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世界遺産/アヴィニョン(アヴィニオン)& 水道橋ポン・デュ・ガール
Avignon / Pont du Gard

世界遺産/アルル聖トロフィーム教会堂 & サン・ジル旧大修道院付属教会堂
Eglise St Trophime d'Arles / Saint Gilles du Gard


        アヴィニョン・ローヌ河畔の黄昏/夕日に染まる半欠の聖ベネゼ橋と旧市街・教皇庁宮殿/プロヴァンス地方

プロヴァンス地方/アヴィニオン(アヴィニョン)

中世キリスト教世界/混乱の舞台・アヴィニョン/テンプル騎士団
  フランス・プロヴァンス地方、ローヌ河畔に開けたアヴィニョン(アヴィニオン Avignon)は、現在、この地方の経済と交通の中心地となっているが、かつて中世の時代には政治・軍事的でも、宗教的にも重要な地位を占め、街は城塞化された都市であった。
中世の時代、フランス王フィリップW世統治の13世紀末〜14世紀初頭のフランスは、羊毛製品の生産などで豊かであった北方のフランドル(現在のフランス北部・ベルギー西部・オランダ南部)の支配権を得ようと戦いに明け暮れた。一方でフランスはローマ教皇との権力論争も繰り広げ、宗教的にも大きく歪みが生まれた時代であった。
そして、国内には1096年の第一回十字軍のエルサレム遠征の後に生まれた「テンプル騎士団」など、ローマ教皇庁から支持を受けた複数の修道騎士団が勢力を拡大するなど、キリスト教が政治と社会に大きく関わっていた時代でもあった。

ハンサム・ボーイで「端麗王/美男王」とも呼ばれ、政策面で長けたフィリップW世王のフランス王国は、北方のイングランドや統治を目指したフランドルとの戦いで軍費が嵩み、財政面では赤字続きでまったく余裕がなかった。当時、王国は「銀行」でもあったテンプル騎士団に莫大な借金があったとされ、その解決策として、フィリップW世が決定した教会や修道院への法的な課税義務をめぐり、フィリップW世と教皇至上主義を唱えるローマ・ヴァチカン教皇ボニファティウス[世との激しい対立が顕著となっていく。

その後、策略家のフィリップW世は、教皇ボニファティウス[世をイタリアで強引に拘束する。そして次の教皇が病死するやローマ教皇庁への圧力を一層強め、ボルドーの大司教であったフランス人ベルトランを教皇クレメンスX世として選出してしまう。そうして、強力なフィリップW世の後押し、と言うよりW世の強要から、1309年、王の傀儡(かいらい)教皇クレメンスX世は、教皇庁をローマからアヴィニョンへ移すという強攻策をとったのである(下述 描画=アヴィニオン教皇庁宮殿)。

さらに、フィリップW世からの強い要請から、教皇クレメンスX世は拷問的な異端審問を続ける一方、1312年、当時、巨大な資金力と横暴な支配力を誇示していたテンプル騎士団を突如として正式に解散させてしまう。これにより、フランス王国は「銀行」であったテンプル騎士団が消滅したことで、莫大な借金返済は事実上「ゼロ」となり、権力による負債免除(棒引き)というか、策略的でラッキーな財政再建に成功する。
テンプル騎士団の領地と莫大な財産を別の修道教団である聖ヨハネ騎士団(下記コラム参照)への有償での利権引き渡しを行い、フィリップW世は「目の上の瘤(こぶ)」であったテンプル騎士団の支配力の排除を実現すると同時に、王国財政の建て直しとしての借金帳消しと資金獲得にも成功する。

「教会大分裂」の時代
  アヴィニョンへの教皇庁の移転の以降、約70年間にわたり、7名の教皇がローマではなく、ここアヴィニョンからその力を示すことになるが教皇庁移転の歴史的大事件は、結果的にはカトリック教会の威信を著しく失墜させてしまったことは確かであった。反面、アヴィニョンの街は政治・経済・文化面で栄華を享受してさらに発展して行く。
その後、「魔女狩り」や異端審問を続けた教皇ヨハネス22世や教皇庁宮殿の建設を行った教皇クレメンスY世などを経て、1377年になり、ようやく教皇庁はローマ・ヴァチカンへ戻された。しかし、なおもアヴィニョンで対立教皇が立ち、更にイタリア・ピサでも別な教皇が選出され、一時的には同時に3名の教皇が存在するという異常な状態となった。
ここにカトリック教会は、歴史的な危機と言える西方カトリック教会と東方正教会とに分かれた「東西教会分裂」に匹敵する「教会大分裂」という、宗教的分裂を意味する「大シスマ」の極めて危機的状況へ陥って行く。しばらくして、1417年になり、ドイツ・コンスタンツで「キリスト教公会議」が開催され、ようやく教会分裂の収拾と平穏化が図られる。この公会議では、チェコのプロテスタント派ヤン・フスの唱えた思想が「異端」とされ、フスはプラハへ連行され火刑に処せられる。

世界遺産/チェコ人ヤン・フスに関わるプラハ/プラハ城と旧市街

現地ツアー VELTRA・フランスの旅
パリ発・日本語/ロワール川人気古城巡り・昼食1日/E129     パリ発日本語/ヴェルサイユ宮殿&ルーブル美術館・1日/E130
アルル発/美村ゴルド・ルシヨン〜フォンティーヌ泉水〜ポン・デュ・ガール橋〜レポー&サンレミ・プロヴァンス・1日/E115
アヴィニオン発・日本語/フォンテーヌ泉水〜セナンク修道院〜美村(ゴルド〜ルシヨン〜ボニュー)・1日/E110
アヴィニオン発/美村ゴルド・ルシヨン〜フォンティーヌ泉水〜ポン・デュ・ガール橋〜レポー&サンレミ・プロヴァンス・1日/E110

                        

Ref.
「テンプル騎士団」の急激な発展、特権と横暴な支配、突然の解散
勝利に終わった第一次十字軍の後、エルサレムは奪還され再びキリスト教徒の聖地となった。結果、ヨーロッパからおびただしい数のキリスト教徒が押し寄せた。しかし政治的に奪回したエルサレムはイスラム教徒支配地に囲まれていたため、聖地巡礼のキリスト教徒は常にイスラム盗賊団の格好のターゲットとなり、巡礼者達は大きな危険を伴い聖地に向かわねばならなかった。地中海の港ヤッファYafo(現在=テル・アヴィブ南地区)からエルサレムへ向かう約60kmの道筋で数百人規模のキリスト教徒の虐殺さえも発生した。

そんな状況下、エルサレム王ボードゥアンU世に清貧・貞潔・服従、そして聖地巡礼のキリスト教徒の保護を誓う敬虔なユーグ・デュ・ペイヤン Hugh de Payens などフランスからの合計9名の貴族騎士が現れた。ボードゥアンU世はこの騎士達の本拠地として王宮の東側、かつてのユダヤ・ソロモン王の創建したエルサレム神殿(テンプル)があった場所を騎士達に与えた。これにより9名のキリスト教徒騎士達は「キリストとソロモン神殿の騎士達」、いわゆる「テンプル騎士団」と呼ばれるようになる。この騎士団創設にシトー修道会の聖ベルナールが深く関わったとされている。

中世ヨーロッパのキリスト教・修道院と修道会聖ベルナールや妹聖アンベリーヌの生涯などの詳細
クリュニー修族とシトー修道会/聖ベルナールとクレルヴォー大修道院/「プロヴァンス三姉妹」

         聖ベルナール画像/オーストリア・ハイリンゲンクロイツ修道院 所蔵         聖アンベリーヌ画像/Le Eglise d'Orgelet,Jura
                「聖ベルナール」の画像                 聖ベルナールの妹・「聖アンベリーヌ」の画像
     写真情報:Georg Andreas Wasshuber 1700年作     写真情報:18世紀 「サロン・ド・パリ」 Adrian Richard 作
     ウィーン南西25km 「ウィーンの森地方」 シトー修道会系譜   東フランス・ジュラ地方オルジュレ 昇天の聖母教会堂 所蔵
     ハイリンゲンクロイツ聖十字架修道院 所蔵

※エルサレム神殿は、紀元前10世紀にユダヤ・ソロモン王が創建、その後紀元前6世紀に新バビロニア軍に破壊され、ユダヤ人は「バビロンの捕囚」となる。その後、新バビロニアが崩壊すると捕囚のユダヤ人4万以上が祖国へ戻り、紀元前6世紀の終わりにダレイオスT世により神殿の再建(第二神殿)が行われた。イエスの生まれる直前の紀元前1世紀には、ヘロデ大王による大規模な神殿の拡張が行われたが、紀元70年、神殿は「嘆きの壁」を残しローマ帝国軍により完全に破壊され、その後再建されることはなかった。

テンプル騎士団は、1128年の創設後の約1世紀半、何度となく結成された「十字軍」の遠征と共に聖地エルサレムと中東地域で活動と発展を見る。聖地での活躍と幾多の功績から多くの特権を勝ちっ取り、次第に騎士団の組織は独走し肥大化して行く。
テンプル騎士団は王侯貴族に資金を貸し出す今日の「銀行システム」、あるいは巡礼者達がヨーロッパ本国で騎士団に預けた金銭に相応しい手形書類を受け取り、聖地で現地貨に換金する、言うなれば現代の海外旅行で利用される安全な「トラベラーズ・チェック TC」の発行など、保障と精度の高い金融システムの構築も行い、傲慢さと武力による支配力と共に膨張路線を続けた。

しかし、第八次十字軍遠征の後、13世紀の終末の1291年、第八次十字軍の延長でもある中東アッコンの陥落(第九次十字軍とも言う)の結果、テンプル騎士団の聖地防衛と巡礼者の保護という「聖なる大義」は消滅してしまい、テンプル騎士団はフランスを主としてヨーロッパへ撤退する。たがその貪欲と横暴さは目に余るものがあり、その秘密主義も追加され次第にローマ・ヴァチカン教皇とヨーロッパの王侯貴族、さらには庶民社会からも「恐怖の騎士団」とされ、強い批判を受けるようになる。
14世紀の初め、ハンサム・ボーイで「端麗王/美男王」と呼ばれた策略家のフランス王フィリップW世とその傀儡(かいらい)教皇クレメンスX世の強攻策で、教皇庁がローマからプロヴァンス地方アヴィニオンへ移された後、1312年、巨大な資金力と支配力を誇示していたテンプル騎士団は突如として解散させられる。

なお「聖ヨハネ騎士団」は、テンプル騎士団よりわずか15年ほど前にエルサレムで設立された修道騎士団で、当初は聖地巡礼者のための病院の管理を行う「ホスピタル騎士団」と呼ばれていた。その後、1291年のアッコンの陥落でテンプル騎士団などと同様に、聖ヨハネ騎士団はエルサレムから撤退して、キプロス島を経由して本拠をエーゲ海ロードス島へ移し「ロードス騎士団」と呼ばれた。
ロードス騎士団はこの時期に解散したテンプル騎士団の利権を譲り受けるが、16世紀になって勢力を増したオスマン帝国との戦いに敗れ、シチリア島の南方の地中海の要衝マルタ島へ移り「マルタ騎士団」と呼ばれるようになる。

UWH ROM

世界遺産/アヴィニオン(アヴィニョン)旧市街
  UNESCOの世界遺産アヴィニョンの街は、中世キリスト教の権力紛争の舞台であり、その意味では歴史的にも文化的にも極めて重要な場所であった。それを物語るかのように、現在でもアヴィニョン旧市街には、ヨーロッパで最大級の「要塞宮殿」とされる、14世紀建造の堂々たる教皇庁宮殿 Papacy Palace が残っている(下描画)。

アヴィニオン教皇庁宮殿 Papacy Palace, Avignon/(C)legend ej
                アヴィニオン教皇庁宮殿/プロヴァンス地方/描画=Web管理者legend ej
                宮殿前の広場はやや斜面 アヴィニオン大聖堂は宮殿の北側(左方)に隣接

北側(描画=左方)に隣接する大聖堂を除き、教皇庁宮殿の建物全体は非常に複雑な構造と構成、教皇の居住する「宮殿」でありながら、外観のほとんどは「要塞」である。
ただし、堅固な外観から想像できないが、外部から見えない宮殿全体の屋根は、アヴィニオンなど南フランスの標準的建物と同じく朱色の屋根である。宮殿の裏側(東側)の狭い路地へ回ると、正面よりさらに強固な要塞様式の高い壁面がそそり立っている。

正面の宮殿広場付近 Palais des Papes で標高30m、北側の聖母マリアを奉るアヴィニオン大聖堂 Notre-Dame des Doms d'Avignon の西入口で標高40mとなり、宮殿と大聖堂はローヌ河畔の平地であるアヴィニオン旧市街よりやや高い丘上の場所(大聖堂北側の公園=標高55m)に建っている(トップ写真)。なお、大聖堂は12世紀にロマネスク様式で創建、鐘楼は15世紀の初頭に建てられ,
その後改修された。

洪水で破壊されたベネゼ橋
  水量もあり、ゆったりと流れる川幅のあるローヌ川 Rhone へ突き出たような聖ベネゼ橋 St Benezet は、4か所の橋脚と桁だけが残されている。最初、(聖)ベネゼが少年の頃に「神のお告げ」を授かり、成人してからアヴィニョンの街へ出向いて、建設費用を募り、8年の歳月をかけて1185年に完成させた全長約900mのロマネスク様式の大型木造橋であった。
しかし、1226年、当時トゥールーズやコルド・シュル・スィエルなど、南フランス一帯で民衆に絶大に支持されていたアルビジョワ派キリスト教徒(カタリ派/アルビ派)を擁護した理由で、フランス王ルイ[世によりアヴィニョンの街と城壁は破壊された。この時、聖ベネゼ橋もその殆どを壊されてしまうが、その後1350年頃に教皇クレメンスY世により石造橋として再建された。

15世紀になると橋の改修が行われるが、17世紀半ばの1669年に起こったローヌ川の大洪水で聖ベネゼ橋の半分以上が流されてしまい、現在見ることのできる半壊状態(トップ写真)になってしまった。
有名なフランス民謡≪アヴィニョン(アヴィニオン)の橋の上で Sur le Pont d'Avignon≫ で謳われているのは、この聖ベネゼ橋のことである。教皇庁宮殿などアヴィニョン旧市街の歴史的な建造物と共に、聖ベネゼ橋もUNESCO世界遺産に登録されている。

アヴィニョン(アヴィニオン)国際演劇祭
  毎年夏7月、1か月間に渡って繰り広げられる「アヴィニョン国際演劇祭」は、フランスでは有名な芸術イベントである。着飾った各国の参加劇団や南部地方で飼育されている馬まで登場(2007年)する大規模なパレードがあり、演劇が公開される劇場、果ては野外の広場やマンションの部屋を初め、アヴィニョンの街全体が朝から深夜まで演劇ムード一色になる。
この期間中は通りという通り、路地という路地の至る所に劇団チームのポスターが掲示され、ホテルもレストランも満室・満席の状態となり、アヴィニョンの街は何処もかしこも世界中からの演劇関係者は当然のこと、演劇を目当てに滞在する観客とホリディ・ツーリストで大賑わいとなる。

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ローマ人の残した巨大な建造物/ポン・デュ・ガール水道橋

ローマ時代の水道橋 UWH

  中世14世紀からの歴史を秘めた教皇庁宮殿や半壊の聖ベネゼ橋が残るプロヴァンス地方の中心アヴィニョン(アヴィニオン)の西方25km、ローマ時代の水道橋(ポン・デュ・ガール Pont du Gard)は、下流でローヌ川と合流するガール川 Gard が大きく蛇行する最も狭い谷間に架かっている(下描画)。

       ポン・デュ・ガール Pont du Gard/(C)legend ej
                 世界遺産/ローマ時代の水道橋 ポン・デュ・ガール/ラングドック・ルシヨン地方
                描画=Web管理者legend ej

かつて、ローマの時代の人々は飲料水を確保するために、この場所から北西へ15kmに位置するフランスで「最も街並みが美しい」と言われるユゼ Uzes の町の水源地から、南方へ50kmも離れた古代闘技場のあるニーム Nimes まで導水路を設けた。当時のニームはローマ人の大都市であった。
ユゼとニームとの高低差が20mにも満たなかったため、その水路は限りなく水平に近い僅かな勾配をつけた非常に高度な建築設計であったはず。そうして建造された水路は途中にある水位の低いガール川の谷を渡る際に、長さ275m 高さ48mもの巨大な石造橋ポン・デュ・ガールが必要であった。
今に残るこの水道橋は約2,000年前の紀元38年に工事が開始され、14年後に完成を見たとされる。大きく三層で構成され、各階層は力学的にも優れた機能美を誇る美しいアーチ形橋脚ピアーで支えられた巨大な切石積み構造である。水道橋は遠目には単純な姿かもしれないが、下層になるほど掛る大きな圧縮重量を上手に分散させた複雑な構造で、建築技術的にもたいへん優れた設計と言える。
抜けるような紺碧の空を背景に、地中海から吹く乾いた夏の風が涼しく感じるガール河畔に立ち、巨大なポン・デュ・ガールを見上げる時、ローマ時代の人々にとって水の確保の重要性が如何に大切であったか、そして大型建造物を建てようとする構想とそれを成し遂げた実践力や経済力に驚きを覚える。

Ref.
ヨーロッパの各地のローマ時代の水道橋 UWH

  スペインのセゴヴィア Segovia に残る花崗岩の切石積みの全長728m 高さ29mを誇るローマ時代の水道橋(下描画)を初め、地中海沿岸にはローマ人の建造した状態のままの水道橋や導水路が幾らか残されている。
またトルコ・イスタンブール Istanbul 市内にはニ層構造のローマ時代の水道橋(ヴァレンス水道橋450m)の部分を見ることができる。その他にもヨーロッパ全域では、現代でも水道橋の部分遺構と痕跡はかなりの数で確認されている。
ローマ時代の水道橋には、それぞれ時代の統治者や設計者の意図や地形的な条件などから構造的に幾分異なりがあるが、いずれの水道橋を見ても、その規模と構造力学面で驚異に匹敵するほどのローマ人の力と偉業さを見せ付けられる。

世界遺産/古都トレド旧市街とセゴヴィアの「ローマの水道橋」(下描画)
世界遺産/歴史の証人・トルコのイスタンブール

       セゴヴィア・ローマ水道橋 Roman Bridge, Segovia/(C)legend ej
                     世界遺産/セゴヴィア・ローマ時代の水道橋/カスティーリア地方
                    描画=Web管理者legend ej

プロヴァンス地方/アルル

アルル旧市街

UWH ROM

  プロヴァンス地方を貫くローヌ川の河口の町アルル Arles には、UNESCO世界遺産に登録されたローマ時代の遺構とロマネスク様式の建造物が合計8か所もあり、アヴィニョン(アヴィニオン)と並んで南フランスのぜひとも訪れたい魅力ある街の一つと言える。アルルの街は既に紀元前1世紀にはローマ帝国の植民地とされ、街に残る多くのローマ時代の遺構の多くは、西暦元年を挟んだ時期に建造されたものである。
その後、東方コンスタンティノポリス(トルコ・イスタンブール)を建設した皇帝コンスタンティヌスT世統治の紀元4世紀には、アルルは皇帝の保護の下でさらなる発展を成し遂げる。特に地中海へ連絡するローヌ川を使った舟の交易の要衝として、アルルの地位は重要性を増した。

世界遺産/コンスタンティノポリス(トルコ・イスタンブール)
FFT http://www.villes-et-villages-fleuris.com/

旧アルル大聖堂
  アルル旧市街の中心的な役目を果たすのは、市庁舎の建つラ・レピュブリック広場であろう。広場の東側の聖トロフィーム教会堂(Eglise St Trophime d'Arles 旧大聖堂)の歴史は古く、元々は採光用の高窓や列柱アーケードなどに特徴される聖ステファノスのためのバシリカ式教会堂であった。
教会堂は12世紀半ばの1152年、この場からから南東へ700mほど離れたローマ時代の墓地アリスカンに眠っていたアルルの聖人トロフィムスの遺骨を教会堂へ移すことで、現在見ることのできる大聖堂(後に教会堂)として造り直された。聖トロフィーム教会堂の建設工事は、11世紀後半から始まり75年ほど続いたと言われる。
聖トロフィムスは2世紀の終わりごろのアルルの司教で、アルル近郊のモンマジュール修道院の創設に大きな役目を果たしたとも言われている。教会堂は以降15世紀〜19世紀にも相当な改造改築が行われた。なお、内陣は3か所の半円形の小礼拝室を設けた放射状遊歩廊タイプで、15世紀にゴシック様式で改造された区画である。

            アルル・聖トロフィーム教会堂・タンパン図像/(C)legend ej
            「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の出発地の一つアルル・聖トロフィーム教会堂
            西入口 タンパン図像・「最後の審判」/プロヴァンス地方

聖トロフィーム教会堂/タンパン・「最後の審判」
  聖トロフィーム教会堂で特筆すべき点は、西入口正面ファサードを飾るタンパン(テュンパヌム)彫刻・「最期審判(上写真)」で、これは見る者を圧倒する迫力感とロマネスク様式特有の美しさを主張する。
タンパン図像の中央に座った冠姿のイエスは右手を挙げ祝福を授け、左手には福音書を携えている。イエスの両脇の上下に福音書の著者である聖マタイを初め、聖ヨハネなど羽を付けた四聖人が書を抱えた天使や怪獣の容姿として表現されている。

いずれやって来る「最後の審判」の時、全ての死者はイエスの前で審判を受け、善人が天国へ、罪人は地獄へと振り分けられるという新約聖書の思想を具現化した彫像である。
また、タンパン部を取り囲む半円の飾りアーチ・アーキヴォルトには、非常に精緻に表現された「選ばれた人の列」が連なり、イエスの直ぐ下の水平リンテル部には、イエスの12人の弟子達がそれぞれの表情で佇んでいる。さらに玄関口ポーチの両側柱の手前壁面周辺は、アブラハムやヤコブなど数え切れないほど聖人の像で埋め尽くされている。

聖トロフィーム教会堂の西入口ファサードを飾る無数の聖なる図像を見る時、その特徴として簡略的な作品が多いロマネスク様式でありながら、聖人がかなりリアルな表情で描かれている点が挙げられる。
例えば、12世紀初期のロマネスク美術の最高傑作と言われ、ブルゴーニュ地方のヴェズレー修道院に残るタンパン図像・「聖霊降臨(下写真)」では、イエスの衣装の襞(ひだ)の凹凸がかなりデフォルメされている。しかし、アルルの聖トロフィーム教会堂の「最後の審判」のイエスの衣装の、特に襞や裾の立体などは自然で流れるような表現であり、細部にわたって非常にリアルと言えるだろう。

ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂・「聖霊降臨」 Basilique Sainte Marie Madeleine, Vezelay/(C)legend ej
           ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂/タンパン彫刻・「聖霊降臨」/ブルゴーニュ地方
           世界遺産/ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂と12世紀ロマネスク彫刻

プロヴァンス地方で「最も美しい回廊」
  聖トロフィーム教会堂の後陣の南方側に配置された回廊は、「プロヴァンス地方で最も美しい回廊」と呼ばれている。回廊の大きさは28mx25m、正方形ではない。回廊は時代により様式が異なる設計で造られている。回廊の北と東側通廊が12世紀のロマネスク様式、一方、南と西側通廊はゴシック様式で14世紀に造られたもので、若干雰囲気と表現に差異が認められる。
回廊の四隅部分の支柱側面には聖人図像が、さらに回廊を構成する多くの円柱の柱頭部には聖書の物語などの図像が刻まれている。特に有名なのは北東と北西隅の支柱側面で、聖パウロ像などが残っている。
ただし、修道院の回廊は中庭に面して風雨にさらされることから、聖トロフィーム教会堂の回廊は石柱の材質なども影響してか、若干彫刻の表面が黒ずんでいる。この点では、シトー修道会系譜で柱頭彫刻はほとんどわずかな造作と言えるが、落ち着いた石材の色彩のかもし出す優しさもあり、特に清楚な美しさを主張するセナンク修道院の回廊の方が優越している、と個人的には感じる。

フランスの情報: 世界遺産ヴェズレー修道院/オータン聖ラザール大聖堂/セナンク修道院: FRT

ローマの古代闘技場/ローマ時代墓地アスリカン
  アルルにはローマ時代の建造物も沢山残されている。紀元1世紀の終りに建造された収用能力2万席を誇る大型の古代闘技場は、観客席が無数の大型のアーチで支えられ、長幅136m 短幅107m 高さ21m、その規模はフランスに現存する古代闘技場では最大級となっているようだ。
狭い階段を使って闘技場の最も高い場所へ登ると格好の見晴台となる。ここから南フランスを代表するアルルの旧市街と北西部を流れるローヌ川が一望できる。

市街の南東側でかつて城壁に囲まれた街の南東入口となっていた場所、現在の約450m以上の参道廃墟がローマ時代の墓地アリスカンである。アリスカンは中世までは広大な墓地であると同時に、ブルゴーニュ地方ヴェズレー(下写真)などと同じく、スペイン北西部の聖ヤコブが眠る「聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」へのフランスからの出発点の一つでもあった。アルルは巡礼路としてもUNESCO世界遺産の登録を受けている。
聖トロフィーム教会堂の東側には10,000人を収容したという古代劇場、市庁舎の西側では紀元前に建造されたローマの集会場(フォーロム)の地下回廊も公開されている。これらもUNESCO世界遺産の登録対象の建造物である。

ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂/(C)legend ej
       ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・西正面ファサード/澄み切った夜空に満月が輝く /ブルゴーニュ地方
       世界遺産/「フランスの最も美しい村」 ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂

アルルの魅力
  アルルはゴッホやゴーギャンなど多くの画家達が滞在した魅力ある街で、良く知られたゴッホの名作・《夜のカフェテラス》のフォーロム広場からローヌ河畔へ向かう途中には、同じくUNESCO世界遺産である皇帝コンスタンティヌスT世統治の紀元4世紀建造のローマ共同浴場跡も残っている。
アルルはプロヴァンス地方にあっても、セザンヌの故郷エクス・アン・プロヴァンスやアヴィニョン(アヴィニオン)などに比べ一回り小さい街であり、市街全体が近代的ではなく、むしろリュベロン地方の村々に似て若干素朴な雰囲気が色濃い。その分ツーリストにとっては程よい感覚で過ごせる安心できる南仏の街と言える。アヴィニョン〜アルル間はローカル列車で20分、路線バスもあり、アクセス面でも無理なく訪れることが可能である。

サン・ジル・デュ・ガール旧大修道院付属教会堂

UWH ROM

世界遺産=聖地への巡礼路/サン・ジルの街
  サン・ジル St Gilles の街は古代ローマ闘技場などが残るニームから南東へ20km、世界遺産のアルルからローヌ川を越え西方へ15km、ニームから続く台地がローヌ川の河口の広大なカマルグ・デルタに落ち込む場所にあり、小高い丘の上の旧市街を中心に長い歴史を積み重ねてきた。
南端に高い鐘楼を備えたサン・ジル・デュ・ガール Saint Gilles du Gard 旧大修道院付属教会堂は、複雑な路地が結び合う旧市街の中心の最も高い場所に建っている。
西正面入口の前は決して広くはないが、道路に面する教会広場となっている。古くから繁栄していたサン・ジルの街は、アルルから延びる聖ヤコブの眠るスペイン北西部・「聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」のコース上にも位置していた。UNESCOは巡礼コース上のサン・ジル・デュ・ガール旧大修道院付属教会堂を世界遺産に登録している。

旧大修道院・教会堂
  サン・ジル教会堂の歴史は7世紀に遡る修道院から始まる。9世紀になり、修道院がギリシア生まれで8世紀にプロヴァンスで隠匿生活を送ったベネディクト修道会の聖ジル Saint Gilles の聖遺体を地下納骨堂へ収めたことで、修道院の名称も聖人の名へと変更される。
16世紀になると聖書信仰による救済に重点を置く神聖ローマ帝国(ドイツ)の大学教授ルターの主張から始まった「ドイツ農民戦争」を初め、「宗教改革」の戦争がヨーロッパ各地で勃発する。フランスでは神学者カルヴァンの影響を受けたプロテスタント教会(改革派・ユグノー教会)が、カトリック教会に激しく対抗した1562年〜1598年の「ユグノー戦争」が起こる。
背景に王族の権力闘争が見え隠れするこのユグノー戦争は、ユグノー派であったブルボン朝初代のアンリW世(バラ王)がカトリック教への改宗を行い、同時にユグノー派の権利も保障したことで終息をみる。
この宗教戦争を通じて、ローマ・カトリック教会に系統する各地の修道院も攻撃の的となり、サン・ジル・デュ・ガール大修道院も大きな被害を被り、修道院としての建物はほとんど失われてしまった。また、18世紀の「フランス革命」でも、特に聖像の「顔」の多くが破壊されたとされる。
破壊の時代を経ても、辛うじて旧大聖堂であった教会堂の正面入口ファザードの多くの部分だけが奇跡的に残され、今日、「プロヴァンスで最も壮麗」と言われるその精緻に彫刻された装飾部を見ることができる。

ロマネスク様式のファザード見事な装飾群
  サン・ジル教会堂の正面ファサードの最大の特徴は、ロマネスク様式の三連の扉口とその周囲に施された装飾図像の豊富さと内容にある。
かつて、大聖堂であった教会堂全体の建立と改造改築の工事が断続的に、しかも複数回で長期にわたり行われた経緯から、この正面ファサードの建造時期に関しては、専門家の間でも諸説に分かれている。ただ、多くの研究者は12世紀中期〜後半にかけて、あるいはさらに続く13世紀までかけて建造されたとされている。

アルル旧市街の聖トロフィーム教会堂の入口周辺の彫刻も素晴らしいが、サン・ジル教会堂の正面ファサードの図像は、イエスの誕生から受難が待ち受けるエルサレム入城、さらに十字架の処刑から復活に至る新約聖書に書かれたイエスの生涯を主題として関連する物語や無数の聖人像も描かれている。
教会堂に向かって左側の扉口(北扉口)のタンパン彫刻・「東方からの三博士(マギ)の礼拝」をもってイエスの誕生が始まり、その水平装飾リンテル部には「イエスのエルサレム入城」、北扉口と中央扉口の間には横長のコーリス部が続く。さらに「ユダの裏切り」と「神殿のユダヤ商人達を追い払うイエス」が、完璧な物語のように表現されている。

最も壮麗で大型の中央扉口のタンパン部には、福音書の著者である聖マタイを初め、聖ヨハネら四聖人に囲まれたイエスを描く大型図像・「栄光のイエス」、その下方を占める中央リンテル部では「最後の晩餐」、リンテル部からさらに南方へと続くコーリス部には「ユダへの接吻」や「十字架を背負うイエス」など、見事な彫刻図像が続いている。
最後の右側扉口(南扉口)のタンパン部には「イエスの磔刑(はりつけ処刑)」が、そしてリンテル部の「香水を買う聖女達」と「墓の聖女達」などでフリーズが装飾され、イエスの生涯の物語が終わっている。

聖ヤコブ像・聖パウロ像

聖ジル修道院教会堂 聖ヤコブ&聖パウロ像/(C)legend ej 中央扉口には中央柱が立ち、入口の両脇にはおのおの側柱
 があり、階段を登った玄関ポーチの両脇壁面部にはそれぞれ
 聖人がニ体づつ並んだ立像で彫刻されている。
 向かって右側壁面(南側)では、外方向には聖パウロ像
 扉口に近い位置は聖ヤコブ像である。
 何れも浮彫彫刻というより、精巧に作られた像が単独で前方
 へ張り出しているように見え、圧倒されるほどの見事さである。


 サン・ジル・デュ・ガール 修道院教会堂・玄関ポーチ脇 彫刻
 左像=聖ヤコブ/右像=聖パウロ
 ラングドック・ルシオン地方


 サン・ジル・デュ・ガール教会堂の正面ファザードである扉口周
 辺のタンパン部やコーリス部などの装飾は、ヴェズレー聖マドレ
 ーヌ大聖堂など、ブルゴーニュ地方の初期ロマネスク様式のそ
 れと比較する時、よりリアルで精密に彫像されていることが分
 かる。
 もはやこれはロマネスク様式を越えた次の初期ゴシック様式
 の表現方法と言えるかもしれない。
 イエスの誕生から処刑と復活に至る一連の物語性を強調し
 たサン・ジル教会堂の装飾図像群は、誰をしてもその高い芸
 術性を認めるはずだ。


想像するに、中世の頃、サン・ジルを訪れたプロヴァンスの参拝者や巡礼の人々は、教会堂の正面入口に立ってあまりにリアルな装飾図像を眺める時、誰もが威厳ある力を放す聖なる内容に心打たれ、身動きできないほどの感動を覚えたことであろう。

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