01/08/16 作成  07/07/11 加筆修正

波田須駅

紀勢本線 “波田須駅” 両側をトンネルに挟まれているこの駅は、俗世間からは縁遠い長閑な空間が広がっている

  

駅は高台にあり、集落はここより上に存在している   太平洋を望む絶好のロケーションは風光明媚といった言葉が良く似合うほど素晴らしい

  訪問日記  2001年8月5日 訪問

 紀伊半島をぐるりと一巡する紀勢本線。急峻なリアス式海岸が続く三重県側の非電化区間にはかつて陸路に交通路がなく、海からしか到達できない集落も
存在した。やがて鉄道の
開通によって集落どうしがトンネルで結ばれ、大きな街という外界ともつながった。この波田須もそんな集落のひとつで、10軒ほど
の人家が立ちはだかる斜面へ貼り付くように点在している。どの家にも柚子の木が植わり、南国情緒豊かなところだ。駅は複雑な地形を反映するかのように
トンネルに挟まれ、一面一線のホームに雨除けの庇しかない簡素な造り。木々が覆う駅前には公衆電話と郵便ポストという、前時代的な通信インフラは完備
されているが、携帯電話の電波は微弱なものであった。そんな辺境の地であっても、「はだす」という地名には、歴史的に深い意味がある。中国が秦(しん)
と呼ばれた時代、始皇帝の命を受けた徐福は、不老不死の妙薬を求め航海へ出た。しかし、途中で嵐に遭い、この地へ志半ばにして流れ着く。遠い異国人の
彼を地元の人の手厚い看護を施し、命を助けた。やがて回復した彼は帰国を諦め、その恩に報いるように土木や農耕の技術を伝える。以来ここは、秦(はた)
の人が住()む地とされ、地名の由来になったという。後にここで没した彼の墓は「徐福の宮」として、多くの旅人が訪れるようになった。しかし、歴史上
に登場する徐福という人物には諸説あり、中国、韓国、そして日本の各地に伝説が残るため定かではない。けれども司馬遷の史記には、3,000人の若者と多く
の技術者を従え、五穀の種を持って東方へ船出したとの記述がある。これを同志の一人と仮定すれば、遠からず符合するものであろう。

今回私はこの駅へ訪問するに当たっては、青春18きっぷ2枚を使って延べ10日間で行く「日本一周秘境駅訪問旅」の途中にこの駅へ立ち寄ることにした。 
昨夜遅く東京を発車した夜行快速「ムーンライトながら」に乗車した私は、ロクに睡眠を取ることも出来ず、眠い目を擦りながら、早朝の名古屋駅へと降り
立った。そこで関西本線に乗り換えて亀山まで乗車。ここから紀勢本線に乗りかえるが、非電化区間となるためキハ40系のディーゼルカーに乗り込み多気ま
で乗車。15分ほどの乗り換え時間に駅前の商店で弁当を仕入れた。この波田須駅には、途中の紀伊長島や尾鷲で10分以上の長い停車時間を繰り返しながら
ようやく着いた。しかし、この駅に着いた途端に激しい雨が降って来て、ドアが開いた瞬間にはもう庇の付いた待合所へ避難する始末。暫く動けなかったが、
小雨になったタイミングを見計って周囲の探索と撮影を済ませる。急傾斜の歩道を登って行くと海の景色は一層広がり、適度な運動との相乗効果なのか解ら
ないが、とても清清しい気分になれた。その後、普通列車で隣の新鹿駅へ一駅だけ戻り、この時期に臨時停車する特急「ワイドビュー南紀4号」へ乗車して
新宮駅まで先を急ぐ。快適なシートに身を委ねながら窓際よりこの駅を観察していたが、トンネルを出た瞬間にチラリと見えただけで、またもや漆黒の世界
へと吸い込まれて行った。