれている。
製作は13〜14世紀に遡るとされ、この種の彫像はアルザス地方に限れば、このエグイスハイムとケズルスベールの二か所に残るだけと言われている。なお、ロマネスク様式の高い鐘楼とタンパン部、「開く聖母子」の彫像を含む、聖ペトロ&パウロ(ピエール&ポール)教会堂はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

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エグイスハイム旧市街/無数にある見るべき建造物
  13世紀に完全に城塞化されたエグイスハイムの旧市街には、エグイスハイム家のシャトー城館や聖ペトロ&パウロ(ピエール&ポール)教会堂のみならず、上述したように噴水や石畳施工の通り、迷路のような路地や袋小路、幾らかの広場、16世紀からのコロンバージュ様式の家々など、ツーリストが見るべき建造物は「在り過ぎる」と言えるほど無数に残されている。
13世紀に領主エグイスハイム家が断絶した後、エグイスハイムはストラスブール司教の管理となり、それ以降、キリスト教の有力修道院が八角形のシャトー城壁の内部スペースだけでなく、市街にも「出先機関」として駐在と管理施設を置くことになる。その多くは生産量の10%を納税・物納する義務、「十分の一税」が課せられた農民や市民から徴収した穀物や生産品などの保管倉庫であり、税の徴収や財産管理を行っていた。これらは現在では「フランスの最も美しい村」を彩るワインカーブやレストランとして営業が行われている。

旧市街の東城門があった場所の直ぐ西方、大通り Grand Rue 22a番地、壁面が薄柿色の建物が「エグイスハイム観光局 Office de Tourisme」である。観光局から西方へ40mほど、大通り7番地(北側)、大型の切妻屋根で淡ベージュ色の建物は、1580年創業の「旧オーベルジェ(宿泊&食事)CHAVEL BLANC 白馬」であったが、1837年、ワインカーブ・「EMILE BEGER」が買収した16世紀の建物である。
この交差点を北方へ抜ける通りがウンターリンデン邸宅通り Curs Unterlindenで、北奥には細長い中庭を囲んで塔のような尖がり屋根、まるで映画のセットを連想するような明るい菜の花色のコロンバージュ様式の美しい建物群がある。ここはエグイスハイムを代表する観光の「定番スポット」の一つである。
このワインカーブ・「Joseph Freudenreich et Fils」は、13世紀初頭に創設されたドミニコ修道会の「出先機関」としての邸宅であった。中世の時代、この邸宅の所有管理は、今日、≪イーゼンハイムの祭壇画≫の展示で知られたコルマール市内・ウンターリンデン美術館(上述 コルマール)となっているドミニコ女子修道院であった。

また、聖オディールの甥であるレミ(レミギウス Remi/Remigius)が8世紀にストラスブール司教となり、ストラスブールの南方10km、ライン河畔の町エッシャウ Eschaus に創建した聖ベネディクトウス派の修道院も、エグイスハイム旧市街に大規模な邸宅(1581年建造)を構え「十分の一税」の管理業務を行っていた。
そのほかでは、エグイスハイムに最初の小城砦を築いたエーベルハート公(聖オディールの甥)が、727年にヴォージェ山地の最高峰グラン・バローンの山麓、標高450mの谷間に建立したミュルバック Murbach のロマネスク様式の修道院(フランスの「歴史的建造物」)も、旧市街に管理業務を行う聖職者邸宅(1590年建造)を置いていた。
なお、最も早い時期から旧市街に修道院の「出先機関」としての邸宅と倉庫を構えていたのは、10世紀以来のエグイスハイム家の遠縁にあたる南部アルザス・サングオ地方の名門フェレット伯フレデリクT世が、1138年、エグイスハイムの北西16km、ヴォージェ山地の標高650mの谷間に創建したペイリス Pairis の修道院(現在=病院)で、1225年、エグイスハイム家の男系断絶が確定される以前、すでに1160年から修道士の駐在業務が行われていた。
Web 南部アルザス・サングオ地方/フェレット城砦とダンヌマリー周辺/「鯉フライ街道」と「コロンバージュ街道」の村々

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増補版 「フランスの最も美しい村」 全踏破の旅 \3,024   アルザスワイン街道 お気に入りの蔵をめぐる旅 \1,944

Ref.
エグイスハイム旧市街を歩く
途切れなく連なる家屋の裏壁面が「円形城壁」を形成するエグイスハイム旧市街を大通り Grand Rue が東西に貫き、その中心にシャトー城館とシャトー広場がある。かつての城壁(家屋の連なり)の直ぐ内側に石畳施工の狭い通りが、大きく円を描き旧市街を完全に一周している。大通りの南半周が城壁南通り Rue du Rempart Sud、北半周が城壁北通り Rue du Rampart Nord である。
シャトー広場周辺では、シャトー城館と聖レオ\世の礼拝堂と大型の噴水、聖ペトロ&パウロ(ピエール&ポール)教会堂や旧修道院の聖職者の邸宅、16世紀コロンバージュ様式の住宅や魅力的な路地などがたくさんある。
ちなみに上写真の旧修道院管理の邸宅、美しいコロンバージュ様式のワインカーブ・「PAUL SCHNEIDER」は、シャトー広場の「聖レオ\世の噴水」の北西40m、大通り角にある銀行の北側である。聖ペトロ&パウロ(ピエール&ポール)教会堂の西正面の西側にも旧修道院管理の美しい「中庭付き邸宅」がある。

           「フランスの最も美しい村」・エグイスハイム/(C)legend ej
                     「エグイスハイム定番写真」の路地(城壁南通り)/アルザス地方

コロンバージュ様式の美しい家並みでは、観光局から城壁南通りに入って直ぐ、絵ハガキで見る「エグイスハイム定番(上写真)」となっている路地の分岐点に建つ本当に幅狭い家、その直ぐ先の城壁南通り(旧市街の南部)の絵画的なキレイな家々の連続に圧倒される。さらに旧市街の南西部の城壁南通りと西城門〜城壁北通り(市街の西部)にも密集的に美しい造りの住宅が建ち並んでいる。

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エグイスハイムのワイン生産
  ケゼルスベルグと並んでエグイスハイム地区は、アルザス・ワイン街道を代表する最大級のワイン産地としても知られている。地区全体のワイン畑=340haとされ、村には現在56を数えるワインカーブがあり、ワイン醸造と販売に勤しんでいる。
エグイスハイム地区のアルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定されているブドウ畑は二か所である。先ずブドウ畑・「Pfersigberg」はエグイスハイム旧市街の西北西の東西に細長いエリア、そして南西2kmのユスラン・レ・シャトー村Hesseren le Chateaux に至るエリアで合計約75haである。もう一つのブドウ畑・「Echberg」はユスラン村へ向かう道路の南側の約58ha。二つのエリアの合計=約133haとなり、エグイスハイム地区の全ブドウ畑340haの約40%が、アルザス特級ワイン・グラン・クリュのブドウ畑となる。

エグイスハイムの「三つのシャトー城砦 Les Trois Chateaux du Haut-Egisuheim」
  ヴォージェ山地の末端のスタウフェン Stauffen の連山尾根が、テュルクハイム Truckheim 方面へ出っ張り、「マンステ(マンステール)の谷」を形成している。エグイスハイム旧市街の西方2,5km(直線)、アルザス平野を見渡せるスタウフェン連山の標高575mのショールスベーグ Schollesberg の尾根に、それぞれが個別に角塔をもつ「三つのシャトー城砦 Les Trois Chateaux de Haut-Eguisheim」が隣合わせで残されている。アルザス平野から見ると、穏やかな形容の尾根に「三つの角」が突っ立っているように見える。
尾根が南北に延びていることから、三つの城砦は南北におおむね130mの範囲に並び、北から順に約50m四方で最大規模の敷地を誇る「ダグスブール城砦 Dagsbourg」、真ん中が50mX40mの「ワーレンブール城砦 Wahlenbourg」、南端が25mX40mの小規模な「ウェッキモンド城砦 Weckmund」となる。
シャトー城砦はいずれもほとんど崩壊状態であるが、ヴォージ山地から産出された赤色砂岩の切石積みの見張り塔、建物基礎部や壁面、城壁などが部分的に残されている。城砦跡のシンボル的な存在である石積みの見張り塔に限れば、ダグスブール城砦の13世紀起源の塔は東面と南面の一部・「11m四方・残存高さ28m」、ワーレンブール城砦はほぼ建設当時の姿に近い状態で「8.5m四方・高さ23.5m」、ウェッキモンド城砦の上部崩壊の13世紀起源の塔は「8.5m四方・残存高さ21m」となっている。

ローマ時代の見張り砦があったこの尾根に、名門ダグスブール(ダボ Dagsburg-Dabo)伯家の娘ヘイルウィッグと結婚した「子沢山のエグイスハイム伯」・ユーグW(ローマ教皇レオ\世の父)が、1006年、先ず真ん中のワーレンブール城砦を造営した。その後、11世紀中にダグスブール伯所有の南側のウェッキモンド城砦が造られ、1147年には南部アルザス・サングオ地方のフェレット伯フレデリクT世が北側のダグスブール城砦を建てた。当初、いずれの城砦もエグイスハイム家、および血縁関係にあったダグスブール(ダボ)家とフェレット家により使用された。

フレデリクT世など名門貴族フェレットレ伯家とシャトー・フェレットレ城砦の情報:
Web 南部アルザス・サングオ地方/フェレットレ城砦とダンヌマリー周辺/「鯉フライ街道」とスイス国境地帯の美しい村々

1026年、ワーレンブール城砦はドイツ南西地方シュヴァーベン大公(バーベンベルグ家)エルンストU世の攻撃で破壊され、1130年頃にはサングオ地方のフェレット家が所有する。さらに城砦は1144年と1198年にも外部からの攻撃を受けている。その後、1225年、ザールブルッケン伯シモンV世へ嫁いだ正統家系の継承者ゲルトルードが亡くなり、名門貴族エグイスハイム&ダグスブール家の男系断絶から、フェレット伯フレデリクU世とストラスブール司教とのシャトーの「継承論争」が起こる。
結局、1230年、神聖ローマ帝国・進歩的な皇帝フリードリヒU世の決裁により、ストラスブール司教が北側のダグスブール城砦を、そしてフェレット家が真ん中のワーレンブール城砦と南側のウェッキモンド城砦を所有することになる。
しかし、中世の動乱は続き、ハプスブルグ家再興を計りスイスへの勢力拡大を企てた神聖ローマ帝国オーストリア公国・レオポルドV世は重装備兵力4,000名の大軍で侵攻するが、1386年、ルシェルン北西の「ゼンパッハ Sembach の戦い」でわずか1,400名のスイス都市連合軍が圧勝する。この予想外の大勝利がスイスにとって「盟約同盟⇒連邦」へ進む歴史的な転換期となった。
その後、「十都市同盟」のミュールーズの地方貴族と市民は強力なベルンとゾロトゥルン Solothunn のスイス都市連合と軍事同盟を結び、オーストリア・ハプスブルグ家系の領主貴族との戦い、1466年の「6デニール戦争」が始まる。帝国貴族支配からの脱却を企てるミュールーズを支援した「十都市同盟」のコルマール近郊テュルクアイム Truckheim とケゼルスベール Kaysersburg とムンステの民兵によって(ドイツ: 合計6都市=6羽のオウム戦争)、ショールスベーグの尾根の「エグイスハイムの三つの城砦」は攻撃を受け破壊される。
この攻撃で唯一無傷で残ったのがワーレンブール城砦の礼拝堂であった。15世紀、三つの城砦は完全に放棄されてしまうが、19世紀になり、フランスの「歴史的建造物」に指定された。

標高575mに建つ「エグイスハイムの三つのシャトー城砦」は、麓の標高360mのユスラン・レ・シャトー村からのトレッキングルートが整備されている(登坂30分)。また、コルマール西方の中世都市テュルクハイムの南西1.5kmの聖ジル修道院付近から登坂して、スタウフェン連山の尾根(最高標高650m)を蛇行しながら南下、三つの城砦の麓ユスラン村へ抜ける約10kmの「五つのシャトー道路 Route des 5-Chateaux」のドライブコースに組み込まれている。
このドライブ道路では、「エグイスハイムの三つの城砦」のほか、チーズ産地の「マンステ(マンステール)の谷」を望む標高450mの山頂に建つ13世紀の「プリックスブール城砦 Pflixbourg」、さらに13世紀にハプスブルグ家系譜により見晴らしの利く標高620mの山頂に造営された、130mX80mの残存状態が良い高い城壁に囲まれた「オーランズブール城砦 Hohlandsbourg」が含まれる。

マールバッハ(マールバック)修道院 Abbaye de Marbach
  エグイスハイム旧市街の聖ペトロ&パウロ(ピエール&ポール)教会堂の鐘楼の4基の鐘は、旧市街から南西3kmのマールバッハ修道院に在ったものである。今日、旧修道院の建物の基礎遺構がやっと確認できる程度であるが、マールバッハ修道院は、1089年、南方2kmのゲイヴァーシュヴィール Gueberschwihr の有力領主バーチャードが建立した。創建直後から、修道院はエグイスハイム家や遠縁のゲラルドT世が11世紀に起こしたナンシー南方のローマ時代からの要衝、塔と城壁のロレーヌ・ヴォーデモン家 Vaudemont などからの手厚い擁護を受けた。
その後、エグイスハイム家が断絶となった混乱時、1225年に破壊されるが1541年に再建されている。さらに、17世紀の「三十年戦争」のスウェーデン軍の攻撃で激しく破壊されるが、修道院は二たび再建される。しかし、「フランス革命」の後、1791年の「修道院解散令」で修道院は閉鎖、国家財産となり身廊など建物は民間石材業者へ売却された。

アルザス・ワイン街道 Alsace/(C)legend ej
                     アルザス・ワイン街道・イッタースヴィラー村/キレイな花を飾る家

「アルザス・ワイン街道」の街と村々を訪ねる

アルザス・ワイン街道の「中部」コルマール周辺から南方へ向かって、比較的多くのツーリストが訪れる代表的なワイン産地の街と村々を訪ねてみよう! Webページ・「アルザス・ワイン街道」は「北部」〜「中部」〜「南部」の三部構成(個別ページ)となっています;
「アルザス・ワイン街道」(北部)オベルネ周辺/城塞都市ロスアイム、聖オディール伝説のモン・サントディール修道院、美村ミッテルベルカイム、バロック装飾の聖モーリス教会堂など: 「アルザス・ワイン街道」(北部)オベルネ周辺/コロンバージュ様式の美しい村々
「アルザス・ワイン街道」(中部)コルマール周辺/リボーヴィレ、フランスの最も美しい村(ユナヴィール・リクヴィール・エグイスハイム)、テュルクアイム、世界遺産ヴォーバン要塞など:   「アルザス・ワイン街道」(中部)コルマール周辺/コロンバージュ様式の美しい村々 (このページ)
「アルザス・ワイン街道」(南部)ロウファッハやタン周辺/ヴォージェ山地グラン・バロン山〜第一次大戦激戦地ハルトマンズヴィラーコフ、ヴィッテルスハイム・カリウム鉱山など:       「アルザス・ワイン街道」(南部)ロウファッハ〜タン周辺/コロンバージュ様式の美しい村々

また、「アルザス・ワイン街道」とは別に「南部アルザス地方」〜「スイス国境地方」の村々の情報を下記ページで参照できます;
南部アルザス地方・ダンヌマリー、アルトキルシェ、「鯉フライ街道」と「コロンバージュ街道」、フェレット城砦、レイメン、ランドスクロン城砦、スイス・マリアシュテイン修道院など:         「南部アルザス・サングオ地方/フェレット城砦&ダンヌマリー/「鯉フライ街道」とスイス国境地帯の村々

サンティポリット村 St-Hippolyte

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位置: セレスタ⇒南西7km/コルマール⇒北方17km
人口: 1,100人/標高: 250m/コルマール⇒リボーヴィレ経由バス109番終点
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かつて城壁に囲まれていた村サンティポリット St-Hippolyte
  750年頃、パリ近郊サン・ドニ修道院から来た修道士フラッドにより修道院が建立され、14世紀の初めまでにはその周りにサンティポリットの村が徐々に形成された。現在見ることができる東西400m 南北250mのほぼ長方形を成す村は、1316年、二つの堅固な城門と四か所の円筒型の塔を備えた城壁で囲まれ、アルザス地方の多くの街と村と同様に、旧市街は完全に城塞化された。
16世紀の初めになるとロレーヌ公が1515年に旧市街にシャトー城館を築き、その後、「三十年戦争」で破壊され、18世紀に城館は改築され大学として使われ、今日宗教教団・「マリアニスト家族」の施設となっている。1316年に築かれ、その後14世紀と15世紀に強化された旧市街を取り囲んだいた城壁は、19世紀の後半に撤去され、周囲の堀も埋められた。
現在、旧市街の南東端に地元で「コウノトリの塔」と呼ばれる三角帽子型の屋根を乗せた円筒型の塔が一つ残り、その連なりに幾らかの城壁も残り、中世の遺産を今へ引き継いでいる。塔と城壁はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

オークニグスブール城への「登り口」の役目を果し、全周囲がブドウ畑、コロンバージュ様式の家々が密集的に建ち並ぶサンティポリットの旧市街には、16世紀ルネッサンス様式や18世紀バロック様式の美しい邸宅が数多く残り、ベージュ色のどっしりとした寄棟屋根の町役場 Hotel de Ville も建築学的に価値ある建造物である。
13世紀起源の内陣を持つ教区教会堂は15世紀に改築され、19世紀の初めにはイタリアン・ゴシック様式の鐘楼が付属された。教会堂は内部のシルバーマンオルガン(息子ヨハン・アンドレアス 1739年作)も含め、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。そのほかフランスの「歴史的建造物」では、教会堂と町役場との間に残されている1586年に遡るルネッサンス様式の噴水、さらに旧市街から離れるが、南東2,5km、1903年起源のサンティポリット国鉄駅の駅舎などがある
なお、サンティポリット村のアルザス特級ワイン・グラン・クリュの指定ブドウ畑・「Gloeckelberg」は、旧市街の西方〜南西1.5kmのロデルヌ村(後述)の北方、標高250m〜360mの斜面の23.4ha、ブドウは主にゲヴュルツトラミネール種とピノ・グリ種が栽培されている。

※「シルバーマンオルガン」の詳細: バロック装飾のエベルスマンステ修道院・「聖モーリス教会堂」
Web 「アルザス・ワイン街道」(北部)オベルネ周辺/コロンバージュ様式の美しい村々

ロデルヌ村 Rodern

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位置: セレスタ⇒南西8.5km/コルマール⇒北方16km
人口: 340人/標高: 260m
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「ピノ・ノワール種の揺りかご」と呼ばれるロデルヌ村 Rodern
  サンティポリット村から南西へ1.5kmの隣村ロデルヌの北西側では、アルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定された23.4haのワイン畑・「Gloeckelberg」が展開している。標高260m、ロデルヌ村は「ピノ・ノワール種の揺りかご」と呼ばれる魅力的な地区で、人口340人、アンドー近郊の人口280人のイッタースヴィラー村と並んでアルザス・ワイン街道では「最も小さな村」の一つであるが、7月の「ピノ・ノワール・ワイン祭り」は有名である。
数軒のワインカーブを含め、村の家々は15世紀〜18世紀のコロンバージュ様式、時計塔を兼ねるブドウ畑に突き立つような聖ジョルジュを奉る教会堂の四角の鐘楼は、14世紀起源のゴシック様式で地元産の赤色砂岩造り、内陣は16世紀ゴシック様式である。

ベルグハイム Bergheim

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位置: セレスタ⇒南西9km/コルマール⇒北方14km
人口: 1,900人/標高: 210m/コルマール⇒リボーヴィレ経由バス109番
リボーヴィレ&リクヴィール観光局 http://www.ribeauville-riquewihr.com/

長方形の城壁に囲まれている街 ベルグヘイム Bergheim
  サンティポリット村の南方3km、賑わうリボーヴィレの街から北東3kmにあるベルグハイムの旧市街は、現在でも14世紀の分厚い城壁に取り囲まれ、堅固な城門や見張り塔を数多く残すアルザス・ワイン街道を代表する「中世の街」の一つである。城壁の内部にはロスアイム旧市街(下写真)と同様に、花を飾ったコロンバージュ様式の家々がびっしりと建ち並び、ローマ時代のモザイク、洗濯場なども残る旧市街は、東西500m 南北350m、今でも完全な長方形を成している。
少し南方の「フランスの最も美しい村」に指定されているリクヴィール旧市街に比べ、若干「田舎くさい」感じは歪められないが、城壁の残るベルグハイムの歴史の濃厚さは、アルザス・ワイン街道の中でも引けをとらない。
14世紀の城門・城壁・見張り塔、1762年建造の装飾ファサードが特徴の寄棟屋根の町役場 Hotel de Ville を初め、町役場広場の周りを取り囲むギザギザのファザードに特徴がある1566年起源の建物、その西隣の四階建ての建物、16世紀の八角形の噴水、広場から西方100mほどの二軒の建物、そして教会堂のパイプオルガンなどもフランスの「歴史的建造物」の指定を受けている。

人口1,900人のベルグハイムでは、アルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定されたブドウ畑は二か所である。一つは街の北西1kmの標高320mの小高い丘に第二次大戦のドイツ軍兵士2,000名以上を埋葬する戦没者墓地があり、墓地と街に挟まれた標高220m〜300mの広大な斜面が35haのブドウ畑・「Altenberg」、そして3haの小規模な畑・「Kanzlerberg」はそのさらに西方となる。

アルザス・ワイン街道・花を飾るコロンバージュ様式の家 Alsace/(C)legend ej
           アルザス・ワイン街道・ロスアイム旧市街/色鮮やかな花を飾ったコロンバージュ様式の民家の窓辺
           Web 「アルザス・ワイン街道」(北部)オベルネ周辺/花を飾るコロンバージュ様式の美しい村々

アルザス・ワイン街道の街と村々の住宅の窓辺やベランダ、階段や手摺りなどを彩る美しい花々は、すべて毎年人々が草花を育てて、惜しみない手入れと努力で成り立つ感動的な風景である。
一方、参考の話だが、大自然の、普段は荒涼たる半砂漠の大平原が、春の頃(南半球=現地9月)、一夜にして全面野生の草花で埋もれる南アフリカ・ナマクアランド(ナマクワランド)地方のワイルドフラワーの驚異なる「花の魔術(下写真)」も、花好きの人なら、生涯に一度、無理をしてでも訪ねて見る価値がある、と私は思う。
文明がつくり出す音のない、人が誰も居ない大地、数kmとか、時には10km以上も、この花の絨毯(じゅうたん)が途切れなく続く圧倒される光景を見てしまうと、ホームセンターやショッピングセンターで香りの消えた改良花とプランターを買い込み、響きの良い「ガーデニング」と呼ばれる「花いじり」をする行為が、自然の摂理からあまりに道外れていると悟ってしまう。

南アフリカ・ナマクアランド・デージーの花園 Namaqualand/(C)legend ej
   「花の魔術」で酔ってしまいそうな野性のナマクアランド・デージー Namaqualand Daisies の広大な花の絨毯(じゅうたん)
   ※NHK番組・「趣味の園芸」・「京も一日陽だまり屋」 放映写真に採用される/2016年10月
   ブログ ジャカランダの花咲く南アフリカ・プレトリア/「花の魔術」のナマクアランド地方

リボーヴィレ Ribeauville

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位置: セレスタ⇒南西13km/コルマール⇒北方14km
人口: 4,900人/標高: 250m/コルマール発サンティポリット行きバス109番/コルマール発リボーヴィレ行きバス106番
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リボーヴィレの歴史/賑わう旧市街の景観
  直ぐ南方の「フランスの最も美しい村」で有名なリクヴィールの街と並んで、このリボーヴィレ旧市街はアルザス・ワイン街道の人気のあるスポットである。リボーヴィレの旧市街は雪解け水を湛えたストランバッハ Strenbach の渓流が、ヴォージェ山地からアルザス平野に流れ出る「出口」に開けた街であり、東西約1km 南北300mの細長い街並みを形成している。旧市街は路線バス乗り場でもある東端のドゴール広場 Pl. du G-de Gaulle から始まり、コロンバージュ様式の家々が密集的に建ち並ぶ大通り Grand Rue が、東西に細長い市街を貫き西方の谷間へ向かっている。

リボーヴィレは、8世紀、カロリング朝を成立させたフランク王ピピンV世の時代に「Radbaldovillare」と名称され、その後、11世紀後半の神聖ローマ帝国・皇帝ハインリヒW世の時代には「Rapoldstein」として公式文書に登場してくる。町役場の「赤の間」として知られる広間では、18世紀に始まる「産業革命」の波に乗り、1870年頃から盛んになるアルザスの繊維産業の発展を裏付けるトルコ起源の染色技術・「Rouge d'Andrinople」、日本色で言うなら「紅海老茶色(あかえびちゃいろ)」で装飾されている。ワイン生産のみならず、近世におけるリボーヴィレの街の発展の歴史は農業や手工業分野でも顕著であった。

リボーヴィレの観光局」はドゴール広場から直ぐ西方、大通り Grand Rue 1番地(南側)の玄関先に円柱が2本立つ建物で、旧市街を訪れるツーリストが多いことから地図やパンフレットなども充実、(個人的な評価だが)窓口の美人のマドモアゼルの英語対応も完璧になっている。
リボーヴィレ旧市街には歴史に彩られた多くの建物が建ち並び、そのほとんどすべてが窓辺に花々を飾っている。わずかに蛇行しながら町役場広場(マーケット広場 Pl. de la Mairie)や共和国広場 Pl. de la Republique などを結ぶ大通り(Grand Rue 左下写真)だけでなく、石畳の狭い路地や人の気配も薄い裏通りにも歴史を偲ばせる建物が連なっている。
当然、オーベルジェのホテル(宿泊&食事)や伝統のレストラン、カフェテリアも数多く営業して、遠方からのツーリストに応えている。観光局から旧市街を少し西方へ歩くと、先ずフランスの「歴史的建造物」に指定されている「吟遊詩人の宿 Wistub zum Pfifferhus」と名称された16世紀の聖母マリアを彫像した装飾出窓の建物が目に付く、ここを通り過ぎると第一次大戦のグーロー将軍の名をとった「第一軍グーロー広場 Pl. 1ere Armee-Gouraud」となる。

横長三角形のグーロー広場の北側奥に見える小麦色の壁、先が尖ったキジュラン葉(逆ハート型)形容の二つ扉の建物は、15世紀の穀物取引所であった。その西側(左側)の緑色の柱がむき出しになったベージュ色壁面のコロンバージュ様式の建物は、現在はアルザス伝統料理をサーブする人気の「レストラン La Poste(左下写真)」であるが、建物のサイズからの連想なのか、16世紀から「象の宿 Elephant Inn」と名称されていた。
このグーロー広場周辺の建物の屋根には、アルザス地方の名物のコウノトリの巣が置かれ、人を恐れないお澄まし顔のコウノトリ(右下写真)がツーリストの写真の絶好の被写体となっている。なお、コウノトリに関しては、南方2kmの「フランスの最も美しい村」のユナヴィールには、小学生や家族連れに人気のある「コウノトリ保護センター」がある(後述)。

「アルザス・ワイン街道」 リボーヴィレ/(C) legend ej
アルザス・ワイン街道リボーヴィレ旧市街/Grand Rue大通り  リボーヴィレ旧市街/朱色の屋根に佇む「コウノトリ」

18世紀建造の町役場 Hotel de Ville、その手前のかつて病院としても使われ現在博物館となっている旧聖カトリーヌ礼拝堂(大通り Grand Rue 41番地)、この二つの建物はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。町役場の前、長方形のマーケット広場の周りにも16世紀からのコロンバージュ様式の邸宅群がびっしりと建ち並んでいる。広場の北側は菱形文様を描き出すカラースレート屋根に特徴がある12世紀起源の女子修道院、広場の西側にはフランスの「歴史的建造物」に指定されている、時計台付き高さ29mの13世紀「ブッチャーの塔」と中世を連想させる堅固な城門が見える。
城門を西方へ抜けると、旧市街の北側の奥まった路地には、シルバーマンオルガン(1701年作)と15世紀の「聖母子の像」を納めるフランスの「歴史的建造物」の14世紀ゴシック様式の聖グレゴリー教区教会堂、その北側には病院があり、18世紀のパイプオルガンを持つプロテスタント派教会堂が建っている。このエリアでは古風な建物以外に、フランスの「歴史的建造物」の指定を受けているルネッサンス時代からのフレデリックの噴水などもある。また、リボーヴィレは7月に開催される盛大なワイン祭りや年末のクリスマス・マーケットも有名である。

リボーヴィレのワイン畑
  リボーヴィレ周辺〜リクヴィール、コルマール、そしてエグイスハイム周辺までの丘と斜面エリアが、地形的にも地質的にもブドウ栽培の好条件が揃っていることから、アルザス・ワイン街道の中で最も広い面積のブドウ畑が耕作されている。リボーヴィレのアルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定されたブドウ畑は三か所である。先ずリースリング種とゲヴュルツトラミネール種を育てる25ha弱の「Osterberg」はドゴール広場の真北方向となる標高250m〜350mの斜面、「Kirchberg」は「Osterberg」の西側の標高のある畑、1300年代の初めから記述されている8.5haの「Geisberg」は、旧市街の北脇で「Kirchberg」の下方の狭い区域である。

リボーヴィレの「三つのシャトー城砦跡」
  何れもフランスの「歴史的建造物」の指定を受けているが、リボーヴィレ旧市街から北西方向、ヴォージェ山地の尾根に「三つのシャートー城砦」が残されている。最も大規模な城砦は標高528mの尾根に建つ「聖ウルリッヒ城砦 St-Ulrich」で、11世紀〜16世紀までリボーヴィレ領主の居城として使われていた。
その東方200m、標高528mの尾根で角塔を備える城砦が13世紀の「ジェルスベルグ城砦 Giersberg」。二つの城砦からさらに500mほど奥の標高642m、円筒形の塔を残すのが11世紀後半に建てられた「オー・リボーピエール城砦 Haut-Ribeaupierre」である。何れもリボーヴィレ旧市街の西端の共和国広場から北方へ登るハイキングコースが整備されている。

Ref.
アルザス・ワイン街道で「最も感動的な道」を歩く
経験論だが、私はリボーヴィレを二度訪れている。最初は、2008年の夏のある日、旧市街の東方4.5km、近くに日系SONY工場が見えるリボーヴィレ国鉄駅から歩き始め、リボーヴィレ旧市街〜南方の「フランスの最も美しい村」のユナヴィール村へ歩き、さらに徒歩で「フランスの最も美しい村」のリクヴィール旧市街へ出た。その後、交通量の多い地方道D18号まで進みミッテルヴィール村へ、さらにインガースハイムを経由してコルマール国鉄駅まで歩き通した。
二度目は、2014年の夏、コルマール国鉄駅前〜路線バス109番でリボーヴィレ旧市街で下車、やはり2008年と同様に徒歩で美しい村ユナヴィールへ、さらにブドウ畑の中を蛇行する農作業用の狭い道を選択して丘を越えてリクヴィール旧市街へ、さらに地方道D18号のミッテルヴィール村まで歩いた。時間的な都合があり、ミッテルヴィール村からコルマール国鉄駅前までは路線バスに乗車して帰路している。

二度とも真夏の季節、乾燥したアルザス地方の晴天に恵まれたこともあり、35℃以上の猛暑が続く東京の真夏を想えば少々の汗ばみも気にかかることもなかった。私はこのコースを勝手にアルザス・ワイン街道で「最も感動的な道」と決め込んでいる。特にリボーヴィレ旧市街からストランバッハの渓流を渡り、「フランスの最も美しい村」のユナヴィールへ抜ける標高300mのブドウ畑を縫う2kmの道のり、遠くに村の教会堂の塔を眺めながら、見晴台でランチを取り、波打つ広大なブドウ畑の美しさに感動して歩く時間は、他人に自慢する必要のない「人生の時」とも言えるだろう。
過去にたった二回限りの経験論だが、コロンバージュ様式の家々と素朴さが最大の特徴であるアルザス・ワイン街道を代表する美しい街と村々を独り、ゆっくりと徒歩して回る幸福感は何物にも代え難く、この目立たない密やかな経験は生涯にわたって消えることのない、美しい「心の宝物」となっていることを、私は小さな声で記述しておきたい。

「フランスの最も美しい村」 ユナヴィール Hunawihr

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位置: セレスタ⇒南西14km/コルマール⇒北北西12m
人口: 600人/標高: 270m/コルマール発リボーヴィレ行きバス106番
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ツーリストの少ない「フランスの最も美しい村」/「洗濯の聖女ユーナ」のゆかりの地
  賑わうリボーヴィレ旧市街から南方2km、「フランスの最も美しい村」でありアルザス・ワイン街道の超人気の村リクヴィールから北東2km、人口600人のユナヴィール村も「フランスの最も美しい村」の指定を受けている。
しかし、コルマールからの路線バスの便数は少なく村へのアクセスが難しいという理由からか、時間に忙しい観光優先のツーリストにはあまり注目されていない。半面では、ユナヴィールの村に漂うその静かな素朴さと秘められた歴史の濃厚さは、ただ単に見た目にキレイな観光だけの街では経験できない、心に刻むような感動の魅力に満ち溢れているとも言える。

ユナヴィールの歴史を紐解くと、7世紀、この地はユーノ伯 Hunon の領地であり、伝承によれば、シャトーには庶民に心優しい妻ユーナ Hune が住んでいた。謙虚な妻ユーナの貢献心は常に貧しい人や不幸な人達へ向けられ、時には村人の衣服の洗濯まで自ら率先して手伝っていたとされる。そのためユーナは村人から「洗濯をする高貴な女性」と呼ばれ、679年に亡くなったとされる。
その後、16世紀のルネッサンス最盛期、1520年、ヴァチカン・ローマ教皇レオ]世により、ユーナは聖列に加えられ「洗濯の聖女ユーナ Sainte Huna」となった。ここに聖ユーナの名を取った「ユナヴィール」の名称が生まれ、以降、聖ユーナへの信仰は絶大なものとなり、ユナヴィールの教会堂は「聖地」となる。
その当時、ヨーロッパは各地で「農民戦争」が続発、ユナヴィールの領主と農民も強力なロレーヌ公の軍隊に対抗して、セレスタの北西3.5kmで繰り広げられた「シェーヴィラーの戦い」に参加した。1525年5月20日、アルザス地方の領主と農民連合軍はたった1日のこの戦いで、死者約6,000人を出し大敗を帰すことになる。
16世紀にはヨーロッパ全体の動きとなったカトリック教徒からプロテスタント派へ改宗する人も出た。17世紀の初めに流行したペスト病でユナヴィールの村は壊滅状態となるが、その後、17世紀の後半になるとカトリック教徒の人達が移り住んできた。

ワイン街道を代表する雄大な風景/農道&サイクリング&ハイキングルート
  ユナヴィールのアルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定されたブドウ畑は、北方のリボーヴィレ旧市街からの農道に沿った両側の斜面一帯、リースリング種(生産の50%)を中心に26haのブドウ畑・「Rosacker」である。このブドウ畑についてはすでに15世紀の後半にワイン生産の「納税」として記述されている。ヴォージェ山地の珪質砂岩が混じる耕作地の土壌は、一見では「痩せた土」と感じるが、ブドウ栽培に適したカルシウムやマグネシウムなどミネラル分を多量に含んだドロマイト石灰岩質である。

リボーヴィレ旧市街からユナヴィール村へ向かう時、幾分斜面の住宅街を抜けると直ぐにブドウ畑が始まる。清き水の流れるストランバッハ渓流に架かる古い石橋から約500mで緩やかな登り勾配は終わり、周囲は急に開け全面がブドウ畑と化す。農道の十字路の右脇標高300m地点にはブドウ畑を保護する石組みの上に展望台を兼ねる六柱屋根付き休憩所がある。
過去に私は二度この休憩所でランチを広げ、目の前に波打ちながら展開する広大なブドウ畑と遥か東方のライン河畔へと続くアルザス平野の緑輝い光景を眺めながら、心豊かに安らぎと感動の時を過ごしたことがある(下記コラム)。ルートは展望の休憩所から徐々に下り勾配となり、特級ワイン・グラン・クリュの指定畑・「Rosacker」のど真ん中を通過しながら、時計を備えた角塔がランドマークとなっている教会堂を目指してユナヴィールの村へ向かう(下写真)。

            アルザス・ワイン街道ユナヴィール村/(C)legend ej
         アルザス・ワイン街道・ユナヴィール村/特級ワイン・グラン・クリュのブドウ畑・「Rosacker」〜村と教会堂

※「アルザス・ワイン街道で最も感動的な道」を歩く: 「上記コラム」参照

ユナヴィール村の景観
  東西に走る2本の道路(大通り Grand Rue/北通り Rue du Nord)に沿って、コロンバージュ様式の家々が密集するユナヴィール村の旧市街と言える地区は、東西方向に細長くおおよそ500mほど、その東方に比較的新しい住宅地区、さらに東方の地方道D18号の手前には、林と池を活用したアルザス地方の名物であるコウノトリ保護センターがある。

コウノトリ保護センターhttp://www.cigogne-loutre.com/

フランスの最も美しい村」、小さな村とは言え、全周囲がブドウ畑であるユナヴィールには10軒以上のワインカーブがあり、その多くは16世紀〜18世紀のコロンバージュ様式の建物である。村の「中心」、と言っては大げさとなるが、村のほぼ真ん中に大通り Grand Rue よりわずかに広い三叉路がある。
その南側に建つ「レストラン Suzel」の脇には花を飾った古風な噴水が置かれ、付属する2基の大型石製溜りには噴水から絶えずキレイな湧き水が供給されている。かつて、この噴水と石製容器の水は村人だけでなく、牛やロバの渇いた喉を潤していた。噴水ある三叉路の北東側に建つ切妻屋根のベージュ色の建物は、フランスの「歴史的建造物」の指定を受けている1519年建造のユナヴィールの村役場 Hotel de Ville である。

ユナヴィールは7世紀の「洗濯の聖女ユーナ」のゆかりの地であり、旧市街の南東端にはルネサンス様式の「聖ユーナの泉水(噴水)」があり、付属する方形屋根付き小屋は一度に20人以上が洗濯できるスペースをもつ「洗濯場」である。
伝承では、この噴水は聖ユーナが「村人の衣服を洗濯していた場所」とされ、今日では「フランスの最も美しい村」の認定条件である二か所以上の「歴史的な施設」の一つでもあり、観光の重要な施設となっているが、間違いなく、中世〜近代にかけてユナヴィールの女達が実際に洗濯をしていた場所である。また、この噴水の伝承では、17世紀頃のひどい干ばつの年、泉水からは水ではなくワインが湧き出し、作物収穫を諦めた村は大きな「代替収入」を得たとされる。

旧市街の中心に位置するレストラン Suzel 前の噴水の三叉路から、階段や窓辺など至る場所にキレイな花々を飾ったコロンバージュ様式のブドウ農家が建ち並ぶ教会通り Rue de l'Eglise を南方へ向かえば、直ぐにユナヴィールの教会堂の登り道となる。ここから教会堂へ登らずに教会通りを左折(東方)すれば、聖女ユーナ通り Rue St-Hune となり、ブドウ畑の麓を歩き約250mで上述の「聖ユーナの泉水(噴水)」へ至る。
この聖女ユーナ通りと「聖ユーナの洗濯場」付近から眺めるブドウ畑の丘に、しかも写真の被写体として丁度良い距離でそそり立つような教会堂の姿は、アルザス・ワイン街道を代表する絵ハガキ的な美しい風景となっている。

ユナヴィール教会堂は、16世紀にスペインの「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」の聖ヤコブ(ゼベダイの息子・大ヤコブ=聖ヨハネと兄弟)を奉って改築された。その改築以前、当初、オリジナルは三廊型であったとされ(時代的にロマネスク様式と推測できる)、19世紀に身廊の左側の柱部からフレスコ画が発見され、15世紀の聖ニコラオスの伝説が復元されている。また、16世紀に改築されるまで、教会堂の埋葬室クリプトには聖ユーナの聖遺物があったが、プロテスタント派により散在されてしまった。
教会堂の周囲にはわずかなスペースを設けて隙間なくカトリック派の墓石が立ち、その周りを横長六角形の高い塀がぐるりと取り囲んでいる。さらにその塀の北と東側にはプロテスタント派の墓地があり、それらを半円周的な高い塀が取り囲んでいる。従って、特に教会堂の北側では墓地を挟んで塀が「二重構造」となっている。アルザス地方特産のランダム形状の赤色砂岩と石膏を詰めた、一見南欧などで良く見る塀に似たダブルの高い塀の起源は15世紀〜16世紀とされる。
教会堂を囲むカトリック派の平面視野で六角形の高い塀の各角部には、城塞都市の城壁にあるような半円形で外へ突き出る「小型稜堡」が備えられている。戦争が当たり前の中世の時代、敵に襲われた村人はこの城壁のような高い塀で囲まれた要塞教会堂へ避難したとされ、塀の所々に開けられた狭間(はざま/銃眼)から鉄砲をパンパン撃ったのかもしれない。
ユナヴィール教会堂は内部の18世紀のパイプオルガンも含め、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。この教会堂の建つ丘からの、朱色の屋根が連なるユナヴィールの村を含め、遠方で緩やかに波打つアルザスのブドウ畑の美しい眺めは、言葉で表現できないくらい絵画的である。

Ref.
路線バス
地方道D18号からやって来るコルマール発の「リボーヴィレ行き106番」のバスは、村の旧市街の道路が狭いことから、この泉水の北方80m、村最大のワインカーブ・「Cave Vinicole Hunawihr」のある三叉路から左方(南方)へ折れ、村のバス停である「聖ユーナの泉水」で停車、そのまま旧市街へ向かわずに、北方へターンして地方道D18号へ戻って行く。
アルザス地方公共交通ネットワーク管理局 Vialsace(列車・トラム・バス): http://www.vialsace.eu/

アルザス・ワイン街道/経験論的マイナーウォーキング
おそらくトライする人は居ないと予想できるが、少しマイナーなアルザス・ワイン街道のウォーキングの話をしよう!
ユナヴィール教会堂の手前の展望デッキから村へ戻る40mほどの坂道の途中、左折(南方)できる急坂の路地がある。ここには「この先行き止まり」の標識が立っているが、実はこの細い道は行き止まりではなく、ブドウ畑へ向かうトラクターが通る農道である。
最初にリボーヴィレ旧市街からユナヴィール村へ歩いて訪ねた2008年の夏、村から南方の「フランスの最も美しい村」のリクヴィールへ向かうのに、ユナヴィール村の西端(ヴォージェ山地側)から南方へ延びる幾らか交通量のある農道を選択した。この道はリクヴィール旧市街に近づく手前で林を通過するが、このウォーキングルートの途中での展望も素晴らしい。
2014年の夏、二度目の訪問では、あえて教会堂の脇の「行き止まり」の標識の細い急坂をウォーキングルートとして選択して、広大なブドウ畑を横断するルートでリクヴィール旧市街へ向かった。教会堂の手前から登り勾配を500mほど南方へダラダラと登って行くと、農道脇にユナヴィール村で使う上水道の地下汲上設備(私の推測)が埋まっている、こんもりとした高さ5mほどの芝生の盛り上がりとなる。この頂上からのアルザス・ワイン街道の眺めも、マイナーなハイカーだからこそ出会う絶景である。
周囲はすべてブドウ畑で少々不安になるが、そのまま農道をさらに600mほどダラダラと登坂すればブドウ畑の丘陵の頂点に出る。そこは「フランスの最も美しい村」のリクヴィール旧市街を一望の下に眺められる展望の農道である。

シュークルト そこからは下方に見える観光ツーリストで賑わうリクヴィールの街を
 目指して農道かワイン畑の脇道を下れば、マイナーなハイカーでは
 なく石畳通りの満席レストランで地元ソーセージ料理・「シュークル
 ト(左写真)」を笑顔でグルメする観光ツーリストへ変身できる。



 「シュークルト」/ファームレストラン
 アルザス地方の名物料理

「フランスの最も美しい村」/最高に人気のあるリクヴィール Riquewihr

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位置: コルマール⇒北北西11m
人口: 1,250人/標高: 300m/コルマール発リボーヴィレ行きバス106番
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アルザス・ワイン街道で「最高人気」の美しい村リクヴィール
  「フランスの最も美しい村」に認定されたリクヴィールの魅力と人気は今や世界的とも言えるだろう。特に春〜秋の花咲く旅行シーズンでは、フランス国内のみならず、「REISEN(旅行)」や「Sightseeing(観光)」のロゴ文字が描かれたドイツからの大型ツアーバスを筆頭に、個人の観光客と家族連れ、団体ツーリスト、サイクリングやバイク・ツーリングの人達・・・
それぞれの旅行形態は違っても、国内外からの旅行を楽しむ人達が、美しいリクヴィール村へ次から次へと大波の如く押し寄せる。その数は年間200万人以上とされ、モン・サン・ミッシェル修道院やプロヴァンス地方の「フランスの最も美しい村」のゴルド(下記URL)と並んで、フランス国内で最も多くの観光客が訪れる絶大人気のローカル・スポットの一つとなっている。
また、フランスのテレビ局F2の調査では、リクヴィールは「フランス人の最も好きな村」で2012年6位にランクされている。ちなみに同年のトップにランクされたのは南西フランス・ケルシー地方の美村サン・シル・ラポピーである。このF2の調査では2013年1位にエグイスハイムが、さらに2014年2位にアルザス・ワイン街道のアンドー村が選ばれている。
人々の憧憬と注目を集めている理由として、中世を偲ばせる16世紀からのコロンバージュ様式の美しい家々が密集して建ち並ぶ城塞都市リクヴィールの景観が、右肩並ぶ町や村がないアルザス地方の「トップ観光地」の座を不動のものとし、「ワイン街道の静かな村」という心癒されるイメージを遥かに超越した、フランスを代表する超人気の「観光都市」へ変貌しつつあるとも言える。
ブログ 「フランスの最も美しい村」ゴルド/南仏プロヴァンスの「極上の美しい眺め」

Ref.
サント・クロワ・プレンヌ
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サント・クロワ・プレンヌ Sainte Croix-en-Plaine 付近、現在は消滅した地名・「ウォヘンヘイム Woffenheim」にあった聖ベネディクトウス派女子修道院は、北西隣の城塞都市エグイスハイムに本拠を置いたアルザスの名門貴族エグイスハイム家の伯ユーグ Hugh W世と妻ヘイルウィッグ(Heilwig=Dabo伯の娘)が1006年〜1035年に建てた。
伯の息子で後のヴァチカン・ローマ教皇レオ\世となるブルノ Bruno は、エグイスハイム伯家で生まれ、南東7kmのこの女子修道院で最初の教育を受けている。その後、1049年、教皇レオ\世となったブルノは修道院付属の教会堂へサント・クロワ(聖十字架)を奉納、以降、修道院周辺に拡大した村の名称が「サント・クロワ(聖十字架)」となった。
ローマ教皇に擁護された村は、13世紀に「市」へ昇格、リクヴィールと同じように直径350mほどの城壁と堀に囲まれ、旧市街の北東部にあった修道院の敷地にシャトーが建てられ(現在=シャトー通り)、16世紀に街は最盛期を迎えた。18世紀なると市街の東南部の塔を除き城壁は撤去された。
高速道路A35号の脇、人口2,800人、今日ではサラリーマンも多く住むサント・クロワ・プレンヌは、1840年代のパイプオルガンを備えた教会堂、繁栄した歴史を偲ばせるコロンバージュ様式の建物が残るアルザス地方の普通の村となった。

リクヴィールの歴史
  ヴォージェ山地の麓、標高300mのなだらかな斜面に東西350m 南北250mのほぼ長方形の城壁に囲まれた旧市街、「フランスの最も美しい村」に指定されたリクヴィールの歴史を紐解くと、今ではアルザス平野の目立たない農村であるが、サント・クロワ・プレンヌ(コルマール⇒南東8km/上記コラム)にあったウォヘンヘイム女子修道院(下記コラム)が、11世紀にリクヴィール周辺のブドウ畑の管理を行っていたとする記録がある。

13世紀の半ば、リクヴィールの村は神聖ローマ帝国・皇帝ルドルフT世の支配となりシャトーが建てられ、その後、村は一気に繁栄を始め、その世紀の終わり、1291年、領主ホルボルーグ伯 Horbourg により10か所以上の見張り塔と城門を備えた「最初の城壁」が築かれた。14世紀に入り、1320年、リクヴィールは「市」に昇格する。
現在でも旧市街の西側などで確認できるが、16世紀の初め、北側を除き旧市街の東側〜南側〜西側には城塞堀を備えた「第二の城壁」が造られ、街には二重の城壁が廻らされた。特にコルマールからの東側とヴォージェ山地から西側は、二つの城門を抜けて市街へ入るという異様なほど要塞化された街に変貌する。その後、リクヴィールの所有権は南西ドイツ・「黒い森地方」のシュトウットガルトを中心とするヴィルテンブルグ公国 Wurttemberg へ移り、それは18世紀のフランス革命直後まで続くことになる。
16世紀の混乱の時代、アルザス地方の多くの街と村と同様に、リクヴィールの人々の間でカトリック教徒からプロテスタント派への改宗が相次ぎ、ヴィルテンブルグ公の専制政治に苦しめられ、「ドイツ農民戦争(1524年〜1525年)」に参加したリクヴィールの多くの市民は多大な犠牲を支払った。
しかし、16世紀の後半〜17世紀の前半、周辺から収穫される良質なブドウのワイン醸造を背景に、リクヴィールの街は歴史的な「黄金時代」を迎える。「フランス革命」の後、リクヴィールはドイツ・ヴィルテンブルグ公国からフランス領へと編入される。

城壁に囲まれたリクヴィール旧市街/歴史的な景観と建物
  今日残る東西の城門を結び、350mの旧市街を貫いているツーリストでごった返すドゴール将軍通り Rue de G. de Gaulle を初め、城壁で囲まれた旧市街を埋め尽くす、カラフルな色彩の壁面とむき出した柱のコントラストが美しいコロンバージュ様式の豪華な邸宅、彫刻で飾った出窓のホテル、花を飾るシャレたカフェテリアやレストラン群、伝統のワインカーブ、路地や裏通りの一般住宅など、そのほとんどはリクヴィールが繁栄を享受した16世紀〜18世紀のままの姿を今に残している。

地方道D18号からリクヴィール村へ到着すると、先ず目に飛び込んで来るのが正面を塞ぐように建つアーチ型の門を抱く左右対照をなす町役場 Hotel de Ville である。建物は古い役場を解体して、1809年に新たに建てられたリクヴィール旧市街では比較的新しい建築、アーチ門と赤色砂岩のファサードをネオクラシック様式(新古典主義)で強調した建造物で、1930年にフランスの「歴史的建造物」に指定されている。町役場の北側には噴水とかつての中世の深堀を連想させるキレイな水路が整備されている。
町役場から西方350mのドルデの塔(後述)へ延びるリクヴィール旧市街を貫くメイン通りが、わずかな傾斜のドゴール将軍通り Rue de G. de Gaulle である。通りの両側にはツーリスト好みのコロンバージュ様式の家々が隙間なくびっしりと連なる。
中世の雰囲気を漂わす磨り減った石畳通りや袋小路の路地、飾りドアーや鍛冶造りの古風な看板、赤色砂岩のアーチ型門、朽ちそうで現代アートに勝るむき出した木製梁と柱群、ベージュ色や鮮やかな青色や錆色などで施工された壁面、木造にして3階〜4階建てのすべての家々が窓辺や階段や手摺りにキレイな花々を飾る、その映画のセットのような光景をして、正にこのリクヴィール旧市街がアルザス・ワイン街道で最も人気のある「観光都市」であることを証明している。

町役場から緩やかなドゴール将軍通りを西方へほんの30mほど進み、左折(南方)する路地がシャトー通り Rue de Chateau。行き止まりの奥の大型の建物は、1539年建造の小塔を付属したドイツ・ヴィルテンブルグ家のシャトー城館で、1992年にフランスの「歴史的建造物」の指定を受け、現在は「郵便博物館」となってる。
再びドゴール将軍通りへ戻り、町役場から西方70mほどの右側(北側)、ドゴール将軍通り14番地、1561年建造の「摩天楼 Gratte Ciel」と呼ばれる建物がある。ベージュ色の壁、過剰と言える複雑なパターンデザインのコロンバージュ様式の建物(左下写真・右端の緑ツタが垂れ下がる建物)は、6階建て=高さ25m、地下室もある。アルザス地方のコロンバージュ様式で最も高い屋根の建物と言われ、現在でも居住され、1937年にフランスの「歴史的建造物」に指定された。
「摩天楼」の周辺からさらに西方へ向かうドゴール将軍通りでは、「Winestub」の看板を掲げたワインカーブの直販パブやアルザス料理のレストランが軒を連ね、リクヴィール旧市街で最も賑わうエリアとなっている。

ドゴール将軍通り16番地、「摩天楼」の西隣(色違いの壁が接触)、入口階段の脇に「アルザスの少女」の絵を描いた明るい象牙色の4階建ての建物は、1873年、コルマール生まれ、アルザス地方の人々と伝統と風俗を描いた民族画家ジャン・ジャック・ワルツ(Jean Jacques Waltz=別名・アンシ Hansi)の美術館・直売ショップ(La Mansion de Hansi)である。美術館ではアンシの作品150点あまりを展示している(右下写真=2005年に購入した飾り板の絵柄)。

                     「アンシ美術館・ショップ」  「摩天楼」
                                 ↓     ↓
  「フランスの最も美しい村」 リクヴィール村/(C)legend ej
  アルザス・ワイン街道・リクヴィール旧市街・「ドゴール将軍通り」     アルザス民族画家アンシ作品「アルザス地方の子供達」
  右側(ツタ垂れ)=「摩天楼」/隣の明るい壁=アンシ美術館    飾り板の絵柄

「摩天楼」より少し先、町役場からドゴール将軍通りを約120mほどで左折(南方)する路地は王冠通り Rue de la Couronne。雰囲気のある狭い石畳の路地には、ツタの絡まる古風なホテルを初め、「青ガエル看板」のオープンテーブルのレストラン、3階の窓から青い壁面をつる植物のオレンジの花が咲き乱れながら垂れ下がるカフェテリア、装飾窓とアーチ型門の老舗ワインカーブなどが並ぶ。
すべてが16世紀以降のコロンバージュ様式の建物であるが、王冠通り18番地、通りの最奥の左側(北側)、ドアー上部の「1683年」の刻字、堅固なアーチ型門を備え彫刻の出窓のある邸宅はフランスの「歴史的建造物」となっている。
また、「摩天楼」からさらに100mほど進んだ左側(南側)、ドゴール将軍通り27番地、濃いベージュ色の壁面のワインカーブの建物は「黒熊の家 Maision Al'ours Noir」と呼ばれている。この5階建ての建物も「摩天楼」に近似する過剰なコロンバージュ様式の造り、14世紀の後半の1378年にすでに居住の記録があり、現在の建物は1545年の建造、フランスの「歴史的建造物」の指定を受けている。

町役場からドゴール将軍通りを200mほど登った右側(北側)、ドゴール将軍通り42番地、「☆」とワインボトルとグラスを掲げた青色コートを羽織ったソムリェが看板となっている1686年建造のバロック様式の建物は、由緒ある「旧ア・レトワール宿屋(☆ A letoile)」である。看板には「Preiss-Zimmer宿屋」が表示され、ここは1840年創業のオーベルジェ(宿泊&食事)であった。
オーベルジェの子息は長年中断していたワイン醸造を再開して「Preiss Zimmer」ブランドとして、アルザス特級ワイン・グラン・クリュの醸造を始めた。道路に面するコロンバージュ様式の壁面のむき出し柱と梁には、渦巻き線やキノコや植物文様などが刻まれ、リクヴィール旧市街の木骨組み造りの建物の中で「最も精緻な細工」が施工された建築と言われている。なお、看板はアルザス地方の伝統風俗画家アンシ(上述)の作とされる。

「Preiss Zimmer」の南方50m、ドゴール将軍通りに並行するように横道通り Rue de Laterale が東西に走っている。レストランとホテルが在るだけの住宅街の100mほどの狭い路地だが、この横道通りには1562年からの3階建て「長屋造り」タイプの住居、アーチ門と中庭に井戸を備えた1551年建造の美しい白壁の邸宅など、三か所の建物がフランスの「歴史的建造物」に指定される。
さらに南方50mの聖ニコラス通り Rue St-Nikolas にもフランスの「歴史的建造物」に指定された建物がある。この聖ニコラス通りはオランダ・アムステルダムやギリシア・アテネ旧市街のプラカ地区の裏通りで良く見るような、小奇麗な造りの家々が肩を寄せ合う袋小路的な石畳の通り、私と同じ心で旅する個人ツーリストのみならず、デザインや美術を専攻する人、建築や工房関係の人ならぜひとも立ち寄ってみたい魅惑のスポットと言える。

旧市街の西端、高さ25m、そそり立つ「ドルデの塔(Tour du Dolder 最も高い塔)」は、町役場のアーチ型門(東城門)より位置的に高くにあるので「上の入口」とも呼ばれている。最初の城壁が築かれた1291年(1565年改築)、切妻屋根で地元産の赤色砂岩を使って造られた先尖アーチ型門を備えたどっしりとした見張り塔である。中世の時代、塔内では警備ガードマンとその家族が生活していたとされ、1900年に塔はフランスの「歴史的建造物」の指定を受けている。
時計を備えたドルデの塔を旧市街側から眺めると、壁面の窓装飾に花を飾った小奇麗なデザインのコロンバージュ様式が採用されていることが分かる。しかし、旧市街の西外側(山側)から見ると、多くの城塞都市のそれと同様に、想像以上に粗雑な表装の尖塔、お世辞にも美しいとは言えない扁平な見張り塔でしかない。塔の内部は民族・歴史関係の博物館として公開されている。
また、ドルデの塔の東側はわずかに広い石畳スペースがあり、直ぐ北側にある1560年建造の「シンヌの噴水 Fontaine de la Sinne」は、かつてワインの樽の計量に使用されていたとされる。
リクヴィールではドルデの塔を含め、「リクヴィール歴史・考古学協会(SHAR)」が管理する博物館として、旧市街の北西端に残る「盗賊の塔 Tour des Voleurs」、塔に付属する16世紀の「ワイン農家の家 Mansion de Vigneron」も公開されている。
高さ18m、外観は変五角形で内部が四角形の盗賊の塔は、最初の城壁建設が行われた1291年に建てられ(16世紀に補修)、城壁から少し外へ出っ張った「稜堡」のような見張り塔であった。その後、18世紀まで、文字通り、盗人達や犯罪人、魔女や裏切り者などを収容する牢獄にも使われた。今日、塔に連結された「拷問部屋」や古い家具などを展示する「ワイン農家の家」と一緒に博物館として公開されている。

ドルデの塔の西側20m、アーチ型の古めかしい造りの城門は「ポート・オート(Porte Haute 上の城門)」と呼ばれ、16世紀の初め、街が二重の城壁で囲まれた時、第二城壁の「西の城門」として建造された。西方(山側)から眺める極端に尖がった切妻屋根の城門正面は12世紀ロマネスク様式の寂れた教会堂の正面ファサードのような感じで、城門の内部のアーチ天井にはヨーロッパで最古とされる「落とし格子」がぶら下がっている。車が通る実用門のポート・オート城門は、1900年、フランスの「歴史的建造物」の指定を受けている。

アルザス特級ワイン・グラン・クリュのブドウ畑/農道からの絵画的な眺め
  リクヴィール村は北方のリボーヴィレなどと並んでアルザス・ワイン街道の中で最も広い面積のブドウ畑が耕作されている。リクヴィール村のアルザス特級ワイン・グラン・クリュのブドウ畑では、村の北側〜北東1.5km離れた地方道D18号までの広大な斜面、標高270m〜370m、約54haを占める畑・「Schoenenbourg」、そして村の南東の約24haの畑・「Sporen」である。
村の北側一帯を占める「Schoenenbourg」のブドウ畑の中を東西に走る農道からのリクヴィール村の展望は素晴らしい。標高370m付近、旧市街から少し登り勾配だが、休憩用ベンチも備えられたこの農道は、北方2kmの「フランスの最も美しい村」のユナヴィール村を結ぶサイクリング&ハイキングコースでもある。
ブドウ畑の丘陵を蛇行するこの農道は、アルザス・ワイン街道を訪ねたなら、無理してでも時間を調整して、たった1時間で良いから、一度は歩きたい感動の道である。農道から「フランスの最も美しい村」やブドウ畑の波打つ彼方に教会堂の高い塔を囲む朱色の屋根の村々を眺める時、その雄大で絵画的な美しい風景は、「人生の記念碑的な絶景」となるはず、と私は強調したい。

城塞都市 ケゼルスベール(カイゼルスベルグ) Kaysersberg

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位置: コルマール⇒北西10km/コルマール⇒路線バス
人口: 2,800人/標高: 250m
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歴史を刻むケゼルスベール旧市街
  北〜西〜南側をヴォージェ山地から張り出した尾根に囲まれたケゼルスベール(カイゼルスベルグ)は、ヴィーズ Weiss の谷川がアルザス平野に流れ出る「出口」に開けた街。旧市街と渓谷に延びた新市街の家並みを上空から眺めたなら、あたかも「角笛ギャルホン」か、金管楽器サキソホーンを形作る感じとなるだろう。旧市街は「フランスの花咲く町と村」に認定されている。
ヴィーズの谷川を挟みながら「出口」でぱっと広がる角笛の「ベル」の部分の旧市街は、全体で南北にほぼ550m、平野の先端で幅200mほどで市街が形成されているが、ヴィーズ川を挟んで、平地となる東側区域と渓谷の北西区域に分けることもできる。
ドゴール将軍通り Rue de G. de Gaulle はケゼルスベール旧市街の平地・東側区域を東から西方へ走り、城砦の西下で若干向きを北西へ変えヴィーズ川を渡り、旧市街の北西区域へ向かうメイン通り。旧市街の観光では、ほとんどのツーリストは先ずこのドゴール将軍通りを使う。
ドゴール将軍通り39番地(北側)の複合的な大きな建物は、16世紀〜17世紀建造の町役場 Hotel de Ville、フランスの「歴史的建造物」に指定されているが、同じ建物に「ケゼルスベール(渓谷)観光局 Office de la Vallee de Kaysersberg」も同居している。
なお、ケゼルスベールは音楽、哲学、神学者でもあり、医学者でもあった「ノーベル平和賞」のA・シュバイツァー博士の故郷でもある。生家はドゴール将軍通り Rue de G. de Gaulle 126番地(西側)、旧市街の最も北部区域、切妻屋根に小鐘楼が乗った柳色の壁面、一階の道路側に円柱ポーチ付きの建物、「A・シュバイツァー博物館 Musee A-Schwaitzer」となっている。

ケゼルスベールの歴史は13世紀にまで遡り、神聖ローマ帝国・皇帝フリードリヒU世の息子で皇帝戴冠していないドイツ王ハインリヒZ世(1211年〜1242年)が、1227年、旧市街の北側、標高280mの尾根に最初のシャトー城砦を建てた。ヴィーズ渓谷からアルザス平野へ通じる通行管理を担う城砦の役割は、神聖ローマ帝国にとり戦略的に極めて重要であった。なお尾根に建つ城砦・「カイザーベルグ(皇帝の砦)」をして町の名称となったとされる。
13世紀〜14世紀の初め、ナッサウ家の一代限りの皇帝アドルフ(Adolf von Nassau 1250年〜1298年)により、コルマールやテュルクアイムなどと同様に、市場の開設など神聖ローマ帝国の「自由都市」の権利を獲得、さらに皇帝カールW世の時代、1354年になるとアルザス地方の主要都市が加盟した「十都市同盟」にも参加したことで経済面で発展、ケゼルスベールは繁栄を享受する。
ヴィーズ渓谷はドイツ〜ライン河畔〜コルマール〜ヴォージェ山地を越えて北西のロレーヌ地方を結ぶ交通アクセスの重要ルートの一つでもあり、その渓谷の「出口」に発達したケゼルスベールの街は、定期市(マーケット)のみならず、ワインなど農産物や工芸品を扱う交易の中心地の役割も果した。城砦を取り囲むように西側〜南側麓にケゼルスベール市街が広がり、14世紀〜15世紀に街は「黄金時代」を迎える。

16世紀、中央ヨーロッパの各地ではカトリック教徒からプロテスタント派への改宗する人々が続出、さらに不満を溜めた農民と住民による領主貴族階級に対する「ドイツ農民戦争」が始まり、1525年、ケゼルスベール城砦とアルツパッハ修道院 Abbaye de Alspachは略奪が起こり破壊される。
追い討ちをかけるように、17世紀になるとカトリック教会とプロテスタント派との「三十年戦争」が勃発、社会は混乱の様相を見る中、アルザス・ロレーヌ地方は勢力を増したフランス王国の領土へ変わる。同じ世紀の後半になると、破壊と混乱の影響を受けたケゼルスベールの街にも活気が復活してきた。18世紀にはワイン生産と並んでアルザス地方の多くの街で盛んになった繊維産業がケゼルスベールでも発展した。

ツーリストで賑わう旧市街/コロンバージュ様式の建物群
  旧市街の真北の尾根に建つケゼルスベールのシンボル的な城砦跡は、ほとんど崩壊状態だが高い円塔と城壁の一部が残され、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。城砦跡からのケゼルスベール旧市街とヴィーズ渓谷の景観、そして東方に広がるワイン畑のなだらかな斜面の展望は素晴らしい。
城砦跡から眺めても目立つが、ケゼルスベール旧市街で最も高い鐘楼は、町役場の西隣、ドゴール将軍通りに面する聖クロワ(十字架)教区教会堂の角塔である。身廊の西入口のタンパン部と柱頭彫刻は13世紀起源のロマネスク様式、建物はゴシック様式の混在建築である。
教会堂の内部は金色や緑色を多用した鮮やかな16世紀初頭の作品≪最後の晩餐≫や≪イエスの受難≫の祭壇画、精緻な彫刻が施された19世紀のネオ・ゴシック様式の説教壇、高さ109cmの彩色の≪マグダラのマリア像≫など、見応えのあるインテリアで装飾されている。これらを含め、教会堂全体がフランスの「歴史的建造物」の指定を受けている。
聖クロワ教会堂のロマネスク様式の西正面入口の前は、ドゴール将軍通りに面する広場となり、この周辺がケゼルスベール旧市街で最も賑やかなスポットである。広場には十字架を支えるフランスの「歴史的建造物」の「コンスタンティヌスの噴水(1745年建造)」があり周辺にはフランスの「歴史的建造物」も含めワインカーブやレストラン、カフェテリアなど、花を飾り豪華に装飾された三階〜四階建てのコロンバージュ様式のキレイな建物が林立して、さながら「中世の美しい街」を演出している。

アルザス・ワイン街道・ケゼルスベルグ/(C)legend ej ヴィーズ川の右側(西側)となる旧市街の北西区域には、ランダム形
 状の地元産の赤色砂岩を積み上げた高い塔や城壁跡が残り、かつて
 ケゼルスベールが城塞都市であった名残りを今に伝えている。これらもフ
 ランスの「歴史的建造物」に指定されている。

 城砦の西下からドゴール将軍通りで石組み橋を渡って旧市街の北西
 地区に入り、直ぐ右折(北方)する細い路地を曲がると、マンサード風
 の屋根、三階建ての白壁細身の「ワインカーブ Jean Dietrich」がある
 (左写真)。
 石組み橋〜30m先の交差点に建つ大きな建物はフランスの「歴史的
 建造物」に指定されている、1460年建造、窓・手摺り・ベランダなどが
 凝ったデザインで施工されたコロンバージュ様式の「邸宅 Brief Faller」
 である。この邸宅からドゴール将軍通りをさらに140mほど北西へ進めば
 「A・シュバイツァー博物館」となる。



 アルザス・ワイン街道・ケゼルスベール
 窓辺に花を飾ったワインカーブ





ケゼルスベールのアルザス特級ワイン・グラン・クリュの指定ブドウ畑・「Schlossberg」は、旧市街の東部区域の北側、城砦跡から始まり東方1.5kmの隣村キーンツハイム Kientzheim(後述)へ至るまで約80haの広大な面積を占めている。これはアルザス・ワイン街道の特級ワイン・グラン・クリュ指定の単独地名畑としては最大の面積を誇る。

城壁&城門に囲まれた キーンツハイム Kietzheim

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位置: ケゼルスベール⇒東方1.5km/コルマール⇒北西8km
人口: 750人/標高: 230m
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ワイン産地で有名な村
  観光ツーリストに知られた西隣ケゼルスベール旧市街の存在と人気に隠れてしまっているが、キーンツハイム村はワイン用ブドウでは良く知られた地区である。特にアルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定されたブドウ畑は、ケゼルスベール旧市街へ至る道路の北側一帯、約80hsを誇る広大な南斜面・「Schlossberg」、そして、村の北方の標高300m〜380m付近に広がる約31haの「Frustentum」である。ただキーンツハイムの村自体はアルザス平野が始まる平坦な場所にある。

城壁に囲まれていた旧市街は東西500m 南北350mほどである。8世紀に村は「コネスハイム Conesheim」と呼ばれ、15世紀になるとドイツ・「黒い森地方」のラップフェン・シャウェンディ伯 Lupfen von Schwendi の領地となり、伯は1430年にキーンツハイムにシャトー城館を建て、その周囲に住宅と城壁を築いたとされる。その後、1460年、キーンハイムは「市」の特権を獲得する。
16世紀には、キーンツハイムは神聖ローマ帝国・皇帝カール五世の家臣の一人であり、対オスマン・トルコ戦争や対フランス戦争でも活躍したラザロ・シャウェンディ Lazarus von Schwendi の領地となり、伯はこの地にハンガリー東部からトカイ・ワインの苗木移植を行い、良質ワインの醸造を推奨したとされる。ヨーロッパの宗教戦争であった「三十年戦争」の被害が大きく影響して、その後、キーンツハイムは繁栄の「市」からアルザス地方のワイン造りの単なる「村」へ降格して行く。

ケゼルスベール旧市街から1.5km、真っ直ぐな地方道D28号がキーンツアイム村を結んでいる。現在は撤去されてしまったが、中世には存在した「西城門(下記コラム)」から村のメイン道路である大通り Grand Rue が始まり、若干カーブして現在でも立派に残る東城門へ向かっている。市街のすべての狭い通りと路地はこの大通り(道幅は狭い)に接続している。
「西城門」の直ぐ東側、旧市街の大通り48番地(北側)、現在レストランとなっているが、16世紀建造〜18世紀に改築された「旧リッチェンシュティン城館 Riechenstein」である。さらに大通りの北側には14世紀起源のゴシック様式のキーンスハイムの聖母マリア教会堂が建っている。塔を含めた教会堂の建物と内部の祭壇画や聖母マリア像、19世紀のパイプオルガンなどもフランスの「歴史的建造物」に指定されている。
キーンハイム旧市街の東城門の脇に、1430年にラップフェン・シャウェンディ伯が造営し、その後ラザロ・シャウェンディの居城となり、さらに18世紀と19世紀に改築された「ラップフェン・シャウェンディ城館」がある。2002年に訪ねた際に確認したが、現在は地元のワイン醸造の技術と伝統保全などの啓蒙や宣伝を行っている組織が入っている。
ラップフェン・シャウェンディ城館の西隣は、18世紀からの「イフ城館 Ifs」である。二つのシャトーと旧市街の東北端に建つ円塔や堅固な東城門、そして、ほぼ完全に残されている市街の城壁などもフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

Ref.
ケゼルスベールからの地方道D28号は、キーンツハイム村の西端を固めていた「西城門」の手前でバイパスするため南カーブとなり、コルマール方面へ向かっている。
「西城門」のに西外側はちょっとした芝生の公園で、第二次大戦で活躍した自由フランス軍の戦車1両(専門知識はないがM4型シャーマン戦車か?)がオープン展示されている(2002年)。なお戦車の北側が路線バス・ストップ(待合室)である。

城塞都市 テュルクアイム Turckheim

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位置: コルマール⇒西方6m/コルマーから列車&路線バス
人口: 3,800人/標高: 240m
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テュルクアイムの歴史
  ヴォージェ山地の末端のスタウフェンの連山尾根が、テュルクアイムの直ぐ南方へ出っ張り、西方に 「マンステ(Munster マンステール)の谷」を形成している。テュルクアイムはマンステ渓谷の「出口」、谷から流れ出すフェシュ川 Fecht の扇状地に発達してきた。ローマ時代、テュルクアイム地区にゲルマン系トゥリング族が居住したことで、8世紀には街の名称の語源となる「トレンコアイム Thorencohaime」と呼ばれていた。
中世の初め、テュルクアイムは渓谷の奥のマンステ修道院の領地であった。その後、神聖ローマ帝国に組み入れられ、14世紀の初めに街は帝国の「自由都市」の権利を得て、14世紀の初め、1315年頃に堀を設けた城壁が建設され始め、旧市街は完全に城塞化された。城壁は切石を積み上げる本格的な要塞城壁ではなく、エグイスハイムなどアルザス地方の多くの街と同様に、一般家屋の背面を城壁の代わりとする建築方法で、比較的背丈のあるコロンバージュ様式の住宅が隙間なくびっしりと建ち並んだ。現在、この城壁の痕跡は旧市街の東北部ではっきりと確認でき、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。
帝国の「自由都市」となり市場の開設や色々な特権が与えられ、その後、1354年、テュルクアイムはアルザス地方のオベルネやコルマールなどと一緒に「十都市同盟」に参加して、さらに街の経済面での発展をみる。17世紀の「三十年戦争」の後、テュレンヌ元帥率いるフランス国王軍が、1675年の新年、「テュルクアイムの奇襲攻撃」で神聖ローマ帝国・ブランデンブルグ選帝侯軍に勝利する。
その後、アルザス地方はフランス王国へ編入されるが、テキュルクアイムを含む強力な「十都市同盟」の街は、歴史ある神聖ローマ帝国の特権を堅持、17世紀の後半になりフランス王国への正式帰属となった。
19世紀、フランスとドイツとの「普仏戦争」の後、テュルクアイムはドイツ・プロイセン帝国に編入され、続く第一次大戦の後にはフランス領となる。50年〜100年毎に入れ替わる、支配権と帰属の絶え間ない変換の歴史は、地政学的に避けることのできないな「アルザス地方の宿命」とも言える大きな特徴である。

「テュルクアイムの戦い」で勝利するフランス国王軍の指揮官テュレンヌ元帥の情報: 「ワイン祭り・プファフェンハイム村」
Web 「アルザス・ワイン街道」(南部)ロウファッハ〜タン周辺/コロンバージュ様式の美しい村々

テュルクアイム旧市街
  テュルクアイム旧市街は東西500m 南北300mほど、丁度細長い「二等辺三角形」を左方へ倒したような形容、西方へ行くほどに街の南北幅は狭くなる。旧市街の西端には渓谷の町マンステへ通じるマンステ門 Porte de Munster が、南東側にはコルマールへアクセスする街のメインゲートとなるフランス門が、そして、北東端にはブラン門 Porte du Brand が造られた。
ただし、三つの門は時代の流れの中と都市計画などの理由から複数回の解体・改築が行われ、今日見ることのできる門はいずれも19世紀に再建されたものだが、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。最も重要なフランス門は14世紀の城壁の建設直後の1330年に造られ、当初、深堀には跳ね橋が架かり、落とし格子と堅固な構造で街を守っていたとされる。「普仏戦争」の後の1871年、城門に小塔が追加されたが、この塔は1912年に解体されている。
交易にも活用された旧市街の西側を固める14世紀起源のマンステ門、内部の鐘は農作業の住民へ雷雨などを知らせる警鐘の役割も果たし、さらに牢屋のような小窓しかないマンステ門をくぐって西方へ向かう人々に「魔女伝説」の恐怖心を煽ったとされる。特にマンステ門から渓谷に建てられたマンステ修道院を経由して、険しいヴォージェの山道を抜け、スペイン・「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の集合地・ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院まで歩み、その地からさらに1,700km彼方にある目的地・サンティアゴ大聖堂へ向かう巡礼者への「旅路の戒め」の意味があったようだ(下記コラム)。

なお、テュルクアイムのアルザス特級ワイン・グラン・クリュの指定ブドウ畑・「Brand」は、旧市街から北方1.5kmの隣村ニーダーモルシュヴィール Neidermurschwihr との中間点、標高390mの「ブランの丘」の南斜面の約58haで耕作され、かつて旧市街の北東端のブラン門は北方への通行だけでなく、住民のブドウ畑への出入りとしても使われた。

テュルクアイム旧市街の南側にフェシュ川が流れ、その南側にコルマールへ連絡する国鉄駅SNCFがある。コルマールから路線バスもあり交通アクセスではテュルクアイムは比較的良好と言える。駅から橋を渡れば直ぐにフランス門が左手に見えてくる。
三角帽子屋根で赤色砂岩のゴツイ形容のフランス門をくぐり旧市街へ入り50m進むと、「聖母子像」の噴水のテュレンヌ広場 Place de Turenne となり、東側に切妻屋根で壁面がピンク系柑子色(こうじいろ)の四階建ての建物(左下写真)がある。1580年起源のこの建物は「警備宿舎 Corps de Garde」と呼ばれ、左右対称の比較的小さな窓に16世紀の特徴が見て取れる。
この鮮やかな色彩の建物は後世には町役場や女学校として使われ、さらに肉屋も居住、そして1970年代までは警察署となる複雑な変遷を経て、現在、「テュルクアイム観光局」が入っている。広場の噴水と建物はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

アルザス・ワイン街道テュルクアイム・ワイン祭り/(C)legend ej アルザス・ワイン街道/タルトフランベ&ワイン
アルザス・ワイン街道・テュルクアイム旧市街/ワイン祭りの賑わい       ワイン祭りの定番・「タルト・フランべ」&白ワイン
テュレンヌ広場/ピンク色建物=「観光局」                    アルザス地方

テュルクアイム観光局から北方へ50mほど進むと町役場広場となる。広場の西側は凝ったコロンバージュ様式を過多に取り込んだ16世紀ルネッサンス様式の四階建て・「☆☆☆ホテル Duex-Clefs」である。ホテルの北東側には雨戸が淡い緑色・壁面がベージュ色の五階建て、正面部が切妻屋根の町役場 Hotel de Ville が建っている。この二つの建物と町役場の右肩越しに見える聖アンナ教会堂 Eglise St-Anne の12世紀の高い塔は、いずれもフランスの「歴史的建造物」に指定されている。
このほかにも旧市街は風情あるコロンバージュ様式の邸宅や一般住宅が密集的に建ち並んでいる。例えば、観光局前の噴水から西方へ70mほど、大通り Grand Rue 14番地(北側)、三階建てのコロンバージュ様式の建物は二階に石製板を使った装飾出窓を設けている。また、この対面の建物のコロンバージュ施工も非常に手が込んでいる。
西方へ進み、マンステ門から130mほど手前、大通り Grand Rue 71番地(南側)、一階が黒色壁面の住宅では二階部分の窓辺やむき出し柱に人面や抽象的な文様など緻密な彫刻が施されている。これらもフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

盛大な「テュルクアイムのワイン祭り」/毎年8月の第一週末
  2014年・夏、8月2日(土曜日)はテュルクアイムの「ワイン祭り」であった。コルマール地域では有名な夏祭りの一つで、夕方から近郊コルマールなど周辺の町や村々からやって来たお祭り好きな人達で、狭い通りの旧市街は歩けないほどである(左上写真)。アルザス地方の市町村では、観光局と商工会議所などが協賛して年間のお祭りやイベント・スケジュールなどを詳細に発表して、パンフレットを配り、観光客の誘致に力を入れている。伝統的なお祭りは、どの国の町や村でも、何処でも活気に溢れている。
若者も、年配者も、家族連れも、カップルも・・・観光局前〜西端のマンステ門へ延びる大通り Gran Rue とその路地、町役場広場、聖アンナ(聖母マリアの母)教会堂の東側の広場など、市街7か所ほどにセットされた特設ステージの生バンド演奏を聞きながら、簡易テントに席を取り、あるいは立ったまま「ワイワイ・ガヤガヤ」、アルザス地方の名物・「タルト・フランベ Tarte Flambee」と地元テュルクアイム産の美味なアルザス特級ワイン・グラン・クリュで乾杯の連続となる(右上写真)。

同じラテン系のイタリア語の影響なのか、アルザス地方の多くの人達は「乾杯=チンチン!」と言う。「チンチン」はグラスが触れ合う時の擬音言葉であるが、東洋からの旅人は何か早合点して「別な期待」を連想し勝ちだが、まあ、理屈はともかくも、年に一度の待ちに待った伝統あるワイン祭りなので、すべてを寛容して「チンチン!」と大きく発音しながら美味な白ワインを飲みましょう!
アルザス人は予想外に「ドンチャン騒ぎ」が好きな民族である。さらに驚くことには、何本もワインボトルを空け、限りなく「チンチン」した後ほとんどすべての人達は車運転で帰宅するのである。しかもワイン祭りでは全員が「酔っ払い」なのに、取締り役のパトカーや警察官なども見たことがない。ただ夜間に避け切れないで路上へ飛び出した野生のシカを撥ねることはあっても飲酒事故はあまり聞かない。
しかしながら、アルコール飲酒の取締りが世界で最も厳格な東洋の国から来た旅人には、これは紀元前2世紀の古代ギリシアの数学者で旅人でもあったフィロンの記述した、古代ローマ都市エフェソスの「アルテミス神殿」と同じ≪世界七不思議≫としか思えない。

Ref.
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼

フランス・ヴェズレー修道院/(C)legend ej 中世の時代、キリスト教徒は「聖地巡礼」が義務付けられ、ヨーロッパの多くの人々
 は徒歩によるスペイン北西部の聖ヤコブ埋葬地・「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」
 への巡礼の旅を一生の目標としていた。
 フランスからでは、イエスのパートナーの「マグダラのマリア」の遺骨があるブルゴーニュ
 地方ヴェズレー修道院が、その出発の最も重要な場所に指定されていた。
 巡礼者は聖ヤコブの象徴であった「帆立貝」を胸に飾り、ヴェズレー修道院からさらに
 1,700km先にある目的地・「サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂」を目指した。


 路面に埋め込まれた帆立貝の巡礼飾り(道標)
 ブルゴーニュ地方聖マドレーヌ大聖堂・正面広場





世界遺産/ヴェズレー修道院と個人的な「東京⇔関西 往復33日間・1,300km徒歩の旅路」:
Web 「フランスの最も美しい村」&世界遺産/ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院 聖マドレーヌ大聖堂

地方グルメ
ワイン祭りの定番」の名物タルト・フランベは、パン生地を広げ、チーズを載せ、細切りのベーコンと玉ネギを散らして、高温度で素早く焼き上げる、言うならば「簡易ピザ」であるが、アルザス地方のカフェテリアでも標準的にサーブされ、何処のワイン祭りやイベントの出店でも、地元産の白ワインと一緒に人々が気楽に注文する庶民の「最高のおつまみ」である。
また、南部アルザス・サングオ地方では腐葉土がもたらす栄養豊かな雪解け水を溜めた池を利用して、淡水魚・コイ(鯉)の養殖が伝統的に盛んに行われてきた。

アルザス地方・鯉フライ料理/(C)legend ej 「肉の国」にあって、淡水魚の料理もバラエティに富むが、鯉を使っ
 た最も人気のある料理は、何をさて置いてもフライに揚げた鯉の切
 り身、「鯉フライ」である。
 その「鯉フライ」をメニューにしている地元レストランの点在をして、
 人々は「鯉フライ街道」と呼ぶ。この「鯉フライ」も個人的には絶品
 の地元料理と言える。

 南部アルザス地方の名物料理・「鯉フライ」
 サングオ地方・フェレット
 Web 南部アルザス地方・「鯉フライ街道」の村々



≪世界七不思議≫の「アルテミス神殿跡」は、古代ローマ時代の東地中海で最大都市であったエフェソス遺跡に残されている(下写真)。

          エフェソス遺跡・アルテミス神殿跡/(C)legend ej
               トルコ・エーゲ海沿岸地方/石柱1本を残すアルテミス神殿跡
               Web トルコ/エフェソス都市遺跡/アルテミス神殿跡&聖ヨハネ教会堂跡

盛夏の8月、東洋の国では40℃近い猛暑の日々だが、汗をかかない乾燥した内陸のアルザス・ワイン街道の涼しい夜、偶然に訪れたテュルクアイム旧市街の「ワイン祭り」で、タルト・フランベをつまみ、アルコールに弱いながらも、濃緑色の段々溝付きフットが特徴のグラスに注がれたアルザス特級ワイン・グラン・クリュの濃厚な酔いに任せて、深夜1時過ぎまで、お祭り好きな人々でごった返す旧市街で感動感激の時を過ごした。
アルザス・ワイン街道では、7月中旬〜8月中旬の毎週末、町と村々の何処かで大小の「ワイン祭り」が集中的に開催される。2014年の夏、私はアルザス・ワイン街道に滞在しながら、テュルクアイムなど幾らかの村のワイン祭りを複数回訪ねたが、不思議なことに何故か?何処の村でも飲酒運転を取り締まるパトカーも見なかったが、日本人ツーリストと出会うこともなかった。

夏の時期、フランス旅行の海外ツーリストが首都パリに滞在していては、「本当のフランス」を知ることはできず、自らが「フランスを体験する」ことも難しい。かつて、南フランス・プロヴァンス地方のアヴィニオン(アヴィニョン)で開催される「国際演劇祭」の初日、テュルクアイムのワイン祭りと同じように、身動きの取れないほどに賑わう世界遺産アヴィニオン旧市街に滞在した経験がある(下写真)。
「フランスの実態」というか、この国の本質は首都パリのオシャレなオペラ座周辺ではなく、ブドウ畑の丘陵が波打つように続くブルゴーニュ地方、明るい陽光が降り注ぎ素朴な石積みの家々が並ぶプロヴァンス地方とか、あるいはアルザス・ワイン街道など、素朴と少々の「泥臭さ」を特徴とする比較的小さな街と村々に潜んでいるような気がする、私には・・・

            アヴィニョン国際演劇祭の賑わい/(C)legend ej
           「国際演劇祭」・初日のアヴィニョン/旧市街のメイン通りは人々でごった返す/プロヴァンス地方
           Web 世界遺産/プロヴァンス地方アヴィニオン(アヴィニョン)とポン・デュ・ガール水道橋

世界遺産・ヴォーバンの「要塞&都市」 ヌフ・ブリザック Neuf-Brisach
(ヴォーバンの防衛施設群)

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位置: コルマール⇒南東15km/ライン川⇒3km
人口: 2,000人/標高: 195m
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17世紀の天才的な軍事工学の専門家・ヴォーバン
  コルマールの南東、ライン河畔のアルザス平野に稜堡式の「星形要塞&都市・ヌフ・ブリザック」がある。17世紀のフランス軍・建設将校であり、作戦指揮官でもあったヴォーバン領主セバスティアン・ル・プレストル(通称=ヴォーバン Sebastien le Prestre de Vauban)が建設した非常に美しい要塞都市である。

17世紀、1633年、ブルゴーニュ地方の世界遺産・ヴェズレー修道院の東南東24km、ディジョンの西方75km、小村サン・レジェ・フォーシェ(現在改名=ヴォーバン/人口400人)の貴族階級の家庭で生まれたセバスティアン(ヴォーバン)は、10歳で孤児になったと言う。
しかし、修道会の保護から高等教育を受けるチャンスに恵まれたヴォーバンは、17歳でブルボン朝コンデ公の軍に入隊、「三十年戦争」の後、1648年にパリで勃発した10歳のルイXIV世の国王軍に対する貴族と民衆の蜂起・「フロンド(投石器)の乱」で、反乱軍に参加、武勲をコンデ公に認められ要塞の建設を任されたとされる。
その後、ヴォーバンは国王軍の捕虜となることで、敵対したルイXIV世に仕えるという「人生の転換」があり、すでに始まっていた「フランス・スペイン戦争」にも参加、それ以降、軍事工学のスペシャリストとして、平時には防衛の要塞建設を、戦時には戦場の指揮官として能力を発揮することになる。
17世紀後半〜18世紀初頭、さらなる領土拡大をプランするルイXIV世の周辺諸国への侵略、「ネーデルランド継承戦争」〜「オランダ侵略戦争」〜「大同盟戦争」〜「スペイン継承戦争」に至るまで、ヴォーバンはフランス軍の有能な最高指揮官(元帥)であり、要塞建設など軍事工学のみならず、運河や橋、シャトーや教会堂の設計・建設、あるいは軍事防衛論や経営・金融理論の著者でもあり、多分野にわたり天才とも言える類稀な能力を発揮した理工学の専門家であった。
ヴォーバンが生涯に建造した要塞に限れば、新規設計・建造で37か所、改修要塞は約300を数えるとされる。UNESCOは、その中で特にヴォーバンの設計・建造の要塞・城砦・市街塁壁・塔など、フランス国内の12か所を選択して「ヴォーバンの防衛施設群」として世界遺産に登録している。この世界遺産では、ミュールーズの南西で巨大なライオン像がシンボルである要塞都市ベルフォール Berfort を初めとする軍事関連施設がメインとなっている。

当然のこと、要塞などは国が攻撃を受ける可能性が高い大西洋沿岸、そして内陸地方では周辺諸国と国境を接する戦略上重要なポイントに建設されている。要塞の存在と必要性は、中世以来、特に17世紀〜18世紀のヨーロッパ近代戦争では強力な抑止力であり、絶対的な有利性を持っていると捉えられていた。中でも防衛と射撃の効率からして、イタリアで発生した後にフランスやイギリスで発展してきた完璧な設計に基づいた「星形要塞」はその最先端の軍事施設であった。
ヌフ・ブリザックの星形要塞は、単純で大規模な軍事要塞ではなく、美しいほどに設計された城壁内部に「新都市」と呼ばれる市街を組み込む「要塞&都市」という、ほかに例を見ない新しい要塞構造を究極まで追求したヴォーバンの最高の「作品」とも言える。

ルイXIV世のフランス王国は、17世紀の終盤、ドイツとの「大同盟戦争」でライン川の対岸(東側)の町ブライザッハ Breisach を失った。そのため、防衛線として新たな軍事施設の必要性が生まれ、ライン川の西方3km付近の平坦な場所に建設されたのが、このヌフ・ブリザックの「要塞&都市」であり、その建設は1698年に始まり、1702年に完成>している。なお、「Neu」とはドイツ語で「新しい」を意味することから、「ヌフ・ブリザック Neuf-Brisach」=「新ブリザック」である。
ヌフ・ブリザックの「要塞&都市」は稜堡式の完璧な星形大要塞で(右下図)、稜堡先端の対面幅(東西南北)は約1,050m、市街を取り囲む八角形の城壁の対幅は約550m、幅のある深い堀(右下写真)が城壁を二重に囲んでいる。

   アルザス地方・世界遺産ヌフ・ブリザック要塞/(C)legend ej
   ヌフ・ブリザックの「要塞&都市」・「コルマール門」の橋           世界遺産・ヌフ・プリザックの「要塞&都市」
   アルザス地方                                  作図情報: Wikipedia⇒文字追加

ヌフ・ブリザックの「要塞&都市」を訪ねる
  今日では深堀は草地となり、散策道と放牧のヒツジが群れているが(左上写真)、18世紀の初頭、1698年以降のヌフ・ブリザックの「要塞&都市」の建設当時は、北海道・函館市の「五稜郭」と同様に、ライン川から引いた水で満たされていたであろう。
右上図で言えば左上側、要塞の北西側には頑丈な橋を渡り(左上写真)、ルネッサンス様式のシャトーを連想するような朱色の屋根・ベージュ色&赤色砂岩造りの1700年建造のコルマール門が、また現在は撤去されたがかつては市街の南東側にバール(バーセル)門があり、やはり撤去されたが北東側にはストラスブール門があった。ストラスブール門の直ぐ外側にはライン河畔の化成品工場やプジョー社の完成車の輸送用の産業鉄道(上図=紫色線)が通っている。

現在では「要塞&都市」の南西側には車両が通行できる「門」はないが、市街側(内部)から見るとアルザス地方の「村役場」を連想するベージュ色と赤色砂岩造りの堅苦しい感じがするルネッサンス様式の二階建ての大型の建物が残されている。今日博物館となっているこの建物を、現地では形式上「ベルフォール門」と呼んでいる。
「ベルフォール門」は通行門ではないが「門」と呼ぶ理由は、この建物から一時的に外部へ通じる簡易橋が架けられたことにある。堀(外部)から見ると、まるで古代ローマ時代の神殿のようなこの大型建物の建設が始まったのは1699年、完成後には「要塞&都市」の高級官史の詰め所として、その後は技術官の管理事務所として長期間使われた。
建物一階の市街側にはアーチ型入口、堀側(裏側)には扉2枚程度の「通路出口」があり、完成の数年後には深堀をまたぐように南西1.5kmのヴィコルスハイム村 Weckolsheim〜ベルフォール へ連絡する簡易橋が架けられた。しかし、1770年になりその橋は撤去され、今日では建物(博物館=1階レベル)から外部の城壁下10mの深堀へ降りる15段の石段のみが残された。
なお、コルマール門と「ベルフォール門(博物館)」、そして、ほぼ完全に残されている市街を取り巻く堅固な城壁は、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。

市街の中心には約100m四方の広場を設け、広場の西角の建物に「ヌフ・ブリザック観光局」が入り、東角の東奥には18世紀の寄棟屋根の町役場 Hotel de Ville が建っている。市街の全体は公的機関の一部を除き一般の住宅群である。
市街は今日ではモダンな個人住宅や四階建ての集合住宅などへ建て替えられているが、かつて城壁に近いエリアは基本的に軍関係の比較的豪奢な建物、そして長屋形式の兵舎などが連なっていたとされ、今でも特に市街の北側〜ストラスブール門にかけての住宅群にその痕跡を見ることができる。
また、「ベルフォール門(博物館)」から南東へ130mほど、「バラック兵舎 Caserne Serano」と呼ばれる1704年建造、窓枠に赤色砂岩、白壁の三階建てのキレイな建物、町役場、聖ルイ教区教会堂などもフランスの「歴史的建造物」に指定されている。
市街の道路区画は18世紀初頭のままの整然とした碁盤状だが、市街の建設そのものが近世1700年前後であり、中世コロンバージュ様式などの建築はなく、その上かなりの建物が建て直されている観があり、個人的な感触で言えば、市街に関しては、アルザス地方の「普通の町」と言え、交通アクセスが難という理由なのか、「世界遺産の町」としてはツーリストも比較的少ない(2014年・夏)。
ただ、城壁のある市街の外周部はまったく改築されていないので、三角形の突起部(稜堡)や徐々に横方向で段差を持たせた高さ10mの外塁・城壁面(左上写真)、そして堂々たるコルマール門などは見応えがある。

参考だが、南部ミュールーズ近郊の町で生まれた40代のフランス男性の話では、かつて徴兵で陸軍に入隊した際に、この高い城壁面が最初の軍事訓練の「しごきの舞台」となり、絶え間なく上官の怒鳴り声が飛び交う中、垂らした太いロープを頼りに城壁面の昇り降りの訓練を連日強制されたとか。

Ref.
ライン川対岸(東側)/ドイツ・ブライザッハ Breisach
ヌフ・ブリザックの「要塞&都市」から東方3kmのライン川を渡れば、対岸はドイツ・ブライザッハの町(人口15,000人)である。町はローマ時代からライン川の交易の中継地として栄え、13世紀には市街の岩の丘にロマネスク様式の聖ステファンを奉るブライザッハ大聖堂が建立された。
かつてルイXIV世に仕え、軍事と要塞設計の天才ヴォーバンの活躍した時代、17世紀の中盤〜18世紀の初めまでの間に流動的な国境の町ブライザッハは、神聖ローマ帝国⇒フランス王国⇒神聖ローマ帝国へと帰属が変わり、その後も「フランス革命」の影響の破壊、第二次大戦では町の85%が破壊されるほど大きな被害を被っている。
なお、2014年・夏に確認したが、身廊の南西外壁に第二次大戦時の激しい銃弾の跡が残る聖ステファン大聖堂、内部には15世紀にコルマールで生まれた画家マルタン・ションガウアー Martin Schongauer の作品、年代は分からないが色彩の劣化が顕著なイエスを描いた壁面などがある。
ライン河畔の崖上に建つ大聖堂からのライン川と南方に広がる戦後再建された旧市街の展望は素晴らしい。ドイツ・ブライザッハはフランス側の「要塞&都市」を訪れたツーリストがランチなどで立ち寄るのに丁度良いスポットである。メニューは当然のこと、経験論では、世界最大の豚肉消費国ドイツなので「ソーセージ料理」がベターでしょう。

ライン河畔/フェッセンハイム Fessenheim 原子力発電所
ヌフ・ブリザックの「要塞&都市」から南南東13km、ミュールーズから北東25km、ライン河畔にフッセンハイムの原子力発電所がある。1978年に運転を始めた古い発電所、原子炉2基=発電量 1,800MW(180万kW)の規模である。

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