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飛鳥 関連史料

<目次>
明日香(飛鳥) 明日香(飛鳥)川 天岩戸神社 飛鳥寺 酒船石遺跡
飛鳥板蓋宮跡 欽明天皇陵 天武・持統天皇陵 文武天皇陵 桧隈寺跡
檜隈廬野宮趾 岡宮天皇真弓丘陵(真弓・佐田)
上に読み下し文(ベージュのセル、一部省略)、その下に原文(水色のセル)、収録箇所を記しました。
いずれも、「古事記」(倉野憲司・校注 岩波文庫)、「日本書紀」(坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋・校注 岩波書店「日本古典文學大系67日本書紀上」)、「続日本紀」(吉川弘文館「國史大系<普及版>」)、「万葉集」(中西進・訳注 講談社文庫)より引用しました。
ただし、表示できない文字は異体字を用いてあります。その字は原文で紺色で表示してあります。


明日香(飛鳥)
 「明日香」「飛鳥」の地名の見られる「万葉集」の歌を書き出してみました。

 明日香宮より藤原宮に遷居りし後に、志貴皇子の作りませる御歌
采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く
 從明日香宮遷居藤原宮之後、志貴皇子御作歌
采女女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用布久

(文中「采女」は本当は、おんなへんにつくりが「采」で一字をなしています。「采女」を一字でそのようにも書くのだそうです。パソコンで表示できない文字なので、読み下し文で使われた文字を当てました。)
万葉集巻第一 五一

 和銅三年庚戌の春二月に、藤原宮より寧楽宮に遷りましし時に、御輿を長屋の原に停めて迥かに古郷を望みて作れる歌 〔一書に云はく、太上天皇の御製といへり〕 
飛鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ〔一は云はく、君があたりを見ずてかもあらむ〕 
 和銅三年庚戌春二月、従藤原宮遷于寧樂宮時、御輿停長屋原望古郷作歌 〔一書云、太上天皇御製〕 
飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武  〔一云、君之當乎 不見而香毛安良牟〕 
万葉集巻第一 七八

 長屋王の故郷の歌一首
わが背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり島待ちかねて
 長屋王故郷歌一首
吾背子我 古家乃里之 明日香庭 乳鳥鳴成 嶋待不得而
万葉集巻第三 二六八

 大伴坂上郎女の、元興寺の里を詠める歌一首
故郷の飛鳥はあれどあをによし平城の明日香を見らくし好しも
 大伴坂上郎女、詠元興寺之里謌一首
古郷之 飛鳥者雖有 青丹吉 平城之明日香乎 見楽思好裳
万葉集巻第六 九九二

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明日香(飛鳥)川
 明日香(飛鳥)川は、高市郡高取山の山中畑に発し、稲渕山の西麓を廻り、雷丘の南西及び藤原京址を北西に流れ大和川に注ぐ川で、「万葉集」に多く詠われています。「明日香川」「飛鳥川」の名の見られる「万葉集」の歌を書き出してみました。

 明日香皇女の木瓦缶の殯宮の時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首并せて短歌
飛鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 〔一は云はく、石並み〕 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 〔一は云はく、石並みに〕 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るればはゆる 何しかも わご大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥せば 川藻の如く 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れ給ふや 夕宮を 背き給ふや うつそみと 思ひし時 春べは 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし 敷栲の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いや愛づらしみ 思ほしし 君と時々 幸して 遊び給ひし 御食向ふ 城上の宮を 常宮と 定め給ひて あぢさはふ 目言も絶えぬ 然れかも 〔一は云はく、そこをしも〕 あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋嬬 〔一は云はく、しつつ〕 朝鳥の 〔一は云はく、朝霧の〕 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰もる 情もあらず そこ故に せむすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 思ひ行かむ み名に懸かせる 明日香河 万代までに 愛しきやし わご大君の 形見かここを
 明日香皇女木瓦缶殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短哥
飛鳥 明日香乃河之 上瀬 石橋渡 〔一云、石浪〕 下瀬 打橋渡 石橋 〔一云、石浪〕 生靡留 玉藻毛叙 絶者生流 打橋 生乎為礼流 川藻毛叙 干者波由流 何然毛 吾王能 立者 玉藻之母許呂 臥者 川藻之如久 靡相之 宜君之 朝宮乎 忘賜哉 夕宮乎 背賜哉 宇都曽臣跡 念之時 春部者 花折挿頭 秋立者 黄葉挿頭 敷妙之 袖携 鏡成 雖見不 三五月之 益目染 所念之 君与時々 幸而 遊賜之 御食向 木瓦缶之宮乎 常宮跡 定賜 味澤相 目辞毛絶奴 然有鴨 〔一云、所己乎之毛〕 憐 宿兄鳥之 片戀嬬 〔一云、為乍〕 朝鳥 〔一云、朝霧〕 徃来為君之 夏草乃 念之萎而 夕星之 彼徃此去 大船 猶預不定見者 遣悶流 情毛不在 其故 為便知之也 音耳母 名耳毛不絶 天地之 弥遠長久 思将徃 御名懸世流 明日香河 及万代 早布屋師 吾王之 形見河此焉

(文中「瓦缶」は本当は、左に「瓦」右上に「缶」で一字を成していますが、パソコンで表示できない文字なので、このように表示しました。また、「厭」は本当はがんだれのない字ですが、これもパソコンで表示できないのでこの字を代用しました。)
万葉集巻第二 一九六

  短歌二首
明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし 〔一は云はく、水のよどにかあらまし〕 
明日香川明日だに 〔一は云はく、さへ〕 見むと思へやも 〔一は云はく、思へかも〕 わご大君の御名忘れせぬ 〔一は云はく、御名忘らえぬ〕 
  短歌二首
明日香川 四我良美渡之 塞益者 進留水母 能杼賀有萬思 〔一云、水乃 与杼加有益〕 
明日香川 明日谷 〔一云、佐倍〕 将見等 念八方 〔一云、念香毛〕 吾王 御名忘世奴 〔一云、御名不所忘〕 
万葉集巻第二 一九七、一九八

明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに
明日香河 川余藤不去 立霧乃 念應過 孤悲不有國
万葉集巻第三 三二五

 上古麿の歌一首
今日もかも明日香の川の夕さらず河蝦鳴く瀬の清けかるらむ 〔或る本の歌の発句に云はく、明日香川今もかもとな〕 
 上古麿歌一首
今日可聞 明日香河乃 夕不離 川津鳴瀬之 清有良武 〔或本歌發句云、明日香川 今毛可毛等奈〕 
万葉集巻第三 三五六

年月もいまだ経なくに明日香川瀬瀬ゆ渡しし石橋も無し
年月毛 未経 明日香川 湍瀬由渡之 石走無
万葉集巻第七 一一二六

 鳥に寄せたる
明日香川七瀬の淀に住む鳥も心あれこそ波たてざらめ
 寄鳥
明日香川 七瀬之不行 住鳥毛 意有社 波不立目
万葉集巻第七 一三六六

明日香川瀬瀬に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに
明日香川 湍瀬玉藻者 雖生有 四賀良美有者 靡不相
万葉集巻第七 一三八〇

 故郷の豊浦寺の尼の私房にして宴せる歌三首
明日香川行き廻る丘の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ
 右の一首は、丹比真人国人
 故郷豊浦寺之尼私房宴謌三首
明日香河 廻丘之 秋芽子者 今日零雨 落香過奈牟
 右一首、丹比真人國人
万葉集巻第八 一五五七

 河を詠める
今行きて聞くものにもが明日香川春雨降りて激つ瀬の音を
 詠河
今徃而 聞物毛我 明日香川 春雨零而 瀧津湍音乎
万葉集巻第十 一八七八

明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも
明日香川 明日文将渡 石走 遠心者 不思鴨
万葉集巻第十一 二七〇一

飛鳥川水行き増りいや日けに恋の増らばありかつましじ
飛鳥川 水徃増 弥日異 戀乃増者 在勝申自
万葉集巻第十一 二七〇二

明日香川行く瀬を速み早けむと待つらむ妹をこの日暮しつ
明日香河 湍乎早見 将速登 待良武妹乎 此日晩津
万葉集巻第十一 二七一三

飛鳥川高川避かし越え来しをまこと今夜は明けずも行かぬか
飛鳥川 川避紫 越来 信今夜 不明行哉
万葉集巻第十二 二八五九

明日香川瀬瀬の珠藻のうち靡き情は妹に寄りにけるかも
明日香河 瀬湍之珠藻之 打靡 情者妹 因来鴨
万葉集巻第十三 三二六七

明日香川下濁れるを知らずして背ななと二人さ寝て悔しも
阿須可河伯 之多其礼留乎 之良受思天 勢奈那登布多理 左宿而久也思母
万葉集巻第十四 三五四四

明日香川塞くと知りせばあまた夜も率寝て来ましを塞くと知りせば
安須可河伯 世久登之里世波 安麻多欲母 為祢弖己麻思乎 世久得四里世婆
万葉集巻第十四 三五四五

明日香川川門を清み後れ居て恋ふれば京いや遠そきぬ
 右の一首は、左中弁中臣朝臣清麿の伝へ誦める、古き京の時の歌なり。
明日香河 々戸乎清美 後居而 戀者京 弥遠曽伎奴
 右一首、左中辨中臣朝臣清麿傳誦、古京時歌也。
万葉集巻第十九 四二五八

関連「奈良 飛鳥川紀行」

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天岩戸神社
 「古事記」にみられる天岩屋戸神話です。「日本書紀」にはもっと長い記述がありますが、「古事記」と異なる内容が見られます。(そこに、編纂者の思惑が伺われたりして、興味深いのですが…)
故ここに天照大御~見畏みて、天の石屋戸を開きてさし籠りましき。ここに高天の原皆暗く、葦原中國悉に闇し。これによりて常夜往きき。ここに萬の~の聲は、さ蠅なす滿ち、萬の妖悉に發りき。ここをもちて八百萬の~、天の安の河原に~集ひ集ひて、高御産巣日~の子、思金~に思はしめて、常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鐵を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度賣命に科せて鏡を作らしめ、玉祖命に科せて、八尺の勾玉の五百箇の御統の珠を作らしめて、天兒屋命、布刀玉命を召して、天の香山の眞男鹿の肩を内拔きに拔きて、天の香山の天の朱櫻を取りて、占合ひまかなはしめて、天の香山の五百箇眞賢木を根こじにこじて、上枝に八尺の勾玉の五百箇の御統の玉を取り著け、中枝に八尺鏡を取り繋け、下枝に白和幣、和幣を取り垂でて、この種種の物は、布刀玉命、太御幣と取り持ちて、天兒屋命、太詔戸言祷き白して、天手力男~、戸の掖に隱り立ちて、天宇受賣命、天の香山の天の日影を手次に繋けて、天の眞拆を鬘として、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、天の石屋戸に槽伏せて蹈み轟こし、~懸りして、胸乳をかき出て裳緒を陰に押し垂れき。ここに高天の原動みて、八百萬の~共に咲ひき。
 ここに天照大御~、怪しと以爲ほして、天の石屋戸を細めに開きて、内より告りたまひしく、「吾が隱りますによりて、天の原自ら闇く、また葦原中國も皆闇けむと以爲ふを、何由にか、天宇受賣は樂をし、また八百萬の~も諸咲へる。」とのりたまひき。ここに天宇受賣白ししく、「汝命に益して貴き~坐す。故、歡喜び咲ひ樂ぶぞ。」とまをしき。かく言す間に、天兒屋命、布刀玉命、その鏡を指し出して、天照大御~に示せ奉る時、天照大御~、いよよ奇しと思ほして、稍戸より出でて臨みます時に、その隱り立てりし天手力男~、その御手を取りて引き出す即ち、布刀玉命、尻くめ繩をその御後方に控き度して白ししく、「これより内にな還り入りそ。」とまをしき。故、天照大御~出でましし時、高天の原も葦原中國も、自ら照り明りき。
故於是天照大御~見畏、開天石屋戸而、刺許母理此三字以音。坐也。爾高天原皆暗、葦原中國悉闇。因此而常夜往。於是萬~之聲、狹蠅那須此二字以音。滿、萬妖悉發。是以八百萬~、於天安之河原、~集集而、訓集云キ度比。高御産巣日~之子、思金~令思訓金云加尼。而、集常世長鳴鳥、令鳴而、取天安河之河上之天堅石、取天金山之鐵而、求鍛人天津麻羅而、麻羅二字以音。科伊斯許理度賣命、自伊下六字以音。令作鏡。科玉命、令作八尺勾玉之五百津之御須麻流之珠而、召天兒屋命、布刀玉命布刀二字以音。下效此。而、内拔天香山之眞男鹿之肩拔而、取天香山之天之波波此三字以音。木名。而、令占合麻那波而、自麻下四字以音。天香山之五百津眞賢木矣、根許士爾許士而、自許下五字以音。於上枝、取著八尺勾玉之五百津之御須麻流之玉、於中枝、取八尺鏡、訓八尺云八阿多。於下枝、取垂白丹寸手、丹寸手而、訓垂云志殿。此種種物、布刀玉命、布刀御幣登取持而、天兒屋命、布刀詔戸言白而、天手力男~、隱立戸掖而、天宇受賣命、手次天香山之天之日影而、爲天之眞拆而、手草結天香山之小竹葉而、訓小竹云佐佐。於天之石屋戸伏此二字以音。蹈登杼呂許志、此五字以音。爲~懸而、掛出胸乳、裳忍垂於番登也。爾高天原動而、八百萬~共咲。
於是天照大御~、以爲怪、細開天石屋戸而、内告、因吾隱坐而、以爲天原自闇、亦葦原中國皆闇矣、何由以、天宇受賣爲樂、亦八百萬~諸咲。爾天宇受賣白言、汝命而貴~坐。故、歡喜咲樂。如此言之間、天兒屋命、布刀玉命、指出其鏡、示奉天照大御~之時、天照大御~、逾思奇而、稍自戸出而、臨坐之時、其所隱立之天手力男~、取其御手引出、布刀玉命、以尻久米此二字以音。繩、控度其御後方白言、從此以内、不得入。故、天照大御~出坐之時、高天原及葦原中國、自得照明。


(文中「勾玉」の「玉」は本当は別の字ですが、パソコンで表示できない文字なので同訓のこの字を代用しました。また「鬘」という字も別の字ですが、これも表示できない文字なので、読み下し文で使われた文字を当てました。)
古事記 上つ巻

関連「奈良 天岩戸神社」

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飛鳥寺
 文中「中臣鎌子連」は中臣鎌足のこと、「法興寺」とは飛鳥寺の法号です。中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場面が書かれています。ただし、皇極三年春正月とあるけれども、ここの記述はかなり以前からのことをまとめて書いたものであろうといわれています。
 (前略) 
中臣鎌子連、 (中略) 偶中大兄の法興寺の槻の樹の下に打毬うる侶に預りて、皮鞋の毬の隨脱け落つるを候りて、掌中に取り置ちて、前みて跪きて恭みて奉る。中大兄、對ひ跪きて敬びて執りたまふ。茲より、相び善みして、倶に懷ふ所を述ぶ。既に匿るる所無し。後に他の頻に接はることを嫌はむことを恐りて、倶に手に黄卷を把りて、自ら周孔のヘを南淵先生の所に學ぶ。遂に路上、往還ふ間に、肩を並べて潛に圖る。相協はずといふことなし。
 (以下略)
 (前略) 
中臣鎌子 (中略) 偶預中大兄於法興寺槻樹之下打之侶、而候皮鞋隨脱落、取置掌中、前跪恭奉。中大兄、對跪敬執。自茲、相善、倶所懷。無所匿。後他嫌頻接、而倶手把卷、自學周孔之ヘ於南淵先生所。於路上、往之間、並肩潛圖。無不相協。
 (以下略)
日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年春正月

 飛鳥板蓋宮における蘇我入鹿暗殺の記事の後、飛鳥寺(法興寺)を「城」としたと書かれています。
 (前略) 
佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、入鹿臣を斬りつ。是の日に、雨下りて潦水庭に溢めり。席障子を以て、鞍作が屍に覆ふ。古人大兄、見て私の宮に走り入りて、人に謂ひて曰はく、「韓人、鞍作臣を殺しつ。韓政に因りて誅せらるるを謂ふ。吾が心痛し」といふ。即ち臥内に入りて、門を杜して出でず。中大兄、即ち法興寺に入りて、城として備ふ。凡てゥの皇子・ゥ王・ゥ卿大夫・臣・連・伴造・國造、悉に皆隨侍り。
 (以下略)
 (前略) 
佐伯子麻呂・稚犬養網田、斬入鹿臣。是日、雨下潦水溢庭。以席障子、鞍作屍。古人大兄、見走入私宮、謂於人曰、韓人殺鞍作臣。謂因韓政而誅。吾心痛矣。入臥内、杜門不出。中大兄入法興寺、爲城而備。凡ゥ皇子ゥ王ゥ大夫臣、悉皆隨侍。
 (以下略)
日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月戊申

関連「大化改新の史跡〜飛鳥寺」

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酒船石遺跡
 是歳、飛鳥の岡本に、更に宮地を定む。時に、高麗・百濟・新羅、並に使を遣して調進る。爲に紺の幕を此の宮地に張りて、饗たまふ。遂に宮室を起つ。天皇、乃ち遷りたまふ。號けて後飛鳥岡本宮と曰ふ。田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。田身は山の名なり。此をば大務と云ふ。復、嶺の上の兩つの槻の樹の邊に、觀を起つ。號けて兩槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。時に興事を好む。廼ち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百隻を以て、石上山の石を載みて、流の順に控引き、宮の東の山に石を累ねて垣とす。時の人の謗りて曰はく、「狂心の渠。功夫を損し費すこと、三萬餘。垣造る功夫を費し損すこと、七萬餘。宮材爛れ、山椒埋れたり」といふ。又、謗りて曰はく、「石の山丘を作る。作る隨に自づからに破れなむ」といふ。若しは未だ成らざる時に據りて、此の謗を作せるか。又、吉野宮を作る。西海使佐伯連栲繩、位階級を闕せり。小山下難波吉士國勝等、百濟より還りて、鸚鵡一隻獻れり。岡本宮に災けり。
、於飛鳥岡本、更定宮地。時、高麗・百濟・新羅、並使調。爲張紺幕於此宮地、而焉。遂起宮室。天皇乃。號曰後飛鳥岡本宮。於田身嶺、冠以周垣。田身山名。此云大務。復於嶺上兩槻樹邊觀。號爲兩槻宮。亦曰天宮。時好興事。廼使水工穿渠。自香山西、至石上山。以舟二百隻、載石上山石、順流控引、於宮東山、累石爲垣。時人謗曰、狂心渠。損費功夫、三萬餘矣。費損垣功夫、七萬餘矣。宮材矣、山椒埋矣。又、謗曰、作石山丘。隨作自破。若據未成之時、作此謗乎。又作吉野宮。西海使佐伯連栲繩、闕位階級。小山下難波吉士國勝等、自百濟、獻鸚鵡一隻。災岡本宮。
日本書紀 巻第二十六 齊明天皇二年是歳

関連「奈良大和路紀行〜飛鳥」
関連「奈良 飛鳥の石造物」

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飛鳥板蓋宮跡
丁未に、權宮より移りて飛鳥の板蓋の新宮に幸す。
丁未、自權宮移幸飛鳥板蓋新宮。
日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年夏四月丁未

 飛鳥板蓋宮は大化改新の幕開けとなる蘇我入鹿暗殺が行われた場所でもあります。そのクーデターの有様を叙述している部分です。文中「中臣鎌子連」は中臣鎌足のこと、「鞍作」は蘇我入鹿の別名です。
 六月の丁酉の朔甲辰に、中大兄、密に倉山田麻呂臣に謂りて曰はく、「三韓の調を進らむ日に、必ず將に卿をして其の表を讀み唱げしめむ」といふ。遂に入鹿を斬らむとする謀を陳ぶ。麻呂臣許し奉る。戊申に、天皇大極殿に御す。古人大兄侍り。中臣鎌子連、蘇我入鹿臣の、人と爲り疑多くして、晝夜劔持けることを知りて、俳優にヘへて、方便りて解かしむ。入鹿臣、咲ひて劔を解く。入りて座に侍り。倉山田麻呂臣、進みて三韓の表文を讀み唱ぐ。是に、中大兄、衞門府に戒めて、一時に倶に十二の通門を鎖めて、往來はしめず。衞門府を一所に召し聚めて、將に給祿けむとす。時に、中大兄、即ち自ら長き槍を執りて、殿の側に隱れたり。中臣鎌子連等、弓矢を持ちて爲助衞る。海犬養連勝麻呂をして、箱の中の兩つの劔を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田とに授けしめて曰はく、「努力努力、急須に斬るべし」といふ。子麻呂等、水を以て送く。恐りて反吐す。中臣鎌子連、嘖めて勵しむ。倉山田麻呂臣、表文を唱ぐること將に盡きなむとすれども、子麻呂等の來ざることを恐りて、流づる汗身に浹くして、聲亂れ手動く。鞍作臣、怪びて問ひて曰はく、「何故か掉ひ戰く」といふ。山田麻呂、對へて曰はく、「天皇に近つける恐みに、不覺にして汗流づる」といふ。中大兄、子麻呂等の、入鹿が威に畏りて、便旋ひて進まざるを見て曰はく、「咄嗟」とのたまふ。即ち子麻呂等と共に、出其不意く、劔を以て入鹿が頭肩を傷り割ふ。入鹿驚きて起つ。子麻呂、手を運し劔を揮きて、其の一つの脚を傷りつ。入鹿、御座に轉び就きて、叩頭みて曰さく、「當に嗣位に居すべきは、天子なり。臣罪を知らず。乞ふ、垂審察へ」とまうす。天皇大きに驚きて、中大兄に詔して曰はく、「知らず、作る所、何事有りつるや」とのたまふ。中大兄、地に伏して奏して曰さく、「鞍作、天宗を盡し滅して、日位を傾けむとす。豈天孫を以て鞍作に代へむや」とまうす。蘇我臣入鹿、更の名は鞍作。天皇、即ち起ちて殿の中に入りたまふ。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、入鹿臣を斬りつ。是の日に、雨下りて潦水庭に溢めり。席障子を以て、鞍作が屍に覆ふ。
 (以下略)
六月丁酉朔甲辰、中大兄密謂倉山田麻呂臣曰、三韓調之日、必將使讀唱其表。陳欲斬入鹿之謀。麻呂臣奉許焉。戊申、天皇御大極殿。古人大兄侍焉。中臣鎌子、知蘇我入鹿臣、爲人多疑、晝夜持劔、而ヘ俳優、方便令解。入鹿臣、而解劔。入侍于座。倉山田麻呂臣、而讀唱三韓表文。於是、中大兄、戒衞門府、一時倶十二門、勿使往來。召聚衞門府於一所、將給祿。時中大兄、自執長槍、隱於殿側。中臣鎌子等、持弓矢而爲助衞。使犬養連勝麻呂、授箱中兩劔於佐伯子麻呂與葛城稚犬養網田曰、努力々々、須應斬。子麻呂等、以水而反吐。中臣鎌子、嘖而使勵。倉山田麻呂臣、唱表文將盡、而子麻呂等不來、流汗浹身、亂聲動手。鞍作臣、怪而問曰、何故掉戰。山田麻呂對曰、恐近天皇、不覺流汗。中大兄、見子麻呂等、畏入鹿威、便旋不曰、咄嗟。共子麻呂等、出其不意、以劔傷割入鹿頭肩。入鹿驚。子麻呂、手揮劔、傷其一脚。入鹿轉就御座、叩頭曰、當居嗣位、天子也。臣不知罪。乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知、所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗、將傾日位。豈以天孫代鞍作乎。蘇我臣入鹿、更名鞍作。天皇即起入於殿中。佐伯子麻呂・稚犬養網田、斬入鹿臣。是日、雨下潦水溢庭。以席障子、鞍作屍。
 (以下略)
日本書紀 巻第二十四 皇極天皇四年六月

関連「大化改新の史跡〜飛鳥板蓋宮跡」

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欽明天皇陵
 九月に、檜隈坂合陵に葬りまつる。
九月、葬于檜隈坂合陵。
日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年九月

 二月の辛亥の朔庚午に、皇太夫人堅鹽媛を檜隈大陵に改め葬る。
二月辛亥朔庚午、改葬皇太夫人堅鹽媛於檜隈大陵。
日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十年二月

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天武・持統天皇陵
冬十一月の乙卯の朔戊午に、皇太子、公卿・百寮人等とゥ蕃の賓客とを率て、殯宮に適でて慟哭る。是に、奠奉りて、楯節舞奏る。ゥ臣各己が先祖等の仕へまつれる状を擧げて、遞に進みて誄る。己未に、蝦夷百九十餘人、調賦を負荷ひて誄る。乙丑に、布勢朝臣御主人・大伴宿禰御行、遞に進みて誄る。直廣肆當摩眞人智コ、皇祖等の騰極の次第を誄奉る。禮なり。古には日嗣と云す。畢りて大内陵に葬りまつる。
冬十一月乙卯朔戊午、皇太子率公百寮人等與ゥ蕃賓客、殯宮而慟哭焉。於是、奉奠、奏楯節舞。ゥ臣各擧己先等所仕、遞誄焉。己未、蝦夷百九十餘人、負荷調賦而誄焉。乙丑、布勢朝臣御主人・大伴宿御行、遞而誄。直廣肆當摩眞人智コ、奉誄皇等之騰極次第。禮也。古云日嗣也。畢葬于大内陵。
日本書紀 巻第三十 持統天皇二年冬十一月

癸酉。從四位上當麻眞人智コ率ゥ王ゥ臣。奉誄太上天皇。謚曰大倭根子天之廣野日女尊。是日。火葬於飛鳥岡。壬午。合葬於大内山陵。
続日本紀 巻第三 大宝三年十二月

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文武天皇陵
十一月丙午。從四位上當麻眞人智コ率誄人奉誄。謚曰倭根子豊父天皇。日火葬於飛鳥岡。甲寅。奉葬於檜隈安古山陵。
続日本紀 巻第三 慶雲四年十一月

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桧隈寺跡
 八月の己巳の朔に、天皇の爲に、八十の僧を度せしむ。庚午に、僧尼并て一百を度せしむ。因りて、百の菩薩を宮中に坐ゑて、觀世音經二百卷を讀ましむ。丁丑に、天皇の體不豫したまふが爲に、~祇に祈る。辛巳に、秦忌寸石勝を遣して、幣を土左大~に奉る。是の日に、皇太子・大津皇子・高市皇子に、各封四百戸を加したまふ。川嶋皇子・忍壁皇子に、各百戸を加したまふ。癸未に、芝基皇子・磯城皇子に、各二百戸を加したまふ。己丑に、檜隈寺・輕寺・大窪寺に、各百戸を封す。三十年を限る。辛卯に、巨勢寺に二百戸を封す。
八月己巳朔、爲天皇、度八十。庚午、度一百。因以、坐百菩薩於宮中、讀觀世音經二百卷。丁丑、爲天皇體不豫、于~。辛巳、秦忌寸石勝、奉幣於土左大~。是日、皇太子・大津皇子・高市皇子、各加封四百戸。川嶋皇子・忍壁皇子、各加百戸。癸未、芝基皇子・磯城皇子、各加二百戸。己丑、檜隈寺・輕寺・大窪寺、各封百戸。限卅年。辛卯、巨勢寺封二百戸。
日本書紀 巻第二十九 天武天皇朱鳥元年八月

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檜隈廬野宮趾
 元年の春正月に、キを檜隈の廬入野に遷す。因りて宮號とす。
元年春正月、キ于檜隈廬入野。因爲宮號也。
日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年春正月

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岡宮天皇真弓丘陵(真弓・佐田)
 岡宮天皇とは、天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子のこと。天平宝字二年八月、岡宮御宇天皇の尊号を奉られたことが続日本紀に見られます。
。日並知皇子命。天下未稱天皇。崇尊号。古今恒典。自今以後。&稱岡宮御宇天皇。
続日本紀 巻第二十一 天平宝字二年八月

 草壁皇子が亡くなった時に作られた挽歌が万葉集に数多くありますが、そのうち地名の見られるものを幾つか挙げてみました。
  皇子尊の宮の舎人らの慟しび傷みて作れる歌二十三首
島の宮上の池なる放ち鳥荒びな行きそ君いまさずとも
よそに見し檀の岡も君ませば常つ御門と侍宿するかも
夢にだに見ざりしものをおぼぼしく宮出もするか佐檜の隈廻を
朝日照る佐太の岡部に群れ居つつわが泣く涙止む時も無し
橘の島の宮には飽かねかも佐田の岡辺に侍宿しに行く
塒立て飼ひし雁の子巣立ちなば檀の岡に飛び帰り来ね
つれも無き佐太の岡辺にかへり居ば島の御階に誰か住まはむ
朝日照る佐太の岡辺に鳴く鳥の夜泣きかはらふこの年ころを
  皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首
嶋宮 上池有 放鳥 荒備勿行 君不座十方
見之 檀乃岡毛 君座者 常都御門跡 侍宿為鴨
谷 不見在之物乎 欝悒 宮出毛為鹿 佐日之隈廻乎
朝日弖流 佐太乃岡邊 群居乍 吾等哭涙 息時毛無
橘之 嶋宮者 不飽鴨 佐多乃岡邊 侍宿為
鳥垣立 飼之乃兒 栖立去者 檀岡 飛反来年
所由無 佐太乃岡邊 反居者 嶋御橋 誰加住舞無
朝日照 佐太乃岡邊 鳴鳥之 夜鳴變布 此年己呂乎
万葉集巻第二 一七二、一七四、一七五、一七七、一七九、一八二、一八七、一九二

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