鉄分ぬき小皿料理

ここは鉄道以外のプチ話コーナーです。
いつのまにか消えてしまうか、他のコラムに発展するか、管理人自身もわかりませんが
できるだけ肩のこらない、できるだけつまらない話を、できるだけ少しずつ増やしてゆきます

大きな声は天井を揺るがして   ラーメンオーダシステム   先にお釣りを取りますか  
サンタさんの正体を知ったときには..   買い物通路支障なく通過させ   熱海のタヌキさん
トントン儀式の悲劇   湯けむりも力不足   有馬温泉その後   ノラねこ一家のお盆  
ケータイの本来の使い方   ← 2004/1/5 NEW

とりあげてほしい、いやこんな小皿料理があればという方は、 総合掲示板でうけたまります。


大きな声は天井を揺るがして

その人はもう転職されておられませんがとにかく声の大きい人でした。大阪生まれの思ったことをそのまま言う人で、ある浪速漫才師に良く似た風貌でした。スーツ姿なのに足元はスニーカーで、勤務中の教師ならわかりますが、彼はれっきとしたサラリーマンなのでした。

その人と6・7年前は仕事の関係でよく九州の工場へ出張しました。新幹線の中で彼は例の大声で喋りまくり、新幹線の車両の一番後ろの座席にいた私たちが、たまたまその車両の一番前に乗り合わせた会社の人に叱られたことがあるくらい、大きな声はすごかったのです。

そんな彼と、福岡県の工場の人をまじえて飲むことになりました。工場所在地のこの町は歴史のある城下町で、しっとりとした人情あふれるいいところです。寿司屋さんの2階の八畳間で宴会が始まりました。けれどもこの部屋は何となく、店の間というよりも夜は居間として寝室に兼用しているような趣です。太い梁の上を黒いコードが這い、碍子がむき出しで取り付けてあります。くたびれた部屋でしたが却ってこれが私にとってはなつかしく、母の故郷の家を思い出して少し感傷にふけっていました。

女将さんが明るい声で、大きな桶に御寿司を載せてたびたび持ってきてくれます。高い天井から吊り下げた蛍光灯がゆらりゆらりと揺れています。彼はいつものように丸出しの大阪弁で、九州弁とやりあっています。そして、ひときわ大きな声を張り上げました。「よっしゃ、よっしゃ、これでええんや−!」

そのときです。例の蛍光灯の長いコードを途中で輪を作って短くしてある部分が外れて、かくん、となって隣の部長の目前に 落ちてきました。一同、「わあっ」と叫びました。蛍光灯は、一度そこに止まったのですが、「わあっ危ないでー」とひときわ大声をあげた彼の声の直後、ブチッと火花をだして一気にテーブルの上に落下しました。

蛍光灯が割れ、その破片は部長のテンプラの衣につきささっています。さすがの彼も声ならぬ声を上げ静寂が訪れました。だれかが階下の女将さんに知らせました。
階段をミシミシと上ってきた女将さんは、全然慌てず、「ごめんね、食べなよ・・」とかいって特盛の御寿司の大桶と引き換えに蛍光灯を抱えて帰っていきました。
部長は、相当びっくりしたようで、挙動がおかしく、例の破片がつきささったテンプラに箸をつけかけ、慌てて周囲が制止しました。

あれからその寿司屋さんは2階を使わなくなったようです。いつしか、この話はその確たる因果関係はまったくないとおもうのですが「必要以上の大きな声はダメ」という教訓に使われているようです。
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ラーメンオーダシステム

ラーメン屋に入っていくお客は、共通の特徴があります。

とにかく食べるぞという気迫がみなぎっていることです。ここへあまり食欲のなさそうな人が入っていくのを見たことはありません。そしてあまりパリッとキメた人は入ってゆきません。ときに入ってくる女性もTシャツに穿きこんだジーンズが定番です。

店の中も汚いということはないですが、何となく機能優先で、固定された丸イスとぎっしりと入ったお箸の容器、プラスチックの水コップ..等々のイメージです。

私も、20歳代の頃はこういう部類のところを愛用しました。残業が続いて一週間に4日も通ったこともありました。行かなかった日は定休日で、別の中華料理屋に行ってましたから、ちょっとすごかったようです。ニンニクとネギをたっぷり入れて食べていました。

入っていくと、入口のドアのセンサーが作動して無骨なチァイムがなります。するとこれを合図に「いぃいらっしゃあ−−いぃ!」と野太い声が聞こえます。席につくや、脂ぎったおじさんがオーダをとりに来て
「まいどぉ」「大」「ニンニクは?」「多め」..「だい、いっちょおぉ−−」と厨房にオーダーがかかります。
程なく出てきた大ラーメンと伝票。伝票には、きちんと罫線が入って合計欄がありますが、中ほどに「大」と鉛筆書きでしか書いていません。しかも決まってトンコツのスープがこぼれて汚れています。

そんなラーメン屋なのですが、ここ10年の間に業績を伸ばし京都が発祥の地であったものが大阪にも進出してきました。最近、そのラーメン屋さんに連れ合いといく機会がありました。

入ると、白を基調とした清潔感漂う店内です。ちょっと茶髪のお姉さんがオーダをとりにきます。
「いらっしゃいませぇ」「...」
その手には、近頃のファミリーレストランでみるオーダの登録機があります。
「あの、大、いや、普通のラーメン」「ハイ!」
「にんにくはどうされますか」「い..いれてください」「ハイ!」
「お飲み物はどうされますか」「び、ビールを..中瓶で..」
「グラスは?」「ふたつ」「はーい」..
お姉さんはちょこちょこと厨房に近づいて「オーダあ、入りマース..」とさわやか。

「並(なみ)とギョーザになりまーす」
お姉さんは、お盆にのせたラーメンをしっかと持ち、にこやかにテーブルに置いてくれました。伝票には、コンピュータ印字が整然と並び、ニンニクはトッピンクとして、ビールと連れ合いが取ったギョーザは、(同時)として運ぶタイミングが記載され、時刻も記載されていました。

味は、あのときと同じとんこつ風味です。おいしいものは、おいしい。これからは、こぎれいな服装で行こうと考える私たちです。
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先にお釣りを取りますか

どうでもいい話なのですが自販機で缶コーヒーなどを買うときに、数回失敗したときがあります。それはおつりのある買い方をしたときに、私の場合どうしてもおつりが気になって、カチャンカチャンと硬貨が返却口に落ちていくのを見届けたのはいいが、商品の方を忘れてしまうことです。

このことを周囲の人に言うと、「ああ、私もあるよ」といってくれる人は少なくて、反対に商品は取るもののおつりを忘れる人のほうが多く、そんなものかなと思いました。

考えれば、自販機以外でも私は本屋さんでおつりをもらって本を忘れたことが2回はありますし、その本屋さんとはおなじみです。2回目のときは電話をかけると「ああ、忘れてますよ 、『また』取りにきてください」といわれたものです。どうしてもこの『また』は、『またの機会』のニュアンスには聞こえませんでした。

大阪の人間は、おつり重視かもしれないと私は思っていましたが、そもそも商品もおつりもしっかりと頂くという心得を実行せずドジを踏むこと自体がいけないわけで話題にすること自体がつまらないことです。
しかし、このつまらない話題はずっと気になっていたことでした。ただ、あらためて稿を起こしてみると、これ以上発展できることはなく、ここでこのコラムは終わりですが読んでいただいたどなたかが発展させていただくとまた新たな展開になるでしょう。


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サンタさんの正体を知ったときには..

このコラムは、後日改定するかもしれません。サンタさんの話題ではありますが、これらのベースとなるクリスマスということ、その背景の宗教的素養にまるで乏しいため、もしかすると具合のわるいことを書いているかもしれません。こういったことがありましたら、ご遠慮なくご指摘ください。

私は、クリスマスイブの夜まくらもとに靴下をおいて眠ると、サンタさんがやってきてプレゼントをくれるというのをごく自然に信じていました。どうしてあんな煙突(当時の竃(かまど)の煙出し)から入ってきて汚れないのだろうとか、すぐ下におおきな漬物樽があり、どこから伝って降りてくるのだろうとか、ちょっぴり不思議には思いましたが。

わたしの幼稚園では、園長先生がサンタをするならわしでした。その園長先生は隣接の小学校の校長先生でした。当時の校長先生は、私たち児童にとって雲の上のひとのような存在で、現実に仙人のように白い長いひげをたくわえておられました。

大きな袋をもったサンタさんは、ひとりひとりにプレゼントを渡して、またクリスマスツリーのわきから去っていきました。みな純真で「あっ、サンタって園長先生だ!」などという子などなく美しい思い出で残っています。当時のわたしたちは、大抵小学校で執務されていたこの校長先生を見たことはなく、このような現実もあったようです。

自宅の方のサンタは、小学校2年くらいのころには、ロープウエイのおもちゃをくれました。電動式でロープを上っていきます。夢中で遊んでいたら、次の年のお正月頃、故障してしまい途方にくれていると、母がいったものです。

「あのプレゼント、阪急(百貨店)の包み紙がしてあったからサンタさんは、阪急で買わはったと思うから、お母さん、阪急にいって直してきたる..」

これを聞いたとたん、直感的にすべてがわかりました。けれども、同時にヒミツにしてしまっておくものだ..となぜか本能的に感じました。次の年から靴下を自分でおくことはしませんでした。けれども次の朝には、靴下に入れたプレゼントが置かれていました。

だれかからモノを頂いたときには、お礼をいいなさい。感謝の気持ちを表しなさい。と一度だけ級友が連れて行ってくれた教会の日曜礼拝で牧師さんがおっしゃったことばを思い出したものの、「サンタさんありがとう」とも言えなかったし、「お母さんありがとう..」とも言えませんでした。

近頃は、宅配ピザやケーキ屋さんの店員さんなど、町の中でサンタさんが当たり前にみられるようになってきました。今の子供たちは、こんな人たちからプレゼントがもらえるんだと考えることによって、ある意味で悩まなくていいのかもしれません。
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買い物通路支障なく通過させ..

サイズがスマートになった日本国パスポートに、依然、次の不思議な言葉が書かれています。

..通路支障なく通過させ..

意味はわかるのですが、身近なところでこれが突如現実味をおびることがあります。
それは、連れ合いとともにデパートに買い物に行くときです。
デパートには大抵買いたいものがあって出かけるのですが、目的のものがあるフロアに行く「通路に支障」がありすぎるのです。

10回に8回は、「支障なく通過」できず、連れ合いを停止させてしまいます。停止でとどまるのはまだよいのですが、法外な「通過料」を払うのもしばしばで、おもわず心の中のハンドマイクで叫んでいるのです。
「立ち止まらずに、まっすぐ目的のところまでいってくださーーーーーい!」

通過料を払わせる手口も巧妙です。関連商品の並べ方、エスカレータからみえる景色..この技量のよしあしが販売額に直結してしまいます。
その並べ方、雰囲気の作り方、衣料関連のブティックや売り場がブロック単位でそこの雰囲気と、次のブロックへの期待感を作り出してゆきます..
これに完全に翻弄(ほんろう)される連れ合いも連れ合いですが、この技術にたけたデパート側には、確かに降参!

こうして、通過料で買ったものが、ますます狭いわが家の「通路を支障」しているのです。 一度、連れ合いにパスポートを提示してみよう、と真剣に考えるこのごろです。
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熱海のタヌキさん

私の中学時代の修学旅行は、熱海・伊豆方面でした。いまどきはどうかわかりませんが当時は数千円のお小遣いを持ってくるのが許されました。上限が決められていたように記憶します。

一泊目は、熱海温泉でした。夕食後、先生の引率のもと温泉の土産物街で公認のお買い物となりました。もとより、あまりたくさんのものが買える額ではありません。私は、あれこれ考えた末、いくつかの絵葉書類とともに、熱海駅の駅名票と、なぜかたぬきがきゃはんをかぶり酒樽をもったわら作り人形をあしらった置物をメインで購入しました。

それからもう一泊して帰宅し、土産物を披露するときがやってきました。確か夕食の支度まえのひとときです。母は台所で忙しくしています。私は自室で順番に御土産の封をときまとめてもっていこうとしました。食事のテーブルで開けていたのでは、配膳のじゃまになると考えたからです。

絵葉書から順番に包装をといてゆきました。そのうち、母が土産物披露会のために私をよびました。わたしは、メインのたぬきは包装のまま、食卓にもってゆきました。
母は、まず先にわたした絵葉書と他の小物をみています。それを確かめてから、私はたぬきの包装を解き始めました。この間に母は、夕食カレーが入った鍋をかき混ぜに行きました。

包装紙の次に、たぬきがはいった小さな箱をあけます。
...! な、ないのです。
箱の中には何も入っていない。ただ、底が見えるだけです。
私は、とっさに自分の背中で母の視線を遮りました。そして、自室に包装紙やそれを結わえている紐と空の箱をもってゆき、ゴミ箱にそれらをそっと処分しました。
惜しい、くやしいというより、母の寂しい顔をみたくありませんでした。私は、そのまま食卓にもどり「お土産はこれだけや..」といいました。不思議に悲しくもありませんでした。母が気づかないだけで満足でした。何事もなかったように夕食のカレーが食卓に運ばれました。

それから、25年間。この事実はすべて私の胸にしまっていました。ふとしたことから、連れ合いにこれを数年前告白したら、こういいました。
「『探偵ナイトスクープ』に応募して熱海に行って、そのお店探そうよ」
吉本の若手タレントが、探偵になり探し物をしてくれる関西のTV番組です。確かに名案かもしれません。ブランクの長さ、切なさから考えると採用率は高そうに思えます。

でも、やっぱりそのままにしておきたいと考えています。
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トントン儀式の悲劇

私はコンピュータとかかわりのある分野を大学で専攻し、そのままそれで就職し、21年になろうとしています。にもかかわらず、ブラインドタッチが出来ません。自己流に覚えたキーの場所を、だれにもまねのできぬぎごちなさで、しっかりキーを見て打っております。

みなさんが今、読んでいただいたいているこの拙稿は、読み返しながら少しずつ先に行くので、このぎこちなさはちようどいいのですが、バソコンをはじめて困ったのがチャットです。言いたい(タイプしたい)ことは次々でてくるのに、あせればあせるほど打てません。そのうち打とうとした話題は過ぎ、打てなくなってしまいます。
「いるの?」なんてむこうから打たれるのがオチです。

そのうち、困ったクセが判明しました。
名ずけて、「トントン儀式」または「ダブルキークリック」―
キーボードをみると[半角/全角]の切り替えキーがあります。そこを「念を押すように」トントンと押下してしまい、うまくいかないことがわかりました。(注:わたしのやり方の場合。全角で打って変換し半角を得る方法もあります)

今までの私の使うキーボードは技術革新と共に進化してきました。今はノートのソフトなキーボードを使っていますが、1980年代のデスクトップの端末に付くキーボードはタッチもハードでした。
プログラムを打ち込むために、ここからは英字、ここからはカナとキチンと打たねばならなかったのでその変換を自分に言い聞かせるための儀式として、トントン儀式がうまれたのです。
現実には、[カナ]と[英数]はモードキーを確かトンとやるだけでよかったのです。当時は[半角/全角]の切り替えのような交互に機能が変わるキーはありませんでした。つまり、トンとやってもトントンとやっても結果は同じではあったのですが、念を押すのがクセであった私は、こういう悪しき打ち方が身について、トントンし続けていたのです。

そして今。交互に機能が変わるキーの出現で、今の悲劇を迎えているということになります。これだけが原因でなく、シフトするときのキーボードのたたき方が正当でないからこんなことが起きるのでしょう。ですから、当分チャットは出来そうもありません。

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湯けむりも力不足

今年(2001年)は、3年ぶりでお正月らしいお正月を迎えることが出来、連れ合いの実家で恒例になっている「お正月温泉旅行」に参加できることになりました。

2001年1月4日、カレンダーのいたずらで長期休暇に恵まれた私は、公務員や銀行員の初出勤の姿を横目に見て、出かけました。神戸の奥座敷・有馬温泉は、草津・下呂と並ぶ三大名湯のひとつです。

零度に冷え込んだ温泉街は、ひときわ湯煙があちこちから立ち、独特の雰囲気をかもし出しています。
ここ、有馬は地元の名産や味覚に顕著なものはありません。言い換えれば、神戸から運ばれるので何でもあります。それゆえ、最初から最後までポイントは温泉です。

どこの旅館でも温泉には趣向を凝らし、展望大浴場を中心にその周辺をお休みどころ風にアレンジするのが主流のようです。
お風呂だけが立派ということでなく、そこへのアプローチ、石畳の道やお茶を出していただける待合所、そのわきにミニ日本庭園があってくつろげるようにしてあります。
もっとも、完全な木造の数奇屋作りの離れで完全な檜風呂のわかし湯というのもありますが、目が飛び出るほどの料金のはずです。

わたしたちも、到着してお茶菓子を頂いたあと、浴場に向かいます。先ほどの待合所で連れ合いと別れて私は男湯に入ります。連れ合いのお義父さんは話し好きで1時間も楽しく話されます。のぼせかけながら、ありがたくお湯とお話の温かみを頂きます。

部屋に帰ると、連れ合いが、「やっと帰ってきた」という様子で待っています。それはいつものこと、長湯のお父さんを知っているからですが、今回は少し様子が違います。

「何であんなんなの..」
「今度はひなびたところがいいわ」

せっかく世話役を引き受けてくれたお義姉さんに悪いことを言って..と思ってひそかにたしなめると当のお義姉さんも不満顔です。

あのとき、わりと多い人が男湯に入っていました。25人前後です。ただ、浴場がはるかに大きいので目立ちません。けれどもそれだけの人がいたということは、独身やひとり旅の人は別にして同じくらいの人が女湯にも入っていたのです。

聞けば、おばさん族はじめお姉さん族も、入浴中の姿は奔放そのものであり、湯船にはいろうとするときや、洗面所から移動するときなどの歩行時に何一つまとわず、自由奔放の方々が多数であったということです。
とくにおばさんの集団が、そのすがたで嬌声をあげて湯船にむかって歩行し、次々に入湯するありさまは、おそろしさすら覚えたということでした。

これでは、あの三大名湯の豊かな湯けむりでも、彼女たちをまとうことは力不足でしょう。
時代の流れといってしまえば、おしまいですが、何か大事なものを文字通り忘れてきたのではという気がするのですが。
蛇足ながら、男湯にそんな甚だしい方はお見受けしませんでした...
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有馬温泉その後

この↑の湯煙のハプニングは、有馬温泉のことでしたが、この帰りがけに連れ合いと約束したことがありました。改めておみやげを買いにこようと..

本来、こういうばかばかしいことが好きでもあるのです。近場ということもあるのですが、この有馬温泉に近場の人が来る場合、大阪・梅田や三宮から特急バスかマイカーがいまどきの定番です。
ところが、ここには表六甲からのロープウエイや宝塚・芦屋方面からの路線バス、神戸電鉄というちゃんとした鉄道もあります。こちらの方は、むしろひと昔メジャーだったルートでいまや、すたれたというか老熟期という趣です。三宮方面からのトンネル、中国自動車道の開通が、最大の要因でしょう。けれども、なんというか渋さがあります。今度はこんなのを利用して来ようと考えていました。

ふとこのことを思い出して、前日の2001年5月1日に思い立ちました。実行日の5月2日は火曜日、ゴールデンウィークの谷間の平日です。しかも、天気予報は雨です。決行です。新緑の葉にしたたる雨粒、けむる六甲山―それに動物占いで二人ともオオカミと出たからには、やめるわけにはゆきません。

雨の中、阪急の吹田駅から十三で乗り換え、特急に乗り換え西宮北口でさらに普通に乗り換えて芦屋川に降り立ちました。さすがに高級住宅地―芦屋で、気のせいかキレイな気がします。蘭館というシックな喫茶店で簡単な昼食をとります。びしょぬれのカサの処理に 困っていると、店長が自らドアをあけて招きいれてくれました。

芦屋川駅の北側から出る有馬温泉ゆきの阪急バスは、10時から19時まで毎時38分発です。阪神芦屋からJR芦屋を経由してやってきます。雨は本降りで、改めて六甲山を見るとガスがすっぽりかかっていて一抹の不安を感じましたが、やってきたバスに乗客が9人いて安心しました。貸切となるのかな、という不安と期待は外れました。

バスは、芦屋川沿いに北上し、「山手町」といういかにも高級そうなエリアを通過し、いよいよ芦有ドライブウェイに入ります。距離的には、一番有馬と短く、途中ゴロゴロ岳や奥池といったハイキング好適地を経由します。奥池を過ぎたあたりから、ガスがいよいよ濃くなり行き交うクルマは、みなライトをつけています。運転手さんは、マイクをつけたままヘアピンカーブの手前で予告をしてくれ、そのたび乗客は、てすりをつかみます。
ガスが出てからは、停留所では客がなくても確認のため、通過しないで停まることがあると放送しました。なるほど窓からは、横の景色もまったく見えません。けれども、けっこうビュンビュン飛ばしてゆきます。ガスが出ていない頃は、ずっと後ろについていた数台の一般車もいつのまにか見当たりません。おもわず徐行してしまっているのでしょうか。

約40分、760円で有馬温泉に着きました。ちょっと怖かったけれど、貴重な体験の一般路線バスの山越えでした。

有馬温泉は、連休の前ですがまだ14:20頃で遠隔地からの大型観光バスもまだ繰り出してきていません。風もでてきて、すでにロープウエイは運休になっています。
おみやげの「買いなおし」のため、「吉高屋」というお店に入ります。

有馬温泉は、本来のお土産物といえば、温泉の水で作ったという「炭酸煎餅」と佃煮・人形筆・竹細工製品などです。本来の農家で使った竃(かまど)の上のすすけた竹を使った花器などが高級品とされています。これらを基本として、近郊の三田牛、神戸の北野異人館や神戸港を介した舶来文化・はてはキティちゃんまで混じりこみ、一見土産物の数ははなやかなものの、本来のことを理解していないと、ご当地のモノを手に入れることを重視した場合は、ちょっと予習してゆかねばなりません。

結局、その竹細工の花器と、お箸を買って神戸電鉄の有馬温泉の駅に向かいます。
本来、こんな緑深いところから神戸市内の中心地までは、六甲トンネル経由では、17キロしかありません。ですが、ひと昔はこの神戸電鉄が、六甲山西側を迂回しながら新開地まで通じているのが唯一の確実な公共ルートであったようです。

15:08発の普通の新開地行きが待っていました。発車前の車内はガラガラです。ここで阪急バスの有馬温泉駅前のお店で買った「ちまき」を食べます。1本180円でいまどきの相場でしょう。ほとんど、しょうぶの葉でコストが上がっているようですが、「端午の節句」の男の子になりきって連れ合いは食べております。これはいかん。来年は、ひなあられも菱餅も白酒も右大臣になりきってやることにしました。

次の有馬口で、三田方面から快速がやってきました。停車駅が結構少ないので、早いと判断し乗り換えました。と、5人用の席にいまどきの茶髪・サンダルの20台前半と見られる女性が「車内化粧」をしておりました。
場所の都合で、私達はその横に彼女の「作業用の場所」を考慮して空けて座りましたが、 当然のことながら彼女の化粧作業は、遠慮する風もなく、ここから15分は続きました。

一部の女高生やOLなどで免疫ができている光景ではありましたが、彼女の場合は徹底しており、大型の手鏡で眉やルージュはおろか、くるくるカーラーのコードレスタイプや大型ヘアブラシまで使っての本格変身です。手鏡は葉書大はある大型のものゆえ、2回ほど膝から落としては、拾って続行です。
5分経過後、向かい側のおばあさんが不快感をあらわにした表情で後ろの車両の空席に移りました。彼女、感ずくわけはありません。やがて、ケータイで、彼に自分の位置を連絡。北鈴蘭台に電車が滑り込む頃、彼女はグロスをてかてかにぬって「最終工程完了」、変身道具一式を大きな袋にしまうと、乗ってきた彼を向かえ、おばあさんの座っていた座席(角部の2人かけ)にちょこんとおさまり、デートがスタートしました。

良きも悪しきも、時間と空間をこのように有効利用できるとは・・呆然と感心しているうち、普通電車とは12分早く、新開地に到着しました。大変身お姉さまは、彼と手をつなぎ、片方の手にハンドバッグと、その倍はある変身道具の袋を抱えてどこかへ去ってゆきました。
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ノラねこ一家のお盆

のら一家との出会い

私たち、吹田操車場跡一家は、ことしの1月中旬に、吹田駅から東へ2駅のJR千里丘駅至近の義父宅へ居候させていただいております。

そのところに、6月のはじめ、ねこちゃん母子が庭にくつろぎの場として遊びにくるようになりました。
子供たちは、3匹居て、推定生後2ヶ月くらいでそろそろ「離乳食」といったところでした。
近づくと、ピンクの舌を見せて鳴くしぐさは、いままで猫を飼ったことのない連れ合いを、一夜にしてネコ好きにしてしまいました。
連れ合いは、翌日、子猫たちに「ミルク」「トラ」「クレージュ」と名づけて、生まれてはじめてお皿にミルクを入れて与えたそうです。
さらに、「ネコの心理がわかる本」を買って研究し、私が勤務から帰るとその日のしぐさを報告して、分析する楽しい日々が続いていました。

もちろん、素性は野良なので、ママは一日3度ばかり狩をして子供たちに食事と母乳を与えていました。
「ミルク」の目がはっきり開かずそのためあまり周囲の変化に対応できずにいることに気がついたのは、10日ほど経ってからでした。

「トラ」と「クレージュ」はママと狩に行くことがあるのに「ミルク」はそんなときはいつもひとりぼっちで過ごしていました。

「ミルク」は、私たちが庭に出るための、つっかけに抱きつくようにして休むことがとても好きでした。
そんな「ミルク」のために、私たちはときどき牛乳や「子猫ちゃんフード」を与えていました。

あまりに可愛いので、私もそのころ一家の写真を撮りました。ママが丹念になめてくれるので黒白の毛はつやつやです。つっかけが毛だらけになってもう使えないなんて気になりません。

それほどのすばらしい癒しを「ミルク」はじめこの四匹のねこ家族は与えてくれたのです。

ミルクちゃんとの別れ

そのミルクが、6月24日に急逝してしまいました。
いつもママと四匹でくつろいでいるときに、ミルクだけがいません。
行動範囲が狭いのに、居ないということは...

ただならぬ不安を感じた連れ合いが、庭に見に行くとママがとても悲しげなしぐさをして連れ合いの顔を見上げたのです。
そして、先導するように尻尾を下げて歩いていったママは、庭の縁石の下に入りこちらを振り返ったのです。

...そこにミルクが横たわっていました。

ミルクは、私たちと知り合って二週間あまりで天国に旅立ちました。
横たわっていたところには、白いリボンを架けた白菊の花束をたむけてやりました。
奇しくも私の撮ったミルクの写真は急逝する前日の写真でした。これも脇に立てかけました。
ミルクのなきがらは、市役所の職員さんによって丁重に引き取られてゆきました。

思えば、急逝する前の日に少し弱っているようでしたが、もう少し水を飲ませればよかったのではないかと、連れ合いは涙がとまりません。
まだ、ミルクの目の前に手をさしのべて水を飲ませるまでに彼女は慣れていなかったのです。

でも、ママが白菊の花束のところにいってクルクルと悲しみとも私たちへの感謝ともいえない声を出してくれたのです。トラとクレージュも兄弟たちのために、今も寄り添って天国のミルクに呼びかけているはずです。

梅雨に入ってはじめての本格的な雨は、ママと三兄弟たちの涙です。
でも、やまない雨はありません。残ったママと兄弟たちは、これからも小さな庭の木立の影から、あの透明な瞳をみせてくれるとおもいます。

のらの習性、悲しき距離

こんなこともあって、内田百閧フ「ノラや」を買って楽しく読んでいた相棒なんですが...
昨晩、いつものように夕食を振舞ってやろうとしたところ、ママがかなり凶暴で大雨で狩に出れなかったと見えるも、夕食のお皿が少し傾いていたのを直してやろうとすると、

「フギャーーー」と威嚇するだけでなく右手で私の腕を引っ掻こうとする様に、長年の飼い猫経験のある私も困惑しました。
しかも、相棒によると次第に慣れてくるのでなく、慣れてくる意味が違って、威嚇と引っかきまねをするのがひどくなってきた模様でした。

お食事をおねだりするときは、前足をきちんと揃え、だまって玄関先に立つのです。トラやクレージュも後ろで控えています。
ところが、お食事を用意してもっていくと、「食うか食われるかののらの厳しさ」になってしまうのです。

このごろは、一旦警戒心を解くと、異常なほどベタベタしてくるノラが多いのと違って、ある意味で本来の「のらのルール」を守っているのです。

二人で相談して、これからしばらく距離を置いて、つらいけれど、「純・ノラ」に戻ってもらうことにしました。

それからは、のら一家は常に玄関先にいて、私たちの行動を見つめる毎日が続きました。連れ合いがスーパーの袋に食料品を入れて買い物から帰っても、それに飛びついたりはしません。

玄関に入って、外を見ると、例のおねだりポーズをしているのです。ですが、それ以上のアプローチはしてきません。

向こうも距離を置き、一定のつかずはなれずの関係が確立しました。
のら一家がいるという存在感が不思議な安堵と癒しになっていたのです。

のら一家が突然姿を消した...

威嚇ママとその子達2匹が、7月2日の豪雨の後突然姿を消してしまいました。
どんなに威嚇されても、えさやりは断固拒否しても、遊び場の提供はするということで、この10日をすごしました。

複雑な気分ですが、保健所に広域粛清されていなければいいのですが、そういえば他の野良猫の声がしません。
一家がいた頃は勤務の日は、朝と夜に門から玄関までの(と書けば広大なお屋敷のようですが、そうでなく5歩ほどの)間を通るたび威嚇のママの声がしてちょっと怖い日々でしたが、いなくなってからは何だか張り合いのないような気分です。
そして、のら一家がいなくなって一週間あまり経った頃、玄関に素足の相棒が入れば、ちくりとかゆみと真っ赤な跡が...

かすかな昔の記憶をたどれば、ああ、のみだ。蚤...この噛み跡は真っ赤な小さな点になるのが特徴です。
駆除しなければと思い、またもや記憶がよみがえりました。今もあるのかなと思いましたが、蚤の出るところには、粉状の殺虫剤をよく撒いていたものです。
近所の薬局に粉状のアースがありました。
これを親子が棲息していたところに撒いて歩きました。

でも、ミルクちゃんのお墓の付近には控えめに撒いておいて、そこにはちゃんとお供えをしました。

のら一家発見!

7月10日、仕事を終えて家に戻ると、連れ合いが安心したといって報告してくれました。
路地2本北のほうに行ったところに、スナックや小料理屋さんが並ぶ一角があります。韓国料理の店もあり、そのあたりは古くからの佇まいでノスタルジーすら感じる一角です。
その人情あふれる人たちから、のら一家にママを通じて施しがなされているようです。

連れ合いによると、突然出会ったママですが、存在はかんじても向こうは振り向かなかったといいます。のらの特有な距離を置いた接し方に感心し、また一方では、突き放してしまった申し訳なさのようなものも感じ、複雑な心境の梅雨寒の夜でした。

ミルクちゃんの四十九日

この8月11日は、ミルクちゃんの四十九日にあたります。
すでに、近所の花屋さんで小菊をお供えしましたが、ふと気がつくと、その前日にクレージュがやってきました。

ずいぶん大きくなってその名のとおり、白と薄いブラウンという明るさを基調とした毛並みは、とてもつやを増して元気なようです。

ミルクちゃんのお墓参りをしてくれたクレージュ、おそらくトラもママも私たちに見つからないようにしてそっとおまいりしてくれたと信じていました。

そして、なんと8月11日、そのミルクちゃんの49日に突然ママが我が家の玄関に現れました。四十九日というのは、人間が勝手に決めた忌明けのルールであるのですから、偶然というものですが、私が所要で玄関を開けたとたん、スタスタと近づいてきたのです。

私は、突然の出来事に「あ、あんたか…」としか言えませんでした。
ママは、また大きくなった子供たちと子離れして、ずいぶん落ち着いて見えました。
私と突然出会っても、今度は威嚇もせず、ブリッコのおねだりもせず、こちらではもう食べ物は得られないんだ、という悟りの様子で、隣家との隙間を巧みにすり抜けて行き、今落ち着いていると見られる韓国料理のお店のあたりに消えてゆきました。

みんなそれぞれしっかりと生きていたのです。
ミルクちゃんだって、浄土にいてしっかりと、私たちの現世の諸行を見ているのです。

何だかフワフワとなんとなく生活しているニンゲンの私たちに、ママ一家は本来の生き方を教えてくれたような気がします。

そんな思いの、冷夏の2003年のお盆でした。

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ケータイの本来の使い方

わたしの連れ合いの身内に、一見身勝手と思われる方がいます。

その方は、連れ合いと何か食事や買い物など予定があり、たとえば13時に最寄の駅で待ち合わせるとする約束が出来ていたとします。
その方は、バスでその駅まで出てこられるわけですが、バスが休日で道路がすいていて順調に運行され、12時40分に駅に着いた場合、その方のケータイから「今、着いたんだけどすぐ出てこれる?」などと連れ合いにかかってきます。

反対に、連れ合いが一旦約束したが、その時間に間に合わなくなりそうなので連絡をしようとしたら、「電源が・・・」ということでその方にかかったためしがありません。
その方が、自分からは用事はないので、「きちんと電源を切って」おられるのです。電話をするときには、必ず電源をいれ、要件を伝えて終われば電源を切って、今時珍しくなったケースにしまわれるのです。
それゆえ、そのケータイは数年前の大きな機種です。

連れ合いは、「なんて自分勝手な」と怒ってはいますが、考えようによってはそれはケータイの使い方の原点ではないでしょうか。街角の公衆電話まで行かないで、「携帯している電話からかける」便利さをその方は、享受なされているのです。

必要のないときは、電池の消耗をさけるためにしまっておけばよいのです。

その人がケータイをもっていることが明らかなとき、その方に連絡をとれる、と考えるのは必ずしも正しいとはいえないのかも知れません。
仕事の性質上、すぐに連絡をつけなければならない方であれば、「いつでも連絡して」と表明しているでしょうし、そうでない大したことのない休日ののんびりした食事程度のものならば、あくせく連絡を即時につける必要もないでしょうと思うのです。

ただ、この例ですと連れ合いは会ったときに「遅いじゃないの」と叱られることになりますが、「ケータイにデンワしたのに..」といえばいいのです。
その方は、メカにはかなり弱くルス電もお使いにはなりません。むろんその必要もないと判断なさって、自ら「電源を切って」おられるわけですから、その間に受けられなかった早期連絡に対するねぎらいを、その方にしてもらえば連れ合いの腹立ちもおさまるでしょう。
もし、その方が「自分勝手」ならばそのあたりで、ケータイに電源を入れておくのとは別物というように私は思うのです。

ケータイは、生活能率の飛躍的向上をもたらしましたが、「無駄で必要な時間」を人々から奪い、同時にその「ココロの潤い」も奪い取ったと思います。
そして、携帯電話といわず「ケータイ」となったことは、ひとびとの必須アクセサリーとなり、そうなれば流行・トレンドがついて回り、形や大きさにこだわり、着メロにこだわり、はたまた写真の機能までつき、本来のデンワ機能から大きく飛躍しすぎたことを意味します。
もはや、「ケータイ」が人間をケータイしているありさまになってきました。

「ケータイに携帯された形態」にならず、「必要に応じて電話を携帯する人」であられるこの原点の方を見直すことも必要ではないかと思うのです。
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(最終更新 2004年1月5日)